トリステイン中南部、小都市バンシュ。
それほど有名な都市、というわけではないものの、トリステインならではの名産品の生産地として聞いたことがある。
それは、すなわち、〝ブリュッセル・レース〟と呼ばれる、レース編みである。
伝統的というほど歴史は古くないが、数十年前から根強い人気を保つ、トリステインの数少ない名産の一つである。
元々、レース編みの生産は、ロマリア、特にヴェネツィアなどで盛んであった。
しかし、時代とともに〝ヴェネツィア・レース〟のスタイルの流行は廃れ、それに取って代わるような形で流行しだしたのが、主に、ブラバン公爵(ヴァリエール家並みの力を持つトリステイン中部の雄)領・ブリュッセルで編まれた独創的なレース刺繍であったのである。
このブリュッセル・レースは、本場ブリュッセル、ここバンシュ他、ブルッヘ、マリーヌなどでも生産されている。
──さて、という訳で。私達義姉妹と一人のゲストは現在、この街の木賃宿に滞在している。
本来、トリスタニアからガリア方面へと伸びるヴェル=エル街道の主街道を使えば、先にも挙げた大都市ブリュッセルを経て、国境近くの交易都市シュルピスへと最短で到着することができるのだが。
王都からの追手を危惧した私は、主街道は使わず、東に一本入った副道を利用することにしたのである。
とりあえずの目的地であるシュルピスへは多少遠回りとなってしまうが、馬鹿正直に主街道を使うよりはマシだろう。
もちろん、追手がこない可能性もあるけれど、商人たるものは、常に最悪を想定してリスク・マネージメントをしていかなければならないのである。
そしてその副道沿いにたまたま存在していたのがこの街だった、というわけだ。
本当ならば、暢気に宿など取って休んでいる場合ではないのだが、【賦活】の効果が切れた馬達の体力も限界に来ていたため、泣く泣くここで一息いれることにしたのである。私達には、こんなところで彼らを使い潰すような予定も余裕もないのだから。
「追ってくるかしらね?」
古ぼけたガラス越しにこじんまりとした街並みを見渡しながら、誰ともなしに呟く。
「どうじゃろうな。そうじゃとしても、こちらからは手を出せん、というのが困りものよの」
気だるそうにシングルベットの上で寝そべったロッテは振り向きもせずにそれに答える。
そうなのよね。
ただの賊くずれが相手ならロッテの食糧になってもらうのも吝かではないが、王宮が編成、もしくは依頼した者が追手だとしたら、迎え討つわけにもいかないし。なかなかどうして。
「アンタ達が余計な事をするから面倒な事になるんじゃない。まったく、商人だか、野良メイジだか知らないけど……。平民の癖に分を弁えなさいよね!」
と、鏡台の前のスツールでふんぞり返りながら言うのはエレノア。
私達が賊の類ではなく商人であり、エレノアに害意はない、という事は一応の納得はしてくれたようだが……、未だ半信半疑なのは間違いないだろう。
また、ロッテの精霊魔法については、一応、傭兵メイジ、という説明(嘘)をしておいたが(ちなみに杖については、私達が持つ唯一の魔力的素養を持ったアイテム──つまり、地下水を杖だ、と強引に言い張った)、それについてもかなり強い疑惑を持っているようで、常に棘のある空気を纏っている。
しかし、かといって、彼女に独力で家へ帰るような甲斐性はないため、仕方なし、という感じで私達に同行しているという感じ、だろうか。
ま、彼女がそれを認める事はないと思うが。何せあのヴェルヘルミーナ並みにプライドが高く、負けず嫌いなのである。
ここまでの自尊心をお持ちなのだから、きっとどこぞの上流貴族の令嬢なのだろう、とは思うのだが……。
その話をしようとすると、エレノアの歯切れが悪く、モゴモゴと口籠ってしまうため、詳しい素性はまだわかっていない。
とりあえず、彼女の言によると、『とある用事で両親とともに首都を訪れていたのだけれど、運悪く家族とはぐれてしまった。丁度実家の方向は〝南〟なので、ついでに送らせてやってもいいわよ。光栄に思いなさい、平民』らしいが。
とんでもなく、果てしなく────嘘臭い。というか、嘘だろ、それ。商人なめんな、ってね。
とはいえ、無理矢理に口を割らすわけにもいかないし。困ったものだわ。
「ふぅん、その卑しい平民に飯を恵んでもらっておるのはどこの貴族様じゃったっけなあ?」
「む、ぎ。そ、それは……アンタ達が無理矢理つれてきたんだから、その程度の事、当たり前でしょ! 大体、あんな貧相な食べ物ともいえないようなモノを寄越したくらい得意面するのはやめなさいよ!」
「ほぅ、よほど尻を叩かれるのが気に入ったようじゃのぅ。お主、被虐趣味でもあるのか?」
「ふん、そっちこそ、ね。どうにも縛り首になりたいみたいじゃない? お望み通りにしてあげようかしら!」
「なんじゃと、この文無し貴族の恩知らず!」
「何よ、この守銭奴平民のでしゃばり!」
お~い、お姉さま~、相手は一応貴族ですよ~。
ま、馬鹿姉に注意しても無駄だから私は口を挟まないけどさ。
はぁ、まったく。
『ったく、女三人寄れば、っていうが、二人で十二分に姦しいぜ』
「まったくよ」
こそっ、と腰元でぼやく地下水に、深く溜息を吐きながら同意。
この二人はずっとこの調子。ウマが合うのか、合わないのか。とりあえず煽られ耐性は同レベルだろう。
そういえば、この子、私と年が1つしか違わないというのよね。う~ん。
「で、あんたは、何を、見てるのよ?!」
「何でもありませんわ、マイヤール嬢」
「嘘よ! 哂った! あんた、私のむ、む、ムネを見て哂ったわね?!」
今度は私に矛先を変え、なおもきゃんきゃんと騒ぎ立てるエレノア。
正直、うるさい……。貴族だっていうなら、もう少しお上品にしてもらいたいものだわ。
年齢詐称じゃないか、とは思ったけれど、哂ってはいないわよ。むしろ動きやすそうで羨ましいくらいよ。
『けけ、発育ってのは、人それぞれ、ですからねぇ』
「くっ、ぐぅぅ! 言わせておけばっ!」
余計な挑発するな、ドブ水。
ほぅら、また杖を取り出したじゃないの。この娘、度胸があるのはいいことだけれど、ちょっとばかし短気が過ぎやしないか?
「誇り高き貴族たるならば、そうそう杖など抜く物ではないのでは?」
すかさずエレノアの手元から、素早く杖を抜き取ってにこりと笑いかける。
この至近距離では、何音節もある魔法の詠唱なんぞより、ぶん殴った方が効果的だと思うのだけれど。少なくとも軍人の家系ではなさそうだ。
「む、ぐぐぐ……。はっ、腹が立つガラクタと平民ねぇ! これだからゲルマニアの野蛮人は嫌いなのよ!」
奪った杖をひらひらとさせながら、手渡しで返してやると、エレノアは地団太を踏みながら悪態を吐く。
おいおい、野蛮なのはトリステインの方だろう、と言いたいところだが、そこはグッ、と堪えておこう。これ以上金切り声を聞かされるのは精神衛生上キツイ。
「まま、落ち着いて下さい。いつ追手が来るかもわからないというのに、こんなところで無駄な体力を使ってしまっては」
「そうじゃぞ? あまり力むと〝また〟小便を漏らしてしまう事になりかねんからな」
そうそう、またチビっちゃうわよ……って、おい。あんた、まだ続ける気か?!
「だ、だ、誰が漏らしたってのよぉっ!?」
……追われている可能性も存分にあるというのに、緊張感がないどころか、何も考えていないわね、この人達は。
あぁ、誰か、私にアスピリンをくれないか?
*
初夏の空が街路のプラタナスの花と同じ色に染まる宵の口。
「田舎臭いが、悪い所ではなさそうじゃなぁ、この街」
ロッテは、露に濡れる絹のブロンドをかきあげながら、ごくり、と冷たいミルクを飲み干した。
そうね。さっ、と様子を眺めただけだけれども、確かに街の雰囲気は悪くない。
なんというか、大都市よりもおおらかなのだ。
大都市のように忙しない空気はなく、かといって寂れているというわけではない。
それは街の雰囲気だけではなく、人もそう。
いい例がこの街の門を守る衛兵(トリステインの領地経営形態からして、領主に雇われているのだろう)。
私達のような外国の行商人が都市に入る際、普通は身分証明からはじまり、積荷の内容、取引をするのかしないのかなど、そりゃあまあ、長年の仇敵かのごとく厳しくチェックされるのだが。
翻ってこの街においては、あまり地元の行商人もこのルートを通らないのか、同業組合の規制が緩いのか。
この街の衛兵達はやけにフレンドリーであり、積荷の検査すらせずに、あっさりと通してくれたどころか、人気の安宿から観光スポットまで丁寧に紹介されてしまうほどだったのである(ま、王都からの追手が現れた場合、彼らから私達の居場所がバレてしまう恐れがあるので、紹介されたのとは別の宿を取ったけれどね)。
こういった田舎町に立ち寄った事はほとんどなかったので、このアバウトさというか、鷹揚さには驚かされてしまった。
もちろん、田舎町がすべてこういったおおらかさを持っているというわけではないだろう。そういった精神的な豊かさを持つためには、経済的な豊かさも必要なものである。
つまり、この街は比較的景気が良いことが容易に想像がつくわけで。う~ん、余裕があれば、ここで一商売していきたいところなんだけど……。
「信じらんない! 宿にお風呂がついてななんて。まさか平民用の共同浴場に入るハメになるとは思いもしなかったわ……」
私達から遅れること数歩、安宿のエントランスへと入ってきたエレノアが大げさなアクションで頭を抱えて嘆いている。
彼女の愚痴通り、今は公衆のサウナからの帰りで、ようやく宿に戻ってきたところ。
私とロッテは水浴びだけで十分だったのだが、エレノアがどうしても風呂に入りたいとゴネだしたので、ゲストの意向を無碍にするわけにもいかず、仕方なしにサウナへと連れて行ったのだ。
ちなみにお値段一人4スゥ。子供料金はない。無駄な出費である。水浴びすればタダなのに。
なのに、「お湯が張った風呂じゃないとイヤ!」と散々ワガママを聞かされた時には、さすがに巷で仏の美姫と呼ばれている私も手が出そうになってしまったよ。それでも、ぐっ、と飲み込む私って大人よね。毒殺姫……? 何それ?
まったく、風呂付きの宿なんてもんが一泊でどれくらいするのか分かっているのかしら。
簡易なものとはいえ、ベッドがあるだけマシってもんよ。これだから苦労知らずの嬢ちゃんは。
「それにしても、薄汚い宿よねぇ。人間の住処とは思えないわ……」
やれやれ、今度は寝床の文句か。流石にこのペースで彼女のワガママを聞いていたらキリがないわね。
「申し訳ありません、私としても貴族のご令嬢をこのようなむさくるしい所に連れ込むのは心苦しいのですが。しかし、追手が来た場合、すぐに対処出来るような立地と構造を考えると、この宿がベストかと」
「うぅ~……。それにしても、こんな宿で客は文句を言わないの? うぇ、よく見たら天井に蜘蛛の巣まで張っているんだけど」
さらりと適当な理由を並べると、エレノアは文句を言いつつも、渋々、納得はしたようだ。
彼女の場合、捕まってもそう大きな罪に問われる事はなかろうが、大なり小なり、親には確実に迷惑が行くだろうし、兄弟姉妹がいるならば、その地位は微妙なものになりかねないのだから、捕まりたくないのは彼女も同じなのだろう。
よし、今度から彼女の要求には、「安全上の問題」作戦でやり過ごすとしよう、そうしよう。
まぁ、とりあえず今日は、街の方で騒ぎがあったような様子もないし、問題が起こる事はなさそうだけれど。
と、そんなことを考えながら、ぶちぶちと愚痴を並べ続けるエレノアを宥めて、部屋へと向かおうとした時。
『ちょ、待った、待った、姐さん。まさか、気付いていないのか?』
「んっ?」
地下水が慌てたように制止の声をかけてきた。
気付く? 何に?
『おいおい……。姐さんも大概、緩んでいるんじゃねぇのか?』
「はん?」
『いやなに、ベッドメイキングにしちゃ、ちょいと時間が遅すぎやしないかと思ってなぁ』
「……っ?! それって……」
『あぁ、誰かいやがるぜ、中に。もしかしなくても、王都からの使いかもな』
「えっ!?」
突然の爆弾発言に、派手に声をあげそうになるエレノアの口を慌てて塞ぐ。
「んーっ、んーっ?」
非難がましい目線をこちらに向けて手足をばたばたとさせるエレノアに、人差し指を口にやる仕草をみせて黙らせつつ、横目のアイコンタクトでロッテに確認を取ると、彼女は小さく頷いた。
「んむ。特に殺気だったような気配はないがの。しかし、当たり前じゃが、この街に妾達を訪ねてくる知り合いなどおらん。十中八九、ボロ剣の言う通りじゃろうな。どうする? 殺るか?」
「ご飯食べに行く?」くらいの気軽さで生殺与奪を尋ねるロッテ。
いや、あんた、数刻前には「手を出すわけにはいかん」と自分で言っていたじゃないか。
……しかし、一役人、それも割と木端クラスの役人のためにこうまで迅速に出張ってくるなんて。まさか、貴族全体の沽券に関わる、とかそういう感じなっちゃっているの?
私の想定じゃ、動くとしても、少なくとも2、3日は後だと思っていたのに……。
予想以上すぎるでしょうが、あぁ、くそっ。見積もりが甘すぎた……!
いやいや、待て待て。
状況をより厳しく見積もっていたにせよ、きっと今以上の事は出来なかったはず。
国外への脱出を視野に入れた進路選択、一昼夜休みなしでの行軍、そしてここいらで休息を入れなければならなかったのも事実。
そう、今すべきなのは、現状を嘆く事ではなく、どうにかすることではないか。
「中にいるのは一人? それとも複数人?」
掻き乱される思考を何とか纏め、現状の把握を続ける。
この一行の責任者、ひいては司令官は他ならぬ私なのだ。クールにいこう。
「ま、一人、じゃが」
垂れがちな目を細め、含ませた物言いをするロッテ。
中にいるのは一人だが、他の場所──例えば宿の周りとか、街の出入り口とか──に仲間が待機していない、とは言い切れないという事、ね。
功を焦ったスタンドプレーで単独行動をしている可能性もなきにしもあらずだけれど……。
しかし、常識的に考えて、メイジを含む複数のお尋ね者を追ってくるのに、チームも組んでいないというのは考えにくいかもしれない。公的に差し向けられたものなら尚更である。
相手が一人だけと仮定ならば、逃げを打つのが上策──か。
当然だが、部屋の中に金品や商品、身分証明など重要なモノは残していないし、馬と荷は宿近くの厩屋(うまや)に預けてあるから、このままこっそりと宿をチェックアウトし、この街を立ち去る事も出来る。
公衆浴場に行く前に脱ぎ捨てた下着とか靴下とかは脱ぎっぱなしだが……。そのくらいならば、ここまで追ってきた努力を称えて、粘着ストーカーにご褒美としてくれてやってもよい。
しかし相手が複数と考えると──。
よし。
「……とりあえず、お話くらいは聞いておかないとね。どんな理由だろうが、レディの部屋に無断で立ち入るなんて、許されざるべき行為だし」
大仰に肩を竦めて、招かれざる客への対応を示す。ゲルマニアの商人がこの程度の事でうろたえてはいけないのだからして。
徹底抗戦、などという気はさらさらないけれど、あちらさんの動きを掴むには、ドアの向こうの不埒者に色々と事情を話してもらった方がいいだろう。お上がどの程度の規模で動いているのかも気になるし。
「くふはは、そりゃもっともじゃ。……で、策は?」
「そんなものが必要? 正面からで楽勝でしょうが。期待しているわよ、お姉様」
「かっ、全く、人遣いの荒い」
言葉とは裏腹に、任せろ、とばかりに犬歯を剥き出しにして獰猛な表情を作るロッテ。
まあ、念のため、私も彼女の後に続くか。主に相手の命を心配してだが。
「待ちなさい。敵がメイジだったらどうするのよ? アンタ達もメイジ、と言っていたけれど、どうせ、ロクに教育も受けていない野良のメイジでしょ?」
さて、行こうか、という所で、今度はエレノアが待ったを掛ける。
ありゃ、勘違いしてる。姉妹とは名乗ったけれど、義姉妹だとは思わなかったらしい。
私はただの平民よ。まあ、こっちのお姉様は人間ですらないんだが。
「だったら、戦うのは正統な貴族の私に任せなさい」
「お心遣い感謝致しますわ、マイヤール嬢。しかし、万一、貴女に怪我でもさせてしまっては、ご両親に面目が立ちませんので……」
「私がやられるわけ」
「ええ、ええ。それはもちろんでしょう。しかし、無傷というわけにはいかないかもしれませんし。それに、このような汚れ仕事は私共のような平民がこなすべきこと。誇り高き貴族の方が自ら出張るなど、役不足が過ぎますわ」
「そ、そんなものなのかしら? ──でも」
「そうですわ、そうに決まっています。えぇ、一万と二千年前から決まっています」
まだ何か反論をしたそうなエレノアとのやり取りを強引に打ち切る。
あぁ、もう、この娘の相手、めっちゃ疲れる。自業自得っちゃそうだけどさ。
好戦的なバトルマニアなのか、それとも他人を庇う人情家なのか。
どちらにせよ、彼女のありがたい申し出はここでは不要、どころか、邪魔でしかない。
「おい、もういいじゃろ? やると決まればさっさとやるぞ」
「ええ、あまり派手になりすぎないようにね、あと」
「?」
逸るロッテを窘め、耳打ち。
「精霊魔法は使わないで。彼女、あれで、かなり怪しんでいるみたいだから」
「術なしで、口を割らすというのか? なんとまぁ、難儀なことじゃの」
「え~、なんで人ごと?!」
「だって、妾、そんな面倒な事やったことないもの。何か吐かせたいのなら、殺して【傀儡】にすれば良いことじゃし」
吸血鬼って、ほんとハイスペック。
尋問、ねぇ。うん、どうやりゃいいのか、さっぱりわからん。
こりゃ、自分の中のイメージで、ノリで行ってみるしかないか……。
*
魔法を使った様子などまるでなく。屈強な大男でもない、華奢な体(一部以外)の平民娘が乱暴に蹴りつけただけ。
それだけで、重そうな木製の扉が、突風に飛ばされる綿毛のように宙を舞う。
時間にして一秒にもみたないだろう。
私はその不可思議な光景に目を奪われ、部屋の前にただ立ちすくす。そして、次の瞬間、視線を戻した時には。
──既に勝負は付いていたの。
「うっ?!」
「動くな」
拘束されたのは、太り気味の禿かけた男。
腰には小ぶりな杖、肩には絹のマント、その恰幅の良さも合わせて順当に合わせれば、傭兵というよりも、貴族と判断した方が正しい気がする。
もっとも、この無礼姉妹にそんなことはあんまり関係なさそう。
その貴族の首に手刀を突き付けているのが、平民姉。
腕に巻きつけたヘンテコな器械(形状からして、弓、なのかしら?)を額に突き付けているのが、平民妹。
ほら、やっぱり! こいつら、絶対おかしいのよ!
まるで訓練された暗殺者か何かじゃない。少なくとも、商人なんかには見えない。
商人っていうのは、もっとこう、小太りで、いつもにこにこ、揉み手をするだけの非力で、卑屈な人種のはずで。
「ちょ、ちょっと、待っ」
「黙りなさい、この不埒者。貴方に許されるのは、私の質問に忠犬のように答える事だけよ。勿論、人間様の手を咬むような駄犬は処分しなきゃダメだって事、忘れないでね?」
冷酷な異端審問官のような口調で禿男を脅迫する平民妹。
禿男は困惑したような表情を浮かべつつも、首振り人形のように、コクリと頷く。
いつの間にか私が蚊帳の外に放り出されているような。
この姉妹、平民の癖に、私を敬わないどころか、お荷物扱いしているようなフシがあるのよね。
本当に、未開の土地の者らしく、無礼というか、命知らずというか……。あぁ~、思い出しているうちに、苛々してきたわ!
大体、何よ、あの姉の方! 貴族に敬語すら使えないとか、いくら平民でも教育がなっていなさすぎるんじゃないかしら?!
「いい子。では、まず一つ目の質問。貴方は一人? それともお友達も同伴?」
「ぅん? 女性を誘おうというのに、ぞろぞろとお伴などは連れて歩かんよ。みっともないだろう?」
「へぇ。仲間は売らないって言うのね? 中々涙ぐましい友情だこと」
「君らは、何か誤解をしていないか? こう見えて私は」
「余計なお喋りは禁則事項でしょ? 耳糞が詰まっているなら、聞きやすいように先の尖った鉄の棒でお掃除でもしてあげましょうか?」
禿男の弁解に、平民妹は妙に生き生きとした表情で、男の耳元にヘンテコ弓をぐりぐりと押しつける事で応える。
平民姉の方は、口を開きはしないものの、その光景を満足気な表情で見守っている有様。
……きっと、尋問、いえ、拷問に悦楽を感じているのね。なんて下品で悪趣味な。
しかし。
いくら野卑で得体のしれない平民であろうが、悲しいやら、情けないやら、今の私を取り巻く状況では、彼女らに頼るしかない。
何せ、平民の世界では、貴族の名を語れど、お金がなければ信用もされないし、相手にもされないらしい。
見る目がない奴らだ。お金がないくらいなんだってのよ。
〝金こそが諸悪の根源〟と始祖も言っているじゃないの。まったく、心まで卑しい者が多くて嫌になる。
じゃあ、さっさと実家に帰ればいいじゃないって?
ふん。私には、きちんとした目的があるの。それが終わるまでは、家に連れ戻されるわけにはいかないわ。
「それはご勘弁願いたい」
「でしょう? 私だって、そんなスプラッタな事はしたくないの。では改めて、お仲間はどこ? 詳しい配置は?」
「うぅん、何度聞かれてもそこは一人で来たとしか。ところで、そろそろ解放してくれると嬉しいのだがねぇ。いや、美女に抱擁されながら罵倒されるというのも、これはこれで悪くないんだが、いかんせん、この体勢は腰にクるというか、はは」
責められているのにも関わらず、ちょっと嬉しそうな、というか恍惚とした表情でそんなことを言ってのける禿男。
こっちはもっと下品な男だった!?
あれ……? 外の世界じゃ、私の感覚の方がおかしいわけ?
「……ロッテ」
「真、じゃろう。ナメた態度はともかく、嘘を吐いている様子はない」
「そう。単独犯とは、嬉しい誤算ね。ごめんなさい、私って、割と疑り深くて。職業病ってやつかしら」
禿音の要求はまるで無視して話を進める平民姉妹。
というか、疑り深いと公言しながら、大して根拠もなさそうな姉の発言は信じるのね。
……ふぅん、結構な、事だわ。
「で、貴方は王宮の使い? それともその他大勢のチンピラさん? 私達の捕獲、いえ、討伐にかりだされた者の数は?」
「そのどちらかといえば、王宮の使いだが、おそらく、君らの聞いている事とは意味が違う。それと、後者の事については何のことやらさっぱりわからないな」
「……あまりふざけた回答を続けるなら、本当に穿たせてもらうけど」
「惚けてなどいないさ。今までの話から総合するに、君らは誰か悪い男にでも追われているのかい? 美女の尻を追いかけたい気持ちはわからんでもないが、嫌がる者を追ってはいかんなぁ。よし、じゃあ、私がその不貞の輩共を退治してやろうじゃないか。それで、無断で部屋に立ち入ったことはチャラにしては貰えないか?」
のらりくらりとずれた回答を続ける禿男に苛立ってきたのか、平民妹の語気が強くなる。
しかし、禿男は恐怖を感じるどころか、怒ってすらいないかのように平然とジョークのような答えを返す。
何なの、この余裕?
「……ロッテ!」
「これもまた、真、じゃな」
「はぁ? じゃあ、追手でもないメイジが、どうして部屋で待ち伏せしてんのよ」
「妾に聞くな、そんなこと」
「えぇい、じゃあ、地下水!」
『俺に振るか、普通? まぁ、大姐さんがいうなら、そうなんじゃねえの?』
どうしてか、インテリジェンスナイフまでが、平民姉に全幅の信頼を寄せているようだ。
ちょっと。私には話を振ってすらこないって、どういう事よ?!
「だからさっきから君達の勘違いだと言っているじゃあないか」
「んぐ、じゃあ、自分はただのコソ泥かそうでもなきゃ、変質者です、とでもいいたいワケ?」
「ふ、男というものは誰であろうと多かれ少なかれ変態的な願望や性癖を」
「そんな下らない事を聞きたいんじゃないの! もう! この部屋に居た目的は!? 貴方の所属は!」
「いやなに、街にえらく美人の旅人がやって来た、などと聞いてね。こりゃ、是非とも屋敷へ招待せねば、と思って参上した次第なんだが……。やはり、部屋の外で待つべきだったなぁ」
ついに怒りを露わにする平民妹に、悪びれる事もなくいけしゃあしゃあとした返答を続ける禿男。
しかし、よくよく考えると、この男が言っている事には、最初から一貫性があるような?
もしかして、トリスタニアからの追手だ、というのは、本当にこちらの勘違いで。この禿男は、まるであの事件とは無関係なのではないだろうか。
私くらいの美貌となれば、街で噂になるのもおかしくはないし。
「クリスティアンみたいな事を言うやつじゃの」
「この物言い、女好き、屋敷に招待……。どちらかといえば王宮の使い? いやいや、まさか……でも、この一帯の領主って……?」
「おい、どうした?」
平民妹の方も、私と同じ考えに至ったのか?
先程まで、禿男をがっしりと捕まえていた手を離し、青い顔をしてブツブツ、と何やら呟いている。
「私、今、すごいマズイ事を思い出しちゃったような気がする」
「は?」
「このハ、いえ、このお方、遠い昔に、一度だけ見た事があるような気がするのよ。あの時より、ちょっとばかしふくよかになられているのだけれど……。どうしよう、ヤバイわ……」
何に気付いたというんだろう。
先程まで顔を真っ赤にしていた平民妹は一転、今にも倒れそうなほどに顔を青ざめさせていた。
「あのぉ……つかぬ事をお伺いしたいんですが、〝どちらかといえば王宮の使い〟というのはもしかして、王宮勅使のお役目の事で?」
「おぉ、よく知っているな。いかにも、私は王宮勅使、ジュール・ド・モット。この片一帯の領主を務めている」
禿男が名乗りをあげた途端。
平民妹は、「あは」と奇妙な笑いを一つ残して、糸の切れた人形のように、ぱたり、とその場に倒れ込んでしまい。
あの傲岸不遜な平民姉でさえ、「あちゃあ」と苦い顔をして頭を抱えて、溜息を吐いている始末。
なるほど、確かにまずい。平民妹が倒れたのも当たり前。
平民が領主に刃を付きつけるとか、当然の極刑物でしょ。
というか、貴族同士でも相当にまずい。賠償ですめばいいが、そうでなければ……。
これって、私もやっぱり、共犯なのよね? いや、むしろ身分からして、私が主犯ということに?
こっ、こんなこと知れたら、お母様に殺されてしまう……!
どうしよう。一体、これ、どうすればいいのっ?!