佐藤の表札がある家は近所に三軒あった。
その中で、小さいながらも比較的新しいものが佐藤尚輔の自宅だ。
玄関の扉を開け、家に入った。花瓶の近くにあるスイッチを入れた。
照明は二回ほど点滅を繰り返したあと、通路を明るくした。
「ただいま……」
俺の声は虚しく響いた。返事が帰ってくることはない。
靴を脱ぎ靴箱につっこんだ。毎日俺以外の靴が動くことはない。
階段を上がり、自分の部屋に入った。憑依初日に目覚めた部屋だ。
漁りに漁ったがこの部屋で他に目新しいものが出ることはなかった。
他の部屋も同じように探ったが、めぼしい物は出なかった。
鞄を机の上に適当に置き、学生服から普段着に着替えて下の階へ降りた。
台所で冷蔵庫の中を確認して今日の献立を考えた。
「焼きそばでもするか」
▽
正しい主人公の倒し方 第三話
~世界の端から こんにちは~
▽
この家には誰もいなかった。正確に言えば『今はいない』になる。
佐藤尚輔になった日から、俺は佐藤の家族に会ったことがなかった。
家に残された衣類や家具などから判断するにこの家に居たのは、佐藤と一人の男性。
たぶん父親だろう。単身赴任か、亡くなったのか。よく分からなかったが、
箪笥の奥から見つけた通帳に、毎週お金が振り込まれているため生活費の心配はなかった。
通帳には無用心にも暗証番号が書かれていた紙が添えられていた。
そこには番号と佐藤のものと思われる殴り書きがあった。
『親父のバカヤロウ』
俺は佐藤がどんな生活をしていたのかは知らないし、どんな家庭環境だったのかも知らない。
そして、これからも知ろうともしないだろう。
知ったところで一文の得にもならないし、その親父が帰ってきたとしても困る。
ここに住んでいるのは佐藤の顔をした別人なのだから。
ひとまず佐藤の事を考えるのを止めた。
考えても考えても答えが出てこない。堂々巡りするオチが見えていたから。
俺はテレビをつけた。夕方ごろにやっている普通のニュース番組。
平淡な話しぶりをするアナウンサーの声をBGMにして焼きそばの下ごしらえを始めた。
「烏山首相は政治とカネをを巡る問題について『5月末までには決着する』と発言しました。
これに対して自社党の大沢議員は『早すぎる。今のままでは解決するはずがない』と発言し、波紋を呼んでいます」
似ているようで少し違いがある世界。
地図に自分の生まれ故郷がないの知ってショックを受けたのは二週間前の出来事だ。
ただ、ホームシックにはなりそうもない。
もともと大学生の時から一人暮らしをしていたし、放任主義の家庭で育った。
懐かしくは思えど、帰りたいとは思わなかった。
「あらよっと」
キャベツ、人参などの野菜を中華鍋で炒める。隠し味の粉末コンソメを軽くふりかけ匂いを引き出たす。
麺はあらかじめレンジで温めておき、適度にほぐした状態にしておく。
豚バラを投入し、色が変わり始めたら麺も入れる。この時入れる粉末ソースは半分だけ。
「続いて、県内の天気です。猛烈な台風が週末にも本州に上陸する恐れが出てきました。
雲の中心を見ていただきますと、目がはっきりしていて発達している様子が分かります。
来週にも県内に直撃する恐れが高まっています」
「……」
中心か。
何をもって俺は物語の中心に行けたとするか。
俺が今まで中心に行くことをこだわっている理由も端っこの役を与えられた腹いせに近い。
小学校の学芸会で木の役をもらった子どもが本番で大声を挙げたくなるそれに近い。
目立ちたいだけなら今すぐ織田の目の前で全裸になり、忘れられない人になればいい。
もちろん、そんな馬鹿な事はしない。というよりもしたくない。
俺がしたい事は、『物語に関わること』だ。
あの感動的な名場面や、心を揺す振るようなエンディングに立ち会う。
これが、俺の目指していることだ。
しかし、台詞もない木の役が関わるにはどうすればいいのか?
麺が大分ほぐれてきた。残していた粉末ソースをふりかけた。
そこで醤油と砂糖を少々入れた。ここで気を付けるのは砂糖は全体にふりかけることだ。
一見、焼きそばと相性が悪そうな砂糖だがソースと絡むと化ける。
甘辛くなった焼きそばはご飯泥棒と言える存在に昇華する。
「よし、これぐらいか」
男の焼きそばが完成した。これとご飯を一緒に掻き込めば今日の夕食は十分だ。
こってりとしたソースの匂いとご飯の湯気が台所に漂う。
机に食器を置いて箸も揃える。飲み物は織部焼の湯のみに入れた緑茶。
蛍光灯の光にコメの一粒一粒が反射して、俺に早く食べろと訴えかける。
俺は慌てない。
ゆっくりと親指、人差し指、中指と両手を合わせていき胸の前に持ってくる。
この世の全ての生きとし生ける物へ、俺の糧になっていく者たちへ、そして農家のみなさんに。
「いただきます」
まずはお茶を飲み、口に潤いを持たさせる。
安堵の溜息をつき気持ちをホッと落ち着かせ、ようやく箸に手を伸ばす。
狙いは焼きそば。油と絡んだ麺が憎たらしくかつ扇情的に俺を誘っている。
箸が止まった。
「なんだと……」
足りていない。決定的に足りていない。
意識がそこまで回りきらなかったことが俺の失態だった。
バスの整理券を取り忘れるような初歩的なミス。
この焼きそばには紅しょうががのっていない。
俺は紅しょうがの事がそこまで好きではない。あれば嬉しい程度だ。
だが、俺が紅しょうがを必要とするのは別の理由がある。
それは彩りである。
茶色の塊に紅色を付け加えることで、その塊は焼きそばとしてのアイデンティティを持つ。
土色一色ののままで妥協して食べる者は『食』を理解していない。
動物が食事の際に彩りを気遣うだろうか。答えはNOだ。
彼らは食べ物の中に美しさを見出さずに、貪り食う。
食事の彩りとは人間であること、いや文化人であることの証明とも言える。
だから、紅しょうがの一つぐらいと侮る事なかれ。
少しの手間は大きな満足へと変わるのだから。
俺は急いで焼きそばにラップを掛けて、財布をポケットに入れた。
テレビを消して、玄関に鍵をかけて家を出た。向かう先は最寄のスーパー。
一ヶ月の間で見つけた裏道を使った最短ルートで行こう。
俺は裏道に向かって走り出した。
裏道は暗い。進む毎に電灯の数もどんどん少なっていく。
スーパーまで徒歩七分程度。近くはないが遠すぎることもない。
もし女子ならこんな道は歩きたくないだろう。いつ襲われても可笑しくない。
しかしながら、俺は不良面の男だ。襲われることなんてないだろう。
「うへへへへ、いいじゃないか、嬢ちゃんよお。
俺たちと良い事しようぜ」
「い、いや! 離れて!!」
俺が襲われることはないだろう。
しかし、襲われている場面に遭遇することはあるらしい。
数人の男が一人の女子生徒を取り囲んでいる。しかも、どこかで見た制服。
薄暗い道のため顔を確認することができない。
頭の中に天秤が現れた。右に紅しょうが、左に見知らぬ女の子。
揺れる、ぶれる、回る。天秤の針が二、三度交互に左右へと傾いた後、ようやく落ち着いた。
改めて確認する。男の数は四人。全員チャラチャラした服装、手には何も持っていない。
最善の方法を探す。よく漫画とかにある知り合いのフリをしてみようか。
俺は左手を挙げてフレンドリーにその集団に近づく。
「なんだよおめえは? こっちをジロジロ見やがって。
見せモンじゃねえぞコラッ!!」
強制エンカウント。俺と彼らのファーストコンタクトは会話をすることなく終わった。
言葉という素晴らしきコミュニケーションツールを使う暇すら与えられない。俺は挙げたままの左手を降ろした。
男どもは舐めまわすような視線をこちらに向けている。野郎にそんな視線をされてもこれぽっちも嬉しくない。
俺は彼らを無視して女の子に近づく。やっぱり静越学園の制服だった。
「やあ、こんばんは。
こんな所で立ち止まっていると体が冷えるぜ。
さあ早く帰りな」
「えっ?」
「もう五月だけど今年は冷える。
おうちに帰ってホットミルクでも飲みな」
俺は野郎たちがいない方向に女の子の背中を押す。
囲いから女の子は出た。彼女は一度俺の方に頭を下げると裏道を駆け出した。
男どもが呆気にとられている間の数秒の出来事。
野郎の一人が気がついたときには、女の子の後ろ姿は豆粒ほどの大きさになっていた。
「なな、なんにしてくれてんだよ、テメエは!!
女が逃げちまったじゃねええか」
「俺らに殺されてえのか、ああん?」
男の一人が顔を近づけてくる。ヤニの臭いが鼻につく。
後ろに控えている男たちも口々に意味不明の罵倒を俺に浴びせた。
この場面で交渉という手段はなさそうだが俺は聞いてみた。
「なあ、あんたらあの女の子に何しようとしてたんだ?」
「何って、ナニだよ。分かるだろう、お前さんも男なんだからよお?」
一人の汚らしい笑いにつられて、他の男たちも下品な声を出す。
あのヒロインたちの心が洗われるような清々しい笑顔とは真逆。
見ているものを不愉快にさせるだけの最悪の笑い声。
気がついたら、俺の拳は醜男の土手っ腹に埋まっていた。
倒れる男。取り巻きの声が驚きへと変わる。
「むかつくんだよ……。お前らみたいな糞野郎を見ていると」
▽
数分後、チンピラどもは全員地面に倒れ臥した。
狭い路地裏に逃げ込み一対一の状況を作り出し、中段正拳突きを一人ずつ喰らわした。
積み重なるチンピラどもの屍。臆せず突っ込んでくる者も一瞬で同じ末路を辿った。
最後に路地裏で立っているのは俺だけだった。
残念ながら、そんな展開になることはなかった。
俺は逃げている。
こんなに走っているのは、それこそ学生時代の持久走大会以来だ。
振り返る暇はない。むしろ、チンピラどもが騒いでるため振り返る必要がない。
一対四は流石に分が悪い。得物がないとも言い切れない。
こちとら一般人。白刃取りも胴回し回転蹴りもできるはずがない。
男を殴り気取った台詞を吐いた後、
俺は包囲を抜けるため、倒れた男の方を目掛け猛ダッシュをした。
男が立ち上がる前に、完璧に退路を塞がれる前にだ。
最初から全速力。足のギアを落とすことはない。
顔と脇腹を殴られ、右足にも一発蹴りを貰った。
しかし、俺は脱出した。
しばらく走り続け、見覚えのある十字路を左へ曲がりすぐ物陰に隠れた。
身を小さく屈めて男たちが通りすぎるのを待った。
子供の頃にかくれんぼで鍛えられたステルス技術をいかん無く発揮する。
息を潜め、動かすのは目だけ。見つかった時でも動けるような姿勢を保持。
男たちが来た。
こちらには気がついてない。俺を見失って奴らは焦っていた。
早く。頼むから早くどっかに行ってくれ。
時間がゆっくりと感じる。喉が日照るように乾く。
時計の秒針が一周した頃になって、ようやく願いが通じた。
男たちは大声を挙げた後、去っていった。
薄汚いコンクリートの上に座り、荒い息を落ち着かせる。呼吸をする度に殴られた脇腹が痛む。
小さく長く息を吸って吐く。それでも肺が詰まるような気持ち悪さを覚えた。
俺はアホだ。
なにをヒーロー気取りしていたのか。女の子を都合よく助けられただけで舞い上がってしまった。
隠された力や秘められた能力があるはずもない一般人なのに。
頭を使わず、ついカッとなってやったのが間違いだ。反省するしかない。
「消毒液に絆創膏にその他諸々、買い物が増えちまったな……」
上を見れば夜空の中に幾つか星が光っていた。
大小明るさも様々ある星の中で、俺は弱々しく光る六等星の星を見つめた。
ふと気づく。
「似ているなあ……」
地球から見て明るい方から一等、暗いから六等。
プレイヤーから見て目立つから主役、地味だからモブ。
似たもの同士に親近感を覚えた。こんなに近くに仲間がいたとは。
勝手に同族扱いされて六等星の方は迷惑かもしれないが俺は安心した。
あいつらの輝きも一箇所から見た場合に過ぎない。実際とは違う。
俺の方はどうなのか知らないが、違うと嬉しい。
仕方ない。今は甘んじよう。この世界の端っこを甘んじよう。
よく分からない男に憑依したとしても、自分の意見が通らなかったとしても、
チンピラに追われようとも、俺はこの世界に自分の足で立っている。
世界が優しくないのは今に始まったことじゃないさ。それはどこの世界でも共通事項。
殴られた頬がキリキリと痛むが、俺は六等星をニヤつきながら見る。
「あはははははっ、そうだよな。そんなもんさ」
いつか必ず俺は中心に行く。
そうじゃなきゃ俺がこの世界にいる意味がわからない。
六等星の明るさは地球から見ていたらいつまで経っても変わらない。だったら見る場所を変えればいいだけの話。
星は動かないが俺は動ける。もしかしたら俺には明るくなるための術があるかもしれない。
重い腰を上げ、紅しょうがを買いにスーパーに向かう。
そうさ、『今』は甘んじるだけさ。