クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ六) 災難は、予期せぬ時にやってくる。 予期が出来るものなら、それが災難となる確率は、当然ながら低くなるのである。 ―――そう、例えば、この屋敷の玄関をくぐった直後に見舞われた出来事のように。 『藤村組』 と雄渾な筆で書かれた表札が掛かる門をくぐり、私たちは玄関の前に立った。 一般市民ならば、ここがどういう場所であるかは知らなくても、その場が醸し出す威圧的な気配に押し戻されただろう。 だが、士郎は全く臆することなく、勝手知ったる他人の家とばかりに、無造作に玄関の引き戸を開けた。「こんにちはー」 私も以前に訪問したときは、胸に後ろ暗いところがあったからだろう、この雰囲気に圧倒されたものだ。 しかし、今は隣に士郎がいる。 誰に何を憚ることのない、年賀でもある。 だから、私も士郎に続き、多少緊張しつつも気負いなく玄関から屋内に入ったのだが。「士郎ーっ!!氷室さん!! いらっしゃい!待ってわよーーーっ!!!」 前方から突進してきた謎の物体に、私たちは身構える暇もなく、あっという間に拘束されてしまった。 状況を確認しようにも、頭を完全にロックされ、顔をなにか柔らかい物質に押しつけられているので、前を見ることも出来ない。 ただ、拘束される瞬間、黄色と黒の色彩が目に飛び込んできたばかりだ。「なっ! ちょ、ちょっと藤ねえ! いきなり何やってんだよ!」 私の横で、士郎がもがきながら大声を上げる。 藤ねえ? では、我々の頭を抱え込み、動きを封じているこの物体……もとい、人物は、藤村教諭か? 種々の状況を鑑みるに、藤村教諭は長い廊下を全速力で走り、玄関をくぐった私たちに飛びついて、二人の頭をその胸に掻き抱いたらしい。「もーう! さんざん焦らしちゃって、士郎も氷室さんもテクニシャンなんだから! そんな悪い子には、お姉ちゃんがこうやって、お仕置きしてあげるのだーっ!!」 意味不明の奇声を上げながら、ますますヘッドロックに力を込める教諭。 さすが、学生時代は『冬木の虎』と異名を馳せた御仁だ。 その俊敏さ、膂力の強さは目を見張るものであり、 さらに意外なことに、押しつけられた胸の豊かさと柔らかさは、さすがは大人の女性と言うべきか、少々自信のある私でも負けを認めなければならないほどで、 いや、そんなことより、二人いっぺんに頭を抱きかかえられているため、私と士郎の頬が、く、唇が……!「―――お嬢。 お喜びなのは分かりやすが、その辺で勘弁しておあげになったらいかがです。 親爺も、お待ちかねですし」 私たちが必死になってもがいているところへ、苦笑したような低い声が割って入った。「むー。 安さんたら、ムード無いんだからー」 しぶしぶ、といった感じで、拘束が解かれる。 やっと開けた視界の先には、角刈りの、柔和な顔つきをした中年男性が笑っていた。 優しげなその顔の、しかし鋭い眼光と醸し出す雰囲気は、隠しようもない。 だが、そんな男性に士郎は至って気楽に話しかけた。「いや、助かりましたよ安さん。 あのままだったら俺たち、虎の胸に抱きつぶされるところだった」「こらーっ!! 私を虎と呼ぶなーっっ!!」 《安》氏に頭を下げる士郎に、藤村教諭が涙目で絶叫する。 だが、そんな叫びも慣れっこなのか、「呼んで欲しくなけりゃ、少しは行動を慎め、藤ねえ。 おかげで、せっかく綺麗に梳いてある鐘の髪の毛が、乱れちまったじゃないか」 憮然とした表情でお説教する士郎。 どうやら、いつものやりとりらしい。 隣の《安》氏も、にこにこしながら聞いている。 だが、いつまでも玄関先で姉弟喧嘩をさせておく訳にもいかない。「いや、士郎。 気持ちはうれしいが、私なら大丈夫だ。 それほど芸のある髪型をしているわけでもないしな」 もともと私の髪は、細くて癖がない。 だからこの程度なら、頭を振って両指で軽く梳いてやれば、ほぼ元通りになる。 そんな仕草を行っている私に、藤村教諭が済まなそうに頭を下げてきた。「ごめんなさいね、氷室さん。 朝から、あんまり待ち遠しかったから……」「お気になさらないでください、先生。 遅くなりましたが、改めまして、あけましておめでとうございます」 そんな教諭に、背筋を伸ばして礼をする。 新学期になり、すでに学園で授業を受けている相手に対して、今さらこんな挨拶をするのも間が抜けているが、今日はあくまで年賀なのだ。 形は整えなければならない。「ありがとう、氷室さん。 あけましておめでとう。今日は本当に良く来てくれたわね」 藤村教諭も、いつもの向日葵のような笑顔で答えてくれる。 双方、頭を下げている隣で、士郎が ほっ と安堵の息をつくのが分かった。「さあ、挨拶もお済みになったところで、ご案内いたしやしょう。 親爺……組長も、朝からお待ちかねです」 《安》氏が、頃合いを見計らって声をかけてくる。「そうねー。 さあさあ、氷室さん、遠慮無く上がってね。 今日はあなたのために、ご馳走いーっぱい用意してあるんだから」 教諭が、笑顔のまま私の手を両手で引っ張る。「なんだよ藤ねえ、俺のためには用意してないのか?」 士郎が、苦笑しつつ教諭に文句を言う。「ふーんだ。 お姉ちゃんのことをいじめる弟なんかに、食べさせるご飯はありませんよーだ」「そんなら俺も、弟の頭を抱き潰すような姉には、飯作ってやらないぞ」「なんだとーーっ!!」 私の手を離し、またもや士郎と口論を始める教諭。 その光景を苦笑しながら眺める《安》氏に、私は話しかけた。「あの……先日は申し訳ありませんでした。 突然お伺いして、ご迷惑を……」 この人は、以前私がここを訪問したときに、出迎えてくれた男性である。 あの時は、一介の女学生が突然やってきて、組長と面会したいと言い出したのだ。 さぞかし仰天したことだろう。 だが、《安》氏は笑って手を振った。「なあに、気にしないでくだせえ。 それが、あたしらの仕事だ。 それに正直、お歳の割に度胸の座った娘さんだと感心してたんですぜ。 そのお嬢さんが、坊の想い人になってくださるんですから、あたしらにとってもうれしい限りだ。 どうか、坊のことをよろしくお頼み申しやす」「そ、そんな……」 『想い人』という古風な表現にも、年上の男性がきっちりと腰をかがめて頭を下げてくることにも驚いて、私の方こそ真っ赤になりながら慌てて手を振った。 《冬木の老舗暴力団》と言われている藤村組ではあるが、この男性を見るだけでも、決して粗暴な暴力集団などではないことが分かる。 これまた古風な表現だが、《極道》と呼ばれた昔ながらの『組』と言うにふさわしい。「さあ、切りがねえんで、どうぞお上がりになっておくんなさい。 お嬢!坊! あたしはこのお嬢さんをお連れしますんで、お二人はどうぞごゆっくり!」 《安》氏は、私を促すと同時に、ますますヒートアップする藤村教諭と士郎の口喧嘩に、明るく声をかけた。 通されたのは、和室だった。 おろしたてのの畳。白さが際だつ襖。立派な床の間には年代物の掛け軸が掛かり、匂い立つ水仙が鉢に生けられている。 士郎の家のくつろげる居間とはまた違う、静謐な暖かさだ。 その部屋の中央には、大きな椋木の座卓が置かれ、上品な和食が並べられている。 …以前に無理矢理押しかけたときは、重厚な洋間に案内されたものだが……「シロ坊、氷室さんのお嬢さん。 よう来てくださったな。 何もないが、ゆっくりとくつろいでいっておくれ」 痩身ながらもかくしゃくとした老人が、皺を深めて微笑む。 あの時、その洋間で、二人きりで話をした相手。 言わずとしれた、『藤村組』組長、藤村雷画翁だ。 膳を並べていた女性達も去り、今はこの部屋には四人のみ。 私の右隣に士郎。 真向かいには藤村教諭がにこにこしながら座り、はす向かいに雷画翁。「遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。 突然の訪問をお許しいただき、ありがとうございます」 士郎といっしょに、雷画翁に頭を下げる。「いやいや、堅苦しいのはここまでにしよう。 まずは一杯」 雷画翁は笑いを絶やさず、こちらに徳利を向けてくる。「「 ――― 」」 思わず顔を見合わす士郎と私に、「まあ、お二人とも未成年じゃから大っぴらには勧められんがな。 猪口に一杯くらいいいじゃろう。 それくらいは、年寄りに付き合っておくれ」「そうよお。 二人とも、もうすぐ卒業なんだもの。 お酒くらい飲めるようになっておかないと、後で苦労するわよー」 雷画翁の優しい声音に被せるように、藤村教諭の発言も続く。 その手には、すでに横縞模様のお猪口が握られている。「お前には飲ません。 酔って暴れられでもしたら、せっかくのこの場が台無しじゃ」「だーいじょうぶよ。 だって、士郎がいるんだし」「そりゃどういう意味だ、藤ねえ」 そんな掛け合いを挟みつつ、全員の杯が満たされた。 ……正直、教師が率先して生徒に飲酒を勧めるのもどうかと思うのだが。 まあ、そんな台詞はこの場では野暮だろう。 酒のおかげでもないのだろうが、その席は本当に和やかで楽しかった。 藤村教諭の言うとおり、出される日本料理は絶品だった。 士郎の作る家庭料理とはまた方向の違う、芸術品とも呼ぶべき品々である。 話し手はもっぱら藤村教諭だが、士郎も普段よりリラックスしてそれに応戦し、私も控えめに口を挟む。 そんなやりとりを、雷画翁が杯を片手に、にこにこしながら眺めている。 そんな光景だ。「ねえねえ。 昨日は、氷室さんの家にお年賀に行ったんでしょ? どうだった?」 藤村教諭が、興味津々といった視線で私を見つめる。「どう……と言われましても。 父母はすでに士郎とは面識がありましたから、やはり堅苦しいものではありませんでした。 昼食を共にし、食後のお茶を飲んで……そんなところです」「むー。 なんか、盛り上がりが足りないわねえ。 こう、わくわくどきどきするようなシチュエーションは無かったの?」 私の常識的な説明が気に入らないのか、教諭は子どものように頬を膨らます。 ……昨日の帰り、美綴嬢からも同じ追求を受けたことを思い出す。 あの時は、うっかり二人とも態度に出してしまったおかげで、えらい目にあった。「お年賀で、どんな盛り上がりを期待してるんだ、藤ねえ。 ちゃんと行儀良くしてたよ」 士郎も、昨日の轍は踏まんぞとばかり、無難な受け答えをする。「そうさのう。 なにか、やんちゃな奴らがちょっかいを掛けてきたとも聞いたが。 そちらの方はもういいのかな?」 私たちの言葉を縫うようにして、雷画翁が さらり と口を挟む。「「 ――― 」」 思わず沈黙する、私と士郎。 知らない人が聞けば、謎かけのような言葉だが、私たちには意味は明らかだ。 昨日、父に見せられた、あの写真。 思い出したくもない、あの文章。 それを、この老人も知っているのか。 何故 ――― と問うのも愚かだろう。 答は、一つしかない。「……ご存じでしたか」「まあのう。 向こうさんから電話があったよ。 今、調べさせとるところじゃ」 飄々と、老人は言葉を接ぐ。 士郎も、言葉を選びつつ応対する。「……気にするな、まかせろ、って励まされたよ。 俺たちが口を挟むのは十年早い、とも言われた」「いいことを言う。 その御仁の言うとおりじゃよ。 面倒くさいことは年寄りに任せて、お前らは自分のことに専念したらええ」「気持ちは嬉しいけど…… でも、何かあったら、やっぱり言ってくれ。 俺たちのことで迷惑がかかるのは……嫌なんだ」 士郎の真摯な言葉に、私も頷く。 私たちに何ができるわけでもないが―――。 やはりこれは、私たちの問題でもあるのだ。 そんな私たちに、雷画翁は「 ――― 」 苦笑とも満足の笑みとも取れる顔を向けたのみだった。「なに? お爺さま、何かあったの?」 ひとり、事情を知らされていないらしい藤村教諭が、首を傾げる。「お前は知らんでええ。 お前に聞かせたら、マシンガン持って飛び出しかねんからな」 物騒な言葉で、雷画翁が答える。 確かに、士郎を可愛がることにかけては人後に落ちないこの女性が、事の次第を知ったら、激怒するだけでは済まないだろう。 教諭は口を開きかけたが、そのまま言葉を飲み込んだ。 おめでたいこの席で問いただす内容ではないと、考えたのかもしれない。 場の空気を変えようとしたのか、教諭は打って変わって明るい声を出した。「でも、桜ちゃんも言ってたけど、憧れちゃうわよねー。 恋人の自宅に、正装してご挨拶なんて。 女の子の、永遠の夢だわー」「ふ、藤ねえ! だ、だから昨日から言ってるように、あれはお年賀だって!」 慌てて口を挟む士郎も、教諭には計算済みらしい。「んー? そんな言い訳が通るとでも思ってるの? お年賀だなんて理由付けても、ご両親に正式にご挨拶に行ったことには変わりないのよ? それに、こうやってうちにも来たんだから、士郎と氷室さんは晴れて両家公認。 もう、許嫁みたいなもんじゃない。 ねー、氷室さん?」 真っ赤になって食って掛かる士郎を横目で見ながら、私にも話を振ってくる教諭。 それは、私の照れる姿をもっと見たい、という欲望が丸分かりの目だったが。「 ――― 」「……氷室さん?」 絶句してしまった私に、藤村教諭が不思議そうに声をかけてくる。「―――あ、ああ。 申し訳ありません。 少し、ぼうっとしてしまって……」 ……なぜ、私は絶句したのだろう? 教諭が発した《許嫁》という響きを聞いたとたん、どういうわけか、体の芯が硬直するような……「……許嫁、と言えば、」 そんな、私の自己韜晦を見破るように、雷画翁が声をかけてくる。「以前の話、あれは、あのままなのかな?」 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。