戦場だった。
そこに味方は存在しない。
信じられるのは自分の力だけ。
体育館の扉が開かれる。
待ち構えていた主婦たちの瞳が変わる。
その瞳に見覚えがあった。
突発的なタイムセールが開催された時のそれだ。
日々買い物で訓練された主婦のその眼は、即座に対象物を目標物へ変える。
彼女らは一心不乱に敵兵を掻き分けて目標物を奪取する。
誰よりも早く、誰よりも強く、誰よりも靭やかに。
目標物を掴んだ手を休めることはしない。
次があるからだ。
例えるなら、それは暴風。
この嵐を止められる者は居ない。
一人の主婦が勢いをつけて商品に手を伸ばす。
周りを気にしない、良く訓練された主婦だ。
係の生徒が静止を掛ける。
だが、その程度で止まるようでは主婦の名を語れない。
一瞬で生徒の手が跳ね除けられた。
気がつくと、商品は主婦の手の中へ。
知覚を越えた動き。
居合術のような電光石火の早業。
生徒は何が起きたのか理解できなかった。
彼が呆然としている間にも、商品は次々に消えて行く。
静越学園の体育館ではバザーが行われている。
しかし、ここは体育館ではない。
そう、ここは戦場だ。
▽
正しい主人公の倒し方 第十二話
~被覆鋼弾~
▽
さて、俺の状況を説明しよう。
今、俺は体育館のバザーに参加している。
予想以上の盛況を見せているバザー。
先ほどまで隣にいた秀実ちゃんは、メイド服を着たまま主婦たちの輪に突撃した。
なんでも、欲しいぬいぐるみがあの輪の向こうにあるそうだ。
「だが、どうしたものか……」
俺は少し離れた場所から熱気が渦巻く輪を見届けていた。
主婦たちが鬼の如く凄まじい形相をしながら群がっている場所は、割引商品があるスペースだった。
半額当たり前、夢の八割引き、もはやタダ同然。
買わなければタダなのに、『割引』という魔性の魅力が主婦を惹き込む。
同じような鍋を三つも買っていた主婦がいた。
きっと買った後に後悔するんだろうな、と思いながら俺は別の場所を見て回る。
始めに目に付いたのは、コーヒーカップだった。
体育館の片隅に他の陶器に紛れながら、ひっそりと置いてあった。
コーヒーカップと言っても、美濃焼のコーヒーカップ茶碗だ。
独特の深緑色とわざと歪めた奇抜な形。
そのカップに一目惚れしてしまった。
手に取って使い心地を確かめる。
――悪くない。
「ほほう、それを見つけるとは中々いい眼を持っとるな」
声がした方へ振り向くと、そこには日本史の渡辺先生がいた。通称、お爺ちゃん先生。
定年間近だが、授業の分かりやすさと親しみ易さで人気のある先生だった。
彼は、田中が苦しんだあの日本史のテストを作った人だ。
そんな先生は、俺が持っている陶器を見ていた。
「綺麗で鮮やかな深緑色だろう。
実はそのコーヒーカップ、私が寄付したものなんだよ。
確か君は……」
「二年B組、佐藤です」
「ああ、そうだった。
すまないねえ。年を取ると物忘れが多くて困る。
顔は覚えていても、名前が思い出せないとは」
そう言って先生は恥ずかしそうに頭の後ろを掻いた。
それから、懐かしそうに眼を細め他の陶器を手に取った。
先生は、わが子を慈しむようにそっと丁寧に扱う。
「私は、来年には教壇から去らなければならない。
学園に何か貢献出来ないかと思って、家に眠っているものをあらかた寄付したんだ。
私が言うのもなんだが、そのコーヒーカップは良い物だ」
「そうですね。落ち着いた色合いに心惹かれました。
手に取って分かりましたが、奇抜な形も逆に手に馴染みます」
「ふむ。佐藤君、やはり君は良い眼を持っている。
歪んだ形も違う角度から見ると毎回違う味わいがある。
私は珈琲をあまり飲まないから、棚に眠らしておくのが勿体無く思っていた。
学生には少し高いかもしれないが、使ってもらえれば嬉しい」
手に持ったカップをくるりと回して全体を眺めた。
先生の言うように、見る場所によって趣が変わる不思議な形だ。
一見だけで知り得ることの出来ない魅力。
気に入った。
「俺、これ買いますよ」
「それはありがたい。大事に使ってやってくれ」
俺の返事に、先生は子が誉められた親のように頬を緩ませた。
自分が思ったことを素直に顔に出せるのも、この先生の人気の一つかもしれない。
「……それにしても、君は他の生徒とは少し違うな。独特な雰囲気を持っておる。
それに、いつも難しそうな顔をしていたが、今日は良い面構えだ。
何か良い事があったのかい?」
「……まあ、ボチボチと」
「それは良かった。
いつも苦虫を噛み潰したような顔じゃイカンぞ。
今度何かあったら相談に来なさい。
勉強でも、私事でも構わん」
「はい、そうさせてもらいます」
先生と別れ、コーヒーカップを持ったままレジに向かった。
少し値が張ったが、自分の気に入ったものなので後悔は微塵もない。
むしろ、良い買い物が出来て嬉しいくらいだ。
包装されたカップを手に、体育館の出口で秀実ちゃんを待つことにした。
最初に比べて、荒れ狂う主婦の輪は少しだけ沈静化していた。
待つこと数分。
大きなぬいぐるみを両手に持ちながら、輪からメイドさんが出てきた。
サイドポニーにピョコピョコさせながら、覚束ない足取りで出口まで来た。
「お疲れさん」
「お疲れ様でしたー。人が多かったですね」
「ああ、そうだな。……それ、大きすぎじゃないか?」
「えっ、そうですか?」
疑問を投げかけてくる彼女とは対称に、両手に持つぬいぐるみはかなり大きい。
小柄な彼女が持つと、体の半分はぬいぐるみで隠れる。
緑色の服を着て耳がぐるりと巻かれているうさぎ。
半開きされた口と間抜けな顔が可愛くも……見えないな。
少なくとも俺にとっては。
「先輩は何を買ったんですか?」
「俺はこれだよ」
俺は包装を外して、コーヒーカップを見せた。
秀実ちゃんは一度ぬいぐるみを床に置いてからカップを見た。
「へえー。変わったカップですね」
「ああ、この奇抜な形が遊心を擽るだろ。
これ、日本史の渡辺先生が寄付したものなんだ。
良い物を買えたよ」
「あっ、お爺ちゃん先生ですか。
渡辺先生って、生徒のこともよく考えてくれる良い先生ですよね」
「ああ、今年でいなくなるのが惜しいな」
体育館に設置された時計で時間を確認した。
そろそろお化け屋敷のシフトが入る。
「さて、名残惜しいがそろそろ時間だ。とりあえず校舎の方に戻ろうか」
「えっ、もう時間なんですか!?」
「すまない。クラスに迷惑を掛けるわけにはいかないからな。やっぱり楽しい時間は過ぎるのが早いものだ」
「そうですね。本当に短かった気がしますね」
彼女も俺と同じように楽しい時間を共有してもらえたのなら、嬉しい限りだ。
一旦別れることになる彼女に、俺は質問を投げかけた。
「秀実ちゃんは、この文化祭を最後まで楽しみたいか?」
「もちろんです! お祭りは最後まで楽しまなきゃ損ですよ!強いて言えば、最後に先輩と……」
「ん? 後のほうが聞こえなかったが」
「いいえ! 何でもないです。お仕事頑張ってください!」
秀実ちゃんはピシッと右手の人差し指をデコにつける。
左腕にあの間抜けなぬいぐるみを抱いたまま。
メイド服とぬいぐるみと敬礼。
そのギャップに笑いそうになったが、俺も彼女に敬礼を返した。
「じゃあ、行ってくるよ」
「はい! また会いましょう!」
熱気に包まれた体育館を出た。
体育館通路まで一緒にいても良かったが、ノリで別れてしまった。
コーヒーカップが他の人に当たらないように気をつけながら、俺は教室に戻った。
教室の外装は実に凝ったものだった。
窓ガラスを全て外して障子に変えてある。
蜘蛛の巣や壊れかけの柱も備え付けてある。
見た目は、さながら廃れた長屋のようだ。
文化祭の『お化け屋敷』にしては上々の出来。
時折中から教室の中から悲鳴が聞こえる。
クラスメイトに声を掛けて、裏口から教室に入った。
教室の中は、風が一切入らず蒸し暑い。
狭い通路を歩き剥き出しの鉄パイプを避けながら、第三ブースを目指した。
暗い通路の先には、前の担当者がまだ仕事をしていた。
その前任者は釣り糸を垂らしては、お客さんにこんにゃくを当てた。
お客さんから悲鳴が聞こえては、ガッツポーズをして喜びを表す。
こんにゃく当て――遠くから見ると地味な仕事だが、その前任者は楽しそうに仕事をしていた。
お客さんの反応が良い時には、右手を口元に当てクスクス笑っていた。
こんにゃくを当て、素早く戻し、雑巾で拭いたら、また当てる。
その単調な作業を飽きることなく続けていた。
頃合いを見計らって、俺は声を掛けた。
もうこの際、この前任者がずっとこんにゃく当てをしていても良い気がしていたが。
「お疲れさん、交代の時間だ」
「あれ、もうそんな時間だったかな?」
前任者が振り返る。
そういえば彼女も同じブースだったな。
昨日から今日にかけて色々な事が有り過ぎた。
今朝からずっと避けていた彼女を、今日初めてしっかり見た。
黄色いヘアピンで掻き分けられた前髪。
いつも人の苦労を見つけてしまうお節介な瞳。
ちょっとだけ自己主張が強い胸。
そして、いつもと変わらない優しい笑顔。
「ああ、そうだ。斉藤さん」
思う事は山ほどある。
だが、俺はそれを堪えた。
「じゃあ、後はお願いね」
斉藤さんははこんにゃく付きの釣竿を俺に渡した。
ぷらんぷらんと空中を回るこんにゃく。
コイツは、今日何人の首筋を舐めたのか。
その度に、お客さんからどれほどの恨みを買ったのか。
俺は額から流れる汗を手で拭きながら、そんな事を考えることにした。
「交代の前に一つアドバイスしておくね。
教室の中はかなり暑いから、水分補給を忘れずに。
スタッフルームのクーラーボックスに飲み物があるよ」
「了解。こんなに暑いとは思わなかった」
「確かに暑いね」
斉藤さんはポケットからハンカチを取り出し、首筋を拭いた。
緑と白のチェック柄をしたそのハンカチは、女の子が持つにしてはあまりに男らしいモノだった。
可愛さの欠片が微塵もなく、サラリーマンが使っていそうな没個性なハンカチ。
斉藤さんが汗を拭いたそれに、俺は間違いなく見覚えがあった。
「あれ、どうしたの?」
「……それ俺のハンカチじゃないか?」
「えっ?」
斉藤さんが握っているハンカチは、台風の時に渡したものと酷似していた。
彼女が持つハンカチの動きが止まった。
ハンカチは首筋から目の前に差し出された。
確認が終わると、彼女はぴょっんと勢い良く顔を上げた。その顔は赤い。
「ご、ごめんね。今日返そうと思っていたんだよ。本当にごめん! 今度返すから!」
「気にするなよ、今でいい」
「えっ! それは困るよ!」
「なんで?」
「……だって、私の汗がついているから」
自分のデリカシーのなさに恥じた。
次の言葉が思いつかず、言葉が詰まる。
どうして沈黙とは意識してしまうと、こうも時間の進みが遅くなるのか。
第3ブースはこの間、三組ほどお客さんを無視してしていた。
四人組目のお客さんが来る前に、口を先に開いたのは俺の方だった。
「……聞きたいことがあるんだ」
「何?」
「斉藤さんは、この文化祭を最後まで楽しみたいか?」
斉藤さんは、その綺麗な目をさらに丸くした。
突然脈絡のない話を持ち出され驚いたのだろう。
だが、俺からしてみればこの質問は、大いに重要なものだった。
これは、自分から逃げないための一歩だ。
自分を納得させるために、俺は彼女に聞いた。
「どうだ?」
「私は楽しみたいよ。みんなで頑張った文化祭だから」
「そうだな。みんなで頑張ったよな」
その時、第3ブース前をお客さんが通過した。
俺はすかさず手に持っていた釣竿を飛ばして、お客さんの首筋にこんにゃくを当てた。
気味の悪い触感にお客さんは思わず、うひゃあと情けない声を上げた。
それを聞いた俺と斉藤さんは、二人でクスクス笑った。
「ありがとう、参考になった。残りの仕事は任せてくれ」
「うん、任したよ。じゃあまたね」
手を振って彼女は通路を進み、暗闇に消えた。
残された俺は、彼女から引き継いだ仕事を取り掛かった。
こんにゃくを垂らしながら、明日の事が頭の中に浮かんだ。
今日になるまで考えていなかった選択肢。
ゲームに沿わない新しい展開。
明日は行動を起こすには、絶好の日和だ。
俺は背景でいることを選んだ。