サイコロを机の上に転がすと、カラカラと数回跳ね回った。
現れた数字は『3』。俺は教室でサイコロの一番上になった面をぼんやりと眺めていた。
「おっ、サイコロじゃん。石川も一緒にチンチロリンしようぜ」
「そのチンチロなんとかというものは何だ?」
「サイコロ賭博だ。言っておくけど賭け事なら俺はしない」
昼休みに、俺たちは教室に集まりぐだぐだしていた。
のんびり過ごすことも悪くない。勉強に追われる学生に許されたほんのひと時の休息。
気がつけば、文化祭も残すところ一週間。時の流れは早い。
ふと見れば、机の上にあったサイコロは『4』を示していた。
▽
正しい主人公の倒し方 第八話
~振り返ればメインがいる~
▽
教室の扉がガラリと音を立てて開かれた。
入ってきたのは、柴田さんや斎藤さんなどの女子たち。
石川は素早く席を立ち、柴田さんのもとに駆け寄った。
「やあ、柴田さん。今日は天気が素晴らしい。そして貴方はいつも美しい」
「あれ……? なんで石川くんがいるのかな。クラス違うよね」
柴田さんの頬がやや引きつっていた。
前に当たりが強いと助言をしたのに、石川は全く参考にしなかった。
悪いとは言わない。これが、彼なりの柴田さんへのアプローチだから。
「このクラスにいる友達とくつろいでいてね。
あと、もう一つの大きな理由は柴田さんに会いに来たことかな」
おお、引いとる引いとる。柴田さんは目に見えて後退りをしていた。
歯を輝かせて微笑んでいる石川を、俺は心の中で応援するしかなかった。
柴田さんが下がった分だけ石川が追うので、二人はどんどん教室から離れていく。
「あっ、佐藤くんいたいた!」
それとは対称に近寄ってきた女の子がいた。斎藤さんだ。
彼女は水色のメモ帳を片手に俺たちの元に来た。
「お化け屋敷製作でまだ足りていない材料が出たから、買出し手伝ってくれないかな?」
「ああ、いいぞ。ただな――」
俺は田中の方をチラリと見た。
斎藤さんは分かったようでうんうんと腕を組んで頷いてくれた。
「田中くんも行こうよ」
「えっ、オレは遠慮するぜ。お二人さんで行ってこいよ」
「滝川さんも来るよ?」
田中から、ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。
こいつの頭の中の天秤は既に一方に傾いているはず。
予想通り十秒も経たない内に、田中は買出しメンバーへ志願した。
田中はこの前の日本史テストを合格した。
平均点のプラス10点。彼の基準でその点数は偉業。
晴れて、田中は補習という拘束から週末の自由を勝ち得たのだった。
しかし、週末がフリーになっても彼が滝川さんと出歩くことはなかった。
彼はテストに全力を使い果たし、デートに誘うことを忘れてしまったのだ。
田中の箪笥には、デートの時に卸すはずだった新品の服が今だに眠っている。
仕方なく俺と石川で残念会を開くことになったのは、また別のお話。
「じゃあ、放課後にまた集まろうね」
斎藤さんがそう告げた時、再び教室の扉から音が聞こえた。
大方、いつの間にか消えた柴田さんと石川が戻ってきたのだろうと予想をしていた。
だが、違った。教室に入ってきたのは二人の下級生だった。
この学園は制服のリボンの色で学年が分かる。
一年は青、二年は黄色、三年は赤。信号機のようなコントラスト。
青のリボンをした一人の下級生が織田の元に駆け寄った。
「兄さん、お弁当忘れていましたよ」
「助かったよ、市代。持つべきものはしっかり者の妹だね」
織田と仲睦まじく話しているのは妹の織田市代だった。
目尻はややつり上がっているが、厳しい印象より落ち着いた印象を受ける。
左耳後ろからまとめているピンは、桃色の花の形をした可愛いらしいものだった。
もう一人の下級生、羽柴秀実もメインヒロインだった。
あざやかな茶色の髪を右にまとめたサイドテール。
小柄な体型で、織田の妹さんとは対照的に元気溌剌とした印象があった。
「先輩!!」
はきはきとした声が教室に響いた。
どうせ彼女も織田の元に行くのだろう。俺には関係ない。
しかし、そうではなかったようだ。
彼女は織田の元へ行かずに、こちらに来た。
斎藤さんにでも用があるのかと思ったら、通り過ぎた。
俺の前まで来て、ようやく彼女は足を止めた。
今日は予想と外れることが多い。お神籤を引いたら大凶が取れそうだ。
「うう、やっと石川くんから脱出できた……。
あれ秀実ちゃん、うちのクラスになにか用?」
柴田さんだけが教室に戻ってきた。石川はいない。
柴田さんに呼ばれた羽柴秀実は、もじもじとしながら俺の顔を見た。
横につけられた茶色の尻尾がふわっと動いた。
「はい。探してた人がようやく見つかりました」
「むむ? なんかいつもの秀実ちゃんと違うぞ。
まあいいや、それは誰なの?」
「実はこの先輩が、私の王子さまなんです……」
彼女は手のひらをこちらに向けてそう言った。えっ、俺のこと?
クラスに訪れたのは数秒の静寂。
誰一人とも喋らず、誰一人とも持ち場から動こうとしない。
運動場で昼練をしている野球部の声だけが、時を進んでいることを示す。
しかし、一分も経てば、はち切れんばかりの大騒動。
こんな不良面の茶髪を誰が王子様と思い浮かべるのだろうか?
シンデレラにも白雪姫にも出てこない。出るとしたら山賊物語あたりだ。
唯一思い浮かべることの出来る少女は、目を輝かせて俺を見ていた。
俺が急いで席から立ち上がり、何のことか聞こうする前に、彼女が先に口を開いた。
「あ、あの……」
今度は言い終わらない内に、彼女は俺に抱きついてきた。
ふにゅっと柔らかいものが俺の腰辺りに当たる。実に大きい。
何故か俺の頭に浮かび上がったのは『直径×Π=円周の長さ』という公式。駄目だ、計算し切れない。
鼻の下が伸びそうになるが、集中して堪える。実に柔らかい。
何なのだろうか、この状況は。ヒロインが俺に抱きついている?
俺は明日には死ぬのか。死ぬから神様が冥土の土産にこんな事をしてくれたのか。
ありがとうございます神様。でも生憎俺はまだ死にたくはありません。
「あの先輩?」
「な、なんだ?」
「放課後あいていますか?」
繰り返し襲いかかる混乱の津波を必死に落ち着かせる。
素数や偶数を数えている場合ではない。意識して呼吸を整える。
「実は放課後には先客が――」
俺は斎藤さんの方にアイコンタクトをとった。
彼女もフリーズをしていたが、俺に気がつくと頷いてくれた。
「放課後は、他の人に頼むから大丈夫だよ」
彼女は笑顔でそう言ってくれた。
「じゃあいいんですか!!
ありがとうございます先輩」
「えっ、うん……」
彼女はより強く俺に抱きしめながらお礼を言った。
今更断ることが出来ないのは、俺がNOと言えない日本人だからだろうか。
ただ単に煩悩に従順な奴隷である思春期だからだろうか。
「ではまた放課後に!」
ようやく開放された俺は半ば放心状態で、教室を出て行く彼女を見送った。
あんな元気いっぱいな笑顔を見せられたから、断れなかった。
これが俺の断れなかった理由だ、たぶん。
俺は斎藤さんに行けなくなった事を謝ろうとしたが、彼女は無言だった。
そのまま昼休み終了のチャイムが鳴り、彼女が俺の横を通りすぎる時、ボソリと呟いた。
「…………お猿さん」
どうやら、鼻の下は伸びきっていたようだった。
▽
放課後になるまで残りの授業は、ずっと昼のことを考えていた。
斎藤さんと関わるまで俺は、ヒロインたちから距離を取っていた。
それなのに今回は、ヒロインの方から積極的に近づいてきた。
これを素直に喜んでいいのだろうか。
そして、もう一つ気になることがあった。
先ほど俺はクラス中から注目を浴びた。でも、持久走ではシカトされた。
この違いは、ゲームでのイベント。それが鍵になるのではないだろうか。
クラス展決めや持久走は既にゲームで決定されているものだ。だが、昼休みは違う。
もしかすると、俺はゲームでのイベントに直接介入が出来ないのかもしれない。
そんな仮定が頭に過ぎり、悲観しそうになるが堪える。
逆手に取ってみれば、俺は舞台裏なら自由に動けることになる。
つまり、俺にも――
「おい佐藤、ここの問題を解いてみろ」
気がつけば、国語教師からご指名が入っていた。
物語の主人公の心情を説明せよという問題のようだ。
読んでいなかったから分かるはずも無い。
「……分かりません」
「ふん、授業中にボーっとしているな。
勉強しなくて困るのは、将来のお前たちだ。
私は、お前たちの事を思って言っているのだぞ」
ネチネチとした説教を聞き流す。
あの台風の日から快晴が続いている空をガラス越しに見上げる。
雲ひとつないその空が綺麗に見える。
景色を楽しむことが出来ることは、心に余裕がある証拠だ。
切羽詰まった状況では、冷静に周りを見ることすら出来ない。
俺は国語教師の声を子守唄代わりに睡眠を取ることにした。
目を覚ませば、いつの間にか放課後になっていた。
今日は文化祭の準備がない日だったので、クラスには誰も残っていなかった。
俺は鞄に教科書をつっこんで、教室を出た。
廊下では吹奏楽部の演奏が耳に入った。文化祭ではステージ発表がある。
様々な楽器の音色が入り混じり、一つの美しい旋律を奏でた。
俺はそれらを聞きながら、昇降口へと向かった。
昇降口では一人の女子生徒がぽつりと立っていた。
俺は急いで靴を履き、その女の子の元へ近づいた。
彼女は俺に気がつくと、手を振って出迎えてくれた。
「行きましょうか、佐藤先輩」
「ああ。えっと……羽柴さん」
「秀実でいいですよ」
「秀実……さん」
俺の言葉を聞いた彼女は頬を少し膨らめ、不満であることを示した。
その顔は、失礼だが小柄な体型と合っていて、より彼女をチャーミングに見せた。
「秀実……ちゃん」
ようやく納得したのか、彼女はニコッと笑顔で返事をした。
だが、やや物足りなさそうに「呼び捨てでもいいのに」と小声が聞こえたことは無視する。
俺は自分の首筋を右手で摩った後、彼女の後ろをついていった。
▽
彼女と一緒に歩いた場所は、それと言って特別な場所ではなかった。
デパートでウィンドウショッピングしたり、近くの公園で散策したり。
深刻そうな顔で言われた割には、案外普通の場所だったので拍子抜けしてしまった。
「見てくださいよ、先輩!
あの人形かわいいですよね。あっちのモグラも!」
「そうだな」
「でも、今月はお小遣いピンチだ! う~ん、悩むなあ」
ただ、秀実ちゃんのはしゃいでいる姿を見ているとこちらも元気が出てくる。
ゲームで出てきたように、彼女は場を明るくするムードメーカー的存在だ。
ちなみに彼女の言う人形は、ツギハギだらけの桃色をしたウサギだった。
俺にはカワイイよりブサイクに見えた。
「じゃあ、次の場所に行きましょう!」
彼女に振り回されるのも悪くない。
この時俺は、文化祭のことを忘れて彼女と遊んでいた。
横に並びながら、俺たちは歩いた。
そこらにいる人には、兄妹にしか見えないだろう。
この身長差だ。心の内で苦笑いしてしまう。
「着きました! お次のスポットはここです」
秀実ちゃんは立ち止まると元気に言った。
ただこの時だけは、無理に元気さを強調しているように思えた。
止まった場所は、薄暗い道路。店や遊び場もない所だったから。
しばらく、俺たちは喋らなかった。
秀実ちゃんがこちらを見つめてくるが、俺は視線を外す。
本当に何も無い薄暗い場所だ。夜にはさぞ危ない場所だろう。
「ねえ、先輩?」
「ん?」
「……もう気づいていますよね?」
彼女は、髪留めのゴムを外した。
右に纏まっていた髪は、下へと流れるように動いた。髪を下ろした彼女の姿に見覚えがあった。
この場所で起きたことも、もう大分前のことに思える。どうやらあの時の少女は無事だったようだ。
「……ホットミルクはちゃんと飲んだか?」
「はい。人生で一番おいしかったです」
快活な表情ではなく、落ち着きと神妙さのある表情だった。
彼女は両手を自分の胸の前に置き、少しずつ話してくれた。
「こわかったです……。
男の人達に囲まれた時、本当にダメだと思いました。
声を出すことだけが精一杯で、足なんかみっともないぐらい震えていて。
逃げようと思っても足が動かないんです。
あの時、先輩がいなかったら――」
彼女はそこで、話を止めて俺にもたれかかってきた。
受け止めた俺の腕の中では、彼女の啜り泣く声が聞こえた。
きっと彼女は、この前の出来事を誰にも打ち明けていなかったのではないだろうか。
しばらくして、俺は彼女の背中から手を引いた。
彼女も、落ち着いてきたようで泣き声もだんだん小さくなった。
そっとハンカチを渡すと、彼女はそれで涙を拭いた。
「……だから、私にとって先輩は王子さまなんです。迷惑でしたか?」
「いや、光栄だ」
でも、言えない。
君を助けた後、王子様は悪党を倒さずに逃げまわったことを。その王子様は実はただの一般人だって事実も。
そして、俺以上に君に似合う王子様がいることも。
「先輩に好きな人はいますか?」
突然、彼女は俺にそんな事を尋ねてきた。
彼女がシャツを掴んでいたので、俺は逃げることが出来ない。
それにしても、どうして俺の周りの人は好きな人の事を聞きたがるのか。
「……ああ」
「どんな人なんですか?」
「……すまない。それは言えない」
秀実ちゃんは俺からそっと離れた。
しかし、視線はずっと俺から離さない。
不意に、後ろから足音が聞こえた。
振り返るとそこには、織田伸樹がいた。
右手に持っているのは大量の何かが入ったビニール袋。
思いがけない出会いに、俺は驚いてしまった。
「やあ、佐藤くん。こんなところで逢うとは意外だね。
あれ? 秀実ちゃんもいるね。いつも妹がお世話になってるよ」
「ああ……。本当に奇遇だな」
此処は道路だ。別にどんな人が通っても不思議じゃない。
無理やりそう言い聞かせて、心を落ち着かせる。
けれども、このタイミングは一体なんなのか。
「もうすぐ文化祭だね。ここからが大変だけどがんばろう」
「そうだな。その手に持っているのはクラス展の材料か」
「うん。さっき斎藤さんと一緒に買ってきたんだ」
織田の後ろに女の子が立っていたことに気がついた。
その見慣れたショートヘアが、斎藤さんだと分かるのに時間はそうかからなかった。
俺が斎藤さんに顔を合わせると、彼女は若干赤い顔をしていた。甘いミルク珈琲の香りがした。
「あの後、織田くんに買出しを頼んだんだよ」
「そうか」
「じゃあ、私たちは学校に材料置いてくるから。
また明日学校でね」
そそくさと斎藤さんは去っていた。
織田は俺と秀実ちゃんに手を振ってから、斎藤さんの跡を追った。
残された俺たちは暫し呆然としていた。
「……私は諦めません」
秀実ちゃんは、サイドテールを直しながら言った。
纏まり直した茶色の尻尾を動かして、俺を見つめた。
「今日はありがとうございました!
家はこの辺りなので、一人で帰れます」
丁寧なお辞儀をして、彼女は俺に背を向けた。
彼女の後ろ姿が消えるまで俺はその場を離れることが出来なかった。
今日は牛乳も珈琲も美味しく飲めそうにない。