エルフは森の民とも称される。長く敏感な耳は見通しの効かぬ森でも有効な音響センサとなり、たとえ猛毒を口にしても死に至ることはないという毒耐性も持つ。
では森ならばいかなる不測の事態にも対処できる汎用性を持つかといえば答えは否である。ホームグランドである森ならばまだしも、見知らぬ森では人間族と大差ない。
つまるところ迷っていた。
馬が根っこを避けて、次の根っこも避けて、腐葉土に足を突っ込み歩調を緩める。悪路を走破する馬とて根っこと腐葉土と岩などが混在する凹凸激しい道では進行速度が大幅に遅れる。ただの森と侮って入り込んでしまったのが運の尽き。
前方に木が見えてきた。立ち枯れした灰色のまっすぐな樹木である。表皮には十字の刻み。
セージは馬上で舌打ちをした。腐葉土の甘い香りを口に含んで、ため息を吐く。
「同じところをグルグル回ってやがる……」
「そのようですね。しかし不自然です。グルグル同じところを通っているにしても、印に再びたどり着くまでの時間が短すぎます」
後ろから馬を操りついてきていたルエはそう口にすると、印をつけてから再発見までの時間の短さを指摘した。印をつけたのはつい十分前。十分で同じところに戻ってくるというのは、動物が無意識に直線ではなく円を描くように移動してしまう特性でも説明できない。
何らかの魔術による方向感覚の鈍化か、森自体が魔の空間と化しているかが考えられた。
ロウがいればたちどころに解決してくれただろうが、一行には無理である。セージもルエもメローも魔術は力技であり、罠を見抜いたりするような複雑な技術は持ち合わせていない。
セージは馬の背中を撫でてあげると、一息に鞍から降りて、根っこに片足を乗せて腕を組んだ。
「魔の森ってやつかー。どうする? 術を破る術とか、魔術具とか、ないぞ」
「メローはどう思いますか」
「専門外」
二人も馬から降りた。三人は顔を合わせて相談するも、いずれも魔の森を突破する技術がなく、困り顔を浮かばせるだけであった。
大抵の場合、閉じ込め型の魔術には目的がある。外敵を閉じ込めて殺すことや、捕らえようとする意図、目的地に辿り付かせないようにする罠……。どれに該当するかを調べる術はないが、魔術が勝手に湧いたというケースは稀少であり、誰かが意図的に張ったと考えるのが自然であった。
森は鬱蒼と茂っており背の高い樹木が天空に蓋をしていた。直線の木と斜めの木と横に倒れた木、蔓、葉っぱ、それらはあたかもカーテンのように視界を遮っており、太陽光さえ減衰させて、黒々とした空間を演出している。森に鳥や獣の嘶きが微かに反響して静けさを強調するようである。
闇雲に馬を進めても同じ地点に戻ってくるだけだろう。
セージはうーんと唸り声を喉の奥で曇らせると、ふと空を仰いだ。こんもりと茂った木々の隙間から垣間見る空は青い。ふと樹木の枝に目をやって、幹に触れてみた。強固で健康な木の質が手から伝わってきた。
喉仏があった位置に人差し指を這わせ、木の根元から頂点までを目で辿る。両手をぱむと合わせると腰の鞘の固定を外し、ルエの手元に放った。
「ちょっと木に登って様子を見てくるからよろしくなっ」
「危ないですよ! もし落ちたらどうするんですか」
ルエが、セージが登る予定だった木の傍によって拒絶反応を全身で表明した。腕を振り、首を振って。
嫌みのない軽めの舌打ちを投げつけてやって、その胸を遠くに押す。心配される所以などないと。髪の毛を手繰ると右手に集め、左手に紐を用意して調整する。頭を俯いて両手で髪の毛を纏め、紐で結わく。激しい運動をする時のヘアスタイル。ポニーテール。
「過保護め。こん中で一番運動のできる俺に心配してどうするのって。俺に任せておけよな。ちょっくら上行って様子見てくる。脱出方法は上見てから考えよう」
そういうと、指を上に向ける。
同意を得ようとは思わない。ルエは心配性な節がある。許可を得るには辞書並みの資料を取り寄せなければならないだろう。
むん、と腕を組んで上を仰ぐ。すらりとした肢体が屈折し、バネを作り、反発した。枝にぱっと飛びつくと腕力と脚力で枝の上に登る。
枝を腕で保持、足場で高度を稼ぎ、次の足場へ。高くなれば高くなるほど落下死の可能性が跳ね上がるが、やっていることは下の方でも上でも変わりない。恐れがあるだけだ。
木の中ほどまで到達。何やら靄のような気体が立ち込めている。無視した。
「よっと、ほっと、っふう! 次、あれだ!」
太めの枝に飛びつくとよじ登り股に挟む。もやもやとしたアイボリー色の気体が鼻腔を突いている。吸った息が自動で吐き出された。目がきゅっと窄まった。
「へっぷしゅ! うー。なんだこれ……? 鼻痒い……」
くしゃみが出た。反動でポニーテールがはためく。手で押さえることなどせず盛大に空気を噴出させた。鼻を擦り、手で扇いで気体を追い払おうとする。
気を取り直して木登りを再開する。枝を掴み、足場を探して上に上に。猿のようにスルスルと登れはしないが、一歩一歩頂上へと近づいていった。
眼下では不安げな表情を浮かべる二人がいたが、アイボリー色の気体と枝で視線が遮られ、見えなくなっていた。
高所恐怖症の類はなかったはずであるが、木の頂上付近という高度ともなれば、生理的恐怖に背筋が毛羽立ってくる。高度は優に二階建て三階建ての建物をこえている。落ちれば死ぬ高さである。
セージは、遥か大地と、同じ高度にある木の頂上からなる葉っぱの森のさなかに進出した。森は均一に広がっており地平線のかなたまで全て緑色であった。山の類も無く、目標物となる特徴的な物体が皆無であり、進むべき方角を特定できない。しかし、木の上ならば十二分に星を視認できるであろう。木の枝をしっかり腕に巻きつけながら、上空を仰いでみる。
「ん………?」
呼吸を止めて、怪訝に眉を曲げつつ耳を澄ます。低音が大地から大気に伝わってくるのを聴覚で感じ取った。
何事かと思考するよりも刹那に早く、大地が大きく揺れ始めた。森中の鳥達が恐慌状態に陥り空へと翼を広げる。木々が右に左に軋み不穏な音を上げた。
落ちる。死ぬ。背筋から電流が如き予感が電光となりて走り抜けた。
枝に赤子のようにしがみ付くと手で己の腕を握り南京錠とする。揺れは徐々に、しかし確実に幅を増していき、大地が揺れるなどという甘い表現どころか、大地が砕け散ってしまいそうな震動へと変わっていった。
「落ちる落ちる! なんだよ! 何が起こって――!?」
その言葉の続きを言うことはできなかった。木の幹が半ばから折れ、空中に投げ出されたのだから。平素ならば出そうとも思わぬ絹が引き裂かれるような悲鳴が森に木霊した。
だが、地面に叩きつけられてお釈迦になることはなかった。投げ出され暫し空中を漂った後、予想より遥かに短い時間で足場に着地したからだ。
恐ろしさに身を小さくして屈んだ姿勢だったセージは、怯えながらも、瞼を開放した。
「どういうことだ………」
地面があった。ただし、緑色の。木という木が傾いて集合して葉っぱや枝をより集めることで足場を作っており、自由落下に逆らう基盤となっていたのである。木が意思を持っているとでもいうのだろうか。セージにはわからなかった。
取りあえず恐る恐る足場を拳で叩いて強度を確かめると、薄く張った氷の上を歩くように、慎重に右足を先に左足を後に起立する。地面は存外しっかりしておりセージの全体重を支え切れていた。葉と枝からなる平面に立っているのがおかしくて腰が抜けそうだったが、早いところ下に降りなくてはと急かす己の意見に従うことにした。
そろり、そろり、差し足、抜き足、ゆっくり、重心を、崩さぬように、歩く。
最も近い木へと歩いていくと降りられるかを試そうとする。頼りになるかもわからない現象に縋り付くのはリスクが大きすぎる。根っこを張って直立している木に縋る方が百倍マシだった。
セージは、なんとか木に辿り付けたことで胸を撫で下ろすと、眼下に向かって声を張り上げた。
「おーい! ルエー! メロー! 生きてるかー!」
反応はなく耳が痛くなるような静寂だけが淀んでいた。
不安と謎の現象への不可解さで心臓が妙な挙動をするのを悟る。様子がおかしい。最悪のケースを考えるべきかもしれない。突然の地震と超常現象。何かがおかしい。
そしてセージは木を降りようとして枝に足をかけ―――落ちた。
枝が見事にへし折れると大地へと誘ったのだった。溺れる者は藁をも掴む。咄嗟に葉っぱを掴むも落下速度を緩める材料にさえならず千切れる。
「わあああああああああっ!!」
セージは見た。大地が津波のように迫ってくるのを。
速度は馬車馬などと比較にならぬ。大地には岩が並んでいる。まるで鮫の口内のように、かっぽりと口を開けていたのだ。顔を腕で隠し、空中で防御姿勢を取ったが、何もかもが手遅れだった。
次の瞬間、岩に叩きつけられた。強烈な衝撃。燃えるような痛みがぱっと開花して全身を汚染し尽すと、意識を苛む。腕は奇妙な方角に折れ、破れた皮膚からは血液が流れて大地を真紅に染め上げていく。光の失せた瞳で己の惨状を目の当たりにしたセージは、微睡へと落ちていった。
しかし、不思議なのは、折れた腕も血液も霞んでいく視界の中で元通りになっていったことと、誰かがこちらを見つめている気配がしたことであった。
すべてが暗転する。