クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ三) 母が、ティーカップや菓子皿をテーブルの脇に寄せる。 出来た空間に、父は白い封筒を一つ置いた。 どこにでも売っているような、何の変輝もない封筒。 表には、何も書かれていない。「まずは見て欲しい。 話は、それからしよう」 父が、中を改めるよう、手振りで促す。「「……」」 私たちは、少し顔を見合わせたあと、「それじゃ、失礼して……」 代表して士郎が、封筒を手に取った。 裏返しても、やはり何も書かれていないことを確かめ、糊付けされていない封を開く。 中身の紙片を一目見るなり、「 」 士郎から、あらゆる意味での表情が消え失せた。「……士郎?」 私の呼びかけにも、彼は全く反応しない。 ただ、その紙片に視線を注いでいる。 写真……だろうか? この角度では、光の加減でよく見えない。 いったい、何が……「どうした?何か変な……」 覗き込もうとした私にようやく気付いた彼は、反射的にだろう、その封筒を隠す素振りを見せた。「……」 しかし、それも一瞬。 次には、覚悟を決めたように、その紙片の最初の一枚を私に手渡した。 受けとった私は、「 !! 」 呼吸を、忘れた。 視界の狭まるのが、分かる。 指先が、みるみる冷たくなってゆく。 カラー写真のはずのその色彩まで、なぜか半分モノクロームに見えた。 そこに写っているのは、抱き合った男女の姿だった。 時刻は夜。 背景は、新都大橋のたもと。 ジャケット姿の男性と、臙脂のベレー帽をかぶった女性。 間違えるはずもない。 つい先日、私と士郎が過ごした、クリスマス最後のひとときだった。 食い入るようにその写真を凝視する私に、士郎が横から次の写真を手渡してくる。 写真は、全部で五枚あった。 新都駅前で見つめあう私たち。 ヴェルデから、手を繋いで出てくる私たち。 海浜公園のプロムナードを、腕を組んで歩く私たち。 マンションの前で、唇を重ねる……私たち。 屋内での画像が無く、特に夜間の写真の粒子が粗いのは、おそらく隠し撮りだからだろう。 相当離れた場所からの撮影でなければ、私はともかく、勘の鋭い士郎が気付かないはずがない。「………」 声を出そうとして、出せない。 かけがえのないものに、汚物をなすり付けられたような心地がする。 あの日。 私に、私たちにとって、一生忘れられない日になるであろうこの時間を、 おそらく胸が悪くなるような目つきで、レンズ越しに観察していたのだ、この撮影者は。 五枚の写真を燃え上がらんばかりに凝視し続けた私は、ようやく大きく深呼吸をした。 そして、隣の彼を振り返る。 そうでもしないと、なにか暖かいものを目にしないと、 このやりきれない黒い思いに、沈んで行ってしまいそうだったからだ。 だが。「 ――― 」 彼は、以前にも増した無表情で、もう一枚の紙片に目を落としていた。 それは写真ではなく、A4サイズの再生紙だった。 中途半端に大きな文字が横書きで、紙面いっぱいに並んでいる。「………」 二度、三度、その文面を追っていた士郎は、最後に目を閉じ、軽く息を吐いた。 そして私の方を向き、なんとも切なそうな目で笑いながら、その紙片を差し出した。 ……こんな時にすら、君は笑うのか。 とりあえず、現在の状況とは関係の無い感慨を抱きつつ、それを受けとる。 先の写真と同封されていた代物だ。 私もある程度覚悟して目を通したが、それは、写真など比較にならないくらい、やりきれない内容だった。 印字された活字は妙に不鮮明で、見ていて軽い嘔吐感を誘った。 旧式のコピー機で何十回も複写を重ねれば、このような文字になるだろうか。 文章の一番上には、タイトルのつもりか、一回り大きな活字が一行、印字されている。『冬木市長の一人娘、フィアンセはヤクザの跡取り!?』 以下、三流週刊誌の文体をさらに下手にしたような文章が続く。 現冬木市長H氏の一人娘が、ついに意中の人を射止めた。 お相手は、同じ学園に通う、E君。 そして、『E君』には両親も無く、身寄りも全くいないこと。 戸籍にはあやふやな記述が多く、改ざんされた可能性もあること。 当然一人暮らしのはずなのに、複数の女性と同棲している模様であること。 後見人は、冬木市では知らぬ者の無い暴力団『F組』の組長、F氏であること。 それらの事柄が、何回か読み直さなければ意味が分からないほど粗悪な文章で得々と綴られている。『若く美しい市長のお嬢さんを手に入れるのは誰か、各界でも話題になっていたが、正にE君はシンデレラ・ボーイと言っていい幸せを手にした。 しかしながら、その経歴、生活態度、そして人脈等を見るに、市長の一人娘に相応しい男であるか、他人事ながら心配せざるを得ない。 この事実が公になった場合の、市議会および市政の動揺が、今後注目されるところである』 その文章は、こんな形で終わっていた。 どのくらいの時が過ぎたのだろう。 かちゃ という音に、ようやく私は意識を外に向けることが出来た。 隣を見ると、士郎がティーカップを取りあげ、冷めた紅茶で喉を潤している。 その横顔は、一見、普段と同じだ。 先ほどの無表情とも違い、ぶっきらぼうながらも穏やかな雰囲気を湛えた、いつもの士郎の顔だ。 しかし、そんなはずはないのだ。 私たちの想い出を土足で踏みにじるような写真。 最低のピーピング趣味で、プライベートのあること無いことを書き立てた記事。 ……そんな物を見せられて、 士郎、なぜ君は、そんなにも普段どおりの顔をしていられる?「どうかね?」 向かいから、父の声が響く。 ……正直、その声を聞くまで、そこに父母がいたことも忘れていた。 聞きたいこと、言いたいことは無限にある。 なぜ父が、このような物を持っているのか。 この写真と文章の制作者は誰なのか。 何より、なぜ父は、今日この時、私たちにこれを見せたのか。 なのに、言葉が出ない。 内に溢れる物が多すぎて、外に出て来ない。 そんな私の状態を察したのか、父の方から私たちに向かって語り始めた。「一週間ほど前に、マンションの郵便受けに入っていた物だよ。 当然、送り主は分からない。 封が糊付けされていなかったのは、害のある物は入っていないことを知らせるためだろうな」 父の言う『害』とは、刃物や爆発物などのことを言うのだろうが…… ある意味、私たちにとってこれ以上『害』のある物は無い。 抗議の視線を向ける私に、父は静かな眼差しを返した。「鐘。 先日、君は私に言ったね? 『政治の仕事に就きたい』と。 そのためのアドバイスを、私にして欲しいと」 ……確かにそうだ。 クリスマスの時に士郎に話したとおり、私は子どもの頃から憧れていた父の姿に、追い付きたいと願った。「ならば、これも私からのアドバイスと思ってもらっていい。 政治家である限り、このような非難中傷は日常茶飯事だ。 私もお母さんも、これに類する手紙や噂、時には雑誌の記事に接した事は数え切れない。 政治の世界に入るということは、これらと直面するということでもあるんだよ」「……」 独身の頃から、政治の世界で生きてきた父。 そんな父の世界を承知の上で、一緒になった母。 政治家が被るプレッシャーは計り知れないと、子供心に感じてはいたが、 私が見てきたものは、氷山の一角だったのか。「同じことを、士郎君。君にも言わなければならない」 俯いて唇を噛んでいると、父は今度は士郎に向き直った。「政治家の……市長の一人娘と交際する、ということは、こういう事だ。 プライバシーは無いに等しく、過去を憶測され、絶えず好奇の目がつきまとう。 それでも、鐘と付き合ってくれるかい?」 口調は穏やかだが、父の言葉は私には、『それだけの覚悟が、君にあるのかね?』 という詰問に聞こえた。 また、速度の測れない時間が過ぎる。 やがて、「ひとつ、確認してよろしいですか?」 士郎が、普段の表情のまま、父に向かって問いかけた。「いいとも。何だね?」「氷室市長のおっしゃるのは、こういう意味でしょうか。 天涯孤独の、ヤクザを身元引受人にした男が、お子さんと付き合うことなど許さないと。 早々に別れるように。 そういうことでしょうか?」「士郎!!」 あくまで普段どおりに士郎は言葉を綴るが、冗談ではない。 語る内容は、言語道断だ。 しかし。「……そうだ、と言ったらどうするね? 市長として、娘が問題の多い男性と付き合うことは、スキャンダルでしかない。 即刻別れるか、もしくは、ヤクザとは縁を切り、住まわせている女性たちも家から追い払えと。 そうして綺麗な体になったら、娘との交際も考えてやる、と言ったら?」 父までが、普段どおりの穏やかな口調で、信じられない言葉を並べる。「お父……!!」 思わず、ソファから腰を浮かしかけて、「 ――― 」 目の前に座る、母の手振りと視線に静止された。 あなたは今、口を挟んではいけない。 その資格は、あなたにも私にも無い。 母の目は、そう告げている。 浮かした腰を、静かにソファに戻す。 それを確認してから、士郎が口を開いた。「申し訳ありませんが、お言葉に従うことは出来ません」 正面の父を見て、きっぱりと言う。「確かに、この文章に書いてあることは、事実ではあります。 俺は、血縁は全く無い孤児で、戸籍も藤村の爺さん……雷画さんが、何も覚えていない俺のために便宜を図ってくれたって聞いてます」『あまりその辺りは話せんの。あの頃は蛇の道、というものがまかり通ったんじゃよ』 ……以前、雷画翁と話した時の言葉を思い出す。「俺の家に複数の女性が住んでいる、というのもその通りです。 同学年生と後輩、ときどき義理の妹と姉代わりの女性も泊まっていきます。 客観的に見れば、俺はこの文章に書かれているとおりの男なんでしょう」 淡々と、あくまで普段の態度のままに、士郎は語りを進める。「でも、俺はそれのどこが悪いのか、分かりません。 今、挙げたことは、全部俺が俺になるために必要だったことです。 十一年前に俺は孤児になり、義父に拾われた。 そのころから、藤村の爺さんは本当に親身になって、俺を慈しんでくれた。 今、いっしょに住んでるヤツらだってそうです。 彼女たちは、俺の家族です。 どこに出しても胸を張れる、俺の大切な人たちです。 彼らと縁を切ることは、俺自身を捨てることです。 衛宮士郎として生きてきた十一年間を、抹消しろ、と言われているのと同じです。 そんなことは、考えることすら出来ません」 士郎の言葉を、父は肯定も否定もなく、ただじっと聞いている。「同じ理由で、お嬢さん……鐘と別れることも、有り得ません。 彼女は、俺の一番愛する人です。 付き合い始めてから、まだほんのわずかな時しか過ごしていませんが、 彼女がいたから、俺はここまで進んで来られた。 もし、ご両親が俺との交際を禁ずると言うのなら……」「言うのなら?」 感情の読めない目を向けながら、父は先を促す。「鐘を、ここから連れて行きます。 彼女を悲しませることになるのは分かっています。 でも、俺にとって、他の選択肢は無い。 たとえ鐘が、厭がったとしてもです」 ……士郎… 淡々と、きっぱりと告げる彼の言葉に、私は混乱する。 そこまで私のことを……という喜びと、 私の意思を無視して……という戸惑い。 だが。「鐘。君はどうする? 士郎君は、無理にでも君を連れて行く、と言っているが?」 父の声が、追い打ちをかける。『混乱している時間など、お前には無いのだ』 と責め立てている。 幼い頃より敬愛し、離れることなど考えた事もない、父と母。 己にエンゲージを課すほど愛した、唯一無二の男性、衛宮士郎。 楽しかるべき、その両者の顔合わせの席で、私は、なんという無理難題を突きつけられているのだろう? 助けを求めて、視線をさまよわせる。 だが、父は静かな視線でこちらを見つめたまま。 母もその隣で、励ますような、促すような眼差しを送るだけだ。 隣の士郎も、心配そうな表情ではあるものの、やはり何も言ってくれない。 誰も、助けてくれない。 否。 助けてくれない、のではない。 助けられないのだ。 なぜならこれは、私しか答を出すことの出来ない事柄だから。「わたし、は……」 声が、漏れる。 このあとに、どんな言葉が続くのか、私自身にも、見当が付かない。「わ、わた、し…… ごめ、んなさ、い……」 膝のスカート地を ぎゅっ と掴む。 きつく、目を閉じる。「ごめんな、さい……お父さん。 私は……しろうといっしょに……いたい………」 食いしばった歯から漏れた言葉を、自分の耳で聞く。 ……そういう、結論だ。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。