クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (五ノ一) 「――― こんな、ところ、か……」 家の中を見渡し、ひとり呟く。 この台詞も、今日何度目になるだろう。 今日は早朝から―――否、数日前から、大掃除にも匹敵するほどの片づけを行った。 特に、キッチン周りと自室は入念に。 もともと私の家は、母が綺麗好きであり、私もその薫陶を受けて育ったので、仮に年末だったとしても大掃除などする必要もないくらい整頓されている。 それを、少しでも汚れらしきところを見つけたら徹底的に擦り落とし、何度も掃除機をかけ、小物を無意味にあちこちに移動し…… まさに今年の初め、士郎が年賀の挨拶に来たとき以来……いや、それ以上の奮闘だ。 あのときは、さすがに母に呆れられ、父から失笑を買ったが、今日はそんな突っ込みを入れてくれる人もいない。 そう。 今日は、この家には私一人。 父は相変わらずの公務で、特に今日は大事な会議があるとかで、深夜まで帰らない。 母は母で、婦人会の会合があるから夕食までには戻れない、何か適当に食べて頂戴、と言い残し、先ほど出て行ったばかりだ。 寄りにもよって、このような日に…… 浮かんだ想念を、頭を振って追い払う。 今、そのことを考え出したら、私はもう一歩も動けなくなってしまうだろう。 だからこそ、余計なことを考えないよう、今まで掃除に没頭してきたのではないか。 しかし、それももう限界、と家の中の整頓振りが告げている。 清掃用のエプロンを外し、キッチンの椅子に腰掛ける。 他のことを考えよう。……《そのこと》を、頭から追い出すために。 浮かんでくるのは、母が外出時に残していった言葉。(鐘。あなたはもう大人なのだから、細かいことは言わないけれど……) 先日の年賀の折。 父母による《元服の儀式》を受け、私は大人の端くれとなった。 それ以来、両親は本当にうるさいことは言わなくなり、ほとんど私の自主性に任せてくれている。 その母が、改まってこんな風に切り出すのは、珍しいとも言えるのだが。(大人の行動には、常に責任が伴います。 その責任を受けとめるだけの覚悟、そして周りに迷惑をかけず、事をスムーズに運ぶための準備。 それは、大人としての最低限の義務なのよ。 そのことだけは、忘れないで) いつも笑みを絶やさない母が、非常に真剣に、私の肩に手を置いて言い諭す。 内容は少々抽象的だが、私は素直に頷いた。 大人とはいえ、娘は娘。 まして、法的には未成年でもある身だ。 今日、この家で私が置かれる状況について、 流されるな、学生らしく節度ある行動を取れ、と母は言いたいのだろう。 ……。 他のことを考えるつもりが、結局《そのこと》に直結してしまった。 頬に上る血を、深呼吸して無理やり下げる。 時計を見ると―――約束まで、あと一時間弱。 さすがに、早すぎる。 早すぎるが……このままこうして座っていると思考が暴走し、本当に動けなくなってしまう。 私はもう一度頭を振ると、外出着に着替えるべく、自室に向かった。 ドアのオットーロックがかかる音を背に聞き、エレベーターホールへ歩を進める。 外出着、とは言っても、今日は屋内での作業が中心となるので、なるべく動きやすい服装――― すなわち、シンプルなデザインの空色のブラウス。ブラウンのフレアスカート。 薄いグリーンのカーディガンを引っかけた上に、ショートコートを羽織る。 ……服装として動きやすいことは確かだが、この色合いはいかがなものか、と心の隅で突っ込みが入る。 もともと私の持っている服は、ほぼ黒灰系統だった。 口の悪い蒔の字からは『氷室未亡人』などと呼ばれていたが、別に気にもしなかった。 それが自分に一番合っている、と思っていたから。 それが、他のクラスメートたちが着るような服に、少しずつだが興味を示しはじめ、 徐々に年相応の―――場合によってはそれ以上の、カラフルな服に袖を通すようになった。 ……特に、《彼》の前では。 私自身は、未だにこのような色合いの服が似合うとは思えないが、 そんな服を纏った私を見るたびに 『すごく似合う』 と喜んでくれる《彼》の笑顔を思い浮かべると……(この服はどうだろう)(あの人が着ているスカートは私にも合うだろうか) ショーウィンドウや、道行く人の衣服を見ている自分に気付く。 ……全く。 これが、私だろうか? エレベーターを降り、待ち合わせ場所に向かってゆっくり歩を進めながら考える。 数ヶ月前までの自分には、想像もできなかったろう。 クール、怜悧と言われ、《女史》と評され、 『彼女に惚れると凍傷を負う』 とまで噂された、この氷室鐘が。 少女趣味のカラフルな服に身を包み、 恋人の来訪のため数日前から掃除を繰り返し、 今、その人に会うために、約束より数十分も前に外出している。 そのような、恋に身をやつす乙女を観察することこそが、私の娯楽であり、ライ フワークであったはずなのに。 まったく…… すれ違う人々が、私を見る。 なぜか、みな笑顔だ。 まるで、微笑ましい物を見るような、慈しみの顔を浮かべている。 どうしたのだろう? やはり、この服の色合いは私には…… そこまで考え、原因に思い当たった。 私は、微笑んでいるのだ。 うっすらと頬を染め、少し俯き、恥ずかしげに肩をすくめ、微笑しながら歩いているのだ。 まるで、『私は今、恋をしています』と宣言するかのように。 思わず、立ち止まる。 一気に頬に血が上り、顔を上げていられなくなる。 そんな振る舞いが、ますます周囲の目を引く。 大きく深呼吸をしてから、また歩き出す。 今度は、顔を赤くしたまま、眉を寄せて少し大股に。 これはこれで、注目を集めることに気付き、慌てて普通の歩調に戻るよう努力する。 ―――なにをやっているのだ、私は。 そんなこんなで結局、待ち合わせ場所である新都駅前広場に、30分も前に着いてしまった。 ……士郎の、せいだ。 広場のオブジェ前で深呼吸を繰り返しつつ、脈絡もなくそう思う。 いや、脈絡は、ある。 私が、こうした服を着るようになったのも、掃除に念を入れるようになったのも、道行く人に注視されるようになったのも、 元はと言えばすべて、あの男がらみのことが原因なのだ。 あの男に関係のないことであれば、私はまだまだ『穂群の呉学人』と呼ばれたクールさを保つことが出来る。 ……できる、はずだ。 あの男のせいで、私は自分のアイデンティティーに悩み、歩道の真ん中で赤面する羽目になるのだ。 まったく恋とは、げに恐ろしきものかな。 いや、恐ろしいのは、一人の少女をここまで変貌させてしまう、あの男か。 ―――八つ当たりであることは百も承知だが、責任転嫁でもしないと、やっていられない。 彼こそいい面の皮だろうが、もう少し私の罵倒の標的になってもらうことにした。 だいたい、あの男は周りの人間を無防備にさせすぎるのだ。 独特の雰囲気―――オーラと言ってもいい空気で、こちらの鎧を剥がし、リズムを崩し、少しずつ自分のペースに巻き込んでいく。 それを用心し警戒していると、突然思いもかけない角度から言葉の攻撃を仕掛けてくる。 それに慌て、失態を招き、ますます彼のペースに巻き込まれ、自分を曝してゆく。 それらのオーラや攻撃が、完全に天然無自覚であることに、また腹が立つ。 もし万が一、彼がその武器を自覚し、自在に操れるようになったら…… 想像するだに恐ろしい。 その武器の犠牲者は、なにも私だけではない。 いや、数え上げれば切りがないだろう。 たとえば、彼の家族。 筆頭は遠坂嬢だ。 学校では完全なる淑女として振る舞っているが、彼のそばにいるときの彼女は、目を疑うほどの変貌振りである。 彼が以前《あかいあくま》と呟いていたが、正に至言。 桜さんは、彼の前では桜花のように微笑み、口数も多く朗らかだ。 これも、少なくとも学園で望見していた時の、大人しく儚げなイメージからは想像しにくい。 ……時折見せる、背筋の凍るような黒い笑みも含めて。 藤村先生は……あまり変わらないか。 否。変わりこそしないが、あの放埒な性格が、彼の前では自乗でパワーアップしている。 だだっ子風味すら加わっている。 イリヤさんに至っては、言わずもがな。 彼女ほど、彼や彼の家族といっしょにいる時と、それ以外の時のギャップが激しい人もいないだろう。 私自身が、骨身に染みてそれを知っている。 家族以外でも、彼といるときの友人たち…… 例えば美綴嬢、柳洞一成。それに蒔の字や由紀香らも、普段見せない表情をごく自然に出している。 そう。 彼の前にいる人々は、みな自然だ。 普段見せる姿などより、よほどくつろぎ、生き生きとしている。 極めつけが、うちの父と母だ。 謹厳実直、いつも寡黙で苦虫を噛み潰したような顔の父と、 微笑みを絶やさないが、口数も少なく厳しいところは厳しい母が、 彼の前では、また彼に絡んだ事柄では、妙にフランクでポジティブでファンキーな性格になっている。 そしてまた、それらの言動の、なんとしっくり馴染んでいることか。 生まれたときから一緒にいる私には、未だに信じ難いが、 これがあの人たちの本来の性格である、と誰かに言われたら、やはり納得せざるを得ないだろう。 本当に、あの男は、会う人間の虚飾を剥ぎ取り、本来の性格を露出させ、 しかもそれを極めて自然に、その人物や他人に不快感を起こさせないまま…… ……ちょっと、待て。 すると、―――なにか? 今まで考えてきた論理に、先ほどまでの私の行動を当てはめると。 私は、恋ゆえにカラフルな色合いの服を着たり、浮き足だって慌てふためいたりしているのではなく。 少女趣味で、おっちょこちょいで、キャピキャピ風味で、涙もろい、 士郎と付き合いだしてからの私が、本当の私の性格、ということか!? ………。 待て。 落ち着け、氷室鐘。 これは、私のアイデンティティーに関わる問題だ。 出生より今日まで築き上げてきた私の性格と行動パターンは、決して一朝一夕で崩れ去る物ではなく、また崩れて良い物でもなく、いや、それでは今の自分が嫌いであるかと問われれば、無論そういったことはあるはずもないのだが、しかしながら問題はそこにあるのではなく、あくまで彼と対峙したときの私の態度にこそ事態究明の鍵があるのであり、さらに、さかのぼって考えてみれば「鐘ってば」「ひゃうっ!!?」 突然、耳元で聞こえた言葉に、私は愉快な声を上げて直立した。 すごい勢いで上げた顔の鼻先三寸には、たった今まで罵倒していた男の顔。「 !!! 」 次の瞬間、私は声にならない悲鳴をあげ、すり足でバックダッシュしていた。 そんな私を、彼は呆然と見ている。「し、士郎!? い、いい、いつからそ、こに!?」 驚きすぎて、呂律が回っていない。「いつって…… けっこう前からいたぞ。 鐘が気付いてくれないもんだから……」 彼も、目をぱちくりさせながら答える。「そ、そうか。 すまない。少々、考え事をしていた。 し、しかし士郎。 だからといって、いきなり眼前で声をかけることも無いだろう。 親しき仲にも礼儀あり、と言ってだな……」「なに言ってんだ。 手を振ろうが、声をかけようが、全然反応しなかったのは鐘のほうだろ。 ……なんか、あったのか?」 彼が、本当に心配そうに私を見る。「……確認するが、士郎。」 ごくり、と喉を鳴らして、私は尋ねた。「私は、……どんな表情をしていた?」「どんな、って……そうだな。 微笑んでたかと思うと、急に首を振ったり、眉をしかめたり、赤くなってぶつぶつ呟いたり――― ……って、鐘?」 ……。 と、いうことは、だ。 私は、冬木市で一番人出の多い、新都駅前広場で、 彼がやってくるまでの十数分間、 恋する乙女丸出しの、ひとり百面相を、やってのけていた、ということか?「お、おいどうした、鐘!? いきなり頭かかえて膝付きそうになって…… どっか、具合でも悪いのか!?」 ――― 頼む、士郎。 お願いだから、少しだけ私に時間をくれ。 私のアイデンティティーの欠片を、少しでもかき集めることが出来るだけの、時間を。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。