ここはまるで楽園だ。
それまで御馳走だと思っていた物とは比較にもならない程、美味しい食べ物。
朝までぐっすりと安心して眠れる、ふかふかで柔らかい天幕付きのベッド。
よく手入れされた色とりどりの美しい花々が咲き乱れる庭園。
ファッハヴェルクという様式で建てられたという、お洒落で立派なお屋敷。
新参者の私にも親切にしてくれる使用人達と、いつも笑顔の優しい旦那様。
そして美しく気高いリーゼロッテ様。
今日も綺麗なおべべを着せられて、私は優雅にティータイム。
「アリア様、紅茶のおかわりはいかがでしょうか?」
「ええ、お願いします、ありがとう」
お気に入りのテラスで、老執事に傅かれる元貧農娘。私である。
(苦しゅうないわよ、セバスチャン。なんつって。さて、ではお茶請けの方も頂こうかな?パクっとな。んん?)
「今日のお菓子は少し甘みが強すぎますね。料理人さんに精進するよう伝えて下さる?」
「かしこまりました、アリア様」
セバスチャン改め屋敷の老執事ライヒアルトさんは、私の苦言に嫌な顔一つせず了承の意を示す。
(あぁブルジョワジーって最高!はぁ世の中やっぱ金だよね~。カネ)
私はすっかり調子に乗っていた。いや、乗りまくっていた。その姿はまるで拾った宝くじで一等前後賞を当てたホームレスである。
何故こんな事になっているのかというと、話は2週間程前に遡る。
*
リーゼロッテ様に引き取られた私は、フェルクリンゲンから北東へ馬車で3日ほどの距離にある、長閑な景色の広がるウィースバーデン男爵領と呼ばれる地域に向かっていた。
ウィースバーデン男爵領は、ザールブリュッケン男爵領のすぐお隣の領地なのだが、なんとその北には“あの”ツェルプストー辺境伯領が広がっており、その力はやはりというか絶大で、この辺一帯の貴族のボス的な存在であるそうだ。
「リ―ゼロッテ様のご実家は男爵領の内にあるのですか?」
揺れる箱馬車の中、私は向かいの座席に座るリーゼロッテ様に質問する。
ウィースバーデンは農村地帯、言い方を変えれば田舎らしい。そのような地域に実家があるとするなら、何の稼業を営んでいるんだろうか。
「ああ、言っていなかったか。私はその男爵家の長女でね」
「そっ、あ、きっ、貴族様?!……で、でも杖とマントが」
さらりと為された爆弾発言に畏れ慄く。
ちょ、そんな重要な情報は先に仰ってくれないと……。
貴族ではないと決めつけていた私にとっては寝耳に水だった。
貴族の証である杖とマントは身に着けていなかったし、私が貴族に買われる訳がないとおもっていたのだ。しかも上級貴族はあんな口入屋には来ないんじゃなかったのか。
貴族、と聞いて途端に委縮する私。貴族は怖いものである、と10年間教え続けられてきたのだ。実は貴族などと言われればビビってしまう。
男爵というと、貴族の中では下の階級というイメージがあるが、間違いなく上級貴族である。
下級貴族とは一般的に準貴族の事を指す。即ち准男爵、叙勲士(騎士)、及び爵位無しの貴族である。
基本的に領地持ちの上級貴族は非常に裕福であり、一部の上流平民(例えばゲルマニアで爵位を買えるような実力者)を除けば、その財力は平民と比較するのも馬鹿らしい。
財力と権力と暴力を兼ね備えた者が真の貴族。その3つが揃っていたからこそ、ハルケギニアは6000年の長きに渡る封建社会を維持する事ができているのだろう。
「……今回はお忍びだったのでね。馬車の中に隠してあったんだ。ほら」
「しっ、失礼しましたっ!今までのご無礼、何とぞお許しを……」
リーゼロッテ様は座席の下に無造作に置かれてあった杖とマントを掴み、こちらに見せる。
それを見た私は速効で土下座である。その反射速度はリアクションタイム0,06秒の壁を破っていたと思う。
貴族であったなら今までの態度では不敬に当たるかもしれない。
せ、折檻される!いや、まかり間違えば殺される?!
「アリア、とりあえず座席に戻って」
美しい顔を顰めて、這いつくばる私に拒絶を示すリーゼロッテ様。
やや強い口調に押され、私はのろのろと座席に戻って縮こまる。
卑屈すぎて逆に怒らせてしまったのだろうか、と私の背中を嫌な汗が伝う。
「貴族は嫌い、か」
「い、いえ。そんなことは」
慌てて否定したが、正直に言うと、あまりいい感情は持っていない。
私は特に恩恵も受けずに搾取されてきた側なのだから当然と言えば当然である。
「誤魔化さなくてもいいよ。君の立場から見れば貴族が嫌いなのが普通だ。正直に言ってくれ」
「う……!嫌いというかその!怖い、かも、です。その、貴族様は怖いモノだと……」
だが嫌いなどとは口が裂けても言えまい。ただ、実際に嫌いというよりは怖いと感じているのは事実である。
「なるほど。……では私も怖いかな?」
「い、いえ、リーゼロッテ様はお優しい方だと思います。ただ貴族様だと聞くと、反射的にというか本能的にというか……」
リーゼロッテ様は自身の胸に手を当てて尋ねる。私はそれを否定する。
彼女が怖いわけではない。貴族というカテゴリーが怖いのだ。
「少し意地悪な質問だったか。私が言いたいのは、私が貴族だからといって今までの態度を変えないでほしい、いやむしろもっと砕けてくれても良い。貴族だからといってそんなに怯えられては、私は悲しい」
言い終わって、ふぅ、と悩ましげな溜息をつくリーゼロッテ様。
「わ、わかりました、努力します」
「ふふ、努力するというのもおかしいが。まあそういう事だから必要以上に肩肘を張らないでくれ」
リーゼロッテ様は、あの柔らかい微笑みを私に向ける。
その表情はまさに太陽。緊張や警戒という名の防寒着が脱がされていく。
うん、大丈夫。この人は怖くない。
「しかし何故男爵家のご令嬢が、何故あのような下賤な場所に?」
正真正銘の上級貴族のお嬢様が、何故あのような口入屋に出向いて私を買ったのか。
私が口にした疑問に彼女は少し間を置いてからこう答えた。
「あの口入屋に連れてこられた年端もいかない娘達が、買われた先で奉公と称した虐待を受けていると聞いてな」
「それは……恐らく本当です」
リーゼロッテ様の前に面会した2人のような客が多いのであれば、間違いなくそうだろう。
ふとあの泣き虫金髪の顔を思い出す。あの娘は今どうしているのだろうか。
もう流す涙も枯れ果てているかもしれない。
「あの街の領主でもない私の力では全てを救う事は無理だ。しかしせめて気に入った娘だけでも、他に買われる前に私の元で保護したいと思っている。……自分でもただの偽善的な自己満足だとは分かっているのだが」
「…………」
「私は貴族とは名ばかりの小娘だよ。結局何も解決できていないのだからな」
自嘲的な笑みをこぼすリーゼロッテ様。その表情は自責の念からか苦痛に歪んでいるように見える。
「私如きが偉そうに言う事ではないと思いますが……リーゼロッテ様はご立派だと思います。自己満足だと仰られましたが、それによって救われた私のような人間もいます。どうかご自分を責めないでください。私はリーゼロッテ様のような方こそ真に貴き一族と言うのだと思います」
こんな考え方をする貴族もいるのだ、と私は感動し自分の思ったままを口にした。
貴族は平民の事などただの家畜か道具にしか見ていない、と思っていたが、この人は違う。
いや、上級貴族とはもしかするとこういうものなのかもしれない。口入屋に玩具を買いに来るような金を持った大きな子供とは違うのだ。
「ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ。君は優しいな。それに年齢に見合わない聡さを持っている。10歳でそのような世辞を言えるとは」
「世辞ではありません。本心です」
世辞を言っていると言われて、少しムッとした私はその言葉を否定する。生意気に聞こえてしまったかもしれないな、と私は少し後悔した。
「やはり君に決めて良かった。想像以上に……」
「?」
想像以上に、なんだろう。その微笑の表情から、マイナスのイメージではないことは分かる。生意気な事を言った私への好感度は悪くなさそうで、ほっとする。
そしてここから話は思わぬ方向に突き進んでいったのである。
「……いや、いつもは連れてきた娘は、屋敷の使用人として働いてもらっているんだが、今回は特別なんだ」
「特別、ですか?」
リーゼロッテ様は、先程までの緩んだ表情を締め直し、真剣な表情で私を見つめる。
「ああ、実は君には私の妹になってもらいたい」
「成程、そういう事ですか。妹に成る仕事ですね。…………はっ?い、いもうとっ?な、何を仰って……妹とはあの、姉妹の妹ですか?!」
「それ以外に妹という単語の意味があったら教えてほしいが」
はい?
何を言ってるんだこの人?私は平民、それも奴隷的な階級の貧民ですよ?
リーゼロッテ様の妹と言う事は、男爵令嬢になるという事で。
私がお嬢様?ブルジョワジー?何十階級特進ですか?
何コレ。何処産のシンデレラストーリー?
いやいやいや、ないない。夢だ、これは。妄想の類。私の妄想が生み出した白昼夢。
私はリーゼロッテ様のあまりの突飛な発言についていけず、ポカンと口を開けてアホ面を晒す。
「……ア、アリア」
「はっ」
私を呼ぶ声が思考の海から現実に引き戻される。
あれ、こっちが現実?思考が追いつかない。
「すまない。突然すぎて驚かせてしまったようだ。信じられないのも無理はない。順を追って説明するから落ち着いてくれないか?」
リーゼロッテ様の提案に、私はただコクコクと頷く。
「まず、そうだな。今代のウィースバーデン男爵、つまり私の父なんだが。彼は大分前から心を病んでいてな」
「それは…………申し訳ありません、何と言ったらいいのか」
こういう時になんと言ったらいいのだろうか。ご愁傷様ですとは言えない。適切な言葉が浮かばない自分にやきもきする。
「気にしなくていい。その原因は5年前に事故で私の実妹を亡くした事でね。少し嫉妬になってしまうが、父は私よりも妹を異常なほどに溺愛していた。……妹が死んだ事が認められなかった父は、当時妹と同じくらいの年齢だったカヤという使用人の娘を自分の娘だと主張し始めた」
「まさか」
なんというか、気の毒に。
その結末は少し予想はできたものの、私は黙って続きを聞く事にした。
「うん、カヤは妹ではないといっても父は全く聞きいれなかった。結局カヤの母に折れてもらって、カヤを妹に仕立て上げることになったんだ。領主をいつまでも錯乱させておくわけにはいかないからね。5年前から最近まで、カヤを妹に仕立て上げてからは父も落ち着いていたんだが……」
「何か問題が起きたのですね?」
「ああ、1月程前からカヤに対して、『お前のような女はしらん、私の娘は何処に行った!』と怒鳴り散らすようになってな。どうやらカヤが成長しすぎてしまったらしい。父の中では妹は10歳の少女のままらしい。そこで代役を探していたんだ」
「それで、私をカヤさんの替わりの妹役に、という事でしょうか?私にそんな大役が務まるかどうか……」
リーゼロッテ様、私に貴族のご令嬢を演じられるような素養はありません。なんたって貧農出身ですから!貴族としての礼儀?マナー?何それ、おいしいの?
「アリアなら絶対大丈夫。実は君に初めて会った時に妹にそっくりで驚いたくらいなんだ」
「はあ……」
力強い断定に、曖昧な返事しか返せない。
貧農の小娘が貴族令嬢にそっくりとかありえるの?そうすると妹さんはあまり美人ではなかったのか……おっと、これは不敬だ。
「それに妹の名前なんだが」
「はい?」
「ファーストネームが“アリア”だったんだ」
「えぇっ?!」
な、ナンダッテー?!珍しい偶然もあるものですね。うん。
「これはきっと運命だよ、アリア。妹役を探していた所に、あの口入屋に妹にそっくりな、名前まで同じな君がいたんだ。もしかすると君は始祖が遣わせた天使なのかもしれないな」
「う、運命……」
熱っぽい目で語りかけるリーゼロッテ様。
少女と言うのは総じて運命だとか、そういうのに弱いのである。『僕』の記憶を持っている『私』とて同じである。
「あまり難しく考えないでほしい。気楽にやってくれればいいんだ。私や周りの使用人達だってきちんとフォローする」
「でも……」
「大丈夫、きっとできる」
そういって私の頭を撫でるリーゼロッテ様。
妹役をやるのは最早決定事項のようだ。だが悪い気は全然しない。
よし、やってやろうじゃないか。誰もが認めるリーゼロッテ様の妹になってみせよう。
「……わかりました!その大役、見事果たして見せましょう!」
「これは頼もしいな。期待している」
*
と、以上のような事から2週間が経ち、冒頭に戻るわけである。
当初、アリアは不安だらけだったのだが、リーゼロッテの父であるウィースバーデン男爵は、拍子抜けするほどあっさりとアリアを娘と受け入れ、屋敷の使用人達は、アリア様の生き写しだと持て囃し可愛がった。
現在アリアはティータイムを終えて、庭園でメイドさん達とお戯れ中である。
「しかし、ほんとにそっくりだねえ」
「あはは、そう言ってもらえると自信がつきますよ」
そう言ってアリアの頭をやや乱暴に撫でまわすのは、この屋敷のメイド長である。前妹役であるというカヤの母とはこの人である、との事だ。
「妹歴の長かった私から見ればまだまだね。オーラ的なものが足りていないわ」
「はいはい、カヤは厳しいなあ」
前妹役のカヤは現在は屋敷のメイドとして働いている。屋敷で最も歳が近いのはこの15歳のカヤであったため、親しい友人のような関係になっている。
心配していたマナーや礼儀についてもうるさく言われる事はなく、今はただ楽しんでいればいい、とリーゼロッテは言う。
妹役との事だが、男爵の手の届く所で普通に過ごしてさえいれば、男爵は落ち着いているようで、特別に何かをしているわけでもない。
男爵やリーゼロッテの膝の上で豪華な食事を頂き、お気に入りのテラスで優雅なティータイムを過ごし、美しい庭園で使用人達と戯れ、眠くなれば柔らかいベッドの上で寝るだけだ。
怠惰にして華麗、まさに頭カラッポなワガママお嬢様を体現した生活である。
人は悪い環境に置かれてずっと慣れない事はあっても、良い環境に置かれると、3日で慣れ始め、1週間でこういうものかと納得し、2週間する頃にはそれが当然となってくる。
最初は恐縮しっぱなしだったアリアもだんだんと気持ちが大きくなり、現在では立派なお嬢様になってしまっていた。
その容姿も、ここに来た当初は痩せぎすだったのに、今ではふっくらとしてきており、綺麗な衣服を纏ったその姿を見れば少し残念な感じの貴族令嬢に見えないこともない。
(『私』にこんなイイ事があるなんて。神が本当にいるならお礼を言いたいくらいだわ)
“10歳の”アリアは与えられる幸せに疑念を抱く事もなく、今生で初めて訪れたと言ってもよい我が世の春を満喫していた。
その無防備な姿はまさにこの世の穢れを知らない暢気な乙女。
「……クひ、本当に楽しみだよ、アリア」
庭園で無邪気に戯れるアリアを、自室の窓から観ていたリーゼロッテの呟きは、誰にも聞かれることなく消えて行った。
つづく、多分