『私』は生まれた。
平民と言う名の持たざる者に。
『私』には何の力もない。美しくもない。魔法も使えない。
ただあるのは、後天的に得た、もう一人の『私』というか、そう、日本という異世界で死した『僕』の知識と記憶だけ。
『僕』は、理系の大学院生で、有機化学系の研究室の住人だった、らしい。
簡単にいえば六角形の化学式を大量に扱う分野。
しかしそれがこのセカイで何の役に立つのだろうか。
例として、もし『私』が、『僕』の専門知識を活かして、ポリエチレンテレフタラート(ペットボトルや衣服などに使われている高分子重合体)の大量生成によって繊維関係の商売で儲けよう、と思ったとする。
結論から言おう。無理だ。
ポリエチレンテレフタラートとは、テレフタル酸とエチレングリコールという化合物を重合させて得られる材料なのだが、この原料は二つとも化石燃料を由来とする化合物である。
だが、化石燃料がまともに利用されていないこのセカイで、どうやって大量に必要となる原料を手に入れる?
まさか、化石燃料の採掘、精製を行うところから手掛ける?夢物語だ。
それ以外にも、工業的生産を行うための施設は?理論を理解できる大量の技術者は?などなど、いくらでも問題点は挙げられる。
他の科学的知識だって、大多数は“現代”でなければ実現できないものばかりだ。
そもそも、『僕』からすれば、研究室で使っていたような試薬などの実験材料や実験に使う器具は外部から“購入して当然”のものだったし、電気や化石燃料などのエネルギーだって、“あって当然”のものだった。
そのような“当然”の物を用意する事から始めて、最終的な目的を果たせる者がいたとしたら、そいつは一体どんな人間なのだろう。少なくとも『僕』の知る限り、そんな超人は現実には存在しない。
現代社会の文明は、非常に細かく分類された専門知識を沢山の人間で分業することによってなりたっているのだ。
たった一人が所有している場違いな知識など、セカイから見れば塵に等しい。
結局、『私』は何もできない。ならば、このセカイのルールに従って生きるのみ。
だから『私』に『僕』の知識があるのは特に意味はない。
じゃあ『僕』の記憶は?
せいぜい見知らぬ世界に思いを馳せて感慨に浸る程度の意味しかない。
この辛い生活の慰めにはなっているので、知識よりは若干意味があるのかもしれない。
別にそこへ行きたい、とは思っていない。
だって『僕』は死んでいるのだし、ハルケギニアの人間である『私』がそこへいっても居場所はないだろう。
日本という国だって、学生が思っているほど気楽な世界ではないし、一歩レールを踏み外せば緩やかな死が待っている。
そう考えれば、どちらのセカイが楽だ、なんて事はないのかもしれない。
ただ、このセカイよりは救いがあった。少なくても、自分の能力と運次第でのし上がれるチャンスは多いのだから──
第一章 貧民少女アリアの決意 chapter1.Determination
ここが“あの”トリステインである、と理解できたのは、私が6歳頃まで成長してからだった。
「貴族様に逆らってはだめだ、アリア。魔法で殺されてしまうからね」
「偉大なるブリミル様、ささやかな糧に感謝します」
「ねぇアリア、知ってる?アルビオンっていう国はお空に浮いてるんだって!」
と、このような断片的な情報から、薄々そうではないかと思ってはいたのだが。
確信したのはこのセカイの“原作”に綴られていた人物である、モット伯爵によって、近所にいた器量良しと評判のお姉さんが連れられて行った出来ごとを見たからだ。自分の目で見ることによって、ここが“ハルケギニア”である、ということを確信とまでは言わないが、認識した。
まぁ、似て非なる世界なのかもしれないけれど。
勅士の仕事のついでに寄ったとの噂だが、こんな辺鄙なところまで食指を伸ばし、しかも使者に任せず自分で足を運ぶとは。私はモット伯爵の情報ネットワークの広さとフットワークの軽さに脱帽していた。
「くそ……好き勝手やりやがって!サラ……」
婚約者だった若い男は、そういってうなだれるだけだった。情けない男だ。
まあ仕方ないけど。誰だって自分の命が一番惜しい。当然、私も。
それにしても、どうせならば貴族に生まれたかったものだ。“原作”から考えるに、とりあえず食うには困らないだろう。
“原作”で起こる主人公達の物語に関わらない貴族ならば、下手したら寝てるだけでも生きて行けそうだ。偏見だろうか。
きっと貴族から見たこの世界と、平民、それも限りなく農奴に近い私から見たこの世界では全く違う。
“原作”の中にも平民は存在した。しかし彼らは私と同じではない。
彼らの多くは平民の中でも、上流、もしくは中流平民といえる部類の平民だ。対して私は下流平民、所謂、貧民層なのだ。なんせ主食が芋なんです。ひもじいんです。
という訳で、私の実家はとても貧乏である。
私は物心ついた時から、稼業である農業を手伝っていた。そうしなければ生きられないからだ。ただ、それでも私の現在の年齢である10歳まで無事に生きてこられたのは運がよかった。
どこが?と思うかもしれないが、
もし運悪く凶作の年が続いていたら、口減らしの対象になっていた可能性が高い。
もし感染症にかかっていれば、治す手段はなく、そのまま死んだだろう。
もし村に亜人や賊という脅威が現れていたら、何も出来ずに蹂躙されただろう。
こう考えると、命の危機なく生きてこられた私は運がいいのだ。
もちろん私は今でもこちらの文字は読めない。この村から出たこともないので、それが普通なのか、特殊な土地柄なのかもわからない。
せいぜいわかるのは、この村が王都からは程遠い、トリステインのどこかの片田舎であるオンという地域にあるらしいという事だけだ。
農業やってるなら、『僕』は理系なんだしその知識を活かせるだろう、とか普通思うよね。私も思ったの。
でもね、現代にある道具も施設もエネルギーも使わずに、簡単にできることなんて既に実践されてましたから!残念!ハルケギニア農業6000年の歴史斬りっ!
資金があれば、簡単な農薬もどきや肥料くらいは作れるかもしれないけど、そんなものはないし。
そもそもただの子供、いやむしろアホの子とすら思われている私(口語を覚えるのが遅かった事で、アホだと思われたらしい)が考えを言ったところで、誰も従ってくれないので、もしそんなアイディアが閃いても宝の持ち腐れになるだろう。
税率は6公4民という事らしいが、この困窮具合からして、確実にもっと取られていると思う。村人の殆どは文字も読めないし計算もできないので、そこにつけこまれているんだろう。
ま、貴族の比率が全人口の1割というすさまじい歪みがあるので、税金が高いのも当然だろう。
中世ヨーロッパでは確か、准男爵やら叙勲士などの下級貴族を合わせても、貴族の割合は全人口の2%にすらみたなかったはずだから。
むしろ社会が成り立っているのが不思議だったりする。
権力を濫用して女を漁ったり、切り捨て御免的な感じの事をする貴族もいるらしい。まあそういうのはかつての地球でもあったんだろうから不思議でもないが、やられる側になってしまったからには、感情的に簡単に納得できるものでもない。
それでも私達は従うしかないのだ。魔法はコワイ。まあ、実際に魔法を見たことはないのだけれど。
本当に救いがない。きっとこのセカイにはブリミルはいても、神も仏もいないのだ。
私はブリミル教が嫌いである。何故なら貧民の立場にある私からすると、ブリミルはとんでもないエゴイストに思えてしまうからだ。
その最たる理由として挙げられるのが、自分の子孫のみを繁栄させるために作られたような、圧倒的な暴力である魔法を使えるか使えないかで、2極化したカーストのシステム。
勿論魔法による恩恵は、古き良き時代には多大にあったのかもしれない。でも今現在、私は何の恩恵も受けていない、と言い切れる。ここら辺に亜人やら賊が出た事ないしね。
極論だが、魔法の存在が、技術の発展を阻害するという、ありがちな理論が成立するとすれば、損害を被っている、とすら言える。
この宗教を平民が有難がっているのがこのセカイのスゴイところだ。家畜としての教育が行き届いてるとしかいいようがない。
これから私は一生をこのまま搾取され続ける側で費やすしかないのだろうか、とそこまで考えたところで、邪魔が入った。
「アリアっ!またあんたはボケっとして!さっさと顔洗って外に出な!」
ふぅ、やれやれ。考えに浸ることすら許されないのか。現実は常に非情である。
さあ、今日も仕事だ、頑張るぞ。
*
ざっく、ざっく。一心不乱に畑を耕す美少女ではない少女、私。今日も元気だ空気がうまい。
「ぐぁ……、もう腕が、あがら、ない」
手に持っていた鍬を放りだして、私は畑にへたり込んでしまった。
我ながら情けない。まだ昼過ぎだというのに、限界がきてしまった。しかし、この体、ずっと仕事を手伝っている割に貧弱なのだ。きっと栄養が足りていないせいだろう。
ここ数年、肉を食った覚えがないのだ。欲しがりません、勝つまではってか。何に勝つのかは知らないが。
せめてまともな農具があればいいんだが。木製の農具じゃね。少し硬い土でも、掘り返すのに苦労する。地球じゃ12世紀くらいに殆ど鉄製に替わってた気がするけどなあ。もしかすると、この村が辺境すぎるだけで、他の村では鉄製の農具を使っているのかもしれないが。
まあ、ないものをねだっても仕方ない。出来ることをするだけさ。
「ほんと、役にたたない娘だよあんたは。どうしてあんたみたいなのが生まれてきたんだろうね」
近くで作業していたこっちの世界のオカアサンが忌々しげにへたり込んだ私を睨む。
おいおい、実のムスメなんだぜ!もう少しオブラートに包もうよ。役に立たないこちらも悪いのだけれど。
「ごめんなさい、少し休んだらまた頑張りますから」
少しむかついたが、ペコリと頭を下げておく。私は子供だけどガキではないからね。
「あっそう、ま、別に頑張らなくてもいいんだけどね」
「えっ?」
オカアサンの謎めいた発言に思わず聞き返す。頑張らなくてもいい、とはもしかして、ゆっくり休みなさい、という事だろうか!?
やはり母親だな、と少し感動してしまった。すぐに後悔したが。
「あんた、売ることにしたからさ。まあ最後くらい家でゆっくりしてたら?」
オカアサンの目、冷たい目だ。まるで養豚場の豚を見るような冷たい目だ。「可哀想だけど明日にはお肉になって店先にならぶ運命なのよね」ってかんじの!
「売る」とはつまり人身売買だろうか。
冗談でも言っていい冗談と悪い冗談があるだろう、と少し憤った私だが、飽くまで冗談だろう、と思っていた。
一月後、私はセカイをまだまだ甘く見ていた事を痛感する。
つづけ