蕩けるような夏が過ぎ、街中が大わらわだった収穫祭の繁忙期ももそろそろ終わりを迎えようとしていたギューフの月。
「くっそ、また俺が見回りかよぉ」
仲間内で貧乏くじを引いた自警団の若い男は、文句を垂れながらも夜の街を見回っていた。
此処ケルンは、ロマリア連合皇国に存在するような自治都市ではなく、領主の管轄下にある地方都市である。
とはいえ、ケルン交易商業組合の運営委員《カンスル》であり、ツェルプストー商会の代表でもあるツェルプストー辺境伯は、都市の中核とも言える商人層の意向を無視する事は出来ない。
よって、街で選ばれた代表者《プリオーリ》達との議会を定例的に開き、その意見を取り入れながらの統治となっている。
まぁ、辺境伯は権限が少しばかり強い、自治会の固定議長のようなものだと思えば良いだろう。
完全な自治都市下での治安維持は、自警団や雇われた傭兵などが行うのが一般的であろうが、ケルンでは、領主が雇った下級貴族《メイジ》の地方役人の下に、街で組織した自警団を部下兼お目付け役として配する事で守られているのであった。
このような治安維持の構造は貴族が所有する商会が存在するゲルマニアではごく一般的なものであり、特に珍しいものではない。
「ふんふーん、ん……?」
鼻歌交じりに街を順路通りに回っていた自警団の男は、路地の向こう側から聞こえてくる異音に気付き立ち止まった。
ぱすん。ぱすん。ぱすん。
何かが一定の周期で土に突き刺さるような音と人の気配。
この路地の先は袋小路となっていて、昼間でも人通りは殆ど無いと言っていい。
ましてや、このような夜更けに人が居る事自体が不自然であった。
「全く……。一体何なんだ?」
面倒そうに愚痴をこぼしながらも路地を進む男。
その時。
「危なぁーいっ!」
前方から危険を警告する少女の声。
鬼気迫るその叫びに、反射的に男はその場で身を屈めた。
「……ん?」
ひゅっ、と棒状の何かが頭上を通過した音に、男は首を捻る。
「すいませーん、まさか人が来るとは思わなくって」
「あ、あぁ……」
頭をちょこんと下げながら前から歩いてくるのは、年端もいかない栗毛の少女。
しかし男の視線は少女の顔ではなく、手に握られた物騒なモノに向けられていた。
「くっ、クロスボウ、か?まさかさっき上を飛んでいったのは……」
「えーっと、矢《ボルト》ですね。手元が狂っちゃいまして……へへ」
そう、彼女の手に握られていたのは、奇妙な形のボックスやハンドルのついた小型のクロスボウだった。
「て、手元が狂ったって。一歩間違えば、俺の頭に突き刺さってたんじゃ……?」
「本当、危ない所でしたねぇ」
とぼけた顔で、まるで他人事のように言う少女に、男の神経は大いに逆撫でされた。
「……ちょっと詰所まで来てもらおうか」
「いや、待って下さい、怪しい者じゃないんですよ」
「どうみても、不審、どころか危険人物じゃねーかよ!」
眉を吊り上げて、顔を紅潮させた男は、少女の腕を掴んで詰所に連行しようとする。
彼の言い分は全く正しい。
夜中に、人気のない場所とはいえ、街中でクロスボウを乱射している少女。
誰がどう見ても不審人物である。
「これこれ、待たんか」
「むっ……。誰だ?」
突然、少女の後ろからぬぅっと現れた影に、男は腰にぶら下げた安物のショートソードに手をかけて身構える。
「む、妾の顔を忘れたと申すか」
「あれ、ロッテちゃん?……という事は、こっちが妹のアリアちゃん?」
ロッテの顔を確認すると、男は構えを解き、アリアを掴んだ手を離す。
彼は蟲惑の妖精亭の客であったのだ。
尤も彼の安月給では、街の旦那達が通う高級酒場の常連にはなれてはいなかったが。
「うむ」
「でもどうしてこんな物騒なモノを……」
「護身術を身に着けさせようと思っての。ほれ、こやつは以前に誘拐されたであろう?」
「あぁ、なるほど……。って、さすがにこれは危ないだろう」
困った顔をするアリアが持つ凶器を指して言う男。
「非力な女が屈強な男に対抗するにはこれくらいは必要ではないか、と思うのじゃがな」
「それはそうかも知れんが……。街中でこれを撃つのは、なぁ」
「むぅ……。では、今度からは場所を変えよう。じゃから、今日の所は見逃してくれんかの?」
「しかし」
「ほれ、次に店に来た時はサービスしてやるから、の?」
「じ、じゃあ、一晩無料で付きっきりとかでも?」
「ま、店の営業中なら構わんが……」
「わ、わかった。今回だけは見逃す事にしよう。飽くまで、今回だけね」
誤魔化すように念を押す男。
簡単に買収に応じてしまうあたり、まだまだ自警団の訓練も足りぬようだ。
「すまんの。じゃ、引き揚げるとするか。行くぞ」
「はぁい」
男の言質を取ると、アリアの腕を取ってそそくさと退散するロッテ。
後には、何を妄想しているのか、だらしない表情で立ちつくす男だけが残されたのであった。
*
「はぁ……。お主の弩が何時まで経っても上達せんから、あんな駄目男に無駄な時間を費やさなくてはならなくなったではないか」
「何言ってんのよ。元はと言えば、あんたがあんな所で鍛錬をしようって言い出したからじゃないの。大体、私は馬鹿みたいに走らされた後で疲れてんのよ。手元が狂っても仕方がないでしょう?」
足早に従業員寮へ引き揚げる、というか逃げ去る途中。
迷惑そうに溜息をついて言うロッテに、私はやや憤慨して言う。
双子と父の一件以来、毎日の「走る」鍛錬の後に、武器の扱いを習得するための訓練が追加されていた。
ま、ロッテには武器を扱う知識も経験もない(素手で大木を薙ぎ倒すような人だからねぇ……)ので、私の自主練習みたいなものだけれど。
ちなみにギーナとゴーロ達は、収穫祭の時期にちょっと実家に戻っていたが、もう帰って来ている。なにやら、あと何年かは分からないが、もう少しこっちで商売の修行を続ける事になったらしい。
まぁ、今彼らに抜けられてしまうと、商店の方が回らなくなってしまうから、そういう意味では良かったのか。少しは父子仲も回復しているようだし。
さて、ベネディクトから贈られた多種多様な武器群の中から、私が一つ選び出したのは、クロスボウだった。
先程は、矢が潰れてしまわないように先端に分厚い布を被せ、柔らかい土の壁に書いた複数の的に向けて射撃の練習をしていたのだ。
勿論、試作品と呼ばれているだけあって、これは普通のクロスボウではない。
クロスボウの利点は、同じ遠距離武器のロングボウに比べて、強力な貫通力と射程を持つ上に、熟達にそれほど長期の期間を要さない事が挙げられる。
逆に欠点は、装填する速度が非常に遅く、連射が効かない事(ロングボウは熟達者であれば1分間に10発~12発は撃てるとされているが、クロスボウは1発ないし2発しか撃てない)である。
しかし、“リピーティング・クロスボウ”と呼ばれる種である、このクロスボウにはその欠点は当てはまらない。
台座の上に備え付けられたボックスに、《ボルト》と呼ばれる小型の矢を10発まで装填出来、ハンドル操作(コッキング)一つで、弓を引く動作と矢をつがえる動作が同時に行われるため、非常に素早い連射が可能となっているのである(ただ、通常のクロスボウと比較して、貫通力と射程、命中精度がかなり落ちてしまっているため、一般にはあまり好まれていないらしく、これはその弱点を改良しようと試行錯誤している途中の試作品らしい)。
スティレット、ハチェット、シュバイツァーサーベルなどの、近接しなければ当たらないような刃物は、熟達するのに時間が要るだろうし、何より、出来れば接近戦なんぞしたくない。臆病さは大事ですよね、うん。
遠距離武器であれば、フリントロック・マスケット・ピストルなどもあったのだけれど高価な火薬が必要な上に、前込め式の単発銃なので連射も無理と言う事で、これもパス。
ハルケギニアで後装式の連射が効くような銃が開発されるのは、もう少し先の事だろうなぁ。
これは理論がどうとかいう問題もあるけれど、工作技術の精密性が問題なのだ。ゲルマニア職人達の腕を疑う訳ではないが、機械工業の発展していないこのセカイでは、仮に知識があってもそれを造る事は不可能だろうね。
以上の理由から選んだリピーティング・クロスボウだが、まだまだ改良の余地はありそう。
例えば威力の低さを補うために、矢に毒を塗ったりね……。
「あれしきの距離を走った程度でバテたと申すか?」
「あれしき……って、軽く20リーグ以上全力で走ったでしょうが!?」
「はぁ……その程度で胸を張るか。これだから才能の無い奴は困る。……大体、何じゃその乳は?」
「し、知らないわよ。勝手に大きくなるんだから」
半眼で私の胸部を睨みつけるロッテに、私は顔を顰める。
前からちょっとずつぷっくりはしてきていたのだけれど、最近はその成長に拍車が掛って来ており、今では胸部にサラシ布を巻くようになっていた。
別にあまり大層なモノは要らないんだけどねぇ……。邪魔だし。
「はっ、乳ばかりでかくして、肝心な事はからっきしとはな。エロい事ばかり考えておるからそうなるんじゃぞ?」
「考えるかっ!大体、コレはあんたのせいでもあるのよ?」
「何?どうして妾のせいなんじゃ?」
「それは……。えぇっと、まぁ、とにかくあんたのせいなの!」
私は喉まで出かかった言葉を飲み込んで、誤魔化した。
それを言ったら、どうせ「変態じゃの」とか「さすがの妾もそれは引かざるを得ない」などとからかわれるに決まっているのだ。
私がロッテのせい、といった理由は、夜な夜な繰り返される、彼女の“食事”にあった。
“食事”というのは、勿論、私の血を吸うことなのだが、これが言いにくいんだけど、気持ちいいのだ。恥ずかしながら。
多分、その快感は、その、エロいモノに近いのではないかと思う。いや、実際に経験をした事はないから、知らないけど。
単なる推論でしかないが、それが私の体を、より女らしくさせようとしているのではないだろうか。
『僕』の言葉を借りれば、女性ホルモンの分泌が異常に促進されている、的な。
「何じゃその言い草は?ま、良いわ……。それよりも、鍛錬の続きじゃが」
「あ、キリもいいし、今日はもう終わりで」
まだまだやる気満々のロッテに対して、私はさらりと鍛錬の終了を申し出る。
「まだ寝るまでには時間があるぞ?そんな心構えではいつまでたっても──」
「違う、違う。明日はオルベの農村まで行かなきゃいけないから、早く寝たいのよ」
長くなりそうなロッテの説教を遮って言う。
ちなみにオルベというのはケルンから東にある、中規模程度の農村である。
ま、サボりたいのもあるのだけれど。
「ぬ、また買付契約と言うヤツか?」
「ま、私はただの見学みたいなものだけどね。今回はちょっと遠くだから、帰って来るのは3日後くらいになると思う」
そう、収穫祭の時期辺りから、私は近場の商社、もしくは農村への買付に連れて行って貰っていた。
農作物や、食料品が主要な産業の一つである、此処ゲルマニア西部において、夏作の収穫の終わったこの時期は、最も仕入れが忙しい時期の一つ。
ハルケギニアでは三圃式農業が一般的なようで、冬作の実る春もまた忙しいのだけれど。
既に三圃式農業が発展しているために、よほど高い税を課せられていたり、不毛の地に存在する農村でなければ、税を収めた後も余剰の生産物が出るため、農民達はそれを売って蓄えを作るのである。
やはり私の生まれ故郷は、かなり貧困な農村だったらしい。税率が高いくせに、家畜や農具の質は最低レベルだったのである。こういうのは外から見なければ分からないのよね。
親方は本格的にエンリコを買付担当の駐在員に据えるつもりらしく、彼の指示により、現在はエンリコと正規の駐在員が分担して買付の仕事に当たっている。
エンリコの身分は形式的には未だ見習いではあるが、実質的に現場の手が足りなくなってきているので、来年度からは見習い要員を1人か2人補充するつもりらしい。
そして、買付担当員としては新米のエンリコの補助と言う事で、毎日ではないが、フーゴと入れ替わりで週1回程度、その買付に同行する事になっていた。
経理の研修も依然として続いてはいたが、これもまた、研修の一つなのである。
さて、買付と言っても、予告なしでその場へ赴いて、小麦を××リーブルだけ欲しい、△△エキュー払うので売ってくれ、もしくは□□という商品と交換して欲しい、などという事をするわけではない。
取引量の高が知れている遍歴商人であれば、農村地域においてはそのような仕入れをするのが一般的かもしれない(余所の都市部では様々な制限を受ける彼等は、都市から都市へ行き来するよりも、都市から農村、もしくは辺境へ行き来する場合が多いのだ)。
しかし、定住商人、それも大商社となると、仕入れる量が個人で経営しているような行商の規模とは比較にならない程多くの量を仕入れる事になる。
そういった大きな商社の各々が勝手に仕入れを行い始めると、市場が混乱してしまう恐れがあり(特定生産物の買占めによる物量の不足や、不当な値の釣り上げなど)、それは必ず摩擦を生み、ともすれば同じ組合、または同じ地域にある商社同士の抗争に繋がる(競争という意味ではなく、血生臭いモノ)事すらある。
そこで、このような事が起こらないように、、予め取引に参加する、西部地域に存在する商社同士が集まって、他との兼ね合いを取るための談合を開く。
そこで、『貴社が生産現場から直接的に買付ができるのは、○○村と△△村です。もし不足なのであれば、その他の一次卸商社と相談して取引して下さい』という事を決めてしまう。
ちなみに、余所の商社が買付を行う場合は、必ずその土地の組合を通さねばならず、その場合は、一次卸である商社を紹介され、生産現場に直接行く事は許されない。
先にも言った通り、遍歴商人のように、額の小さな取引については、都市部以外ではお目こぼしされるのが通例となっているんだけどね。
その後、収穫量の予想がついた段階で、指定された農村との価格と物量の交渉、及び、不足分について、他の商社から仕入れるための交渉を行うのである(カシミール商店が西部の農産物を出荷する主な地域は、ホームである南部であり、西部とは主要な作物が異なるため、その需要は高い。よって不足分はかなり多い、と思う。その不足分の取引で最も大きい取引相手がツェルプストー商会なのである)。
この時に気を付けなければいけない事は、相場に反した値切りや釣り上げを行わない事。
価格の交渉をするのは当然なのだが、取引相手をコロしてしまっては(相手が本来得られるはずの利益分を過剰に取り上げ、取引する気を失くさせる程に相手側の不況を買ってしまう事)は駄目だ、という事だ。
逆に、もし相手が吹っ掛けてきたとしたら、交渉する以前に取引を中止して、別の取引相手を探した方が良い。
そういった要求は、その場での取引が成立したとしても、商社としての信用を失わせてしまう。
「あの商社の連中はモノの価値が分からん奴ばかりだ」「不当な要求を突きつけるとんでもない輩だ」「あの商社とはもう取引したくない」などという噂が立ってしまえば、そこでジ・エンド。信用を取り戻すには並々ならぬ労力と時間を費やさなければらないだろう。
全ての商人にとって、信用というものは命綱なのだ。
まぁ、とはいえ、収穫の終わったこの時期だと、既に大体の話はついているため、その内容を確認して契約を完全に済ませて来るだけなんだけれども。
あまり交渉の難しくないこの時期を選んだのは、エンリコの研修のためでもあるわけだね。
「ふぅむ。主の独立に向けての準備も整ってきているという事か」
「まぁ、そうとも言えるかもしれないけれど……。も~う少し掛かるかなぁ、時間的にも、金銭的にも」
「使えんヤツじゃのぅ……。いつになったら独立できるんじゃ?」
ロッテは呆れたように私を見下して言う。
いや、どう考えても1年ちょっとの修行で独立するとか無謀すぎますって。そもそも金銭的に無理だから。
「そんな事言われてもなぁ」
「ふん、主がトロトロとやっている間に、スカロンの奴はもう店舗を押さえたらしいぞ。何やらトリステインにある蟲惑の妖精亭の姉妹店らしいがの」
「らしいわねぇ。来春には独立するって言ってた」
予定よりは独立の時期が遅れてしまっていたスカロンだが、現場復帰した奥さんと力を合わせたお陰か、秘薬の代金分の穴埋めは既に終わったらしい。
奥さんはロッテからNO.1の地位を取り戻そうと必死だったらしいので、稼ぎもかなりのモノだったに違いない。
結局一度も返り咲く事はなかったらしいけどね。ロッテの自慢によると。
春からは彼の作る旨い料理が食べられなくなるかと思うと、少し名残惜しいが、トリステイン方面にも商人関係の知り合いが出来ると思えば心強い。遍歴商人と定住の接客業という畑の違いはあるけれども。
「で、主は?」
「うーん。あんたの協力さえあれば、あと1年ちょっと、かな?」
「協力とは?」
「お・か・ね」
やや厭らしい笑みを浮かべながら、指で丸を作り、上目遣いでロッテを見る。
「……他人の金を頼りにするでない、とカシミールに言われたのではなかったか?」
「ま、そうなんだけどね。でも、実際は共同経営というのは普通なのよ?一人で経営している商社なんてまずないんだから」
これは本当だ。
ゲルマニアにある商社の殆どは、《コンパニーア》と呼ばれる形式で運営されている。
その意味は、“同じパンを分けあう者”。
つまり、共同経営者の双方が資本と経営を受け持ち、相互の行動(例えば第三者に対する借金など)に無制限の責任持つのが一般的である。
だからこそ、損害互助制度などという物も存在したのだ。
これに対して、資本だけを供給して利益を得る形式、《コンメンダ》という運営方法もあるが、そのどちらも共同経営である事は変わりない。
「じゃが、行商人の場合は一人で経営するのが普通なのではないか?」
「……うっ」
「何じゃ、うっ、て?!主、妾を謀ろうとしているのではなかろうな?」
ちっ。今日は珍しく鋭いじゃないか……。
「ち、違うわよ。そっ、そんなことするわけないじゃない。詐欺じゃあるまいし」
「ふぅ~ん?」
どもる私に、ロッテは胡散臭そうに目を細める。
「と、とにかく──」
「良いぞ?」
「え?」
「協力、とやらをしてやってもいい、と言っておる」
薄い笑いを浮かべてロッテが言う。
こういう時は何か碌でもない事を言うのが相場なのだが。
「本当に?」
「うむ。妾が貯めた金を“貸して”やってもいい」
ロッテはそこで、ぐい、と口の端を釣り上げた。
「……利率は?」
「ま、大まけにまけて、10倍にして返してくればよいぞ?」
「いいわよ?私が独立する時、その条件で貸して頂戴」
「本気でいっておるのか?」
「えぇ」
私はにこりと爽やかに微笑む。
「ほぅ?随分と強気じゃな?」
「だって、あんた、返済する時期までは明言していないじゃない。つまり、私がその気になれば、10年後、20年後の返済も可能、と言う事……っ!?」
私が力強く言い切った所で、高速の拳骨が私の後頭部に突き刺さる。
さすがの私もこんな不意打ちは躱せない……っ。
「1年で10倍じゃ」
「いだだ……。って、さすがにそれは暴利だって」
「ふん、文句があるなら貸さぬまで」
「……せめて、5倍でお願いします」
相場を遥かに上回る額を提示して頑として動かないロッテに、私は粘り腰の交渉を試みる。
高利貸しですら金利は大体年利にして2割程度。これでは高利貸しから金を借りた方がましだ。
といっても担保も連帯人も存在しない私には借りる術はないが……。
最終的にはそれより低利息か、もしくは無期限の返済へと話を持っていかなければなるまい。
猶予期間は一年もあるが、どんな商人と話をつけるよりも、彼女を宥めすかす方が難しいかもしれない、と思った秋の夜であった。
*
本日は晴天なり──
翌日の朝。
少々肌寒い風は吹いているものの、絶好の旅行日和ともいえる、清々しい見事な秋晴れ。
「よいしょ、っと」
私は必要最低限の物だけを詰め込んだ粗末な旅行鞄を、カシミール商店の正門前に停められた、一頭立ての軽装馬車に放り込んだ。
必要最低限のものの中にクロスボウが入っているんだけどね。旅先でも鍛錬を怠るな、とロッテに釘を刺されたのだ。
「荷物はそれで全部?」
「はい」
「よし、それじゃ、乗って」
小さな御者席に座ったエンリコが私に確認する。
買い付けた荷の運送は、契約終了後、いつも忙しく走り回っているフッガー商会系列の連絡員達に任せるため、私達が馬車で荷を運ぶような事はない。
よって、オルベの村まではこの小さな軽装馬車で行く事になる。
御者については、私の馬車扱いの練習にもなるので、途中で何回か交代する予定だ。
「やっぱり、こいつの代わりに俺が行きますって」
「何よ、あんたはこの前、連れて行って貰ったばっかりじゃないの」
私が馬車に乗り込もうとすると、見送りに来ていたフーゴがしゃしゃり出る。
「いや、二人旅とか、やっぱり危険だろ?」
「何が危険なのよ?」
「そりゃ、お前。男と女が泊……」
「は、何?」
下を向いて、はっきりとしない事を言うフーゴに、私は苛々したように聞き返す。
「いや、ぞっ、賊とか?そう、賊とかでるかもしれねーだろ。ほら、俺なら魔法で楽勝だし」
ハタキ杖二代目を掲げて言うフーゴ。
彼は誘拐事件以来、魔法の練習をしているらしい。
先生がいないので、ほとんど我流みたいだけれど、一応の上達はしているようだ。
ま、折角魔法が使えるのに、それを磨かないなんてのは、勿体ないものね。
「東の街道って見晴らしもいいし、大分安全なはずだけど。しかもオルベの村は辺境伯領内だし」
目的地までは、馬車で東に半日ほどの距離。
そして、ツェルプストー辺境伯領は、他の地域と比較してかなり安全とされているのだ。
賊狩りが厳しいからね、この領内は。
「むぐ……」
「ほらほら、どいたどいた。あんまり馬車に近づいちゃ危ないよ?」
「わかったよ……」
私がしっしっ、と手を振ると、フーゴは渋々、と言った感じで引き退がる。
何やら御者席の方へ向かって、敵意の眼差しを向けているような気もするが……。
「くれぐれも、先方に失礼のねェようにな」
同じく見送りに来ていた親方がエンリコに声を掛ける。
「分かっていますよ……」
「ふん……。ならいいが、な」
エンリコはやや不貞腐れたようにそれに答え、親方もまた不機嫌に言う。
そう、未だ、駐在員へと昇格させたい親方と、一個の商人として独立したいエンリコの関係はぎくしゃくとしてしまっているのだ。
いや、というより、時間が経つにつれ、その溝はさらに深まっていると言えるだろう。
何とか関係を修復できないものか……。
エンリコの方に味方をしたい、という気持ちは変わってはいないが、このままの関係を続けられては、こちらが参ってしまう。
何しろ、この二人は間違いなく、この商店の中心なのだから。
「さ、アリアちゃん、行こう」
親方とのやり取りをぞんざいに切り上げ、急かすように言って手綱を握るエンリコ。
「……はい。じゃ、行ってきまっす」
私はエンリコの隣へと腰掛けると、馬車の上から親方に向けて軽く手を上げて見せた。
ちなみに双子とヤスミンは商店内で作業中だ。
「道中気を付けろよ」
「せいぜいヘマはしねーようにしろよー、偽乳」
一言余計な見送りの言葉に言い返そうとした所で、馬車の車輪がぎぃ、と音を立てて、ゆっくりと走り出した。
フーゴ君には、帰ってきた後にクロスボウの的でもやって貰いましょうかねぇ……。
「はい、これ被っておいた方がいいよ。秋とはいえ、日差しが結構強いからね」
馬車の走行が安定してくると、エンリコは脇から麦わら帽子を取り出して、私へと渡す。
うーむ。相変わらず、優しいねぇ。
「あ、すいません。気を遣わせてしまって」
「はは、女の子に日焼けは禁物だから。特に可愛い子には、ってね」
麦わら帽子を頭に載せながら言うと、エンリコは天然の女殺しぶりを発揮する。
これで狙ってないのだから性質が悪い。この甘~い言葉と笑顔にやられて勘違いした娘が盛大に自爆する事も多いと聞く。
まさに悲惨の一語。ご愁傷様です、はい。
「……と、それは置いといて」
「ん?」
「エンリコさんは、その、やっぱり独立するんですよね?」
「うん、まあ……。親方には反対されているんだけどね。知っていると思うけど」
むぅ。いきなり空気が悪くなってしまった。
とはいえ、折角エンリコと二人きりなのだし、この機会にこういう話をしておくのは悪くないはず。
できれば、親方との仲を修復するような流れに持っていければ……。
「親方も変ですよねぇ。何でエンリコさんの独立に反対しているんだろ」
「……僕は独立には向いていない、らしいよ」
自嘲するように、薄い笑みを零すエンリコ。
同調する事によって、空気を和らげるつもりが、さらにどんよりとした雰囲気を作ってしまった。
「向いてないって……。エンリコさんは凄く仕事が出来るのに、どういう事なんでしょうね」
「はは、ありがとう。ま、親方にしかわからない理由があるのかもしれないね」
エンリコは口だけで笑って、さばさばとした口調で切りかえす。
そう言えば、幼馴染であるヤスミンは、親方がエンリコの独立に反対している理由がわかっていたようだけど……。
私から見ると、エンリコは人当たりもいいし、商売の知識も豊富で、性格も真面目で堅実。全く問題がないように見えるんだけれどねぇ。
「それなら、その理由を親方に問いただせば……」
「アリアちゃん、その話はもういいよ」
私がさらに続けようとすると、エンリコはややうんざりしたような顔で、話を切る。
普段は滅多に怒らない彼が、こんな不機嫌な態度を取るなんて、この話題、今はタブーみたいね。
「すいません、無神経でした」
「……さ、この話題はお終い。もっと面白い話をしよう」
五年以上も独立を目指して、商店で修行を積んで来たエンリコ。
その彼が親方から「お前は独立に向いていない」と言われた時のショックは相当なものだっただろう。
彼と比べれば、ほんの僅かな期間の修行しかしていない私には、それ以上彼に何の言葉も掛ける事はできなかった。
つづけ