<ep1.姐御と愉快な仲間達 オルベの事件からおよそ一月後のウィンの月>
「はぁ」
小汚い木賃宿の窓べりに肘を掛けて溜息を突く美女。
そう、あたいの名はマルグリッド。
ゲルマニア東部では、ちっとは名の知れていた盗賊団の頭である。いや、だった。
しかし、現在あたいがネグラにしているのは、ゲルマニアではなく、お隣の弱小国、トリステインに存在する、サン=シュルピス伯爵が治める交易都市、ここ、シュルピスの街だった。
商業の発達が遅れているカビ臭いトリステインの中で、最も他国の商社支店が存在するのがこの街だと言われている。
アルビオン、ガリア、ゲルマニアの三方向に伸びる街道の合流地点である、という地理的な要因が、この街をそのような交易都市にたらしめているのであろう。
「はぁ、どうしてあたいがこんな野暮ったい街に……」
油布を張っただけの粗末な窓から、メランコリーな表情で街並みを見渡して、あたいはもう一つ溜息を付いた。
この程度のシケた規模の街でトリステイン一の交易都市だ、というんだから、しみったれた国だよ、この国は。
中心部のメインストリートの方に目を向けると、ゲルマニア国籍の店看板が目に付き、それが何とも郷愁を誘う。
といっても、ゲルマニアの商業都市と比較すると、その数はあまり多くはない。
商人でもないあたいには、その詳しい理由はわからないが、もしあたいが商人ならこんなしみったれた国には来ないだろうさ。
ちっとも儲かりそうに見えないもの。
「くそっ、あのアリアとかいうクソ娘、いや、ビチグソ娘のせいでっ!」
都落ち(?)した悔しさに地団太を踏む。
……っはぁ、情けなくなってきた。
あたいともあろうものが、あんな毛も生えていないような餓鬼んちょに負けた上に、故郷を追われるハメになるなんて。
っち、こういう時は、紫煙を燻らすに限るね。
「よっこらせっ、と。ふ~……。ウル・カーノ」
座ったまま、乱れたベッドの枕元に置いてあったキセルに手を伸ばし、口に咥え、【発火】を唱えて火を入れる。
「ぷはぁ」
元気はないけど、煙草が美味い。
ん? 杖はどうしたって?
これだから素人さんは……。このキセルが隠し杖なんだよ。
何を隠そう、コイツのおかげで忌々しいクソ役人共から逃げることが出来たのさ。
どうやってって?それは──
「姐御、ただいま帰りやした」
おっと、使えない部下共が戻ってきやがったかい。
「開いてるよ、入りな」
「へいっ」
入室の許可を出すと、満面の笑みを見せる疵面のジローと、気取った様子で澄ましている小男のオノレが順に顔を見せる。
馬鹿で阿呆でクソ世話のかかる部下共だが、一家が瓦解した後も残ったのはこいつらだけなので、暫くはこの面子でやっていくしかないだろうね。
「で、成果は?」
「へい、なんとか仕事がみつかりやした。街の清掃業っす。日給は15スゥですね」
「ふん、お前にはそのくらいがお似合いだ。俺くらいになると、日給20スゥの布告人(その日の出来事を叫びながら街中を練り歩き、都市民にニュースを伝える職業)の仕事を……」
ジローの奴が得意げに言い放ち、オノレがそれに被せるように自慢を始めた。
いや、お前ら、ちょっと待て。
「おい、クソ共。あたいは部下を集めてこい、といったろ?何でカタギの仕事なんて探してるんだい?」
「いや、背に腹はかえられないつーかですね。おいら達、殆ど無一文じゃないっすか」
「それが? だからこそさっさと部下を集めて盗賊稼業を再開しなくちゃ駄目じゃあないか。もう、ペテンは懲りたんだよ、あたいは」
「はぁ。しかしですね、もう此処に来て1週間だし、そろそろ、この宿も追い出されちまいますよ? 野宿でもいいんですか? おいらは構いやしませんが」
「う……。それはイヤ」
「でしょう? おいら達だって不本意ですが、カタギの仕事をしてでも金を稼がなきゃ生きていけませんからね」
「ぐ……」
ジローの奴が珍しく正論を振りかざして痛い所をついてくる。
「ち、こんな事なら、逃げて来る時に金目のモノでもかっぱらってくればよかったね」
「そんな余裕があれば、ね……。実際の所、こうして3人が無事に合流できた事自体が奇跡に近いんじゃ?」
あたいの呟きに、オノレが突っ込みを入れて来る。
そんな事はあたいだってわかってる。ただ言ってみただけさね。
……さて、どうやって役人共から逃げ出したか、って話だったね?
あのクソ娘にこっぴどくやられた後、村人達に捕らえられたあたい達は、厳重に縛られた上に、座敷牢のような構造の納屋にぶち込まれた。
本当なら、役人が来る前に逃げ出したかったんだがね……。村人共はそうとう頭にキてたんだろう。あたい達が何を言っても聞きもしやがらない。
あたいなんて何日も高熱でうなされていたってのに。薄情な奴らさ。
で、それから数日後、あたい達を捕縛するために、西から、多分ケルンの役人かね?
とにかく役人が派遣されてきた。
メイジっぽいのが一人、他は帯剣した平民らしいのが何人かってとこだ。
実際のところ、あたい達はかなり追いつめられていた。
都市部に連行された後、本格的な牢獄に入れられたらもう脱出は不可能だからね。
そこであたいは、護送の馬車が都市部へと着く前に、一か八かの賭けに出ることにした。
押収物であるキセルに【魔法探知】《ディテクト・マジック》が掛けられる事は無かったのが不幸中の幸いってやつだ。
『最期の一服をさせてくれ』と見張りの役人に懇願し、キセルを受け取った瞬間に【風刃】《エア・カッター》を飛ばして、あたいと部下共の拘束具をまとめて断ち切った。
呆気に取られたクソ役人共に、続けざまに【風鎚】《エア・ハンマー》をぶちこむ。
その隙に馬車を引いていた馬を盗んで、ガリア方面に比べて警備の薄いトリステイン方面に、着の身着のまま逃げ出したのさ。
国境さえ越えてしまえば、役人が追ってくることはないからね。もっとも、関所を通るわけにはいかないから、道無き道を進まなくちゃならなかったんだけどね。
ま、その時の詳しい事はいいだろう。
狼の群れ、腐った臭いのするゴブリン共、それよりも厄介だったのは……やめておこう。
正直、あまり思い出したくもない。
ったく、お肌と髪が荒れちまうっての。
念のために言っておくけど、あたいはまだピチピチの19歳だからね? そ、それをあのビチグソ娘は、と、と、年増とかっ!
……こほん。
ま、という事で、さすがに今はゲルマニアに戻る事は出来ないだろう。
玄関口である西部には、脱走犯として人相書きが出回っちまっているかもしれないしね。
はぁ……。あたいもここらが潮時なのかねぇ。
「それでですね、姐御」
「ん? 何だい」
物思いに耽っていると、気まずそうな顔でジローが何事かを切り出す。
「実は、姐御にも仕事を見つけてきまして……」
「はぁ?! 何を勝手なことをっ! あたいに働けっていうのかい?」
自慢じゃないが、あたいは生まれてこの方、カタギの仕事なんて殆どしたことがないってぇの。
「いや、そりゃ、おいら達の稼ぎだけで姐御を養えるならいいんですがね。正直なところ、月に5エキューか6エキュー程度の収入じゃ、ちょいときついんすよ」
「……使えないねぇ」
確かにその程度の収入じゃ、ね。
は~、ほんっとに情けないったら……。マルグリッド盗賊団も落ちたもんだよ。
「クソ、仕方ないね。で、何の仕事なんだい?」
「へへ、すいません。えぇと、給仕の仕事なんですがね、これが一日50スゥは稼げるっていう割の良さで」
「へぇ、余所者が就ける職にしては随分と割がいいじゃない。ちなみに何て言う店なんだい?」
一日50スゥと言う事は、1週間に1回休みがあるとしても、月に14エキューは稼げる。
しかも給仕程度なら、あまり働いたことのないあたいでも出来そうな気もする。
これを機にカタギとしてやり直してもいいかもしれない、なんてね。
「“疑惑の妖精亭”っていう酒場なんですがね。これが下着一枚の女の子が濃厚なサービスをしてくれるっていうホットな──」
「【風鎚】《エア・ハンマー》」
「うぐはぁっ?!」
流れるように光速の詠唱を済ませ、問答無用でジローを吹き飛ばす。
なんて、は、破廉恥な……っ! あたいがそんな仕事をするわけがないだろうがっ!
「こっ、こここ、このクソがっ! 馬鹿がっ! 豚野郎がぁっ!」
「あっ、あがっ、あ゛ぶっ」
怒りの収まらないあたいは、倒れ込んだ馬鹿をげしげしと蹴り込んだ。
「ふん、馬鹿な奴だ。姐御、ご安心を。俺がちゃんとした仕事を見つけていますから」
オノレは蹲るジローを横目に吐き捨てると、胸を張ってあたいの方に向き直る。
さすがオノレの奴はジローとは一味違うみたいだね。
「ほぅ、大した自信だね? だが、変な仕事だったらぶっとばすよ?」
「ははは、大丈夫です。きちんと大人の仕事ですから。姐御が下着でサービスなんて子供騙しみたいな仕事するわけないですよね」
「え?」
「はい、俺のほうは素っ裸ですんごいサービスをするっていう……。あれ? 姐御? どうしました?」
「ふ、ふふ。お前らがあたいをどんな眼で見ているのか、少し分かった気がするよ……」
怒りにぷるぷると震える手にキセルを握りしめ。
漲る負の力をルーンに変える。
嫌なことはみんな、全部吹き飛んでしまえ。
あぁ、かつてこれほどまでに力が湧き上がることがあったろうか?
「イル・ウィンデ・フラ・ソル……」
「こ、この長い詠唱って……?! おっ、落ちつきましょう、姐御! 軽いジョークです、冗談!」
「どいつもこいつもっ……! あたいを馬鹿にするなぁっ! 【爆風】《ウィンド・ブレイク》!」
「ぎにゃあぁあっ……っ!」
生まれて初めてのライン・スペルによる、膨大な風の奔流は、ジローも、オノレも、粗末な家具も、そして薄汚い木賃宿も──願い通りに、目の前の全てを吹き飛ばした。
そう、この日、あたいは蛹が蝶になるように。
晴れてライン・メイジへと昇格した。
*
が、それでめでたしめでたしとはいかないってのが世の中ってものさ。
あたいは結局、壊した部屋の修理代を支払うために、“疑惑の妖精亭”で暫く働かざるを得なくなってしまったのだ。
なんという事だろう。
こ、この誇り高きマルグリッド様が、し、し、下着姿で男にご奉仕……、いや給仕なんて!
ふ、ふふ。あはははっ!
ビチグソ娘め、首を洗って待っているんだよ。あたいをこんな目に遭わせた借りは返させてもらうからねっ!
「あれ? 何やってるんすか、姐御。早く出勤しないと、給金貰えませんぜ」
「しっかりして下さいよ、働かざる者食うべからず、ってね」
そうやってあたいが修理中の木賃宿で、胸に復讐を誓っていると、仕事から帰って来たジローとオノレが言い汗掻いた、という感じのやり遂げた顔をして言う。
何? 何でこんなに偉そうなの、こいつら? 仕事してるから? 仕事してるからこんなに偉そうな訳?
「このクソ馬鹿共っ! 何順応してんだ、お前らはっ!」
「誰のせいで、無駄に働かなけりゃならなくなっちまったと思ってるんですか……」
「ぎ、ぎぎ……」
二人は部屋の大穴に目をやった後、じと、と責めるようにこちらを見る。
畜生、正論だよ、クソッタレ!
「あぁ、もう! 行くよ、行けばいいんだろ!」
「いってらっしゃいませ、姐御」
悔しさに身悶えながらも、仕事にはいかねばならぬ。生きることってのはげに厳しい。
今日も今日とて、あたいはマルグリッド盗賊団の再興を夢見て、今ある現実と戦うのだった。
<ep2.伯爵夫人の暗躍 年が開けたヤラの月>
帝政ゲルマニア南部・フッガー伯爵領内の自由商業都市、アウグスブルグ──
ロマネスクとゴシックそしてルネサンスの様式が複雑に混在した建物が、所狭しと建ち並ぶこの街には、入市税(余所の商人が都市に入る際、発生する関税。その税率は都市による)が存在せず、歳市は月一度という超短期の間隔で開かれる。
その他にも、商人層に対してかなり優遇的な措置を取っており、商業の国・帝政ゲルマニアでもかなり特殊な街といえる。
この街に本部を置く、南部のアルテの印章《シンボル》は、“自由”の象徴とされる双頭の鷲と、この都市のシンボルである松ぼっくりをモチーフにしたものだ。
アルテの名に、“自由”と銘打つだけあって、そこに住まう商人の種類もまた様々。
交易・卸売業や小売業、運送業、接客業、金貸し《ロンバルド》など、どの都市にでもいる商人達は勿論、養蜂・養蚕・酪農・牧畜・農場経営者、鉱山経営者、それらの素材を一次加工する工場への出資者(南部では北部と違って職工組合《ツンフト》の力が強いため、商人達はあまり経営には口を出せず、分け前に預かる出資者という立場でしかない)、またその他、それらの商人達に付随するあらゆる種類の商人達が、この街でひしめきあっているのだ。
今では、ゲルマニアに存在する多くの都市で採用されている都市の代表者《プリオーリ》による領主との協議制という街の運営方法はこのアウグスブルグが起源とされている。
知的階級(富裕商人層)の多い都市部については、領主が下手に締めつけるよりも、街の意見をまとめた方が、ずっと管理がやりやすくなる、という初代フッカー家当主の考えから生まれたやり方だ。
この辺りの半ば自治を認めるような政策も、“自由”の名に相応しいと言えた。
尤も、この都市統治の方法は、ロマリアの一部都市国家では遥か昔より存在する、しかし今現在も脈々と受け継がれているシステムを手本にして改変されたものであるのだが。
お堅く、魔法絶対主義で、平民には厳しいようなイメージのあるロマリアだが、実はそれは的外れな憶測だ。
都市国家によっては平民達の自由度は高いし、また教会の権威に保護される事によって、必要以上に潤っている商家・大農家・工房なども多い(かつては、僭主、といって富豪の商家が、裏で教皇を操るという事もあった、という。もっともそれは、ブリミル教の歴史の闇として葬り去られている事実ではあるが)。
また当然ながら、平民出身であっても、司教となれは他国の凡百の貴族以上には力を持つ事が出来る。
そもそも、ロマリアはハルケギニア商業の始祖であり礎であると言われているほど、昔から平民の力が強いのだ。だからこそ、商業用語にはロマリア語が多用されている。
まさに、“自国の”平民達にとっては“光の国”といってもそうおかしくはないのだ。
“自国”の、と断りを入れたのは、ロマリアに溢れていると言われている貧民の多く、いや殆どが他国から流れてきた難民や移民、もしくはその先祖が辺境や外国出身の都市民《コンタード(田舎者の意。彼らは他国や辺境の民を貴賎関係なく全て田舎者である、と考えている)》で占められているためだ。
つまり、これは、ロマリアという国全体が元々土着の自国民は過保護なほどに優遇するが、余所者に対して非常に厳しい地域であるという事を示している。
それでも余所の交易商人達がロマリアとの取引を縮小するどころか拡大したがる傾向が強いのは、彼等の持つ武器(商品)が非常に魅力的だからだろう。
ともすれば、ゲルマニアとロマリアの違いは、余所者に寛容かどうか、という事だけなのかもしれない。
さて、少し話が逸れた。
ゲルマニアでいち早くそのような制度を取り入れたという経緯もあって、アウグスブルグの民は、政治的関心が強く、自立心旺盛である、と言われている。
そんな自立心旺盛な商人や職人の卵や、その他低所得の労働者達にとって、この街は優しい。
そのシンボルとして挙げられるのは、何と言ってもフッガー・ライと呼ばれる低所得者向けの、大規模住宅群だろう。
初代フッガー家当主が街に寄贈した、という歴史を持つ、絡みついた緑の蔦が美しいこの住宅群には、商家の徒弟や街の労働者階級が、フッガー家及び市の援助により、ほぼ無料、といってもいい程の家賃で暮らしているのである。
領民からの税よりも、商会からの収入の方が大きいというフッガー家は慈善家としても有名で、これ以外にも領民に対して、様々な慈善活動を現在進行形で行っている。
と、このような領民に有益な統治を、何代にも渡って行い続けてきたフッガー家は、他国の貴族は勿論、ゲルマニアの他貴族と比べても、領民から圧倒的な支持を受け続けていた。
さて、その信頼あるフッガー家の面々が在住している屋敷、というか、城のような建物は、アウグスブルグのメインストリート、マキシミリアン通り沿いに存在する。
黄と青の一対になった百合の紋章が彫刻された白亜の正門をくぐり、よく手入れされた色とりどりの花と実が成る菜園のような庭を抜け、屋敷の重厚なウォールナットの玄関扉を開けると、フッガー家の富を象徴するかのような黄金色のホールが目に飛び込んでくる。
大概の来客はここで圧倒され、縮こまってしまうほどの迫力を持っているエントランス・ホールである。その他、一階には食堂、大浴場、厨房、倉庫、執事室などが存在する。
その絢爛なホールを眺めながら、藍の絨毯(藍・紅・紫は染料や顔料の希少性からして、高級な色であるとされている)の敷き詰められた大理石造りの大階段を昇ってみると、二階には整然と無数に並ぶ来客用の応接室や寝室、蔵書や事務仕事をするためのいくつかの書斎、三階には昔、側妾達が使っていた空き部屋や娯楽室がある。
上級貴族が正妻以外の女を囲うのは、家の存続の面でごく当たり前の事であるが、現在のフッガー家では当主が正妻との間に三人の男児を設け、それが全員(およそ一名、放蕩はしているが)順調に育っているため、側妾は必要無くなってしまったのだ。
なので、昔は数人居た、平民や平貴族出身の側妾達は、補償金を受け取って故郷に帰ったり、フッガー家の持つ他の住居で気ままに暮らしていたり、人によってはフッガー家の使用人をしながら離れに住んでいたりで、現在三階の部屋に暮らしている者はいない。庶子がいればまた別だったのだろうが、現当主の子は正室の産んだ三人の男児だけであった。
そしてやっと最上階である四階に辿りつく。この階には各家人の私室や寝室、そして金庫室が存在する。
迷路のよう、にはなっていないが、部屋の外装はほぼどれも同じようなものなので、部屋の位置をしっかり確認しておかなければ、目的の部屋がどこであるのかがわからなくなってしまうだろう。
しかし、四階の、丁度西側の端に位置する部屋だけは、薄い桃色の扉と、ノッカーに付けられた花飾りによって、非常に目立っており、そこが誰の部屋なのか、一目瞭然でわかるようになっている。
そう、その少女趣味な外装の部屋こそ、フッガー家の正妻、三兄弟の母、ヴェルヘルミーナ・アルマ・フォン・プッドシュテッド・フッガーの自室であった。
*
「ふぅん、あの娘、メイジを含む賊3人をたった1人で殲滅したんですって! もっとも、その賊は役人達が取り逃がしてしまったらしいけれど……」
ぬいぐるみや人形が頓挫する毛皮張りのソファーにちょこんと同席しながら、熱心にケルン担当の新しい連絡員からの手紙を読む我が主ヴェルヘルミーナ様、いや、奥様ははしゃぐようにその内容を自分へと伝えた。
ちなみにいい加減な情報を流した前任の連絡員については、たっぷりと絞った後に使い走り《ハットリーニ》に降格させられた。
クビにされなかっただけマシだろう。奥様の寛大な措置に感謝するべきだな。
……おっと、申し遅れた。
自分はヘンネという。
奥様の専属護衛を務めてさせて頂いている、この屋敷のメイドだ。
「あの娘、というのは、やはり、あぁ、今思い出しても腹が立ちますが……。ケルンで奥様に狼藉を働いた平民娘の事ですか?」
「そうよ。まぁ、仮にも私(ワタクシ)の宿敵たる者が、賊に身をおとしたような半端者程度に負けられては困るのだけれど」
紅茶のお代わりを淹れながら自分が質問すると、まるで我がことのように胸を張って言う奥様。
あの小娘、確かアリアと言ったか、とのケンカが痛み分けに終わって以来(本人曰く決闘らしいが)、奥様は毎日のように肉体の鍛錬をしている。
最近ではその身体は引き締まり、「私より強い奴に会いに行く」などと言っている始末だ。
自分としては、奥様にはもっと淑女らしく構えていて頂きたいのだが……。
にしても、魔法の使えぬただの平民娘が賊退治だと? また誤報なのではあるまいな。
「しかし、宿敵、と言う割には、随分と嬉しそうに話しますね?」
「かっ、勘違いしないでよね? べっ、別に私があの娘が気にいっているとか、そういう話じゃないわ」
耳を赤くして、慌てたように目線を逸らしながら弁明する奥様。
な、何と言うテンプレか……。
「そ、それにしても……。フーゴちゃんが全く相手にされていない、というこの情報は情報で頭に来るわね。あの娘、根性があるのは認めてあげるけれど、男を見る目がなさすぎるんじゃないかしら?」
奥様は話題をずらすように、報告書をぱんぱん、と叩いて言う。
「ほぅ、まるで、あの娘と坊ちゃんの交際を歓迎するかのような口ぶりですね?」
「あー、もう、しつこいわよヘンネ! ……まぁ、フーゴちゃんがどうしても、っていうなら、不本意ながら、ほんっとうに不本意だけれど、それも認めてやらないでもないけれどね」
むぅ、意地っ張りな奥様に此処まで言わせるとは。
この様子だと、奥様は相当にあの娘を買っているようだ。
「しかし平民と交際というのはさすがにまずいのでは」
「……それは別にいいでしょう。勿論、長男で家を継ぐ立場なら絶対に許さないけれど、三男でしかないあの子の行く末は、普通に歩めば平貴族。それならば平民を妻にすることすら不思議ではないもの。あの娘とやりあった時は、ただフーゴちゃんが碌でもない女に騙されていないかが心配で、そんな考えも浮かばなかったけれど」
ふむ、それは一理あるか。
奥様はご子息に甘い事は甘いが、公私の区別はきちんとしているし、こと金に関する躾に関しては厳しい。
だから奥様は、書生の身であるご子息に過剰な金銭を与えることはしなかったし(家にいた頃のフーゴ坊ちゃんに与えられていた月の小遣いはたったの1エキューであったし、今に至っては金銭の仕送り自体がない)、各々の子供達に与えられている立場もわかっていて、家督を継ぐ者以外が一切の財や権利を継がない事にも当然納得していた。
「そこいらの下級貴族ならばそうでしょうが。由緒あるフッガー家の一員ともなれば、相手もそれ相応の者でなければ」
「あら、元々、フッガー家は平民の出じゃないの」
「それは昔の話です! 大体、フーゴ坊ちゃんには許嫁がいますし……」
「あぁ、あの貧乏男爵家のツマラナイご令嬢ね。まるで判で押したような。あんなのを嫁にもらっては、さぞかし平和で、退屈で、つまらない人生を送る事になるでしょう。名前は何て言ったかしら……。ま、今となってはどうでもいいわね。あんなものは、とっくのとうに私が破棄しておきました。所詮は口約束でしたしね」
「えぇ?」
澄ました顔で言い放つ奥様に、自分は思わず間の抜けた声で聞き直した。
貧乏男爵家、などと奥様は言っているが、お相手はそれなりに歴史ある、裕福な家のお嬢様だったはずだ。
まぁ、大商会を経営するフッガー家や、奥様のご実家である銀行家のプットシュテッド伯爵家に比べれば貧乏なのかもしれないが……。
とにかく、出自もわからない平民娘などとは比較にもならないはずなのだ、が。
「まぁ、奥様があの娘を気に入る理由はわかりますがね。あの娘からは奥様に似て、我が強くて、破天荒で、手に負えないような所はありますが、一本強い芯が通っているような印章を受けましたから」
「ちょっとヘンネ。それでは私がとんでもないじゃじゃ馬みたいじゃないの」
「おや、ご実家の反対を押し切って、魔法学院ではなく、男の世界である軍学校に進んだ挙句、本来の婚約相手を散々な態度で袖にして、当主様と熱愛の末結ばれたご令嬢がじゃじゃ馬ではないと?」
「ぐ、ぐむ……!」
少し意地悪く指摘すると、困ったような顔をして唸る奥様。
ちなみに奥様が軍学校に入ったのは、貴族として受けた恩恵を、民のために役立てるため、という自分で考えた末の真面目な決断と意志によるものだ。
夫人となった今も、奥様は当主様の商売にこそ口を出さない(出せない)が、領地の事に関しては、積極的に首を突っ込んで、様々な内政上の問題を解決してきている。
奥様は平民に対してかなり高圧的だが、それは自分が貴族としての責務を果たしているという自覚があるからに他ならない。
これを責務も果たしていないような小童や無能がやっていたらそいつはただの厚顔無恥な阿呆だが、奥様にそれは当てはまらないのだ。
鉄の意志力と絶対の自信。
自分はこの人のそういった所に惹かれて、今の今までずぅっとお仕えしてきたのだ。
感情の起伏が激しく、子供っぽいところがあるのは事実だが、それはご愛敬というものだろう。
「あ~、まったく、嫌な従者だ事」
「これは失礼をば致しました」
「……百歩譲って貴女の言うとおりだとすると、やはり“男は母に似た娘を選ぶ”という事なのかしらねぇ」
奥様は感慨深げに遠い目をして呟く。
「ですが、まだ坊ちゃんがあの娘をオトしたという訳ではありますまい」
「それに関しては我が息子ながら少し情けないわね。いくら見る目がない女相手とはいえ、初心な田舎娘すら口説けないなんて」
「そういった変に大人びていない所こそが坊ちゃんの良い所では?」
「それは分かっているのだけれどね。あの子も今年で14歳でしょう。いい加減その辺りの機微を覚えてもいい頃よ。…………そうだわ! ここは人生の先輩であり母である私がアドバイスをしてあげればいいのよ!」
奥様は、さもいい事を思いついた、というように勢いよく立ちあがって叫ぶ。
どうやら奥様は“不本意ながら”などと言いながら、フーゴ坊ちゃんとあの娘をくっつける気満々のようだ。
「子供からすると、親がそういった事に口を出すのは面白くないと思いますが、ね」
「何を言っているの! 余所の子なら兎も角、フーゴちゃんがそんな事思う訳ないでしょう?!」
「はぁ」
奥様は、自分でこうと思ったら、それを信じて一直線に進む人だからな……。
これはもう自分には止められないだろう。
「よし、“思い立ったら吉日”! 早速フーゴちゃんに手紙を書きましょう。そうそう、そろそろ飴も無くなっている頃だろうし、それも送ってあげなきゃいけないわね」
奥様は張り切った様子でそう言うと、ばたばたと慌ただしく動き始めた。
ふむ……。やはり親馬鹿なのは隠しようのない、間違いのない、そしてゆるぎない事実ではある、な。
<ep3.親方の後継探し エンリコが遍歴の旅に出たティールの月>
こんばんは、カシミール商店で事務の仕事をしているヤスミンです。
今日は久々に、商店の主である親方さんに誘われて、ケルン中心市街の高級バーに連れて行ってもらっています(勿論オゴリで)。
お酒に付き合えるような古参の従業員ってのはアタシしかいないのよねー。
取引担当の駐在員ってのいうのは、他社との癒着を防ぐために、よほど信用が無い限り、ちょくちょく入れ替わるのは当然だし。
連絡員の人達ってのは、どっちかっていうと所属があるだけの遍歴商人に近いモノだから、従業員、って感じじゃないし。
ま、朴念仁な人だし、変な目的ではないでしょう。っていうか、タダ酒を逃す手はないし?
「かぁ、畜生! あの馬鹿たれめぇ……。成功しやがらなかったらタダじゃおかねェぞっ!」
一番目立つカウンターの一等席に陣取ったアタシ達。
親方さんの前にはジュニエープルベースのダグラス、アタシの前はカシスベースのライト・オン・ディタ。
もう既に出来あがっている親方さんは、人の目も気にせず、大声で愚痴っています。
バーのマスターもちょっと顔を引き攣らせてる感じ。
「まぁまぁ、親方さん。エンリコなら大丈夫ですって。信じてあげましょう」
背中をさすりながら親方さんを慰めるアタシ。
まったく、見習いのコが出て行った時にはいつもこれなんだから。だったら首輪をつけてでも引き止めればいいのにねー。
……それとも、引き止めるのはアタシの役目だったのかしら。今回に限っては。
そう、先日、ついにあの“お人好しのエンリコ”がカシミール商店から独立して、遍歴の旅に出たの。
それほど深くは聞かなかったけれど、国内だけではなくガリア・ロマリア方面にも足を伸ばすみたいなので、暫くこっちに帰って来る事はないかな。
ヘタレなあいつにしては思い切ったものだわ。
てっきりジグマ(都市部を本拠地にして、その周辺の村々だけを取引相手にするという規模の小さな、しかし安定した収入を得やすいといわれている行商法。どちらかというと、交易商というよりは、運送業者のような性格が強い)でもやると思っていたのにね。
遠くへと遍歴の旅に出ると言う事はそれだけ大きな利益を手にするチャンスはあるけれども、リスキーな賭けでもあるの。
まぁ、ゲルマニア商人は、大胆かつ冒険心に溢れた野心家、なんて評されるだけあって、積極的に国際的な取引を行う商人は、結構多いっちゃ多いんだけども。
対して、国内での商売は、商人や商社の数が他国と比較して段違いに多いだけに、そこに入り込んで利益を出すのは、ご新規さんにはちょっと厳しいという面が確かにある。
ただ、あの“お人好し”が、組合の庇護が存在しない国外で海千山千の商人達と張り合っていけるのか、というのは、ねー。
残念だけど、ちょっとイメージが湧かないというか……。幼馴染のお姉さんとしては気がかりでありまして。
「実際の所、親方さんは、エンリコが成功する可能性、どの程度あると見てます?」
「そんな事は神サンでもわからねェよ。ただ……」
「ただ?」
「ウチで鍛えあげたんだからな。そう簡単にへたばっちまいやがるわけがねェ」
親方さんはそう言ってグビ、とダグラスの杯を飲み干した。
「ふふ、そうですね。あの子は人から好かれる要素は持っていますし……。取引する相手さえ間違えなければ、大丈夫でしょうが」
「それが問題、だな。陰険なガリア人と、業突く張りなロマリア人共にやり込められなけりゃいいんだが」
「随分なモノ言いで。ガリアやロマリアの人が聞いていたら怒りますよ?」
「ふん、一般論さ」
確かに。
昔からの経済大国であるガリアの商人達は、その膨大な知識と経験に裏打ちされた駆け引きに優れた知的階級、と言われている。
一方、これもまた古い歴史持ち、教会の庇護を受けているロマリアの商人達は、口も八丁手も八丁なクレバーさで世の中を立ち回る傲慢な自信家、という寸評だ。
この二国は、商業の大家である我がゲルマニアと比較しても、一歩もヒケを取らない商業力を持っていて、当然そこにいる商人達も一筋縄ではいかない気質を持っているのよね。
「それにしても、お前、随分とさっぱりしてんだな。てっきり、俺はお前がエンリコの事を──」
「セクハラです」
「いや、みなまでいってないだろ」
「ま、親方さんの想像とは少し違いますよ、アタシ達の関係はね。どっちかというと、そういう気持ちを持っていたのはアリアちゃんかもしれませんよ? 歳の差、いいじゃないですか」
「いや、アイツはなぁ……。どっちかというと金と結婚するタイプだろう」
「ですか」
「くっくく、フーゴも浮かばれねェなぁ」
そう言ってくつくつと含み笑いをする親方さん。
でも、エンリコが旅立つ時、終始笑顔だったかに見えたアリアちゃんだったけど、時折、ものすごーく悲しそうな顔をしていたんだよねー。
ふっふふ、アタシの目は誤魔化せないんですよ。
フーゴ君の方は……。
傍から見てるとこれでもかってくらいアピールしてるのはわかるんだけど(特に最近はすごいわね)、全部空回っている感じ。
全く女心を分かっていないというか……。あれじゃあ、今勝負賭けても玉砕してしまうでしょう。
でも、ま、そのまま精進を続けていけばいつかは報われるかもねー。きっと。
それにしても、親方、アリアちゃんの話になると、いつも楽しそうに語るわねぇ。
さっきまでのしんみりとした雰囲気が消し飛んでしまったみたい。
「随分とアリアちゃんに期待を掛けているみたいですね? 研修関係の進みも異常に早いですし」
「ん、まぁ、な」
「いけませんよ、依怙贔屓は」
「馬鹿たれ、俺は教育者じゃねェんだ。贔屓してなぁにが悪い」
あまりの即答に目を丸くするアタシ。
あっさり認めちゃいましたよ、この人。
「ま、それはそうですけど。あの子に特別な才能でも?」
「才能、なんて大層なもんはねェが、性格、というか気質的には、経営者としての適正はピカ一だ。自分の判断に全てを委ねられるっていう性質に、いつの間にか見習いの輪の中心にいるっていう求心力、とかな」
「あれ? でも、見習い頭にはギーナ君を抜擢しましたよね?」
「そりゃ、そこは年功序列だよ。組織にいる間はルールに従ってもらわねェとな。ま、ギーナの奴も、頭になって少しは愛想ってもんがでてきたろ?」
「そうですかねー?」
同意を求めて来る親方さんに、疑問で返すアタシ。
正直な所、アタシには今までとの違いがよく分からないんだけど、彼に関してはねー。
「ま、アリアちゃんに関しては、根性もありそうですしね。アタシの扱きにも最近は平気で付いてきますし」
「根性、というか意志の強さってとこかね。何故だかまではしらねェが、アレには商売に命を掛ける気概がある。あの歳でそれは中々出来ることじゃねェ。それに、ここへ来た当初は、人付き合いの下手な、というか、慣れていない奴だったが、最近はまぁマシになってきたしな。……唯一不安なのは、女だって事だな。はぁ、あれで男ならなぁ」
聞き逃せない一言に、アタシはぴくりと反応し、眉を顰めた。
「あら、アタシも女ですけど?」
「うん、まぁ、すまん」
あまり反省もしてないような表情で適当に謝る親方さん。
まったく、女を馬鹿にしちゃいけませんよ?
まぁ……、確かに、女が商売の世界において一本でやっていくには中々厳しい物があるだろうけど。
「それにしても、いいんですか?」
「何がだ?」
「あの娘も独立希望でしょう? 折角の有望株を手離していいんです?」
「東方にはこういう言葉があるそうだ」
「はい?」
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」
「それはどういう?」
「自力で這い上がって来た者こそ、ウチの後継に相応しい、っつう意味だな」
「えっ」
親方さんはケロリとした顔で凄い事を、とんでもないことを口にした。
後継って、アリアちゃんを?
親方さんには家族が居ない。当然後を継がせる子供はいないけど……。
「っち、喋りすぎたな。今のは誰にも、絶対言うなよ? ま、はっきりと決まったことじゃねェが」
「……酔っ払いすぎじゃないです?」
普段はかなり口が固い人なんだけどねー。
あんまりお酒には強くないのよ、この人は。
「は、たまにはいいだろう」
「ま、わかりました、秘密にしてあげます。た・だ・し。前からお願いしてあるとおり、経理の助手を雇って下さいね?」
「う……。もう少し待ってくれ。中々イイ人材が……」
「まーた、それですか。とりあえず、算術全般が出来て、税法と国際法に詳しくて、商業知識が豊富で、仕事が早くてそれでいて丁寧であれば誰でもいいです。あ、男はヤなんで女の子で」
「いや、だからお前以外いねェだろそんなヤツ」
「いますよ、宇宙のどこかには」
「わぁーった、わぁーった探しとくよ」
親方は面倒くさそうに手を振って了承の意を示す。
あー、今回も望み薄だなぁ。
いい加減過労死しますって、本当に。
公証人と会計《コンターピレ》それに税理までやらせるとかどんだけブラックなんですか。
……お給料はいいですけどね。はっきりいってそこらの木端役人なんぞより稼いでますし。
「しかし、アリアちゃんを後継に、ねー? 養女にでもするおつもりですか? あの娘にもご両親はいるでしょうに」
「いや、アイツはちょっと訳ありでな。その辺は聞かないでやってくれ」
「は? ……はぁ」
訳あり、ね。どうにも、死別したとかそういう感じじゃなさそうねー。
あれ? でも姉がいたわよね、あの娘。
それに、怪しげな“東方”の算術、だとか、コトワザだとかもよく使っているわね。ちょっと前には、実力で賊を倒したとか噂になっていたし。
……謎の多い娘だなぁ。
「ふぅん。ま、確かに、親方さんももう歳だし、誰か後継でも居ない事にはオチオチ隠居もできませんもんね」
「年寄り扱いするんじゃねェよ……。どちらにせよ、最後の試験に受からなけりゃ、それまでだがな。別に俺は慈善事業でアレに目を掛けている訳じゃねェんだ。商人として、俺と同じ、いや俺以上の器量を見せなけりゃ、後継はまた他のヤツを当たらなきゃな」
「なるほど? 最後の試験が遍歴商人としての成功、それも貴方を超えるほどの、という事ですか」
「そういう事だ。マスター、もう一杯くれ。連れにもな」
「あ、私のはルジェ・ラグードのカシスを使ってね。さっきみたいな安物は論外ですよ?」
そこまで言って親方さんが、空のグラスを前に出してお酒を追加したので、アタシも便乗して注文をつけると、マスターは「参ったな」というように鼻の頭を掻いた。
しっかし、親方さんも厳しい事言うわねー。彼の遍歴時代は、それはまぁもの凄いやり手だったと聞くし。
ま、でも半端な人間に後は任せられないわよね。経営者にとって、会社は自分の子供のようなものだもの。
「しっかし、お前、ルジェ・ラグードって……。少しは遠慮ってもんを知らねェのか」
「田舎街の小売商でもあるまいし、あんまりケチケチしなさんな。たかがお酒じゃないですか」
「……やれやれ」
しかめっ面をして首を振る親方さん。
まったく、たんまり持ってるでしょうに。
……こういう所は、確かにアリアちゃんと似ているのかもしれないわ。
そうやって、親子になるかもしれない二人の類似性に考えを巡らせていると、からん、とガラスと氷の擦れる音が聴こえて来る。
視線をそちらにやると、マスターは会話の妨げにならないように、二つの新しいグラスをさりげなくアタシ達の前へ置いていた。
既に彼は何事もなかったかのようにシェイカーを振っている。
ふむー、さすがにこの辺りの気遣いは高級店って所ねぇ。
「それじゃ、エンリコと、アリアちゃんの……、っていうか、商店全員の成功を祈って」
アタシがそう言ってグラスを突きだすと、親方はそれに頷き、グラスを合わせる。
キン、とガラスのぶつかる高い音が、もう明け方の薄い光が差し込んでいる店内に響く。
ちなみに明日も平常通り仕事なのだけれど……。
今はそんな現実を忘れて、ただ、若人達の輝かしいはずの未来に乾杯する事にしましょうかね。
つづけ