迷路の攻略法のひとつに、壁を伝っていくというものがある。
だがまともではない迷路でその攻略法はまるで通用しない。穴があれば、隠し通路もある。果てしない落とし穴もある。もしかすると通路に見せかけた幻かもしれない。
ようするに、ひたすら前に進むしかないのだ――。
カシュッ、カシュッ、という小さな音が響いている。
いつもの如く眠りに貪欲なメローを傍らに二人の影が作業をしていた。
セージは己の武器の手入れをしていた。オリハルコンの穂先を持つドラゴン骨の柄の槍。銀の長剣。二連装クロスボウ。どれも自分の命をここまで繋いでくれたアイテムである。
向こう見ずで無鉄砲。無謀。先走りがちな性格のセージにとってこれらのアイテムがなければ死んでいたであろうことは言うまでもなく。
だから整備は丁寧に行うのだ。槍はきわめて強靭な神の金属とも称されるオリハルコンと、鉄のように強く竹のようにしなやかなドラゴンの骨で作られている。穂先の手入れは主に汚れを落とすこと。骨は脂を染み込ませて磨くことである。
長剣は砥石で磨いてやる。
クロスボウは定期的に弦を張り替えて巻きなおす。専用の器具を含めると恐ろしく複雑で携行に不向きな一品ではあるが、ロウから譲り受けた品をガンマンさながらの早撃ちに活用できる程度にはなじませてきた。愛着が強く沸いていた。
セージに明らかに好意を持つルエは、近頃アイテムの整備を手伝うようになっていた。
なってはいるのだが。
「あつい」
セージは、いつの間にか背後に回って抱きついてきている男の手を払う。
一緒に整備し始める。ルエが手伝うと言い出す。整備が終わって暇になると積極的にスキンシップを図り始める。
いろいろと吹っ切れている彼である。整備もスキンシップの一環に過ぎない。色恋に長けているでもない男唯一の武器は積極性と素直さであった。
背後から男の腕に抱かれる。違和感しかなかったのも最初だけ。数度やられるとむしろ安心感を覚えてしまう。
セージは今まであったことを日記に簡潔に記していた。装備の整備は終わっている。
言語はすべて日本語。漢字はかなり忘れてしまっているため、ひらがなとカタカナが多い。文字が蛇がのたくったような列を描いているがもともと悪筆だったので書き方を忘れているわけではない。
さらさらと羊皮紙に羽ペンで描き出していく。
自分がこの世界に来るまでの切欠。いつ、どこで、誰と出会ったのかの簡単なメモ。来た道。これから行くであろう道。
書きつつも自分の髪をせっせと手入れする男の体を意識する。
命の恩人。幼馴染。友人。あるいは、恋人。
不思議な関係である。片や異世界からやってきた。片や原住民。片や魂だけが別の人物。片や純粋に魂と肉体が一致した人物。
日記の人物の項目にルエの名前もあった。
悩み、『バカ』と書いておいた。筆を置くと、折りたたんでいた両足を投げ出して背後に寄りかかる。
「もうさ、前から思ってたんだけど……タメで話そうぜ」
「タメですか。しかし……」
「いけるっしょ? むしろ何でずっと丁寧口調なんだろうなお前」
ルエがうっと声をつまらせた。
セージは背後の男を肘で突いた。
「愛してるとか言ってたよな。じゃあタメでしゃべらないとな!」
言うなり赤面をする。何を言っているんだ俺はと口を塞ぐ。
まるで――考えるのをやめた。
セージからの提案に何を思ったのか、ルエは小難しい顔をしていた。女性的でさえある整った顔立ちに皺を寄せて、沈黙していた。
ややあって表情を崩すと、瞬きをした。
「わかった。これでいいか?」
「やればできんじゃん。そっちの方が似合ってるぜ。なんでやらなかったんだ」
うーんとルエが唸る。その間も手の中でさらさらと流れる金糸をつくろっているあたりはさすがである。
「兄に強く言い聞かせられてたんだ」
「ああ、女装癖の……」
脳裏に浮かぶのは美貌を持つ人物が女性的な衣服に身を飾って町へ繰り出す様。
だが、男である。
ルエが目じりを揉み解していた。
「言うなよ。兄が夜な夜な女装してお忍びでほっつき歩いてるのを見せられる僕のことも考えてくれ。
お前もどうだとか言われたけど断ったよ。
するわけないだろ。兄貴にはついていけないよ」
ため息を吐き毒づく男。
セージはやはりなと確信を深める。このルエという男は、どうやら本心を徹底的に優男風貌に偽装している節があった。
優男。紳士。を装った、けれど中身はどこにでも居る男の子なのだ。
中身が男の子であるセージにはむしろ納得の展開であった。
「まあ女装というなら俺も……」
女性の肉体を被っているのだから女装に当たるのではないか? という言葉をとことん抽象的に漏らす。
ルエがくっくっくと喉を鳴らした。
開き直った上に、紳士的な態度を拭い去った彼はまるで別人のようでもあったが、長年付き合ってきてなんとなく本性を知っていたセージには違和感を覚える要素はなかった。
「むしろセージのは男装だろ。たまにはドレスとか着てみたほうがいいと思うよ」
「白いドレスでも着て欲しいってか」
「ああ」
コンマ数秒の肯定をする男が居た。ルエだった。
「…………そ、そうか……そうか……」
相手の体の間で小さくなる。積極的かつまっすぐに好意を伝えてくる相手に対し、おちょくったところで通用するかは分からない。言葉が出てこなくなったので会話を打ち切って、日記の続きを書く。
不可思議な文字が並んでいくのをルエが背後からじっと見つめていた。
冷たく鋭利な瞳が羊皮紙を観察している。
「どこの言葉なんだ?」
「以前いたとこ」
「いや、こんな文字は見たことない。これでも頭はいい方でね。色んな言語を読んできたが……」
「以前いたところで使ってたんだってば」
ルエが甘い雰囲気を取り払って質問してくる。社会、文化。兄の側近として動いていた彼の専門分野である。
彼は多くの言語を学んでいたが、いずれにも該当しない文字が並んでいた。疑問に思うのも仕方がない。
話すべきだろうか。話さないほうがいいか。
セージはルエの『バカ』の記述の横に『頭はいい』と書いた。矛盾している。
「それどこなんだ? 前から聞きたかった」
「あーえーっと……」
背後からルエが質問を投げてくる。純粋なる疑問。逢ったときから聞きたくてたまらなかったであろう内容であった。
『実は別の世界の日本国で男やってたんだけど神様とか言う糞に殺されてふと気がついたらエルフの女の子なってたんだよねアハハ』。
一人首を振ると、無駄な音声を発生させまくって時間を稼ぐ。
信じてくれそうにないし、説明したくもない。
「き、記憶がなくてさ。気がつくと燃える家の中に居た感じかなあ。たぶん、もともと古い古い時代の言葉を勉強でもしてたんじゃないかな。
エルフ狩りとかいうくそったれ政策のせいで放浪することになった」
「ご両親は……」
「死んだと思う。覚えてないからわからん」
嘘は言っていない。嘘だけはついていない。真実を隠してはいるが。
別の世界の両親は生きているだろう。この世界の体の持ち主の両親は死んでいるだろう。
ルエがそうかと言うと。セージの首元に顔を埋めた。
「甘いにおいがする」
「汗だろ! 風呂ずっと入ってねえぞ!」
相手ににおいを嗅がれている事実にセージの顔がりんごになった。前髪の生え際まで赤く熟していく。
迷宮に潜ってしばらく。水浴びする機会など恵まれず、故に皮製の鎧にこびりついたにおいはなかなか強くなっていた。
今は脱いでいるが、衣服についた匂いというものはなかなか強いもので。
洗濯しようにも川がない。井戸もないし、水場がない。
すんすんとルエの鼻がなっている。
セージが衣服を剥がれた生娘のように顔を赤くするや、相手の腕の隙間から這って抜けていく。
体を抱くようにしつつ、相手の方を振り返りもせずにメローのもとへ。ローブを床に敷いて黒髪を散らしたなまめかしい肩をたたく。途端にびくんと体が揺れる。
例の如くメローは狸寝入りをしていたのだった。セージとルエがいちゃつくのを傍らで観察していたのだ。時折薬を仕込んでみたりハプニングを装って仕掛けさせたり。外道なキューピットがここに居た。しかもそのキューピットは弓で人を殺すのだ。酷い世の中である。
わざとらしく欠伸をすると――もそもそとローブの海から体を起こし、伸びをする。
セージがタオル片手に居た。
「体、綺麗にしよう! な! あのバカの目隠しをやってくれ! それか水を出してくれ!」
「……………やだ。ルエとやって」
ごろんと寝転ぶメロー。感情表現の薄い彼女としても棒読み極まったもの言いだった。
―――二人仲良く体をタオルで擦りあえばいいんじゃない?
という黒い意志がセージに見えるわけもない。セージは相手が寝入ってしまったのを前に絶望していた。
「僕がやろうか」
「死ね!」
一発殴る。手のひらでがっつり受け止められた。ルエがへらへら笑った。
唇を噛み、しかしひるむことはない。セージとはそういう性格である。
急にあわただしく荷物を纏め始めると、鎧を着込み始める。固定具をつける。槍を背負う。銀の剣とクロスボウを腰へ。荷物入れをつける。たいまつを手に、立ち上がった。
何事かと目を丸くするルエと、現在進行形の狸寝入り中のメローの肩をたたいてまわり、前と後ろに続く通路の前方を指差した。
「しゅっぱつするぞのろまども!」
起きて目を擦るメロー、一言。
「そっちは今来た方」
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久々すぎてどうかなりそうだった