『私』と『僕』は同一の存在である。
ふたつはセカイに生まれた時から共にあった。
だが、本来『僕』は目覚めるはずではなかった。
だって、ここは『僕』のセカイではなく、『私』のセカイなのだから。
『僕』がこのセカイで初めて覚醒したのは、『私』が4歳になったばかりの頃だった。
「このっ、馬鹿がっ!どうしてこんなこともできないんだっ!」
気付けば『僕』は、見覚えのない白人の女に罵声を浴びせられながら殴られていた。素手ではなく麺棒のような短い棒で。
(何だよ、何なんだよこれ)
自分はバイトの帰り道、急いで帰宅していて……それで?
「聞いてるのかいっ!?」
呆けたような顔を浮かべた僕の態度に腹を立てたのか、白人女の暴力は更にエスカレートする。
痛い。痛すぎる。
手を振り上げる白人女の表情は怒りに満ちている。だが、その中に微かに、しかし確かな愉悦の色が混じっている。
間違いない、この女は異常者だ。止めないと、まずい。
「いい加減にしやがれッ!キ○ガイめッ!」
『僕』は立ちあがって白人女の暴挙を止めようとする。
「え?」
だが短い。
背が。手が。届かない。
「ようやく口を開いたと思ったらなんて口の聞き方だい?!この親不孝者めっ!いつも通りっ!“ごめんなさい”だろうがっ」
「あグっ……かふっ……」
親不孝?意味不明な言葉と共にめった打ちにされる。
気が付いたら見知らぬ女からリンチって。あまりにも理不尽過ぎやしないか。
「はぁ、はぁ……はっ、そこで反省してな!」
何を反省しろと。
白人女は動けなくなった『僕』を見てようやく満足したのか、捨て台詞とともに立て付けの悪そうな木板のドアをバタンと閉めて出て行った。
「痛え……てか……寒ぃな」
びゅうびゅうと吹きこんでくる冷たい隙間風が肌を刺す。
「……で、ここは何処だ?」
(うちのなやだよ)
痛む体を何とか起こして周りを確認すると、成程、そこは納屋というのは相応しい古臭い農具などが並んでいる──『僕』が見知らぬはずの場所。
なのに、知っている。
既視感というやつだろうか。いや、そんなものじゃない。
「どうなって……」
(あなたはわたし)
誰だよ。人の思考を邪魔しやがって。
「なに、いってやがる。『僕』は……あり、ア?さっきのはオカアサン……?」
(うん、そうだよ)
僕は一体どうしたんだ?さっきから僕は何を喋っている?
日本語でも英語でもない。そういえば、学部時代に必修単位を埋めるために取った仏語に近い気もするが……。
いや、そんなことよりもその内容だ。
「……何で『僕』がこんなこと、知って、る?」
(だってわたしだもの)
意味が分からない。僕は僕だ。
そう、僕はアリア、せんしゅう4さいに……?現在はM2の院生でのうかのむすめ。単身事故を起こして、オカアサンにせっかんされた……?
「う……、気持ち悪い。それに痛ぇし寒いわ……ハハ、最低の夢だなこりゃ」
(ごめんね、ごめんね)
「なんで謝るんだよ」
(わたしがおこしちゃったの)
起こした?
あぁ……そうだった、“奥”で寝ていた『僕』は『私』に起こされたんだった。
「オカアサンが怖いのか」
(おかあさんはこわい。いたい)
「……ほとんど毎日だもんな」
(うん。わたしはここ、きらい。だから)
そうそう。『私』はこのキタナイセカイが大っきらい。だから『僕』に向かって叫んだんだ。
タスケテ、と。
馬鹿な。誰の思考だ、今のは。
これは夢か妄想に決まっている。早く醒めなければ……明日は論文の中間発表がある。
「ゆめ、ちがうよ」
(はぁ……)
夢という事を否定してくる夢の住人。ユングの夢分析だとこういう夢はどんな意味があるんだっけ。
「たすけてよ」
(『僕』には無理だ。諦めろよ)
うるさいガキだ。お前の事など知った事か。
「あきらめる?」
(あぁ、どうにもならんことなら諦めて生きろ。その方が楽だぞ……)
*
「……夢、か。ふふ、随分久しぶり、あの夢は」
『私』は与えられた自室のベッドの上で目を覚ます。ふと窓を見ると、外はまだ真っ暗だ。
あ~変な時間に起きちゃったな。
「うぅ~……さむっ」
この部屋は立派なのだけど、どこからか隙間風が入ってくるらしく、夜中は結構冷える。あの時の夢を見たのはこの寒さが原因かもしれない。
寝直してもいいのだが、いかんせん目が冴えてしまって眠れそうにない。
さて困った。どうすべきか。
(鍵が開く朝まで部屋でじっとしててもいいけど……さすがに退屈かな……)
この屋敷では、私の身の回りに設けられたいくつかのルールが存在する。
その一つが就寝前に外から自室のドアを施錠される事(内からは開けられない構造)。
これは、幼い私が夜中に勝手に出歩いて怪我などをしないためと言う事なのだが、不便と言えば不便だ。
夜中に何か用事がある時は呼び鈴(といってもただのベルだが)を鳴らして、夜番の使用人に来てもらう事になっている。
それと似たようなものに、自室の窓が開かないようになっているという事もある。
窓を開けたまま寝てしまうと風邪をひくし、私の部屋は2階に位置しているので、窓から落ちてしまったりしては困るとの事だ。
少々厳重過ぎるような気もするが、大事に扱われている結果と思えば、多少不便であろうともその気遣いが嬉しいもの。本当にこの屋敷の人達は優しい。
(…………)
「あれ、開いてるや」
所在無しに部屋の中をうろついていた私がふとドアノブに触れてみると、重厚な木製のドアは、キィ、と特に抵抗なく開いた。
どうやら今日はカヤが鍵を掛け忘れたらしい。ふふ、朝になったら注意してやろう。
「ちょっと厨房にいくだけだし、いいよね……」
夜中に出歩く時は、“必ず”呼び鈴を鳴らす事、と言われているのだが。
少し小腹の空いていた私は、厨房に何か余り物がないか探しに行く事にした。そんな用事ともいえない事で夜中に人を呼び付けるのも悪いだろう。
(そっと、そーっと)
私は皆を起こさないように、そっとドアを開けて忍び足で部屋を出た。
「ん?」
1階に下りて厨房に向かう途中、どこからかボソボソと話し声のような音が聞こえてきた。
(こんな夜中に何だろう?)
不思議に思った私が真っ暗な廊下を見渡すと、一階玄関近くの部屋から微かにランプの光が零れていた。
あの部屋は確か、執事室。老執事ライヒアルトさんの部屋だ。
(うーん、独り言かな?なんか気になるなあ……)
ちょっと躊躇したが、好奇心に負けた私は執事室のドアに耳を近づける。
盗み聞きなんてあまり良くない事だとは思うけど、もし私の話題だったりしたら、と気になってしまう。
「──もあと1週間────」
ん、独り言ではなく、誰かと話し込んでいるようだ。誰だろう。女の声だけど……
「しかし、──イイ趣味を──」
「──しても妾──演──は自分でも────思わんか?」
話しているのはリーゼロッテ様、なのか?声の質もその口調もいつもと違っている気がするけど……。
それにしても内容が気になる。何があと一週間なんだろう。
私は頭が埋まるのではないか、というほどピッタリとドアに耳をくっつけた。
「さあ、それはどうでしょうか。何ともお答え致しかねますな」
「ハッ、芸術がわからぬ失敗作はこれだから駄目なんじゃ」
「くっく、前衛的なモノは理解できぬ年寄りの頑固者でして」
「ち、妾の方が年上だと知っておろうが。嫌味な下僕じゃ。今すぐ物言わぬ肉くれにかえてくれようか」
「おお、怖い怖い」
やはりリーゼロッテ様の声。ライヒアルトさんより年上?ジョークでも言い合ってるのかな。
話している内容もよくわからないけど物騒だし……ブラックユーモアという奴だろうか。
「ま、それはもうよいわ。……で、小娘の経過はどうじゃ」
「順調ですよ。来た頃は蒼白だった顔色もここ最近で赤みがさしてきましたし。体も大分肥えてきました」
小娘っていうのは私の事か?むぅ、陰ではそんな風に言われてるとは。
確かに小娘ではあるけれど、ちょっと嫌な気分だ。
でも私の体に気を使ってくれているみたいだし、文句を言う筋合いでもないよね。こんなにいい思いをさせてもらっているのだし。
「たわけ。妾は小娘の体など興味はないぞ。あるのはお前らだけじゃろうが。聞いとるのは妾の“脚本通りに”進んでおるかどうかじゃ」
「あぁ、そちらはもう。アレはこれまでの娘以上に阿呆のようですな。完全にこちらを信じ切っていますよ。あの緩みきった表情でわかるでしょう?」
え?何の事?
「ふん、まあ妾の書いた脚本なのだから当然じゃな。わかっておると思うがスヴェルの夜までは絶対に気付かせてはいかんぞ?」
「そう何度も念を押さずとも、十分に存じております。主も心配性ですな。寿命が縮みますよ?」
「そう言って前に気付かれた事があったじゃろうが」
「あぁ、あの首を吊った娘ですか。大丈夫ですよ。あの娘は最初からこちらを疑ってましたからね」
ドクンッ、と心臓が跳ねる。鼓動が速い。息が荒くなる。
ダメ、これ以上聞いたら……。
「しかし今回は下準備も長かっただけに楽しみですな。天国から地獄、全てが覆った時にどんな反応をするのか」
「妾が手掛ける舞台ぞ?最高の表情をするに決まっておる!絶望、悲哀、逃避、憤怒、混乱。どれじゃろうな……あるいは入り混じるか……その表情に味付けされたスヴェルの夜の乙女の血……あぁ、想像するだけで絶頂に達してしまう!クッひヒヒゃひヒあヒ」
歪んだ嗤い声と、不気味な言葉。女の声は狂気に満ちている。
リーゼロッテ様?これが?
嘘。
「全く……もう少し上品な笑い方はできないのですか……。で、後処理の方は?」
「クひ、使用人ももういらんだろう?血は勿論妾がもらうが、肉の方は貴様らにくれてやる。人間の肉はまずくて喰えんでな」
「それはそれは、主の寛大なお心遣い感謝致します。しかしあの味がわからんとは難儀ですな。私など段々と肥えてきたアレを見て涎を垂らさないようにするのが大変ですよ。あの柔らかそうな尻などオーブンで焼けばトロトロに……」
何これ。意味が分からない。分かりたくない。
やめてよ。
折角キレイナセカイだったのに……壊さないでよ……
私はふらふらと執事室のドアから後ずさり、無意識のうちにそこから逃げようと静かに歩き出した。
もし盗み聞きをしていた事がバレたらどうなるのだろう。
確信があった。気付かれたら“終わる”と。
絶対に音を立てては、いけない。そう思うと、自分の鼓動や息遣いが地平の果てまで響きそうな騒音に聞こえてくる。
外に出たい。今すぐここから逃げ出してしまいたい。
しかしそれは無理だ。この時間は全ての扉の鍵が掛けられている。窓を割れば音で気付かれる。
とりあえず今は、自室に戻ろう……。
私は今夜、自室から出なかった、ずっとベッドで寝ていた。そういう事でなければならないのだから。
辺りは静まり返っている。他の部屋に灯りはついていない。どうやら起きているのはあの2人だけのようだ。
(いける)
階段に向かって1階の廊下をすり足で進む。ギシ、と軋む床板の音が憎い。
2人のいる執事室を何度も振り返り、後ろを確認する。中ではまだあの話が続いているのだろうか。
やっと階段まで辿り着く。手すりを掴みながらなるべく体重をかけないように階段を上る。
大丈夫、誰も後ろからは来ていない。上りきった。
自室まではあともう少し。あそこまでいけば、きっと。
「……何をしているのかな」
ゴールまであと一歩。
つづきます
※長くなったので前後に分けました。ここからしばらくシリアルかも……。