桜の蕾が膨らみ始めて、風も暖かくなってきた。もうすぐで春が来る。
春、それは新しい出会いの季節。そして出会いの前には別れもある。
正門近くにある桜の木は、他の木と比べて一回り大きく、僕はその下で彼女を待っていた。
長袖を少しだけ捲り、腕時計を出す。時計の長針が9を指し、丁度約束の時間になった。
坂の下で、走ってこちらに来る彼女の姿が見えた。
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正しい主人公の倒し方 第零話
~No.65~
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「珍しいね。秀実ちゃんが遅れるなんて」
「そうですか? いつも私が着いたら、すぐに先輩も来るじゃないですか。今日はたまたま逆だっただけですよ」
「そうだったんだ。……立ったまま話すのも疲れるから、ベンチに座ろうか」
桜の木がよく見えるベンチに、僕らは腰を下ろした。
昼休みや放課後に、ここに座ってよく喋っていたことを思い出す。
勉強とか、部活とか、そんな他愛もない話をずっとしていた。
僕から話題を振って、秀実ちゃんが面白可笑しく答えて、ずっと笑っていた。
でも、今日はどんな言葉から始めればいいのか、検討もつかない。
これから僕たちは別れる。
だから、どんな言葉が必要なのか分からない。
「……」
風が強く吹いた。桜の木の枝がしなる。僕は拳を強く握った。
「明日には、この街を去るんだよね」
「はい、荷物は向こうに送りました。明日には街を出るつもりです」
「……ごめん。結局、僕は何も力になれなかった」
「学校を辞めることは決まっていましたから。先輩は悪くないです」
「違うんだ。僕が君の一番近くにいた。君のことを一番理解していた。そう思って、何もやらずに怠けていたんだ。
秀実ちゃんが遠くに行くって分かっていたのに……どうしようもないクズだよ、僕は」
「先輩ッ!」
僕の言葉を否定するように、秀実ちゃんは大きな声を出した。
「……いいんです。これ以上自分を責めないで下さい。私は大丈夫ですから。学校を辞めても、私は私ですから」
どうしてそんな悲しい顔をしながら、笑っていられるのだろうか。
何故、僕はこんなにも惨めな気持ちになるのだろうか。
「手紙も出しちゃいけないんだよね?」
「はい。向こうではそういう決まりなんで」
「もちろん電話も駄目だよね?」
「駄目です。あとで、携帯のアドレスから私を消しといて下さい。もう掛けることありませんから」
「……はは。駄目だな、僕は」
「どうしたんですか、伸樹先輩?」
肺から全ての空気を吐き出す。
「秀実ちゃんみたいに潔く諦められない。本当に辛いのは君なのに、どうしてか僕のほうが未練が残っているよ」
情けない。僕は彼女に最後の弱音を吐いた。
「……私だって未練は残っています。でも、何もかも遅いんです」
「うん、そうだよね。そんなことは前からずっと分かっていた。……そうだ。秀実ちゃんに最後のお願いをしていいかな?」
「何ですか?」
「僕の頬を思いっきり叩いてくれ」
「ええっ!」
驚く秀実ちゃんに、僕はなるべく笑って言ってみせた。僕ができる最後のつよがり。
「区切りだよ。今日、僕と秀実ちゃんは別れる。辛気臭く未練を残すより、最後に恋人らしい別れ方がしたいんだ」
「ビンタが恋人らしい別れ方なんですか?」
「うん。ドラマなんかで見るけど、あれは良い別れ方だよ。未練も心残りも何もかもを手の平に乗せて、相手にぶつけるんだから。
それで、またどこかで会えた時に今日の事を笑い合うんだ『どうしてビンタだったんだろうね?』って。それが恋人らしい別れ方」
「……はぁ、いいですよ。思いっきりいきますからね」
僕は目を閉じて、ビンタに備えた。
歯を食いしばって、待つこと十秒。まだ来ない。
油断をした瞬間に来そうだから、まだ待ってみる。
でも、何も来なかった。
そっと目を開けると、隣にいた彼女が消えていた。ベンチには僕しか座っていない。
慌てて立ち上がり、周囲を駆けまわった。けれども、秀実ちゃんの姿はどこにもなかった。
どうして彼女は叩かなかったのだろうか。どうして彼女は別れも告げなかったのだろうか。
僕が余分な一言を言ってしまったせいだ。
『またどこかで会えた時』
それができないことを彼女は知っていた。だから、こんな別れ方になってしまったんだ。
「……もう逢えないんだよね」