クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ七)「 ――― 」 再度、絶句する。 《許嫁》…… 他の誰かから言われたのであれば私も、士郎のように真っ赤になって照れていただろう。そこはかとない嬉しさも感じつつ。 だが、この人から。 あの顛末をすべて知っているこの老人から言われたことで、体の奥に沈めていたものが、ゆっくりと浮上して来てしまった。 私と士郎を繋いだ、そもそもの発端。 そして私にとっては、正直、消し去りたい暗い記憶。「……申し遅れました。 実は、今日お伺いしたのは、過日のお詫びも兼ねてのことなのです」「鐘……」 背筋を伸ばし、雷画翁に改めて向き直った私を、士郎が気遣わしげに見つめる。 そんな彼に私は微笑みかけ、また翁に視線を戻した。「先日、お約束もせずに突然訪問してしまったこと。ぶしつけな問いを重ねたこと。 また、士郎…衛宮くんのお宅でお会いした時も、満足なご挨拶すらせずに席を立ってしまい、大変ご無礼をいたしました。 一人でお詫びする勇気も出ず、こうして衛宮くんに付き添われるまで伸ばし伸ばしにしていたことを、どうかお許しください」 士郎と教諭の視線を感じつつ、そのまま深く頭を下げる。「ほ…… お若いのに義理堅いの。 さすが、氷室さんの娘さんじゃ。こういう所もよう似とる」 雷画翁が、口をすぼめて笑う。「気にせんでええよ。 お嬢さんには悪いが、正直、忘れかけとった。 こないだシロ坊から、お嬢さんを連れて年賀に行きたい、と言われるまでな」 そのまま、杯で口を湿す翁に、藤村教諭が問いかける。「え? 氷室さん、ここに来たことあるの? それに、士郎の家でお爺さまと会ったって……」「大河」 そんな教諭に、雷画翁はたしなめるような声を出すが、「いえ、藤村組長。 このままでは、先生もお話が見えずにご不快かと思います。 よろしければ、事情をお話したいのですが……。 士郎、君も良いか?」「……ああ、俺はかまわない。 知られて困る話じゃないしな」「……」 私の問いかけに、きっぱりと答える士郎。 ……やはり、こだわっているのは、私だけなのだろう。 雷画翁からも特に反対の意思表示は無いので、私は藤村先生に向き直る。「先生。今まで黙っていて申し訳ありません。 決して、他意はないのです。 ただ、少々複雑な話で……」「ううん。別に気にしないでいいよ。 それに、言いにくいことだったら、私に気を遣わなくても……」「いいえ。 これからは、先生にもいろいろご相談する機会が多いかと思います。 ですから、知っておいていただきたいのです。 ……私には、《士郎》という名前の許嫁がいました」 息を飲む教諭に、私は出来る限り客観的に、事実を並べていった。 父の親友の息子である《士郎》は、十一年前の大火災で死亡したと思われていたこと。 あるきっかけで私が、その《士郎》と衛宮士郎の関係を調べ始めたこと。 この家まで雷画翁を尋ね、衛宮士郎の前歴などについて問いただしたこと。 それが発展し、雷画翁、父、私と士郎が、衛宮邸で会合を行ったこと。「徹底的に調べれば、分かることなのかもしれませんが。 士郎には、その意思はありませんでした。 父も、士郎がこうして平穏に生活している以上、あえて波風を立てることもあるまいという意向でした」 淡々と、私は藤村教諭に説明していく。 ……だが、自分でも分かっている。 その実、決定的な《何か》には、わざと言及を避けている、ということを。「……士郎は、それでいいの? 自分の、本当のお父さんやお母さんが分かるかもしれないのに……」 私の説明を聞き終わった教諭が、心配げに士郎に声をかける。 ……さすが、彼の姉を自負する人だ。 私ではまだ、こんな風な自然な問いかけは出来ない。 それに対し、士郎はいつもの笑顔を教諭に向けた。「かまわないよ。 って言うか、分かっても分からなくても、別に俺にはどっちでもいいんだ。 俺は衛宮士郎なんだから、それ以上のことは気にしてない」 藤ねえだって知ってるだろ?と小首を傾げる。「……そうだね。 士郎は、切嗣さんの子どもなんだもの。 私も、それ以上のことはどっちでもいいや」 さっきの逡巡が嘘のように、陽気に微笑む教諭。 二人の絆の深さに、ちょっと嫉妬してしまう。 が、それ以上に微笑ましさも感じる。 私にも、このように自然に振る舞える日が来るだろうか。 いつになるか分からないが、この人たちの家族と名乗れる日の自分を夢見て、私は……「話がみんなに行き渡ったところで、改めるがな。 今日、二人が揃ってここに来たということは、その話が実った、と思ってええんかの?」 ……なのにこの老人は、そんな私を現実に引き戻すのだ。 あの時も…… 士郎の家で会談をした時もそうだった。 過去なんて関係ないと、士郎自身がそう言っているのに、雷画翁はどうして蒸し返すのか。「爺さん。 なんで昔のことにそんなにこだわるんだ? 今も言ったけど、どうでもいいじゃないか、そんなこと」 士郎も、本当に不思議そうに雷画翁に問うている。 だが、違う。 違うんだ、士郎。 それは、私にとっては『どうでもいい』話なんかじゃない。「お前が、他の誰でもない、氷室さんのお嬢さんを連れてきたからじゃよ。 年寄りの覗き趣味、と思うてくれてもいいがな。 お前にとってはどうでもいい話でも、氷室さん……市長には、かけがえのない約束だったはずじゃ。 お前が、その《士郎》君なのかどうかは、この際置いてじゃ。 その約束を成仏させるためにも、その辺のところははっきりさせた方がいいと思うたのさ」「鐘の、お父さんの……」 言いよどむ士郎。 《約束》に対する父の思いは、私も充分理解しているつもりではいる。 だが、私はまだそれほど強くない。 ―――あの時の絶望。 心の真ん中に冷たいものを突き通されたような感覚を、再び味わいたくはない。 なのに、話の流れは、どんどんそちらに向かって突き進んでゆく。 ……聞きたくない。「どうじゃ、シロ坊。 このお嬢さんは、お前の《許嫁》で、いいんかの?」 聞きたくない、聞きたくない聞きたくない!「……あの時と同じだよ。 俺は、鐘をそういう風に見ることは出来ない」 ……… きっぱりと、そう言い切った。 自分が、俯いているのが分かる。 藤村雷画翁の前で、この言葉をまた聞くことになったのも、何かの因縁か。 そう。 私は、士郎に拒絶されたことが、二度ある。 一つ目は、新都大橋のたもと。 何度アプローチしても全く反応の無い彼に、頭がヒートし、『抱きしめれば、実感してくれるか?』 と、無理やりその胸に飛び込んだ。 彼の足は後退し、その手は私を押し返した。 今なら、それが自然な反応だと分かる。 思いも寄らない相手からそんなことをされれば、誰だって無意識に距離を取ろうとするだろう。 しかし、二つ目。 衛宮邸での四者会談のとき。『婚約の件は、どうされるんかの?』 今と同じ、雷画翁の問いかけに、士郎はいささかの逡巡も無く答えた。『すみませんが、俺、私は氷室さんをそういう風に見ることは出来ません』 一つ目の、条件反射のような反応と違い、それははっきりとした士郎の《意思》だった。 ……今の回答と同じく。 そんな士郎の答があったからこそ、私も自分の想いをはっきりと自覚できた。 そして、無謀とも言える接触を繰り返し、結果的にそれが今に繋がっているわけだが。 しかし、だからといって 《士郎に拒絶された》 という痛みが薄まるわけではない。 心が狭いと言われようが、あの一言は私にとって、非常な心的外傷になっている。 まして今、その台詞をそっくりそのまま繰り返された。 ひっそりと自嘲する。 私自身に約したエンゲージ。 柳洞、イリヤ嬢、シスター・カレン、その他多くの人に託された想い。 そして、彼と築いてきたと思っていた多くの事柄。 それらも、私の独りよがりの産物だったのか。 ……士郎は、私が想うほどには私のことを……「だって、そうだろう? 何度も言うけど、俺は衛宮士郎なんだから。 鐘のお父さんには申し訳ないけれど…… お父さんの親友の息子で、親同士の約束で、小さかった鐘と婚約してて…… そんな風には、どうしても思えない。 無理にそんな風に思うのは……間違ってる」「……え?」 思わず、声が漏れる。 そんな私に気付いているのかどうか、士郎は雷画翁を真っ直ぐ見つめながら言葉を接いだ。「俺は、切嗣の子どもになって、衛宮士郎になった。 そして、その俺のまま、鐘に出会って、鐘を好きになったんだ。 鐘も……衛宮士郎である俺を、好きになってくれたんだと思う。 だから、俺と彼女は、衛宮士郎と氷室鐘だ。 親同士が決めた許嫁じゃない」「 ――― 」 ……士郎。「それに……俺と鐘は、その……まだ、そういう約束はしてない。 あ、いや! したくない訳じゃないんだけど、その、まだ時期尚早って言うか……」「 ! 」 …な、なにを口走って…… 士郎は こほん と咳払いを一つして、続ける。「これから、俺と鐘がどうなるのか、俺たちにも分からない。 どちらかに何かがあるのかもしれないし、案外、簡単に喧嘩別れってことになるのかもしれない。 でも俺は、鐘とずっといっしょにいたい。 《死ぬまで一緒に》なんて大見得、今は切れないけれど…… 少なくとも、そうなるように頑張っていく。 全力を尽くして、実現させたいと思ってるよ」「………」 この、おとこ、は…… ……結局、私が浅はかだった、ということか。 士郎は、私を拒絶したのではない。 その前段階の、問いをする上での設定そのものがおかしい、と言っていたのだ。 やっと、思い出す。 あの四者会談の最後。 士郎の屋敷を飛び出し、庭に佇む私に、彼は言ったではないか。『俺かどうかわからない人の婚約を俺が継いだら良いみたいな話で、それっておかしいだろ?』 なのに私は、《彼から拒絶された》というその一点にのみ目が行き、他のことは考えられなかった。 笑いがこぼれる。 ずっと前から、 否、 最初から彼は答を示してくれていたのに、私だけがそれに気付かず、 勝手に『心的外傷』などと悲劇に浸っていた。 そして、もうひとつ。(俺は、鐘とずっといっしょにいたい。 《死ぬまで一緒に》なんて大見得、今は切れないけれど…… ……全力を尽くして、実現させたいと思ってるよ) 私が、自分自身に約した《エンゲージ》。 それは、彼にも話したことはない。 なのに、それとそっくり同じ内容の発言を、今、彼はしてくれた。 真摯に、己の真情を語ってくれた。(士郎は、私が想うほどには私のことを……) 笑わせてくれる。 自分自身に対し、そう告げる。 衛宮士郎は、氷室鐘なんぞよりも、何倍も相手のことを想ってくれていた。 私を、愛してくれていた……「――― 鐘?」 彼の心配そうな声が、耳元で聞こえる。 気付けば私は、両掌で自分の腕を抱き締め、必死に歯を食いしばって、嗚咽を堪えていた。「鐘、どうした? どこか……」 頼む、士郎。 今は、声をかけないで欲しい。 嬉しさ、切なさ、自己嫌悪、そして、君への愛情。 すべてが入り混じって私を満たし、爆発しそうなんだ。 こんなところへ、さらに君の声を聞いたりしたら、私は…… ふわりと、士郎の反対側から、柔らかい抱擁があった。 顔を上げると、向かいに座っていたはずの藤村教諭が、限りなく優しい表情をしながら、私を包んでくれている。「ほれ、シロ坊。行くぞ」「え、え? だ、だって爺さん……」「ええから。 たとえ想い人じゃからといっても、見られたくない顔もおなごにはあるんじゃ」 雷画翁が、士郎を立たせて引っ張っていく気配がする。 ふすまの閉まる音と共に、その気配が消えたとき。 それが、私の限界だった。「 ――― !!」 私は、私を包んでくれる暖かい胸に顔を押しつけ、思いきり泣きじゃくっていた。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。