クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (八) 氷室の視点 いつもの交差点で、バスを降りる。 寒いというほどではないが、早朝の空気は稟としており、冬が間近に来ていることを教えてくれる。 学園へと通じる坂道は、運動部の早朝練習に向かう学生がちらほら見える程度で、閑散としている。 もちろん、私もそのうちの一人だ。 12月にある競技会に向け、陸上部でも最終調整に余念が無い。 私にとっても、学園生活最後の大会だ。自ずと気合いも入る。 ……いや、認めよう。 足取りが軽いのは、気合いが入っているからばかりではない。 衛宮……いや、士郎との、夕べのやりとり。 一歩、前進することができた、という満足感が、そうさせているのだろう。 間桐嬢やイリヤ嬢とのことなど、まだまだ不安要素も多いけれど、 彼の《家族》となるための一歩を踏み出せたという嬉しさの方が、今は勝っていた。 そんな充足感に浸りつつ坂道を登っていると、まさに、脳裏に描いていた人の後ろ姿を見つけた。 珍しい。 彼は、確かに他の生徒よりは早く登校するが、朝練がある私と同じ時間帯、ということは今まで無かった。 かすかに疑問を抱きつつ、やはり想い人に朝から出会える喜びには勝てない。 私は、さらに足取りも軽く、彼の背中に駆け寄った。「おはよう、士…衛宮」 士郎、と呼ぼうとしたが、少ないとは言え他生徒が周りにいる路上では、やはり呼びにくい。 別に隠しているでも無し、堂々としていれば良いのだが、そこはそれ、やはり照れというものがあるのだ。「…ああ、おはよう鐘……氷室」 やはり私のファーストネームを呼び掛け、苗字に言い直した彼に、嬉しさと気恥ずかしさを覚える。 しかし、振り返った彼の顔を見て、そんな気持ちは吹っ飛んだ。「……」 いつもの笑顔。 ぶっきらぼうで、照れくさそうな、でも、なによりも暖かい表情。 なにひとつ、変わってなどいないはずなのに、「どうした?」 そう問いかける彼からは、決定的に《生気》が抜け落ちていた。 おそらく、顔見知り程度の者が見たら、普段と同じ、と言うだろう。 いや、彼の友人であっても、いつもより元気が無いな、くらいにしか思わないに違いない。 しかし、私には分かった。分かってしまった。 今の彼には人間が、いや、生物が必ず持っているエネルギーが、ほとんど感じられない。 もともと、衛宮士郎という人間には、どこか空虚な部分がある。 しかしそれは決して、中身がない、ということではないのだ。 彼の性格同様、表に出ることはあまりないが、普通の人間を圧倒するほどのエネルギー、 《生気》と呼び変えても良い物が、その空虚な部分をも含めて、彼を満たしている。 そんなエネルギーの大きさ、暖かさに触れた者のみがそれを理解し、彼に惹かれるのだ。 なのに、今の彼からは、そのエネルギー、《生気》が、ごっそりと抜け落ちている。 視覚ではいつもどおりに見える彼の顔色は、私には土気色に見え、 普段と同じはずの肉付きは、蚤で削いだかのようにげっそりとやつれて見えた。「……どうした?氷室」 いつもと同じ(ように見える)笑顔で、士郎が再度問いかける。 しかし、私に返事をする余裕はない。 これが……彼か? 夕べまで生気に満ち、私を満たしてくれた、衛宮士郎か? まるで、一晩で地獄巡りでもしてきたかのようではないか。「……鐘?」 三度目の彼の問いかけに、私はようやく我に返った。 他の生徒たちが、坂道の真ん中で突っ立っている私たちを、不思議そうに眺めながら追い越してゆく。 とりあえず、動こう。 私は二、三度頭を振り、彼と並んで歩き出した。 まだ、声は出ない。 隣を歩く彼を見る。 思い違いであれば、という私の願いは虚しかった。 一見、普段どおりに見える彼の足取りは、まるで鉄球でも引きずっているかのように重かった。 一歩踏み出すのもやっとなはずのその足を、鋼の意思で動かしているのだ。「……どうしたんだ?」 私は、やっと声を絞り出した。 そんな状態なのに、なおも私のことを心配そうに見つめる、彼の視線に耐えきれなくなったのだ。「……」 今度は、彼の方がしばらく無言だった。 だんだん、二人の歩みが遅くなる。 それでも、学園は着実に近づき、校門まであと数十メートルの所まで来た時、「……鐘には、わかっちゃうんだな」 彼が、ポツリと呟いた。「心配かけてゴメン。 なんでもない、って誤魔化したかったんだけど、鐘相手じゃ無理みたいだ。 でも、一口で説明できることじゃないんで、後でいいか?」 確かに、もう校門に達している。 今からでは、詳しい理由を聞く時間など無いだろう。「……分かった。昼休みに美術室、でいいか?」「……ああ。ほんと、ゴメンな」 そして私たちは校門で別れた。 私は陸上部室へ。 彼は、教室か生徒会室にでも行くのだろう。 本当はずっと付き添っていたかったのだが、場所が学校であれば、私たちにはそれぞれの本分がある。 後ろ髪引かれる、とは正にこの事か。 彼の背中が校舎内に消えるまで、私はずっとそれを見送っていた。 午前中は、散々だった。 朝練習では、アップ終了の号令に気付かず、一人で延々と走り続け、ダッシュの合図に反応せず立ちつくしていた。 授業が始まっても、機械的にノートを取りはするものの、教科書は前時限のものを開いていたり、 シャープペンシルをカチカチ押し続け、芯のすべてを机に撒いていたり。 以前、士郎に振られた(と思い込んでいた)時より、まだひどい。 あのときは、自分自身をコントロールすればよかった。 しかし今回は、原因が私ではない。 他の人の痛みを自分に感じ、それを制御する。 そんな、生まれて初めての事態に、私は戸惑うばかりだった。 やっと昼休みのチャイムが鳴り、私は美術室へと向かった。 最近は昼食のローテーションが確立され、週に三回は蒔寺、由紀香と三人で。 一回は士郎と二人で。 残る一回は、我々三人に士郎を交えての食事となっていた。 その順番で行けば、今日は三人での昼食なのだが、蒔寺たちに詫びて別行動を取らせてもらった。 彼女たちも、普段とあまりに違う私の様子に戸惑っていたのだろう。 すんなりと許してくれた。「……なんか、あったのか?」 蒔の字が、恐る恐る聞いてくる。「……わからないんだ」 私の答も煮え切らない。「鐘ちゃん……だいじょうぶ?」 由紀香も、心配そうな顔だ。「……だと、いいんだが…」 こんな返事では、余計に心配させてしまうだろうが、そう答えるほか無い。 美術室は、相変わらず閑散としていた。 油絵の具や粘土の匂いがして、食事には不向きの場所だからだろう。 しかし、私には慣れ親しんだ匂いだし、彼も特に気にはならないという。『オイルやグリースの匂いより、よっぽど上品だよ』 そう言って笑ったのは、いつだったか。 いつもならば、軽やかに滑るはずの引き戸が、今日はやけに重く感じられた。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。