それがあるからと言って、世界が滅んだり終わったりはしない。
だからと言って、世界を救うために必要なものではない。
ありふれたゲームショップの片隅にでも置いてあるようなものだった。
ただ一点だけ。それはこの世界にあってはいけなかった。
彼女が手にしているものは、この世界の全ての始まり。
この世界の在り方にして、元となるとなるもの。
『School Heart』
それを彼女は持っていた。
そして俺に向かって彼女は「私はヒロインですよ」と言った。
▽
正しい主人公の倒し方 第二十三話
~School Heart~
▽
秀実ちゃんは袖でゴシゴシと涙を拭ってから、こちらを見つめてきた。
俺はというと彼女を直視できず、ゲームソフトを見て困惑していた。
次々と浮かんでいく疑問。何から考えればいいのか分からない。
ヒロイン? 秀実ちゃん? いつから? どうして? イベント?
疑問が湧き出るように浮かび、頭の中に漂っては散乱していく。
野積みされていき、放置されていき、脳味噌を圧迫していく。
だから、脳味噌が混ざり合ってぐちゃぐちゃになっていく前に、1つだけ取り出す。
取り出せた疑問をそのまま口にした。とぼけてこの場をやり過ごすなんて選択肢は端から考えていなかった。
「それは本物なのか?」
「これに偽物があるんですか?」
「……それは本当に『School Heart』なのか?」
「そうですよ。織田先輩が主人公のゲームです。……やっぱり先輩は知っていたんですね」
その言葉を聞いて、頬がやや引き攣る。
間違いなく彼女が持っているものは、俺がプレイしたことがあるゲームだ。
そして、疑問が疑惑へと変わっていく。彼女が手にしているそれを食い入るように見た。
「これがそんなに気になるんですか」
「……ああ、もっと見させてもらえないか」
「いいですよ。……でも、その前に質問に答えて下さい」
「……それなら、お互い質問をし合わないか? 俺も君に聞きたいことがある」
「分かりました。答えられる範囲でなら」
彼女はしっかりと頷いた。
どれから聞くことにしようか。壊れた蛇口のように溢れ出てくる質問。
手当たり次第にかき集めるが、数の多すぎるそれらは頭の中から零れ落ちていく。
5個、10個、20個、数え直す度に増えていく気がした。
「先輩、条件をつけましょう」
突然、彼女から提案が出された。
「質問を考えてみたんですが、先輩に聞きたいことがたくさんありすぎました。先輩もそうですよね?」
「……確かにそうだな」
「だから、5つまでにしましょう。その代わり嘘や誤魔化しは無しです。もちろん黙秘権は無しですよ」
俺は頷き返した。
5つに絞るのは難しいことだが、後半の条件は魅力的だった。
もちろん、彼女が嘘をつく可能性だって考えられる。けれども、何も聞かないよりはマシだ。
沈みかけた夕日は、俺達二人の影を細長くする。影はフェンスの先まで伸びていて、首の辺りでぷつりと切れていた。
秀実ちゃんが最初に質問をする。
「私からいきます。1つ目、どうして先輩は妨害なんてしようとしているんですか?」
「織田のハーレムを作らせないためだ。こちらからの質問1、どうして俺が妨害していると知ったんだ?」
「先輩の行動を見ていれば分かります。それに、何度も思わせぶりなことを言ってましたから」
「ああ、そうだったな……」
秀実ちゃんと一緒に帰った日を思い出す。あの時の俺はこんなことになるとは思っていなかった。今だって信じられない。
「それでは2つ目、どこで先輩はこのゲームを知ったんですか?」
「先に俺からの質問、どこで秀実ちゃんはこのゲームを手に入れたんだ」
「……道端で拾いました」
「いつ?」
「質問の1つに数えますよ」
「いいぞ。それでいつだ?」
「この学園に入る前です」
秀実ちゃんが、この学園に入る前ということは4月より前になる。
つまり俺が佐藤尚輔となる前から、『School Heart』を知っていたことになる。
それが本当だったら、俺が彼女に初めて会った時には既に……。いや、今は考えないようにしよう。
「先輩は3つの質問が終わりましたね。では、私の質問に答えて下さい。どこで先輩はこのゲームを知ったんですか?」
「近所のゲームショップだ」
嘘は言っていない。それを聞いた秀実ちゃんは、眼を大きく開いた。
「……本当に?」
「同じ質問をしてもいいが、同じようにしか答えない」
「分かりました。続いて3つ目、先輩は『School Heart』を持っています?」
「持っていない。……俺からの質問4、秀実ちゃんはいつからこの世界に来たんだ?」
「……えっ、質問の意味が分からないんですが?」
「それならそれでいい」
本当に分かっていないようだった。普段から彼女の姿を見ている俺にとっては、それが演技だとは思えなかった。
どうやら秀実ちゃんは俺のようにこの世界に来たわけではなく、元からこの世界にいたらしい。
俺は残り1つ、秀実ちゃんは2つ。残された質問は少ない。最後は慎重に選ばないといけない。
「私からの質問その4。先輩は本当に佐藤尚輔なんですか?」
息が詰まる。今までにそれに気づいた人はいなかった。
松永にも明智さんにも、俺からその事実を言っただけだ。
どこで、気づいたのか? それを聞くか? 駄目だ、勿体無い。
「どうなんですか?」
「……違う。俺は佐藤尚輔であるが、佐藤尚輔ではない」
「やっぱり、そうなんだ。『であるが、ではない』とは、どういうことなんですか?」
「それは質問の1つになるぞ?」
「う~ん、それなら答えなくていいです。最後はとっておきにしなくちゃもったいないですから」
いよいよ互いに最後の質問になる。
数ある中から、最も重要な質問を選び抜く。
それを選んだ理由は直感だった。この質問をすることになったきっかけ。
俺は彼女が持っている『School Heart』を指差す。
「最後の質問。どうして、俺にそれを見せたんだ」
彼女が口を開くまで待ち続ける。
辺りは静かになっていた。部活動は既に終わっているようで校庭から人の姿は消えていた。
虫の声も聞こえない屋上では、既に体を溶かしてしまうほどの熱気はない。冷たい風が頬を撫でる。
俺は彼女と過ごした文化祭を思い出した。初めて彼女に弱音を吐いた日。
その時、彼女は弱い俺を受け止めてくれた。だから、俺は脇役であることを選べた。
もしあの時、俺があのまま腐っていたらこんな状況にはならなかったのだろうか。
彼女の口元が上がる。
「ふふふっ」
彼女は笑い出した。気味が悪い笑い方ではない。
嘲りではなく、おどけたように。心と腹の奥からこみ上げてくるような純粋な笑いだった。
彼女は先ほどの雰囲気とは打って変わって、嬉しそうな表情を浮かべていた。
「あははははははっ」
「なんで笑ってるんだ?」
「ごめんなさい……やっぱり私にシリアスな雰囲気は似合いませんね」
「……はぁ?」
「だって、先輩とこんな雰囲気になったことなんてなかったじゃないですか? ピリピリしてて、真剣勝負みたいな空気。
そうそう、西部劇に出てくるガンマンを思い出しちゃったんです。こう、先に一歩動いたら負けだぜ、みたいな。
……だから、今までと違ってちょっと楽しくて嬉しかったんです」
その秀実ちゃんの笑顔を見て、俺まで毒気を抜かれてしまった。
肩の力も抜けて、ふっと溜息がもれてしまう。
「それじゃ、最後の回答をしますね」
あどけない笑顔をしながら、秀実ちゃんは最後の質問に答えた。
「それは対等でいたかったからです」
「対等……? どういう意味だ?」
「ブブー! 駄目ですよ、先輩。それは6つ目の質問になりますからルール違反です」
沈んだ太陽の代わりに、いつの間にか空には月が浮かび始めた。
秀実ちゃんは両手を後ろで組んで、こちらに近づいてくる。
俺の足から頭の先までじっくりと見つめた後、ニカッと笑顔を見せた。
「先輩に謝らなくちゃいけないことがあります」
彼女は『School Heart』を手渡してきた。
懐かしいパッケージ。それは俺の知っているゲームに違いなかった。
ケースを開けた時、俺は声を上げそうになった。そこにあるべきはずのものがなかったから。
「そんなに驚かなくても大丈夫です。私が拾った時にはありました」
「それなら――」
「ゲームソフトは織田先輩に渡しました。だから無いんですよ」
「……」
「そして、織田先輩にハーレムルートへ進むように言ったのは私です」
質問をしていた時から薄々と感づいていた。
彼女はこの世界の決められたルールを知っていた。もしかしたら、俺以上に詳しいのかもしれない。
だから、織田と関わりを持っていてもおかしくなかった。それでも、簡単に割り切れない。
俺の弱い部分を受け止めてくれた秀実ちゃんが、織田伸樹の味方だったなんて……。
「今、言ったことは本当なのか……」
彼女は何も答えなかった。俺は秀実ちゃんの両肩を掴んで揺さぶりながら尋ねていた。
「なあ、答えてくれよ! 君が本当にしたのか!?」
どれだけ聞いても揺すっても彼女は黙ったままだった。
「お願いだ……。何か言ってくれないと、俺は君が嫌いになりそうだ」
「……ごめんなさい。全ては私が悪かったんです」
俺の手を払い除けて、するりと彼女は通り抜けた。
彼女の結ばれた横髪が俺の視界を遮り、そして流れ落ちていく。
彼女は扉の前で立ち止まり、ドアノブに手を掛けたところで振り返る。
「私からの最後の質問をします。……先輩は私のことが好きですか?」
「答えないといけないのか」
「質問をし合う前に決めたはずです。黙秘権は無しだと」
「俺は君のことが嫌いじゃない。けれども今は――」
「……そうですよね。あんなこと言ったら嫌われるだけですよね」
「ち、違う。戸惑っているだけで君を嫌っているわけじゃない」
「もう、いいんです。……やっぱり先輩は優しいです。私はそんな優しい先輩が大好きでした。それじゃあ、今までありがとうございました。さようなら」
それだけ言うと、彼女は扉を開けて屋上から消えた。
一人ぼっちになった俺の手元にはソフトのないゲームケースがある。
月が俺を嘲笑うかのようにじっと見つめていた。
▽
次の日の放課後。
俺は明智先輩のいる図書準備室に向かった。
必要好感度を考慮すると、妨害を進める相手は羽柴秀実と明智美鶴の二人しか残っていない。
しかし、先日あった出来事を思い出すと秀実ちゃんを相手する自信がない。
もちろん、そんなより好みできるような状況ではないことは分かっている。
図書準備室の扉を力なく三回ノックした。
明智さんとお茶でも飲みながらゆっくり考えようと思っていたが、扉の向こうから声が聞こえない。
不在なのだろうか。もう一度ノックをしてみた。
「明智さん、俺です。入れてください」
準備室の中から人が動いた音がした。なんだ、明智さんいるじゃないか。
ドアノブを掴んで中に入ろうとした時、彼女の声が聞こえた。
「……すみません。今日のところは帰ってくれませんか」
消えてしまうような弱々しい声だった。
「はい、分かりました……なんて言えません。入れてください」
「嫌です……」
「俺も嫌です。入れてくれるまで俺は扉の前に居座りますよ」
「……分かりました」
無理矢理という形で了承を得た俺は、扉を開いて中に入った。
大きめな椅子に座っている明智さんは、顔を隠すように本を読んでいた。
ただし、本当に本を読んでいるのか分からなかった。
部屋の中はカーテンを閉めきっており、こんな暗さで本を読むことはできないからだ。
「明かりをつけた方がいいですよ。こんなに暗いと――」
本すら読めないと続けようとしたが、俺はその言葉を飲み込んだ。
「どうして泣いているんですか……」
「ごめんなさい、私が悪いんです」
「……謝る前に、理由を話してくれませんか?」
「私は貴方から預かった日記帳を捨ててしまいました」
軽い目眩がした。
キーホルダーを捨てるというイベントを阻止する代わりに交換した日記帳。
考えが浅はかだった。キーホルダーは過去の思い出を象徴するものとして投げられるはずだった。
だが、あのイベントはキーホルダーを捨てることが重要ではなく、過去との決別が重要だったのだ。
だから、思い出という点なら日記帳でも十分代わりに成り得た。
どうしてそこまで頭が回らなかったのか、悔やみきれない。
「取り返しのつかないことしてしまいました……。彼に、尚輔に顔を会わせられません」
「……すみません、俺のせいです。そうなる可能性があったのに、至らなかった俺が悪いんです」
「いいえ、違いますよ。結局、投げたのは私自身ですから」
そう言われてしまい、返す言葉を失った。
けれども、俺は断じて明智さんのせいだとは思わない。
ゲームのことを伝え、守ると言って、それでも何もできなかった俺の方が悪いに決まっている。
しかし、そんな事を口にしたところで明智さんは納得しないだろう。その事が分かっているからこそ、余計に心苦しさを感じた。
明智さんは顔を隠していた本を置いて、こちらをじっと見た。涙の跡が見えた。
「……すみません。やはり帰ってもらえませんか」
「どうしてですか?」
「貴方は尚輔と同じ顔をしています。貴方がそこにいるだけで、彼が私を責めているように思えるんです。
そんなことを彼がするはずがないのに……。私はどうかなってしまいそうです」
「そんな……」
「ごめんなさい、これは私の我儘です。できれば、もう私は貴方と会いたくありません」
思わず俺は自分の顔を撫でた。この世界に来てからもう一人の自分として受け入れた顔。
納得していたのは俺だけで、本当の 佐藤尚輔を知っている彼女には受け入れがたいものだったのだろう。
それはこの前の出来事からも分かることだ。
でも、彼女は俺が佐藤尚輔と成り代わったことを一度として責めなかった。
だからこそ、彼女から初めて拒絶を見せられたようで『会いたくありません』という言葉が重く伸し掛かる。
奥歯を噛み締めて、俺は扉に向かう。準備室に出る直前になって明智さんが声を掛けてきた。
「最後に一つだけ、織田伸樹は貴方がどう妨害するのか知っているようでした。もしかしたら協力者がいるのかもしれません。
ごめんなさい。これぐらいしか伝えられなくて……」
それは既に知っていることだった。協力者はゲームソフトを渡した羽柴秀実だ。
その事実を更に突きつけられて、泣きそうになるのを無理して微笑んでみせる。
「……情報ありがとうございます。それでは」
扉を開けて、外に出る。もう図書準備室には来ないだろう。
「さようなら、明智さん」
「さようなら、もう一人の尚輔」
▽
時間だけが残酷に過ぎていく。
何をしても、何もしなくても、一分一秒進んでいく。
最後の一週間が終わった。
▽
1学期の終業式が終わり、学生たちは夏休みを迎える。
そして、夏休み初日。
ゲームではルートが確定するその日、俺は学園に繋がる坂を歩いていた。
桜の木の下で、織田伸樹とそのルートのヒロインが会う。
つまりハーレムなら、全ヒロインが桜の木に集まっていることになる。
一人でも欠けていたなら、失敗だ。それが俺の求めるこのゲームの終わり方。
坂を登りきると、桜の木の下には織田伸樹と数人の影があった。
柴田加奈、織田市代、斉藤裕、明智美鶴……そして、羽柴秀実。ヒロイン全員が集まっていた。
織田伸樹はハーレムルートの確定に成功した。
俺はその場で膝をついた。目の前で行われているルート確定後のイベント。
そのやり取りは俺の知っているものと、寸分の狂いなく進められていく。
やがてイベントが終わり、ヒロインたちは桜の木から去った。
桜の木の下に一人だけ残っていた織田は、こちらに近づいてきた。
「佐藤君、どうしたんだい?」
「……お前は、成功したんだな」
「そうだよ。君が知っているように僕はハーレムルートに入った。後は何があっても悪いようにはならないよ」
織田は優しく微笑む。彼は決して俺を見下すような態度を取らない。
「これを君にあげる。もう僕には要らないものだから」
ポケットから取り出したのは透明なプラスチックのCDケース。そこに『School Heart』のソフトが入っていた。
それだけ渡すと、織田も学園を去っていった。
現実感がなくなる。
照りつける太陽も、青々しい桜の木も、俺自身も、作りものであるように思えた。
それを否定するようにアスファルトに向かって拳を叩きつけると、皮が捲れて血が出た。
生きてる。だから、痛い。血も出る。でも、この世界は作られたものだ。
これはゲームだから、プログラムされたように決められた道にしか進めない。
俺は脇役。主人公の働きを遠くから見ているだけの傍観者。
『School Heart』は、まだしばらく続く。
その現実に俺は絶望した。