クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ四) 何の音も聞こえない。 俯き、目を固く瞑った私に感じられるのは、己が掴んでいる膝の感触だけだ。 子どもはいつか、親と離れる。 そんなことは、言われるまでもなく分かっている。 しかし、今日突然、こんな形でそれが訪れるなどと、誰が予測できるだろう。 しかも不慮の別れや、やむを得ない事情などではない。 私が、両親を捨てたのだ。 父母ではなく恋人を……士郎を、選んだのだ。 後悔しているのか、いないのか。 それすらも、今の私の頭では判断できない。 ただ一つ分かるのは、《士郎と別れる》という選択肢は選べなかった、ということだけだ。 それだけは、なにがあっても選択することは出来なかった。 その代償として、今の苦しみがある。 本当に敬愛していた両親を捨てた私は、本日をもってこの人達の子どもではなくなり、二度と会うことすら……「大人になったな、鐘。」「え?」 予想外の言葉に思わず顔を上げると、そこには、「今朝も言ったが、本当に嬉しいよ。 我が子が、こんなにも立派に、娘らしい娘に成長してくれたことがね」 慈愛に満ちた笑顔でこちらを見つめる、父と母がいた。「おとう……さん…?」 知らず、唇から言葉が漏れる。「鐘。士郎君。 まず、君たちに謝りたい。 二人を試すような真似をしたことは、本当に申し訳なかった」 父が深く頭を下げ、隣の母もそれに習う。 どちらも、限りなく真摯な表情だ。「……ためす…?」 鸚鵡返しに、問い返す。「ああ。 頭を下げたくらいで許してもらえるとは思わない。 だが、これはどうしても必要なことだった、ということも理解して欲しい。 子を案じる親としては、そうせざるを得なかったんだ」 父が、微かに苦渋を滲ませた表情を見せる。 ……よく、意味が分からない。 しかし、そうすると、今までのすべてはお芝居だった、ということか? あの写真も、手紙も、士郎との問答も……? この人達は、私たちを騙して、苦しむ様を……「いや、それは違うよ。鐘」 呆然から疑問、疑問から怒りに、表情を変化させつつあった私の隣で、士郎が冷静に言葉を綴った。「鐘のお父さんが、そんなことするはずがない。 だいたい、あの写真も文章も、俺たちを試すためだけに用意するには、手間がかかりすぎてる。 あれは、相当な悪意か歪んだ意思を持った人間じゃないと出来ない。 お父さんは、そのどちらも持っていない人だって、鐘の方が知ってるだろう?」「……」 自分を、恥じた。 士郎の言うとおりだ。 父も、そして母も、そのような悪意を持つ歪んだ人物ではない。 だからこそ、そんな背中を見続けてきたからこそ、私は憧れ、政治を学びたいと思ったのだ。 なのに、私は……「いや、士郎君。 言葉は嬉しいが、それは少々買いかぶりすぎだよ。 この写真や文章が匿名で郵便受けに入っていたのは事実だ。 しかし、それを利用して君たちを騙し、試したのも、また事実だからね」 父が、苦い笑みを浮かべて言う。「鐘。 君が、今までの希望どおり美術の勉強にだけ力を注ぐつもりだったのなら、私もこんな事はしなかったろう。 したとしても、もっと後で、もっと穏やかな形で話したかもしれない。 しかし君は、政治の事を学びたいと言った。 その世界に身を置き、そこで力を尽くしたい、と」 父も、冷め切った紅茶を取りあげ、口を湿らせる。「どこの世界でも言えることだろうが、政界で頼りになるのは、自分の意思のみだ。 広く意見を取り込みつつも、不当な圧力や理不尽な非難中傷に流されない、強い意志だ。 私に相談してきたとき、君が本気であることは分かった。 だからこそ、君が政治の仕事に向いているか、確かめたかった。 《親》という圧力、《密告》という中傷に簡単に屈するようでは、とてもこの世界で生きていくことは出来ない」 父の言葉が、胸に刺さる。 ……政治の仕事に就きたい、と願ったのは本気のつもりだった。 しかし、自分が本当にその世界に向いているかどうかまで、私は真剣に考えたか?「だが、君は選んだ。 誰にも頼らず、自分の意思で、自分の大切な物を。 親として、こんなにも立派に成長してくれた娘の姿ほど、嬉しいものはない。 ……多少、寂しいのも、事実だがね」 軽い冗談に紛らせながら、あくまで父の口調は、そして横に控える母の微笑も暖かい。「そして士郎君。 君にも、いくら詫びても詫び足りない。 しかし同時に、娘を誇りに思うよ。 よくぞ君を選んだと。 よくそ君に選ばれた、とね」 同じ微笑のまま士郎に向き直り、父が深々と頭を下げる。 いつもの士郎なら、人にこんな態度を取られたら、慌てふためいて手を振っているだろうに、 今は、父と同じくらい真摯な態度で背筋を伸ばしている。「先ほどの繰り返しになるが、市長の娘と交際する、とはこういう事だ。 しかし、あそこで君が身を引く素振りを見せたり、ましてや藤村氏や君の《家族》と交際を絶つ、などど言い放ったりしたら、 私は君を、この家から叩き出していたよ。 有無を言わさずにね」 柔和な笑みのまま、父がなかなか物騒なことを言う。「……では、お父さん…」 恐る恐る確認する私に、父は今度こそ破顔した。「娘が幸せを掴んでいるのに、それを引き剥がす親がどこにいるね。 君は、このまま士郎君と歩んでいきなさい。 私の職責のことを思って遠慮などしたら、それこそ家から叩き出すからね」「そうですよ。 若い人の幸せを考えるために、年長者は存在するんです。 私たちも、そうやって上の人に支えてもらってきたんですからね」 母も、いつもどおりの穏やかな笑顔で口を添える。「………」 両親に愛されている、と実感するのは、初めてではない。 だが、ここまで痛切に、親の愛を実感したことはなかった。 込み上げるものを必死で押さえながら、責任も同時に感じる。 これは、言うなれば《元服の儀式》だ。 今まで、文字通り『子ども扱い』をしてきたが、これからは対等の大人として扱うぞ、という通告なのだ。「―――お父さん、お母さん」 知らず、私はソファから立ち上がっていた。 士郎も、私の意を汲んでくれたのか、同時に立ち上がる。「「本当に、ありがとうございます」」 そのまま、ありったけの想いを込めて、頭を下げた。 そんな、青臭く不器用な表現を、父と母は、慈しむように受けとめてくれた。「―――でも、お父さん。 あの写真と文章は、どうするんですか?」 私たちは気にしないにしても(気味の良いものではないが)、冬木市長の職にある父からすれば、スキャンダルの火種にはなりうる。 匿名で、しかも直接郵便受けに放り込まれた物だ。 人物を特定するのは難しいだろうが、何も手を打たなくて良いのだろうか?「気にしなくてもいい、と言ったはずだよ。 こういった事にはそれなりの対処法がある」 そんな私の心配に、父は片眼を瞑って答えた。「調べてみたが、インターネットやヘイトメールなどでは、あの内容の記事は出回っていない。 となると、単なる非難中傷とも考えにくい。 私にダメージを与えるのなら、そちらの方がはるかに簡単で効果が大きいんだからね。 ひょっとしたら、私にではなく、君たちの交際に嫉妬した誰かの仕業かとも思ったんだが……。 その可能性も薄い、と考え直した。 焼きもちにしては、あの仕掛けは大がかりすぎる」 確かに、写真だけなら度の過ぎたストーカー行為の範疇に入るだろうが、 プライバシー保護の厳しい現在、士郎の戸籍にまで踏み込むのは一般市民には荷が重い。 逆を言うなら……「となると、残る線は政治的な駆け引きだ。 『お前の秘密を知っているぞ』 というやつだな。 そう考えれば、人物もある程度絞り込めるし、対処法もいくらでも用意できる」 そう言って、父は少し意地の悪い笑みを浮かべた。「士郎君。 そのときは申し訳ないが、君のこともカードとして使わせてもらうよ。 場合によっては、藤村氏とも相談しなければならない。 蛇の道は蛇、と言うからね」「……」 今さらながらに、父のたくましさ、したたかさに呆れる。 読みの深さ、判断の確かさに加え、士郎の過去まで手持ちの札にすると言って憚らない厚顔さ。 それでいて、政治家としての純な理想も決して失わない。「分かりました。 俺なんかがどんなカードになるのか、見当もつかないけど…… 使えるのなら、遠慮無く使ってやってください」 士郎が、笑いながら受ける。 こちらも、なんだか面白がっているようにも見える。「さあさあ。 面倒な話はこれくらいにして、お茶を入れ直しましょうね。 すっかり冷めてしまったわ」 母が ぽん と手を叩いて立ち上がる。 私も、手伝おうとして腰を浮かして、「士郎君、手伝ってくださらない? さっきお話しした、『とっておきのコツ』を教えてあげる」「ほんとですか!? ありがとうございます。ぜひ!!」「……」 いそいそと母に続く士郎の後ろ姿を、中腰のまま見送る。 限りなく無表情に近い表情で。「……鐘。」「なんですか?お父さん」 爆笑寸前の顔で私に声をかける父に、隕石のごとく冷たい声で答える。「まあ…… 大人になると、色々ある。 すべてに反応していると身が持たないということも、あるんじゃないかな?」「……」 人生の先輩からの意見は、非常に貴重だったが。 理屈で納得できても、感情は納得できない。 否、 断じて納得したくなかった。 マンションを出ると、もう陽はほとんど沈んでいた。『夕食も食べていけば良いのに』 と両親も熱心に誘ったが、明日は藤村雷画翁のお宅に伺う日でもある。 それなりの用意もしなければならないので、夕食はまたの機会に、ということになった。(……桜にも、今日のこと言っとかないといけないからな) 私にだけ聞こえる声で、士郎が囁く。 ……確かに、美綴嬢との前哨戦で判明したように、今日のことを知らない間桐嬢に、遅ればせながら報告をしなくてはならない。(……がんばってくれ) 私も、衷心より彼の無事を祈って、囁いた。 門まで続くプロムナードの途中、あの簡易休憩所で、士郎は立ち止まった。「……ごめんな、鐘」「 ? 」 なぜ、彼が頭を下げているのか、分からない。 それは、母にまで口説き文句を振りまく無意識には憤慨したが、そこまで真面目に謝られるほどの事でもないし、 私もそれほど狭量なわけでは……「鐘の意思を無視して。 お父さんやお母さんから、無理やり引き離す、なんて言って。 …俺は藤村の爺さんも、遠坂や桜達も、何も捨てないなんて言っといて、鐘には……」 ……その話か。 早とちりに、内心赤面する。 しかし、本当に心痛を感じているらしい士郎を、放っておくわけにもいかない。「そんなことを気にしていたのか? あれは、父の設問自体がそういうものだったのだから、君が気に病むことではないだろう」 そう。 娘と付き合いたければ過去を捨てろ、と言われた士郎と、 親と恋人とどちらかを選べ、と言われた私では、問われる立場そのものが違う。 士郎にとっては、理不尽極まりない話。 私への問いは、言わば大人になるための関門だったのだから。 すっ と彼に寄り添う。「…それに…… 正直、嬉しかった。 君が、そこまで私のことを求めてくれている、ということが」 照れ隠しに、目の前にある彼のネクタイを弄びながら、答える。 実際、嬉しくもあったが、意外でもあった。 自分の存在など考えもせず、常に他人にのみ視線を向けていた士郎が、 あれほどまでに強引に、私のことを……自分の未来を求めてくれた。 ……士郎と付き合い始めて、私は変わった、と周りからよく言われる。 どこがどう変わったのか、自分ではよく分からない。 だが、ならば…… それと同じことが、士郎にも言えるのだろうか。 彼が変わること―――幸せになることに、私も多少なりとも関われているのだろうか?「本当に、悪くない。 ……騎士にさらわれる姫君、というのは、このような気分だったのかな」 ……言ってしまってから、猛烈に恥ずかしくなる。 どう考えても、私の口にするような台詞ではない。 なるほど、確かに私は変わった、のか……?「き、騎士、って……」 彼も、見る見るうちに真っ赤になる。 私は当然、とっくの昔に同色だ。「……士郎」「……鐘」 ネクタイを弄んだ手もそのままに、私は彼の胸にもたれかかる。 彼は、その両腕をゆっくりと私の体に……「……あんたら。 冗談も、続けて同じネタじゃ笑えないよ?」「ぐえぉっっ!?」 第三者の声に、あわてて後ろに飛び退く私。 愉快な悲鳴の主は、当然士郎だ。 ……さすがに、今回はすぐに手を離す。「み、美綴嬢!? 今、お帰りか。は、早かったな?」 柳眉をつり上げる彼女に、精一杯の愛想笑いを贈る。 確かに、二度続けての失態は、笑い話にもならない。「―――あたしは約束を守って、間桐の前でも知らぬ存ぜぬを決め込んでたってのに。 あんたら、そんなにあたしに言い触らして欲しいのかい? それともまさか、あれからずっとここで抱き合ってた、なんて言うんじゃないだろうね?」 もちろん、そんな暇なことをするわけがない。 ……今の彼女に何を言ってもマイナスなのは分かり切っているから、反論はしないが。「……まあ、いいや。 追求するだけ、こっちが虚しくなりそうだからね。 それより衛宮、ちゃんとご挨拶はできたのかい? 台詞、間違えたりしなかっただろうね?」 お得意のニヤニヤ笑いに移行する美綴嬢。 ……若干、眉の辺りが寄っているのが気にかかる。「あ、当たり前だろう。 ちゃんと、『あけましておめでとうございます』って、挨拶したよ」 朝の教訓があるからだろう。 今度は士郎も、墓穴を掘らずに対応する。「へえ、そりゃ良かった。 第一印象は大事だからね。 でも欲を言えば、もうちょっとドラマがあってもね。 父と恋人との一騎打ち。 『お前みたいなやつに、娘は渡せーん!』 とか、 『それなら、お嬢さんを連れて駆け落ちします!』 とか……」「「 !!! 」」 士郎のみならず、私まで思わず絶句する。 しまった、と次の瞬間思ったが、その隙を見逃すような美綴綾子ではない。「なに? ほんとにそんな事になったわけ!? なんだ、どういういきさつからそうなったんだい!?」「い、いや、美綴嬢、誤解だ。 私たちはそのような……」「そ、そうだぞ美綴。 いくらなんでも、《駆け落ち》とまでは……」「し、士郎!!」「なんだいなんだい。 予想以上に面白そうじゃないか。 今朝の約束をきちんと守った友だちには、ご褒美に詳しい話を聞かせてくれるんだろうね。 あ、嫌ならいいよ。 今ここで間桐に電話して、朝からの経緯を洗いざらい……」「み、美綴ーーーっ!!!」 携帯電話をちらつかせながら、軽いフットワークを踏む美綴嬢。 それを捕まえようと、必死に駆けまわる士郎。 額を押さえながら、膝を付きそうになるのを懸命にこらえる私。 最後の最後まで波乱を巻き起こしながら、 少々遅い年賀の第一幕は過ぎていった。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。