苦痛にも思える雪の白さが、続いている。険しい雪山の中を俺たち二人は進んでいた。
秀実ちゃんを見つけた時、俺は彼女を連れたまま石川のところまで戻ることにした。
現在地はゲレンデから遠く離れたところであり、彼女を連れてもう一人見つけるのは難しいと判断したからだ。
俺一人だったら無理をしてでも進もうと思うが、彼女の顔から疲れが読み取れた。長時間、一人でいたことが原因だろう。
ひとまず石川のもとに彼女を預けて、俺だけで捜索を再開しようと考えていた。
「……」
登り降りを繰り返しているうちに、目的地は着々と近づいていく。
なだらかで柔らかな道が続いても、俺たちの間に会話はなかった。
無駄に喋って体力を減らしたくもないが、会話がないことは俺にとってありがたい。
彼女が協力者ではないと分かった今でも、俺は彼女との距離を掴めていない。
「そろそろ着くと思うんだが……」
スマートフォンで確認しても、俺と秀実ちゃんの赤丸しか映し出されていなかった。
この辺りが俺と石川が落ちた場所のはずなんだが……。
少しばかり歩くと、雪を被ったスノーモービルが転がっていた。
その横には石川の姿はなく、代わりに俺たちが乗っていたものではない別のスノーモービルの跡があった。
「良かった……石川は助かったんだ……」
「先輩、どうしたんですか?」
「何でもないよ。それよりも予定を変更をしないといけない。もうしばらく歩かないといけないけど、秀実ちゃんは大丈夫かい?」
「まだ大丈夫ですよ」
彼女の言葉が強がりだということは分かっている。秀実ちゃんを連れたまま、もう一人探しに行くのは厳しいだろう。
ポケットから方位磁針を取り出し、方角を確かめた。距離は分からなくとも、方角さえ間違えなければ時間が掛かっても次の目的地まで行ける。
イベントもまだ中盤のはずだ。慌てたって良いことなんてない。そうやって自分に言い聞かせて、再び進み始めた。
▽
正しい主人公の倒し方 第三十二話
~覚悟を決めるために~
▽
少し前から、雪が強く降るようになってきた。イベント終盤では、豪雪になる展開もあったことを思い出す。
グローブの指先が濡れてきて、冷たいというよりも突き刺すような痛みを感じていた。なるべく早く目標を達成し終わらせたいところだ。
「きゃっ!」
後ろから短い悲鳴が聞こえた。振り返ると、秀実ちゃんが雪の上に倒れていた。
彼女の足元を見ると雪で隠れていた岩があり、どうやらそれに躓いたようだ。
秀実ちゃんは立ち上がろうとするが、足に力が入らなかったようでぐらりと転びかける。咄嗟に近づいて、彼女の体を支えた。
「すみません。膝を打ってしまったようで……」
「歩けそうか?」
「ごめんなさい。力が入らなくて……って先輩!」
俺は秀実ちゃんの前で、背中を向けてしゃがんだ。
「歩けないなら、こうするしかないだろ」
「それじゃあ先輩が……」
「もう誰も置いていけないんだ」
「そうじゃなくて――」
「いいから、早く乗ってくれ」
文句を無視し、彼女の体を無理矢理背負う。背負ってしまえば、彼女は文句の一つも言わなくなった。
「……あの、重たくないですか?」
「軽い。気にしなくていいさ」
自分が想像していたよりも彼女の体は軽く、これなら次の目的地まで行ける。
雪に足を取られやすくはなるが、体力の消費はそこまで気にしなくて良さそうだ。
秀実ちゃんに手は肩に乗せるように言い、背負い直してからまた歩き始めた。平坦な道に出ると、彼女は質問をしてきた。
「……先輩はどうして私を助けてくれたんですか?」
「俺はこのイベントを失敗させたい。そのためにヒロインを織田より先に保護する必要があるんだ」
「そうなんですか……」
彼女の溜息が首筋に当たる。
もう少し気の利いた答えをすれば良かったかもしれないが、嘘をついても仕方ない。
肩をぎゅっと握りしめられた。何かあったのかと振り向くが、秀実ちゃんは顔を逸らした。
「どうしたんだ?」
「……やっぱり下ろしてください」
「それはできない」
「でも、私は先輩の邪魔になっています」
「分かった。だけど、あと少しだけ付き合ってくれないか?」
緩やかな坂を登り切ると、遠くまで見渡せる開けた場所に着いた。
雪を被った木々の中に、俺が次の目標地点としていた山小屋がぽつりと建っていた。
秀実ちゃんも山小屋の存在を知っていたのか、それを見つけると声を上げた。
この山小屋は、ゲームイベントでも出てきた。彼女を背負ったまま周囲に警戒しながら、山小屋に近づく。
山小屋の周りには足跡もなく、中から音も聞こえてこない。秀実ちゃんを下ろしてから、俺はゆっくりと山小屋の扉を開いた。
「思っていたよりも酷いな……」
小屋の中を見て、溜息をつきそうになってしまった。とにかく汚い。
薄暗い室内は、木で打ち付けられた床と黒く煤けた石油ストーブが置かれている。その横には赤い灯油タンク、道具棚と箪笥があった。
どれも自分が想像していたよりも年季が入っている。言い方を変えればボロいだ。
秀実ちゃんの手を取りながら部屋の中に入り、丸太を切っただけの椅子に彼女を座らせた。
「少し待ってくれ」
初めてこの小屋に入ったが、ここに何が置いてあるのかだいたい分かる。
ゲームの知識に頼るなんてふざけていることかもしれないが、今の俺にとっては頼りになるものだ。
道具棚からマッチを取り出し、ストーブに火をつけた。
点火されたストーブは、静かに音を立てながら部屋を暖かくしていく。
それから俺はグローブを外し、スマートフォンのタイマーを15分後に設定した。
体が温まるに連れて、思い出しかのように疲労が襲ってきた。時間は貴重だ。でも、俺自身の体力は限界に近い。
無理に捜索して倒れてしまったら元も子もない。だから、15分だけは休憩しよう。
秀実ちゃんに隣に置かれた丸太椅子に座り、ポケットの中を探った。
「チョコレート食べるか?」
「えっ……」
「疲れた時はチョコレートを食べるといい。甘い物食べれば元気になれるから」
返事を待たずに赤い包装紙を破り、取り出したチョコレートを半分に折って彼女に渡す。
「ありがとうございます……」
秀実ちゃんが口の中に入れたのを見て、俺もチョコレートを食べる。一口目は味を感じなかったが、だんだんと甘さが広がっていく。
「……チョコレート、美味しいですね」
両手でチョコレートを持ち、少しずつ食べながら彼女は笑った。
その笑顔は、一学期の頃に見せてくれたものよりも寂しいものだった。
外から強い風の音が聞こえ、小屋はがたがたと揺れる。残り13分。それが彼女と一緒にいられる時間。
小屋の中は段々と暖まっているが、彼女はまだ寒いようで体を少しだけ震わせた。
道具棚の奥には綺麗に畳まれている毛布が置いてある。俺はそれを取り出して三回ほど叩いた。
「埃っぽいのは我慢してくれ。体を温めるものは、ストーブとこれ以外なさそうだから」
聞き取れないほどの小さな声がした。確かめるように秀実ちゃんの元へ近づくと、彼女は困ったように笑う。
「……先輩、私に優しくしなくてもいいんですよ?」
俺が答える前に、彼女は言葉を続けた。
「先輩は私のことを嫌っているんですよね? 気遣う必要なんてありませんよ。だって私は先輩に――」
「何もしていない。それに君を嫌ってなんかいない」
「嘘を言わなくてもいいんですよ。私はここを離れませんから。先輩は早く次の子を探しに行かないと」
「……なあ、秀実ちゃん」
「何ですか?」
「君は俺のことが嫌いかい?」
彼女は何かを言おうとしたが、すぐに口を閉ざしてしまった。返事が来ないので、俺は話題を変えた。
「知っていると思うけど、ここはゲームのイベントにも出てきた場所だ」
ゲームでこの山小屋が訪れるのは、そのルートのヒロインと一緒にいる時だけだ。
織田はハーレムルートに入っているので、全員を見つけなければ山小屋のイベントは現れない。
修正力を信じれば、俺たちが明智さんを先に見つけたことにより織田がここに来ることはないはずだ。
「昨日、ウォークラリーが終わった後に秀実ちゃんは調理場近くにいたよな?」
「……はい。先輩たちがいたところを見ました」
「邪魔をするために、あの場所にいたのか?」
「違います……と言っても信じてくれるとは思いませんけど」
「信じるよ。君が協力者じゃないということは分かっている。だから、秀実ちゃんが織田にハーレムルートへ進むように言った理由を教えてほしい」
ある程度の予想はできているが、それを知ることができれば心の負担が軽くなる。
秀実ちゃんはビー玉のように瞳を転がした。それは、話すか話さまいか迷っているように見えた。
「言いたくないんだったら、言わなくていい。無理する必要はないさ」
「いいえ……言わせてください……ここで言わなかったら、後悔すると思いますから。
でも、その前に1つだけ聞いてもいいですか? 先輩は……本当に私のことを嫌っていないんですか?」
「勿論だ。嫌いだったら、こんなイベントに関わろうともしないさ」
秀実ちゃんは被っていたニット帽を取り、それをぎゅっと握った。
「……先輩は私があのゲームを拾ったことは覚えていますよね?」
「ああ、学園に入学する前に道端で拾ったんだよな?」
「それで……学園に入学する前から、もしかしたら初めて会った時からかもしれません」
続く言葉を秀実ちゃんは躊躇したのか、一度唇をすぼませた。
「私は織田先輩に憧れを抱いていました。でも、先輩の周りにはいつも女の子たちがいました。
私の心が憧れから好意に変わってしまったら、きっとその女の子たちと競わなければいけない。
でも、私には競えるだけのものは何も持っていませんでした。それは今もそうです」
入学前から秀実ちゃんが、織田に憧れを持っていたことはゲームをすれば分かる。
でも、彼女の口からそれを告げられると気分が落ち込んでしまう。度量の小さい男だと自覚しながらも、秀実ちゃんの話を黙って聞いた。
「私の尊敬する柴田先輩、織田先輩の妹で親友の市代ちゃん、いつも優しくて親切な斉藤先輩。
それに比べて私は、チビで、頭悪くて、運動ぐらいしか取り柄がない。でも、その運動でも柴田先輩の方が早いんです。
何をやっても、何をとっても、私なんかが彼女たちに適うはずがありません。
だから、いつも一歩下がったところで私はそれを眺めていました。織田先輩と彼女たちの周りにいられることで、私は満足していました。
あのゲームを拾ったのは、そういう風に自分を納得させていた時期です」
彼女はそう言ってから、短い溜息をついた。
「ゲームの中に自分たちが出ていて驚きました。そして気味が悪かったです。
でも、そこに映るみんなはいつも笑顔で楽しそうな学園生活を送っていました。
だから、私はゲームを続けてみようと思ったんです。それで何回かプレイしてみて、みんなが笑顔で終われるエンディングを見つけたんです。
後になってそれがハーレムルートと呼ばれるものだと知りました」
ハーレムルートの鍵はヒロイン全員を平等に接すること、それと序盤からパラメータを上げ過ぎないことだった。
4月時点でのパラメータを高くしすぎると発生しないイベントがいくつかある。それを終えてからパラメータを上げる必要がある。
ゲームに慣れていなかった秀実ちゃんがハーレムルートに入れたのは、偶然に近いものだったのだろう。
「入学してみると、織田先輩の周りで起きていることが全てゲームと同じだったんです。
そこで私は思ったんです。ゲームの通りに進めば、みんなが笑顔で過ごせることができるんじゃないか。きっと幸せな学園生活が待っているんじゃないかって。
すぐに私は織田先輩にゲームソフトを渡し、ハーレムルートへの入り方を教えました。
私の願いは、みんなが幸せになることでした。これが織田先輩にハーレムルートへ進むように言った理由です」
「でも、秀実ちゃんは途中でそれが悪いことだったと気づいた」
「はい。気づいてしまったら後戻りはできませんでした……」
「屋上で会った日、君は俺に『自分の幸せとみんなの幸せ』について聞いてきた。
秀実ちゃんにとっての幸せが何なのかは知らないけど、現実が思い描いていた幸せの形と違った。だから落ち込んでいたんだろ」
「……」
「間違っていたか? 自分なりに考えてみたんだが」
「正解です。やっぱり先輩はすごいですね」
彼女は誇らしげそうに言った。彼女らしい純粋な褒め方に、照れとむず痒さを久々に感じた。
「以前聞きましたけど、先輩は本当の 佐藤尚輔さんではないんですよね?
『佐藤尚輔であるが、佐藤尚輔ではない』と答えましたが、良かったらその意味を教えてくれませんか?」
「いいけど、中々馬鹿げてる話だ。話半分で聞いてくれたら助かる」
「いいえ、全部信じますよ。先輩の言うことですから」
「ありがとう。それじゃあ話すよ」
俺が元々この世界にいなかったことから、俺が知っている佐藤尚輔の評判まで。
俺と佐藤尚輔の違いについて事細かに説明をした。
これで俺がこの世界の外から来たことを言うのは五人目だが、自分で自分のことを説明するのは奇妙な感覚がある。
自分であって、自分ではない。それを説明する度に俺は、ある一つの問題から目を背けている。でも、それは今考えるべき問題ではない。
「そういうことで、今の俺は佐藤尚輔として生活しているんだ。ところで、どうして秀実ちゃんは俺が本当の 佐藤尚輔ではないと気づいたんだ?」
元々、秀実ちゃんは佐藤尚輔と親しかったわけではない。唯一気づけたのは、佐藤と最も長い時間を過ごした明智さんだけだ。
「ほとんど勘みたいなものです。先輩はあのゲームには出てきませんよね?」
「いや、出ている。ほんの少しだけど」
俺がそう言うと、秀実ちゃんは黙ってしまった。不思議に思っていると、彼女はゆっくりと口を開いた。
「本当ですか……?」
「ああ、本当のことだ。立ち絵もないモブキャラクターとして出ているよ」
数秒の硬直。秀実ちゃんニット帽を深くかぶり直して顔を見せないように俯いた。
「うわー」とか「やっちゃった」とか、ごにょごにょと聞き取れないような呟きが隣から聞こえてくる。
それまであった緊張の糸がぷつりと切れたような気がした。しばらくすると、彼女は赤くなった顔を上げた。
「ごめんなさい。その……先輩が出ているなんて知らなかったので」
「別に謝ることでもないよ。気づく方が珍しいと思うから」
佐藤尚輔はストーリーに関わることのないキャラクターだから、と言葉を添えておく。
それを聞いた秀実ちゃんは、落ち着きない様子で両手で赤い顔を覆った。
「あのー、そのー、このー、失敗したと思ったけど、結果を見ればラッキー的な事を何と表現すればいいんでしょうか?」
「怪我の功名か?」
「それですよ、それ。私が先輩が佐藤尚輔さんではないと感じた理由は、ゲームに出てないと思ってたからだったんですよ。
先輩はイベントに関わっていそうなのに、ゲームでは名前を出なかった。それが気になって先輩のことを聞いて回ると、ある時から人が変わったという評判があったんです。
そこから先輩の身に何かあったのかと思って、あの質問したんです。だからゲームに出ていると知ったら、疑ったりしませんでした」
「それであんなに慌ててたのか」
「お恥ずかしい限りで……しかも怪我の功名と言っても、今の今まで怪我をしていたことすら知りませんでした……」
「はははっ、人間誰しも間違いや誤解なんてあるもんだ」
「わ、笑わないでくださいよ」
彼女が恥ずかしがった顔を見せた時、ポケットからアラーム音が鳴った。
休憩は十分に取れた。これから俺は主人公よりも先にヒロインを見つけなくてはいけない。
椅子から立ち上がり、彼女に背を向けようとしたが、思い留まってしまった。
また俺は置いていくのか。散々振り回されてきた修正力を今さら信用し、安全という保証はないのに、こんな場所に彼女を置いて本当に大丈夫なのか。
そんな俺の迷いに気づいたのか、秀実ちゃんは俺に話しかけてきた。
「ねえ、先輩……私と先輩が初めて会った日を覚えていますか?」
「君が不良に絡まれていた日のことだろ。あれは確か――」
「ゲームのイベントにもあるんです。ゲームなら織田先輩が助けに来てくれるんですが、ハーレムルートを目指す場合は優先度の低いイベントです。
それでイベントの当日、織田先輩が来ないからイベントも起こらない。悪い男の人たちにも会うなんてことはないって思っていたんです。
でも、会ってしまった。そして私は先輩によって助けられました。いつでも先輩は私が辛い時に現れてくれる。今日もそうでした」
「それは俺がゲームに関わろうとしているからだ」
「けれども、来てくれた事実は変わりません。先輩は私にとってのヒーローなんですよ」
ヒーローという言葉を聞き、この世界に来た時に出した自分の結論を思い出した。
ヒーローとヒロインが物語を作る。
俺はヒーローではない。
よって、ヒロインと付き合えることはない。
そんな馬鹿な俺の考えは、彼女の一言によってあっさりと覆される。
だが、こんな俺を認めてくれることを嬉しいと思う一方で、素直になりきれない部分もある。
この世界は『School Heart』が元になっていて、主人公は織田信樹。物語には修正力も働いている。
やはり俺はヒーローでもなければ、この世界における主人公ではない。
「そんなことはないって顔をしていますね?」
「ああ、そうだよ。この世界で俺はそんな大層な役に成れないんだ」
「『世界にとって』じゃなくて『私にとって』のヒーローなんですよ。
私も先輩と対等でいたい。やっと自分の気持ちに向き合うことができそうなんです。だから、決めました」
彼女は両手を胸の前で組んだ。
「この合宿が終わったら織田先輩に別れるって言います。自分の気持ちと向き合うために」
修正力によって感情は操作される。かつて明智さんも強い意志を持って織田に接したが、結果は駄目だった。
「それは無理だ」
「でも、私は……」
「君はヒロインだ。ヒロインがこの世界の物語を終わらせることはできない」
『School Heart』はヒロインがヒーローを倒す物語ではない。
「それを終わらせるのは、俺の役目なんだ」
そう言ってから、ようやく彼女に背を向けることができた。扉まで向かおうと一歩踏み出そうとすると、背中を捕まれた。
「初めて好きになった人が先輩で良かったな……って、今でもそう思っています」
「光栄だよ」
「ここで先輩を引き止めちゃ駄目なんだって分かっています。だから――」
彼女は俺の背中から手を離した。
「いってらっしゃい」
振り返ると、そこにあるのは笑顔だった。
▽
どこまで歩き続けても、ヒロインの姿は一向に見えない。
一歩を踏み出すのさえ躊躇するような吹雪が体を襲う。視界は遮られて、遠くまで見渡すことさえできない。
イベントは終わりに近い。体力も気力も限界に近い。それでも俺は進み続けた。
「早く見つけないと……」
雪山に取り残されているヒロイン。その姿に俺は斉藤さんを当てはめた。既に織田が斉藤さんを見つけてしまった後かもしれない。
けれども、俺は彼女に会いたかった。この手で彼女を救いたかった。昨日離してしまった手をもう一度握りしめたかった。
ヒロインの位置を確かめるためスマートフォンをポケットから取り出そうとしたが、腕が震えていたせいで地面に落ちてしまった。
慌ててその場に膝を下ろして、辺りを探す。だが、どこかに埋もれてしまったのかスマートフォンは見当たらない。
「畜生、畜生……どうしてこうも……」
独り言で悪態をついても、何も変わらない。うまくいかないことは今に始まったことじゃない。
徳川よりも先に「お化け屋敷」と答えたとき。斉藤さんに思いを告げようと階段を駆け上がったとき。ハーレムルートを認めたくなくて初めて妨害をしたとき。
どれも失敗に終わっている。全ては俺がこの世界に来た日、ヒロインを囲まれている主人公を見た時から始まっている。
しかし、今回だけは失敗しちゃいけないんだ。
やり場のない悔しさを地面に向かって拳を振り下ろすと、遠くから聞き覚えのある音が聞こえてきた。
スノーモービルの駆動音だ。音は段々とこちらに近づいてきて、やがてライトが俺を照らした。
スノーモービルに乗っていたのは、見知らぬ男性だった。男は俺の隣まで来るとスノーモービルを止めた。
「君は佐藤君かな?」
「はい、そうですが……」
「それなら君で最後だな。私は石川様に仕えているものだ。本一の坊ちゃんは病院に搬送された後も、君を心配していた」
「石川が……」
「うわ言のように『捜索を続けろ』とおっしゃられたので、一部の者はこうして山に残り捜索を続けていたんだ」
会話の中で気になる言葉があった。
「あ、あの……」
「何だね?」
「俺が最後ってどういうことですか?」
俺の疑問に、彼は淀みなく答えた。
「一時間前に四人の男女が保護された連絡を受けた。それとつい10分前、山小屋に一人でいた少女も助かったそうで――」
四人の男女。それはつまり、織田は三人のヒロインを見つけたということだ。
終わっていた。
俺がどう動こうが、イベントは終わっていたのだ。
一時間前は俺が山小屋にいた頃で、その時には既に織田はヒロインを見つけていたのだ。
劇的な変化もなく、期待していたような逆転もない。
そういうものだと納得してしまう自分とまだ諦めたくないと喚く自分がいる。
けれども、相対する二つの思いがあったところで現実は変わらない。
「ははは……いつだってこうだ。呆気ない終わり方だ。うまくいかないことは今に始まったことじゃないんだ……」
「だ、大丈夫かい? とりあえず麓まで下りよう」
「……はい。此処にいる意味はもう無いですからね」
心のなかに灯っていた微かな希望が、掻き消された。
▽
宿泊棟に戻った俺は、一人で天井を眺めた。
石川は病院に、そして田中は別室にいる。残された俺はどうすることもできずに、ただ時間を浪費していた。
心のどこかで期待していた。織田とヒロインを取り合うような対決を。俺自身がヒロインを助けて、ヒーローに成れる瞬間を。
でも、実際は俺の手の届かない所でイベントが終わっていた。
いつもと変わらない失敗という現実。そこにモブキャラクターが介入できる隙間は初めからなかった。
右手を挙げて、蛍光灯にかざす。この手で、俺は何ができたのか。答えてくれる人は、ここにいない。
「ん、あれは……?」
部屋の片隅には、ゲームの情報を書いたノートが置かれていた。
俺たち三人がゲーム攻略のためにまとめて、妨害のために使用したものだ。
なんとなく捲っていくと、とある頁で手が止まった。
好感度によるルート分岐。
急いで織田が起こした行動を思い返し、ヒロインの好感度の数値化をしていく。
人の感情がそんな簡単に測れるものだとは思っていない。
けれども、ゲームに沿っているこの世界では織田の行動は直接的に影響を与える。
ふざけてやがると貶したくなるが、今はこの数値に頼るしかない。
ノートに全ヒロインの好感度を書き込み終えると、一つの事実が浮かび上がった。
「まだゲームオーバーにするチャンスが残っている。好感度が足りてない」
この林間合宿での妨害が功を奏したのか、織田は必ず今夜動かなければいけない。
宿泊棟を抜けだして、ヒロインに会いに行く。それを妨害できれば、織田をゲームオーバーにできる。
しかし、何の準備もなく織田に対抗することができるのか。また失敗してしまうだけのなのではないかと不安になる。
部屋の中を見回すと、不自然に膨れている田中のバッグが目についた。
昨夜田中がそこに入れた物を思い出しながらバッグを開けると、中からサバイバルナイフが出てきた。
サバイバルナイフを取り出して、確かめるように握る。
刃渡りは15cmほど。文化祭の時に見たものよりは、小さいという印象を受けた。
そして、俺は織田に対抗する術を思いついた。確証はなかったが、それは抗うための手段に成り得る。
鞘を外して刃を見ようとした時、部屋の扉が開く音が聞こえた。慌ててナイフをポケットにしまい、振り返る。
「こんなところにいたのかよ」
少しやつれ気味の田中が立っていた。
「風邪を引いてるんだろ。早く戻れよ」
「石川から結果を聞いたぜ。残念だったな。……でもよ、諦めたわけじゃねえよな。顔が死んでねえからな」
「ああ、まだ諦めたくないんだ」
「それなら手伝うぜ。合宿場にいる間に使えるかもしれねえ細工を見つけたんだ。ほら、中央広場にあった――」
「お前は休んでいてくれ」
ナイフを隠しながら、田中の元に近づく。
「へっ、嫌だよ。風邪なんて気合があればどうにでもできる。寝ていたら、後悔するだけだ」
「お前……」
「ここまで来て、協力させてくれないなんて逆に酷えぜ。スキーで協力できなかった分、やらせてくれよ」
俺はしばらく考えて、首を縦に振った。それから、二人で織田が行動するまでの計画を立てる。
確認し合った後、俺は一足先に外へ出ることにした。扉を開きかけると、田中が声をかけてきた。
「心配だから言うけどよ、何かトンデモねえことやらかす気なのか?」
「どうしたんだよ。そんなこと聞いてくるなんて」
「眼が据わってんだよ。覚悟を決めたとしても、雰囲気が違ったから」
「俺の妨害は織田をヒロインのところに行かせないだけのものだ。雰囲気が違ったのは……多分スキーの失敗が響いてるだけだ。心配することはないさ」
「それならいいんだけどよ……」
「それに田中がいないと今回の妨害は成功しない。田中こそしっかりやってくれよ」
「ああ、やってやるぜ」
拳を見せてきた友人に頷き返してから、外へ向かう。宿泊棟を出てから、誰にも聞かれないように呟いた。
「これで……いいんだよな」
覚悟を決めるために、胸を三回叩いてから夜道を駆け出した。
これが正しい倒し方なのか、俺には分からない。