「……っ!」
背後から唐突に掛けられた問い。
それはとても静かな声だったが、私には怒り狂うドラゴンの咆哮よりも大音量に感じられた。
私は刑の執行を言い渡された死刑囚のように硬直する自身の体を、無理矢理に捻って背後の人物を確認する。
カヤだった。
私は声の主が執事室に居たあの2人でなかった事に安堵し、ほぅ、と息を漏らした。
カヤならば大丈夫。この娘があんな恐ろしい企みに関わっているわけがない。絶対、私の味方になってくれるはず。
でも先程盗み聞いた内容を、まだ話すわけにはいかない。もしかしたら私の聞き違いかも……しれないし。
「何でもないよ。ちょっとぶらついていただけ。そうだ!今日鍵かけわすれてたよ?」
「……どうして勝手に部屋から出たの?」
私はおどけた調子でカヤの質問に答え、最後にその話題から逃れるように話を逸らした。
カヤはそれを無視して質問、いや詰問を続ける。その表情は虚ろで、感情が読めない。
「どうして、ってだからただの散歩……」
「部屋から出る時は“必ず”呼び鈴を鳴らす事、って知ってるよね?」
カヤは言葉を発しながらじりじりと私に近づく。
その何とも言えない迫力に、私は後退を余儀なくされ、程なく壁際に追いつめられた。
私に詰め寄るカヤの瞳はまるで深い洞穴。顔にぽっかりとあいた単色の穴。その声色はいつもの張りのある元気なものではなく、ひたすらに冷淡なものだった。
「え、と……あの」
「…………」
壁に背がつき逃げ場がなくなった私はしどろもどろになって言い訳を探す。
カヤは何も喋らず、ただ私を見る。睨むのではく、覗きこんでいる。まるで庭園の草木を這う芋虫を観察をするかのように。
「ご、ごめんなさい。もうしません」
「……そう」
もう謝るしかなかった。何か寒気がする。もうここにいたくない。早く自室に戻って寝よう。
そうだよ、寝て起きればこの悪夢も終わっているはず……。
「寒くなってきたから、私部屋に戻るね」
「…………」
私はそう宣言して、追い詰められていた壁から離れ、回れ右をした。
カヤは無言で私に付き従う。後ろから刺すような視線を感じる。居心地が悪い。
まさか、カヤも……?嘘……でしょ?
結局、そのまま最後までついてきたカヤは、私が自室に入ると手早くガチャリと鍵をしめた。
「じゃあ私は行くから……早く寝ることね」
「うん……」
ドア越しにかけられる言葉は忠告なのか。
「ルール破っちゃ……ダメダヨ?」
去り際にカヤが残していった言葉。忠告などではない。……これは警告だ。
こんな状態でベッドにもぐった所で、眠れるわけがなかった。
相変わらず部屋には隙間風が吹いている。カチカチと鳴る歯がうるさい。視界が小刻みに震える。
「寒い……」
頼りない自身の肩を抱きしめながら私は呟く。
「私、どうすればいい?」
(…………)
牢獄の鉄格子のように開くことのない窓から庭園を眺めて考える。いつも美しいと思っていた庭園は、夜の闇に晒されているせいか、酷く寒々しいものに見えた。
「あれは、誰……?」
何とはなしに、庭園を眺めていた私だったが、不意にそこで佇んでいる人物がいる事に気付いた。
メイド長、カヤの母だ。その表情までは読み取ることはできないが、どうやらこちらを見上げているようだ。
(こんな時間に何を?とてもじゃないけど庭の手入れをするような時間じゃない)
私はその姿に薄気味の悪さを感じ、視線は向けずにメイド長を視界に入れる。しばらくの間、その動向を探っていたが、彼女は微動だにせずこちらを見上げたまま直立している。
置物のように静止している彼女からはまるで生気が感じられない。
「これって……」
監視、サレテイルノカ?
そういえば昼間には、私が何処に行くにも必ず誰かが付いてきたような気がする。何だかんだと理由をつけて。
それはこうやって監視するため?
内から部屋の扉が開かないのも、窓が開かないのも……。
設けられたルールは私を逃がさないようにするため?
まさか、この屋敷の全員が……?
その考えに至った時、何かがガラガラと崩れるのを感じ、奇妙な浮遊感を覚えた。例えれば、天を突く塔が一瞬にして消滅し、その最上階から投げ出されるような。
「……うっ……うぇ、おぇぇえ……」
私は急激に落下していく気分に耐えられなくなって、その場で嘔吐した。
(やれやれ、だ)
「はぁ、はぁ……よそう。あれは違う。あれは空耳。私は何も聞いていない。カヤやメイド長の様子がおかしかったのも夜中で寝ぼけていただけ。明日になればきっといつも通り」
床にへたり込んだ『私』は、汚れた口を寝巻の裾で拭いながら、再び芽生えてくる疑念、いや限りなく確信に近い考えを遠ざけようとする。
(……あれだけの事を聞いてまだそんな事を言ってるのか。いい加減に目を覚ませ)
私の中の『僕』の部分が警鐘を鳴らす。
「うるさい……うるさいうるさいっ!私はそんな事聞きたくない!ここは楽園。私は運良く救われた。リーゼロッテ様だって、旦那様だって、皆が私を歓迎してくれている。誰もが望んだハッピー・エンド。それでいいじゃない」
『私』は頭を激しく左右に振って、『僕』を拒絶する。
『私』は受け入れたくない。それを受け入れてしまえばきっと、このキレイナセカイが綻んでしまう。
(目を逸らせばそれで解決するのか?売られた娘が何の苦労もせずに幸せを掴む?ハハ、御伽噺にすらそんな話は存在しない)
『僕』はそんな甘い夢を信じていない。いや、本当は『私』だって信じていなかった。
「何よ、私が幸せになったっていいじゃない……。ずっと虐げられてきた挙句に売られたんだ!私を買いに来る客も異常者ばかり!もういい、もうキタナイセカイはいらない!」
(思考を放棄するなよ。主観的に感じるな。客観的に考えろ)
『私』と『僕』がせめぎ合う。夢と現。虚構と真実。感情と理性。
顔はいつのまにか流れ出した涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。こんな顔は誰にも見せられない。
「いや、いや……」
(現実から逃避してる場合じゃない。このままだと確実に“消える”ぞ?)
消える──死ぬではない。消える。セカイから存在がナクナル。
「うあ……」
最期の記憶が蘇る。『僕』がセカイから“消える”記憶。圧倒的で根源的な恐怖。
いやだ、消えたくない。『私』はまだ……………………生きたい。
『私』が『僕』に圧されていく。
(さっき盗み聞いた内容だけじゃない。リーゼロッテの言葉は最初から疑問と矛盾だらけだ。ほら、思い出せ!)
とどめとばかりに、『私』が“奥”に押し込めていた記憶が次々と脳内に再生されていく。
《ね……く…よ》
あの呟きはなんだったんだ。赤い瞳、何かの魔法?私の意識がないうちに何を調べていた?
《うまそうだ》
あれは現実に聞いた言葉。そう、私を見て美味そうだ、と確かに言っていた。
《この栗毛の小さな子、……アリアと言ったか?》
《ファーストネームがアリアだったんだ》
妹と同じ名前だと言っていたはずなのに、なぜ名前がすぐに出てこない?普通は容姿よりもその名前の方が印象に残るのではないか?
《代役を探していた》
《父の中では妹は10歳の少女のままなのだよ》
《妹にそっくりで驚いた》
《運命だよ、アリア》
それなのに何故あの時、他の2人も面接していた?妹の代役は10歳くらいでないと駄目なのだ。あの場にいたのは私の他はどうみても10台中盤は超えている娘だけだった。
それ以外にも出来すぎた偶然、とってつけた言い訳のような物言いが明らかに多すぎる。挙げていけばきりがないほどに。
どうしてこんな事に気がつかなかったんだ?
いや、私は本当は知っていた。ただ見ないフリをしていた。
理想を絵に描いたような完璧過ぎるご主人様。
私の身分には分不相応な甘美で魅力的な誘い。
何もせずともただ与えられ続ける至福の時間。
世の中にウマい話はない。あったとしても私にそんな話はこない。何故なら私にそんな話を持ってきても誰も得をしないからだ。
にも拘らず、私は全ての不自然さに目を瞑り、臭い物に蓋をしていた。
彩られたキレイナセカイを壊したくなかった?言い訳にもならない。
「一体、何をやっていたんだ『私』は……」
私はスッと立ちあがり、顔を拭い、汚れた寝巻を床にかなぐり捨てた。
あまりに不甲斐ない自分への怒りによって、『私』は『僕』を、理性を取り戻していく。
思えばあの口入屋で面接のあった広間に現れたリーゼロッテの姿を見た時から、私は理性を失っていた。感情が独り歩きしていたのだ。
そして先程、決定的な会話を盗み聞くまで、その状態が続いていた。
魔性。そんな言葉が頭をよぎる。
「あ゛ああああっ!」
私は悔しさや苛立ちを吐き出すことによって、湯のように沸いていた思考を冷却した。
リーゼロッテ様、いやリーゼロッテは間違いなく真っ黒だ。
あの紅く変色する瞳、杖無しでの魔法のような力、理性を失わせる程の存在感、そして盗み聞いた会話の内容の異常さ。
あの女は十中八九、人間ではない。
リーゼロッテがやたら血に拘っていた所をみると、亜人である吸血鬼なのか?それならばその下僕といわれていたライヒアルトは屍人鬼ということか。
吸血鬼ならば、最初の面接の時の呟きは何らかの先住魔法という事で説明がつくかもしれない。
しかし、疑問が残る。記憶では吸血鬼というのは日光に弱いのではなかったのだろうか。
リーゼロッテは昼間であっても日笠もささずに外出していた。
それに吸血鬼が屍人鬼を作れるのは確か一体までという制限があったのではないだろうか。これについては少し記憶に自信がないが。
それを正しい知識と仮定して、リーゼロッテが吸血鬼、ライヒアルトが屍人鬼だとしたら、カヤはメイド長は何者なんだ?人間であるのに従っているのか。それとも吸血鬼の仲間?
そしてあの会話の中でのこの台詞。
《これまでの娘以上に阿呆のようですな》
《あぁ、あの首を吊った娘ですか》
これはつまり私が最初の獲物ではない、ということ。
前の獲物が私と同じような待遇を受けていたとしたら、屋敷の人間は全員その存在を知っているはず。
その娘がある日突然消えたとしたら?死体が内々に処理されたとしても、疑問を抱くはずだ。噂にくらいはなっていないとおかしい。
しかし、そんな話は毛先ほども聞いたことがない。
何故か。全員が事情を知っているからこそ噂にならないのだ。即ち屋敷全体がグルである可能性が非常に高い、ということになる。
「まるでホーンテッド・マンションね……」
この状況では流石に愚痴も零したくなる。期限は多く見積もってスヴェルの夜が訪れる丁度1週間後まで。屋敷内の人間はおそらくだが、全て敵。対してこちら側の戦力は現状では無力な平民の小娘一人。
まさに今までのツケがきている。最初から気付いていればまだやりようがあったかもしれないのに。
しかし愚痴を言っている状況ではない。
今は後悔するな。この状況から脱出することができれば、その後に飽きるほどすればいい。
どちらにせよ、ここに連れてこられるのは私が拒否しようとなんだろうと、避けようがなかったのだから。
今はこれから何をするかを考えるしかない。
戦う。
これは駄目だ。話にならない。私などあちらが魔法を使うまでもなくジ・エンドだ。不意打ちをできたとしても致命傷を与えるような攻撃が出来るとは思えない。却下。
交渉する。
何を交渉のネタにするんだか。材料のない交渉は不可能。そもそも、あの狂人のような女相手に話し合いなど通じるとは思えない。却下。
誰かが助けに来てくれる、もしくは奇跡が起こる。ピース。
あほか。まだこんなことを考えているのか私は……。却下却下。大却下。
逃げる。
最も現実的な案だ。しかし成功率は非常に低い。監視が常に付いている可能性が高い事と、屋敷の周りには何もない見渡しのいい場所である。しかも私は足が遅い。ただ逃げるだけでは成功率はほぼ0パーセントである。
だが現状これしか選択の余地はない。よってこれを突き詰めて考えるしかない。
つまり逃亡の成功率を上げるために、何かしらの仕掛けを打つ、これしかなさそうだ。この屋敷にある材料で。
「あは、随分と絶望的じゃない」
私はやや自嘲的に苦笑する。だが、決して言葉通りに絶望しているわけではない。
「覚悟。決めるわ。私は絶対に“諦めない”」
私はいつかの私を救ってくれた“諦める事”を『僕』に向かって否定する。
諦める事で確かに楽にはなれるけど、それは結局、何の解決にもならない。
「私はこの程度の事、自力で乗り切ってやる。そしてこんな偽物のセカイは抜け出して、本物のキレイナセカイを掴むんだ!」
誰でもない、私は自分に覚悟を言い聞かせる。それは絶望的な状況におかれた自分を鼓舞するための虚勢かもしれない。しかし、間違いなく私の本心でもある。
これでやっとスタートラインに立てた気がする。私の人生は絶望から始まる。それでいい。
絶望の後にはきっと希望があるんだから。
(これで……夢の時間も終わりか)
胸にポッカリと開いた穴に隙間風が通るような虚しさを感じる。
私はこのキレイナセカイが好きだった。それが無くなってしまった痛み。
でもやっぱり私は夢見る少女じゃいられない。
私は飽くまで現実で幸せを掴むんだから。押し付けられた夢の中の幸せなんて要らない。
私は現実を向きあうために、まずは先程嘔吐したブツを片づけることにした。
つづくと思われます