クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ二) アイデンティティーの欠片をできる限り掻き集め、どうにか行動できるようになるまで十数分。 ようやく、私と士郎は当所の目的地に向かうことが出来た。 すなわち、ヴェルデ地下の総合食品売り場。 そう。 今日は、かねてからの懸案であった 『士郎の料理教室』 初日なのだ。 前々から話の出ていたこの試みが、今日―――2月の第一日曜日にまで延びたのには、もちろん理由がある。 端的に言ってしまえば、私の大学受験のためだ。 1月の最終週、私は近郊の美術大学を受験した。 士郎と付き合い始めてから……否、私が士郎を意識し始めてから、 正直言って、受験勉強どころではない日々が続いたような気もするが。 しかし、部活動や様々な事件を経験しつつも、決して絵筆を忘れたわけではないし、ましてや勉学をおろそかにしたつもりも無い。 自惚れと言われるかもしれないが、技術・知識ともに多少の自信はあったし、専門教師の方々にも 『まず合格圏内』 と言われていた。 試験直前に慌てて詰め込み作業を行うのは、私の美学にも反する。 なので、年が明けても普段と変わりなく過ごそうと思っていた。 ……のだが。「いや、ラストスパートで気を抜いちゃいけない」 実に、正しいことを言い出す男がいた。 お察しのとおり、衛宮士郎である。「それでなくてもここのところ、鐘の周りはごたごた続きだったからな。 万が一にも俺のせいで、鐘の受験に影響があったら、俺は一生お前に顔向けできない」 そう言って、より一層の勉学を熱心に主張する。 さらに、有言実行の人でもある彼は、年明けから、極力私の時間を拘束しない方向で行動した。 すなわち―――デートの時間が、ほとんど無くなったのだ。 1月中旬に両家を行き来した《年賀回り》は、その意味では希有な例外だったと言える。 もちろん、会う時間が全然無かった訳ではない。 受験間近のこの時期、三年生はほぼ自主登校。 学園の授業など有って無きが如しだったが、彼も私も毎日登校した。 私たちは何も、有名大学に入るために穂群原学園に通っているわけではない。 三年間、充実した日々を送るため。 人生の一頁を実りあるものとして綴るためだ。 当然、昼休みなどは昼食を共にしたし、 下校時もいつもと同じく、彼はアルバイトの有る無しに関わらず、私を送ってくれた。 が。 逆に言えば、二人きりになれる時間などそれくらい。 例えば帰り道に、ちょっと公園にでも寄っていかないか、などと控えめに誘っても、「いや、今が大事な時期なんだから。 大切にした方がいい」 などと、聞きようによっては違う方向にも取れる台詞を述べて、彼は頑なに私を自宅まで送り届けてくれる。 これが、まったく機械的に、何も感じずに行動しているのならばともかく、 むしろ彼の方が、私といっしょにいたい気持ちを抑えるために、身を裂かれるがごとくの表情を浮かべ、 しかも必死にそれを隠しているのが丸わかりなのだ。 そんな顔をされてまで自説を主張できるほど、私は神経が太くない。 ……蛇のなまごろし、とまでは言わないが、 彼と充分な時間を過ごせないストレスを考えれば、多少なりとも寄り道でもした方が、勉強がはかどるような気もするのだが。 そんなわけで、年明けからこちら、私はある意味、悶々とした時間を送ってきた。 ある時など、やはり無欠席で通学してくる美綴嬢に「よう氷室。衛宮断ちはずいぶん辛いと見えるねえ。 ま、辛抱辛抱。 あと少しだよ」 などと、豪快に肩を叩かれたりしたくらいだ。 彼女なりの励ましなのは分かるが……その『衛宮断ち』というのは、何なんだ。 とにかく、ある意味私にはもっとも辛い一ヶ月間が過ぎ、晴れて今日……「ほんとにがんばったなあ、鐘。 疲れとか、残ってないか?」 満面の笑みを浮かべる士郎の隣を、やはり会心の笑みで歩くことが出来る。「本当に心配性だな、君は。 試験が終わってから、一週間も経っているんだぞ」 確かに、完璧を期すためのラストスパート、プラスその…多少の欲求不満もあって、試験終了後はいささかぐったりもしていたが。 本当に久々の、士郎と過ごせる一日を前に、そんなものはとっくに吹き飛んでいる。 むしろ、少しでも近くで彼を感じていたい、という欲求を抑えるのに、一苦労なくらいだ。 だが今は、休日の午前中。 場所は、人々が集う駅前。 そんなところで、まさか早々に腕を組んだり、ましてや抱きついたりなど……( ――― かくごは ― )「……」 ふいに動きを止めた私を、彼が不思議そうに見る。「どうした?」「あ、ああ。なんでもない。 それより、急ごう。 もう、開店しているころだろう?」 彼の掌を握り直す。 そう。まだ午前中なのだ。 手をつなぐくらいが、私たちには相応しい。 二、三度頭を振って幻聴を払い、私は彼を引っ張るようにして足を速めた。 約束の時間よりずいぶん早く出会った私たちだが、駅前でのゴタゴタが結果的に時間調整となり、ヴェルデに着いたときにはちょうど開店時間だった。 二人でここに来るのは、あのクリスマス・デートのとき以来だ。 あのときは、方々を回った末に地下へ行ったのだが、今日は真っ直ぐに足を向ける。 地下総合食品売場は、開店直後だというのに、多くの人で賑わっていた。 閑散とした様子を想像していた私が目を丸くすると、「共働きとか、普段忙しくてなかなか買い物できない人たちが、まとめ買いに来てるんだよ。 レクリエーションも兼ねてるんだろうな。 車で来て、家族で買い物して、お昼をどっかで食べて……そんな感じじゃないかな」 彼の説明に納得する。 まったく、いつものことながら、こういった所帯じみたことに関する士郎の洞察は鋭い。 私たちも、さっそく買い物籠を取り、人混みの中に加わった。 以前来たときは、言わば総論的な士郎の課外授業だったが、 その伝で言うなら、今日は各論、実地研修だ。「前にも言ったけど、俺に教えられるのは和食、それもお総菜料理だけだからな。 鐘は知識も充分だし、お母さんからも習ってるから、基礎の基礎からやる必要はないだろ。 だから、ポピュラーで応用の効くものを作ろう」 そう言って士郎は、さっそく食材に手を伸ばしている。 ちなみに今日は、どんな物を作るのか、と尋ねると、 ごはんと豆腐の味噌汁、肉じゃが、ほうれん草のおひたし。 そして、私が唯一作れる『甘鯛のポワレ』の発展形として、鰤の照り焼き。 それと、「家の冷蔵庫にキャベツと人参が少し残っている」 と私が言うと、「よし。じゃ、それで即席漬物も作ろう。 これ覚えとくと、便利だぞ」 ……。 以前にも感じたことなのだが。 この男は、本当に年頃の男子学生なのだろうか? 人混みの中には、家族連れや老夫婦だけでなく、見るからに新婚、といった二人連れや、恋人同士とおぼしきカップルも見受けられる。 初々しいものだ、と幾分、以前のような視線で観察をしていて、「……」 思わず苦笑した。 私たちこそが、その『恋人同士とおぼしきカップル』そのものだろうに。 そう言えば、以前にここで声をかけられたことがある。 柳洞一成。 元生徒会長にして士郎の親友。『お主たちが食材を選んでいた場面など、どこのおしどり夫婦かと思ったくらいだ』 などと、私たちをからかっていた。 いや、彼はそのようなからかいをする人物ではない。 多少、皮肉っぽくはあったが、彼がそう言うのなら、私たちは本当にそのように……(……人は、成長するものなんだぞ?)「 ――― 」 またも聞こえた幻聴に、動きが止まる。 否。 これは幻聴ではなく、私自身の…… 慌てて再度頭を振り、食材選びに専念する。 まったく、受験が終わって気が緩んだのか、あの時のあの場面が……「鐘。」「な、なんだ!?」「……いや、そんなに驚かなくていいけど。 でも、とりあえず今日は、ベーコンは使わないから」 いけない。 意識すまいと思えば思うほど、頭の中にあの時のシーンがよみがえってくる。 今までは、受験勉強に没頭することで、それを意識の外に追い出し。 数日前からは、家の大掃除で気を紛らわし。 つい先ほどまでは、士郎との久々の時間に有頂天となり、頭から消えていた光景。(……あれから、どれくらいの時間が過ぎたと思っている? 私は……一致した。 君の準備は、……どうだ?)「~~~~~!」 自分自身が吐いた言葉が、ついに明確に脳裏に聞こえる。 認めよう。 士郎の家へ年賀に行った帰り道。 私と彼が、確認し合った事柄。(私たちの準備は―――整った。) あれ以来、あのことが頭から離れない。 受験勉強という当面の障害が除かれた今、それを気にするなと言うのは、私にとって無理な注文だった。 まして今日は、本当に久々の、士郎との一日。 隣に彼がいる、という事実だけで、胸は高鳴り、頬が染まる。 とどめは、私の家の状況だ。 買い物を終えた今、私たちは《その状況の》家に向かいつつある。 これだけ条件が揃っていて、なんで平静な顔ができようものか。 なのに。「……鐘。 ほんとに大丈夫か? なんか、今日はおかしいぞ」 この男は真顔で、本気の口調で、純粋にこちらを心配して尋ねてくるのだ。 私は、自分では気の短い方だとは思っていないが、さすがに怒りを禁じ得ない。 彼は、あの時の会話を忘れてしまったのだろうか? 忘れるはずがない。 あのとき私たちは、うるさいくらいに響くお互いの心音を聞きながら、固く抱き合ったのだ。 鈍感ではあるが、誠実で細やかな彼が、あの時のやりとりを心に残していないはずがない。 ならば…… 軽く歯噛みをする。 彼がこんなに落ち着いていられるのは、やはり《経験の差》というものだろうか。 私にとって彼は初恋の人であるが、彼にとって私は―――そうではない。 《セイバー》。 彼がおそらく初めて愛した女性。 間違いなく、本気で愛した女性。 もとより、詳しい話など聞いたことはない。 それでも、彼と彼女の間柄は、通り一遍の表面的なものではなく、 まさに命を賭け、お互いの存在を賭け合った、ギリギリの恋愛だったことくらいは、分かる。 当然、そこには男女としての肉体的なつながりもあっただろう。 無ければ、おかしい。 それは、いい。 嫉妬していない、とまで言えば嘘になるが、それは、彼の人生にとって本当に大切な経験だったのだから。 悔しいのは、自分の経験の無さだ。 もとより、士郎以外の男性にこの身をまかせることなど、想像もできないが、 それでも、このような状況の中、落ち着き払っている彼の横で、 勝手に狼狽し、赤くなっている自分を客観的に見つめると、みじめな気分になってくる。 いつだったろうか。 前にも、こんな気分を味わったことがあった。 あれは確か……まだ私と彼が付き合う前。 気持ちのすれ違いから私が彼を避け、彼がそれを捕まえて、『氷室、俺と付き合ってくれ。』 と言ったとき。 あの時の士郎は、私には落ち着いて見えた。 私がこんなに苦しんで、ぼろぼろになっているというのに。 女性を捕まえて何かを言おうとしているのに、この男は取り乱しもせずに平然としているように、私の目には見えた。『ずいぶんと君は大人じゃないか。それは過去に恋愛を経験している故の強みだろうか?』 腹立ち紛れに、そんな酷薄な皮肉をぶつけさえした。 今なら、それが間違いだったことが分かる。 彼は、そんな器用な性格ではない。 そんな器用な性格だったら、私も、周りの人々も、これほどまでに苦労はしない。 あのとき落ち着き払って見えたのは、単に緊張から顔が強張っていただけであり。 加えて、彼がここぞと言うときにだけ発揮する、勝負度胸の強さ故だった。 本当はあのとき、私に負けないくらい彼も悩み、混乱していたのだ。 だが。 やはり、経験の差という物は、厳然として存在する。 特に、こうした男女に関することについては、如実に差が現れる。 彼も《あの時》以来、私に負けず劣らず、そのことを意識し、悶々としてきたはずだ。 彼の性格を思えば、それは簡単に推察できる。 しかし、それでもこうやって平然としていられるのは ―――少なくとも、平然を装っていられるのは、やはり彼のほうが、一歩先を進んでいるからだろう。 そうでなくて、あれほどの会話の後、久々に同じ時を過ごす恋人の前で、 しかも、これから向かうその恋人の家が、どんな状況にあるのかを知っていながら…… ……知っていながら? 彼は―――知っている、のだろうか?「……士郎?」「ん?」 ずっと私を心配し、こちらの気配を伺っていた彼が、私の呼びかけに答える。「なんだ?」「その……私は、話したか?」「なにを?」 きょとんとする彼の瞳を見ながら、私は今までの記憶をフル回転させる。 ―――あー。「その……今日は、両親が………よ、夜までかえらない、ことを、だ」「 ――― 」 士郎の右手から、スーパーのレジ袋が、落ちた。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。