クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ三)「あ、違う。 ジャガイモの皮を剥くときは、もっと薄く―――こそげるくらいの気持ちでいいんだ。 皮に栄養があるんだからな」 キッチンに立ち、指導が始まるころになって、ようやく私たちは平常な会話が出来るようになった。 なにしろ、(今日は、両親が………よ、夜までかえらない、ことを、だ) あの問いかけの後、士郎はこちらが感心するほど真っ赤に茹で上がり、数分間棒立ちに硬直してしまったのだ。 やっと動けるようになり、取り落としたレジ袋を拾い上げてからも、まるで某SF映画の通訳ロボットのような歩き方をするは、こちらに話しかけようとして意味不明の音声を発するは、ちらちらとこちらを見たかと思うとぶんぶん頭を振るは、正に《動揺》という言葉をそのまま人型にしたような慌て振りだった。 それを見て、ほっとした。 彼にとって―――少なくとも恋愛については、『経験』というものは意味を成さないらしい。 私の朝からの煩悶を、一気に濃縮したような彼の挙動に、多少なりとも溜飲が下がったことも事実だ。 ―――もっとも、それで私が落ち着きを取り戻したかいうと、それはまた別問題である。 むしろ、彼の動転振りが、私の動揺を加速してしまったらしい。 エレベーターのボタンを間違えたり、家の鍵がどうしても穴に入らなかったり、彼を家に上げる前に最終チェックのため無意味に室内を走り回ったり……「……鐘。 とりあえず落ち着くために、落ち着いて深呼吸して、少し落ち着こう」 彼が、自分自身に言い聞かせるように提案する。 確かに、こんな心理状態で料理などしようものなら、どんなことになるか。 技術が身に付く、付かない以前の問題だ。 最悪、怪我や事故に繋がりかねない。 彼といっしょに深呼吸を繰り返し、エプロンを装着し、腕をまくって手を洗い――― まるで儀式のように、それらに真剣に取り組んでいるうちに、ようやく心が静まってきた。 そして、改めて「では、先生。 今日はよろしくお願いします」「よし、こっちは準備出来てるからな。 鐘は―――あ……」 ……だ、だから。(私は……一致した。 君の準備は、……どうだ?)「―――」「………」 せっかく落ち着いたのに、 思い出させるんじゃ、ない…… 苦心の末、ようやく出来上がった昼食を、彼と二人で食べる。 差し向かいで箸を動かしていると、先ほどとは別の意味で、妙に気恥ずかしい。 ―――気恥ずかしいのだが、それがまた、妙に嬉しい。 気付けば、自然に顔がほころんでいる。 それは、真向かいの彼も同じだった。 しかしそれとは別に、料理の師匠としての彼は、なかなか厳しかった。 以前、この家に年賀に来て、私の料理を――まさにこのテーブルで――食べたとき、彼は言っていた。『こと料理に関しては、俺は絶対に嘘は言わないし、言えない』 その言葉の通り、今日の料理に関しては、何とか及第点なのは鰤の照り焼きのみ。 あとは、『尚精進ヲ要ス』といった判定だったようだ。 ―――思わず、溜め息が漏れてしまう。 まあ、最初からうまくいくのならば、こうやって教えを受ける必要も無いわけだが。 士郎はもちろん、桜さんや遠坂嬢、あの領域に近づくまでには、どれくらいの研鑚を積まなければならないのか。 落ち込みつつ、ふと顔を上げると、彼もまた溜め息を吐いていた。「……まったく。 講習初日でこれだけのものを作るなんて。 これじゃ、師匠なんていらないぞ、ほんとに」「え……?」 知らず、聞き返す。「だってそうだろ。 確かに、お客さんに食べさせるにはちょっとあれだけど、立派に料理になってるじゃないか。 これで、初めての料理だって言うんだから……」 彼は、むしろ呆れたような顔で首を振る。「そ、それは、君が手伝ってくれたから……」「いや、そうじゃない。 確かに俺も少しは手を貸したけど、味そのものに関わることには、ほとんど手出ししてない。 俺も、人に敎えるのは初めてじゃないからな。 その辺の所は、ちゃんと心得てる」 確かに、私には兄弟子……いや、姉弟子がいる。 しかし、あの人の腕前とは比べるべくも…… そんな私の思いを読んだわけでも無いのだろうが。「ほんとに、桜がこのこと知ったら、本気で悔しがるぞ。 いや、 『妹に抜かされるわけにはいきません!』 って、メラメラ燃えあがるかもな。 あいつ、最初はおにぎりも満足に握れなかったんだから」「桜さんが?」 思わず、声を上げてしまう。 信じられない。 あの、良妻賢母の典型、料理ならなんでもござれの桜さんが……「ほんとさ。 あ、でも、俺が言ったってことは内緒な。 でないと、後が怖い」 そういって、ちょっと大げさに震えてみせる士郎。「……どうかな。 なにしろ、私は彼女の妹だからな。 姉に逆らう、というのは……」「おいおい」 笑い合いながら、二人で箸を進めていく。 ……改めて知った事実だが。 士郎は、教師の才能もある。 厳しいところは厳しく。 教え方も的確で、説明に無駄がない。 だが、決して無味乾燥ではなく、生徒に自分で考えさせる方法も知っている。 そして、なにより生徒をやる気にさせる接し方。 褒めるところはきちんと褒め、しかも褒めすぎない。 口で言うのは易しいが、誰にでも出来ることではない。 さすがは、あの名教師・藤村大河の弟、と言ったところか。 ―――教壇に立つ士郎、というのも、案外似合うのではないかな。 そんなことを思いつつ、含み笑いをしていると、「まあ、これで俺も、張り合いが出てくるよ。 いくらなんでも、弟子二人にそろって追い抜かれるわけにはいかないからな」 半分強がりだけどな、と彼が、笑いながら話を継いでくる。「師匠がそう言ってくれるのならば、私もやる気が湧いてくるな。 姉妹弟子二人で、師匠越えを目指すか」 私も笑みを向けつつ、彼に返す。 ……心の中では、 あまり上達しなくてもいい、いつまでも彼に、料理を習う立場でいたい、 と思いつつ。「後片づけも、料理の大事な一環である」 という師匠の方針の下、キッチンを元どおりピカピカに磨き上げ。 私たちは、今はリビングで食後のお茶を楽しんでいた。 私の家では、母の好みもあって、こういうときは大抵紅茶なのだが、 せっかく和食をいただいた後なので、日本茶を喫することにした。 もちろん、これも料理教室の一部分でもある。 食中のお茶は士郎が入れたが、今度は私の番だ。 先ほどの士郎の手並みを思い出しつつ、慎重に行う。 紅茶に関しては、ひととおり手順を知っているつもりだが、日本茶の入れ方には、それと似ている部分も、似て非なる部分もあった。 師匠からは、お褒めの言葉はなかったが、ダメ出しも無し。 ま、『普通です』と言ったところか。 しばらく、お茶を啜りながら話を楽しむ。 途切れそうで、途切れない会話。 途切れたとしても、それを埋められる笑顔。 彼との、いつもの楽しいひとときだ。 しかし。 やはり、少しずつ口が重くなってゆく。 料理に夢中で、いや、あえて夢中になって、今まで意識の片隅に追いやっていたが。 先ほどまでのやりとりが―――この家に、二人きりで居る、という事実が。 私たちの口を、重くさせる。 だが、先ほどまでのように、狼狽はしない。 私たちは、もう《準備》は整っているのだから。 どちらともなく言葉を発さなくなって、数分。 彼が、不意に立ち上がり、「 …… 」 私の隣に、腰掛けた。「―――鐘。」 彼が、私の肩を抱き、そのまま抱き寄せる。 私は、それに逆らわない。 そのまま、彼がゆっくりと、私に口づける。 浅く、深く、やさしく、力強く。 そのリズムに酔いながら、私は自分を確認する。 うん。 大丈夫だ。 今は、ずれていない。 私の頭と、私の心の《準備》は、ぴったりと重なっている。 しかし。 彼から感じるリズムには、何かしら迷いが感じられる。 それは、頭と心が重ならないが故の、迷いではあるまい。 《覚悟》が定まらないためでも、無いはずだ。 ならば、彼は何を…… ―――そうか。 彼は、《場所》について、迷っているのだ。 彼に、私とひとつになることへの躊躇は無い。 しかし、今日この場所で、という想定は、おそらく彼には無かっただろう。 恋人の家。 自分が愛する人のテリトリー、ある意味で精神的な『城』とも言える場所で、そのようなことを行うのは、 その人の聖域を侵すことに繋がってしまうのではないか、と。 彼は、そう悩んでいるのだ。 ……実に、彼らしい。 やさしくて、思いやりがあって、同時に、鈍感だ。 心から愛する人と結ばれるのに、自分の家だから嫌だ、などと言う人間が、 どこの世界にいるというのか。 彼の口づけを受けながら、私は微笑んでいた。 口で説明するのはたやすいが、それは野暮になるだろう。「……しろう。」 だから私は、区切りを見つけて彼からそっと唇を離した。 彼の掌を取り、そのまま立ち上がる。「私の部屋に、行こう」 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。