クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (四ノ一)「鐘、少し落ち着きなさい」 キッチンから、母が声をかけてくる。「え?」 ダイニングのテーブルを拭いていた私は、手を止めて振り返る。 落ち着け、とは少々心外な言葉だ。 私は別に、家事を失敗したり、視線をきょときょとと彷徨わせたりもしていない。「お母さん、私が落ち着いていないように見えるのですか?」 なので、いつもどおりの沈着冷静、学友から《ザ・クール・ボイス》と表現される声音で答える。 その声に、「 ――― 」 母は、軽いため息で応じた。「見えます。 朝から家の中を行ったり来たりして、まるで動物園の熊みたいに。 用もないのに物を動かしたり、埃も無いのにハタキを持ち出したり。 そのテーブルを拭くのだって、今日で何回目?」「………」 手に持つ台拭きを眺める。 確かに言われてみれば、ここを拭くのは、覚えているだけで四回目だ。 他にも、リビングの掃除、玄関やトイレのチェック、自分の部屋の整頓など、数日前から数えれば何回行ったか分からない。 だが、自室はともかくその他の場所は、綺麗好きな母が日頃から完璧なまでに整えているフィールドだ。 今さら私の出る幕はなく、結局、右にある物を左に動かし、上にある物を下の棚に移動し、やはり収まりが悪いのでそれらを元に戻し…… 要するに、全く無駄なことに時間を費やしているわけだ。 ……認めるのは癪なので、あえて無表情で通したが。 腰に手を当て、呆れたように私を見ている母の向こうで、リビングのソファに座る父が、書類越しに懸命に笑いを噛み殺している。「……お父さん。 何か、面白いことでも?」 八つ当たりは百も承知だが、私も腰に手を当て、少々剣呑な目つきで睨んでやった。 父は『もう耐えられない』といった風情で顔を上げ、「いやいや。 面白いと言うより、嬉しいんだよ。 我が子が、こんなにも娘らしい娘に育ってくれたかと思うとね」 噛み殺す作業をあっさりと放棄し、満面の笑顔を私に向けた。 普段、笑いどころか苦虫を噛み潰したような顔の父が、こんなにも豊かな表情を見せる。 それは、一人娘にとって、喜ばしいことには違いないのだが。「……それは、どういう意味でしょう?お父さん」「さあさあ、鐘。 そんなに眉間に皺を寄せるんじゃありません。 跡が付いて、あの人の前でも取れなくなるわよ」 父を睨み付ける私の手から、母が台拭きを取りあげる。 ……もう、何度目の感慨になるか分からないが。 私の両親は、こんなにもフランクでファンキーな性格だったか?「家のことはもういいから、下まで彼を迎えに行ってらっしゃい。 そろそろ、お時間でしょ?」 両親のアイデンティティーについて真剣に悩む娘など、とんとあずかり知らぬ、といった風情で母が言う。 確かに少し…いや、だいぶ早いが、そろそろ約束の時間だ。 すぎるくらいに几帳面な彼のことだから、そろそろ到着している、ということも充分考えられる。「……はい。 では、行って参ります」 私は、椅子の背に架けてあったカーディガンを取りあげながら、両親に答えた。 ……染まる頬を見られないよう、顔を背けつつ。 一月も半ばとなった、ある土曜日。 時刻は、もうすぐ午前11時になろうとしている。 今日は、士郎が初めて我が家にやってくる。 先日のクリスマス・デートの時。 『鐘の家に、お年賀に行った方がいいかな?』 と言った、彼の提案が実現したわけだ。 年賀、と言うには少々遅いが、父の役職上、年末年始は激務の時期でもある。 その煩雑な儀礼も一段落し、今日、ようやく父の体が空いた。 いや、本来なら峠を越えたとは言え、まだまだ忙しい身のはずなのだが、無理をして時間を作ってくれたらしい。 父の心遣いに感謝すると共に、やはり父にとっても《士郎》は特別な存在なのだ、と改めて思った。 ちなみに、私から提案した藤村雷画翁への年賀だが、これは士郎の口利きにより、明日の日曜日に伺うことになっている。 偶然ではあるが、双方の保護者に、二日続けて挨拶することになったのだ。 その初日、と思えば、やはり緊張もする。 エレベーターを降り、外に出る。 私の住む蝉菜マンションは、高層建築ではあるが、同時に敷地もたっぷりと取ってある。 建物の出入口からは門までは、プロムナードが緩やかなS字を描いて伸びている。 木や建築物などの配置によって、外から直接には建物内を覗けない仕組みだ。 プロムナードの途中にはいくつか、半円形に窪んだ休憩所が設けられ、ベンチなどが据えられている。 そうした場所を通り過ぎ、門まで辿り着くと、「あ、鐘」 案の定、と言うべきか。 私の、最も安らげる笑顔が立っていた。「相変わらずせっかちだな、君も。 約束の時間までは、まだ相当間があると言うのに」 少々呆れながらも、その笑顔に接する嬉しさには勝てない。 私は、足早に彼に近づいた。「む。 せっかちなのは認めるけど、今着いたばかりだぞ。 だいたい、早く来てくれたって言うんなら、鐘も同じじゃないか」 士郎も、少々口を尖らせながら歩を進める。 ……まあ、彼の言うとおりではある。 士郎の服装は、紺のジャケット、グレーのスラックス、茶のローファー、グレーのコート。 要するに、クリスマスの時とほぼ同じ格好だが、今日はシャツは純白、ネクタイは濃い臙脂だ。 手には、土産なのだろうか、紙の手提げ袋を持っている。 一張羅、と言うと言葉は悪いが、だいたい士郎がこんなフォーマルな服装をすること自体珍しいのだ。 何回見ても、見飽きることは無い。「とにかく、よく来てくれた。 父と母も、朝から待ちかねていたぞ」 ……先ほど両親から指摘された、私の動向は除く。「そ、そっか。 ……なあ、鐘。 俺、どっかおかしな所、無いかな?」 自分の格好をあちこち眺めながら、彼が私に尋ねてくる。 私がそうであったように、彼もまた緊張しているのだ。 そう思うと現金なもので、こちらの気持ちが少々軽くなった。 ……同時に、少し欲求、と言うか、いたずら心も湧く。 見た限りでは、おかしな所など何一つ無いのだが……「……ふむ。 特におかしな所は無さそうだな。 ん? いや……」 そのまま、彼をプロムナード脇の休憩所まで引っ張っていく。 時間もまだだいぶ早いし、急いで家に上がることもないだろう。 ここは一つ、めったに見られない士郎のフォーマルスタイルを、心ゆくまで鑑賞したい。「ネクタイが少々、曲がっているようだな。 どれ……」「ほ、ほんとか?」 慌てて直そうとする彼の手を押さえる。「まあ待て。 鏡の無い場所では、自分で直すより第三者の手で行った方が確実だ。 だいたい、この結び方は何だ? これでは、崩れるのも当たり前だ」 そのまま有無を言わさず、曲がってもいないネクタイを彼の首からほどき抜く。「お、おい鐘?」「いいからじっとしていろ。 君は普段、結び慣れていないからこうなるんだ。 私は、私服でよくタイを結ぶからな。 こういったことは、慣れた手で行った方が良い」 シャツの襟を立て、改めてネクタイを彼の首に回す。 実際には、自分の首に結ぶのと他人に行うのとでは勝手が違うのだが。 それでも、数十秒格闘した甲斐あって、完璧なハーフウィンザーノットに仕上げられた。「よし。 どうだ士郎、これで……」 ずっと彼の胸元に注いでいた視線を、ひょいと上に上げる。 そこには。「……」 真っ赤になって私を見下ろす、彼の視線があった。 ……当たり前だ。 他人のネクタイを直すからには、当然その人物に寄り添わなければならず、さらには、完璧を期すためにネクタイの結び目に眼を近づけるのは必然で、その結び目は通常、人の顔の真下にあるわけで……「……」「………」 だから、このような状況になってしまったのも、偶然にして必然なのだ。 冗談から駒。 そんなことわざがあったかどうかは知らないが。 とにかく、予定どおりの行動がもたらした予期せぬ結果に、私の頬も見る見るうちに熱くなっていく。「……鐘」「……士郎」 私は彼のネクタイに、彼の胸に手を添えたまま。 彼は、その両腕をゆっくりと私の体に……「なあ、あんたら。 気持ちは分からないでもないが、一応、場所と時間帯ってやつを考えて行動してくれないもんかね?」「ぐえぉっっ!?」 いきなり外部からかけられた第三者の声に、私は無意識に後方に跳びずさる。 ……ちなみに、あとに続いた愉快な悲鳴は、私が士郎のネクタイから手を離すことを忘れた結果だ。「み、美綴嬢!? な、なぜ?いつからそこに!?」「なんで、って、外出するときに、自分の家の玄関から出てくるのは当然でしょうが。 その玄関先でプライベートなことしてる、あんらたらにこそ『なんで?』って言いたいよ」 美綴嬢は腕を組みながら、呆れた顔を隠しもせずに言う。 ……確かに、彼女の言うとおりではある。 ここは私の家ではあるが、同時に数十世帯が同居する高層マンションの出入口でもある。 そんな場所で、日中このような行為を行っていた私たちこそ、咎められてしかるべきだろうが。 それにしても、このタイミングで図ったように、マンションの住民中もっとも出てきて欲しくない人物が出てくるか?「その目。心外だね。 いくらあたしでも、あんたたちの動向を見張ってて、いい所で顔を出すなんて暇なことしやしないさ。 それより氷室。 あんたこそ、そろそろ離してやったらどうだい? そのままじゃ衛宮、いっちまうよ?」 美綴嬢にそう言われて、改めて自分の手を、その手が掴んでいる物を見る。 ―――ネクタイをいきなり引っ張られた上、彼女との問答の間中、あちこちに振り回された士郎の顔色は、もはや蒼を通り越して白くなり始めて……「 !!! 」 ……その後。 彼への介抱と、私の謝罪に、どれほどの時間が割かれたかは置くとして。「……ふーん。 ずいぶんめかし込んでるじゃないか、衛宮。 何、とうとう年貢を納めに来たとか?」 美綴嬢が、腕組みしながらニヤニヤ笑いを私たちに向ける。 陰湿なところが少しも無いのが彼女の人徳だが、脅威であることに変わりはない。「ね、年貢って、なんだよ。 俺はただ、鐘のご両親にお年賀に来ただけで……」 士郎が、まだ喉をさすりながら答える。「お年賀にしちゃ、ずいぶん遅いけど。 まあ、氷室のお父さんは忙しいからね。 こういう事は、たっぷりと時間を取って進めた方がいいもんな」「だ、だから! 『こういう事』って何だよ!」「お年賀だろ?」「……」 ……聞くところによると、士郎の弓の腕前は、武芸百般にして前弓道部長、美綴綾子も一目を置くほどであるというが。 少なくとも舌戦においては、彼は彼女の敵では無いらしい。 放っておくと、どんどん墓穴を掘りそうなので、無理やり話に割って入った。「み、美綴嬢。 出かけるのではなかったのか? 待ち合わせならば、遅れるのは良くないぞ」 少々わざとらしくはあるが、ここは武道家の常として時間に潔癖な彼女の性格を突くしかない。「お、そうか。 いやー残念。 もう少し遊びたかったんだけどね」 携帯電話を取り出し、時間を確認した美綴嬢は、心底残念そうな顔をした。 癪ではあるが、今はこちらが不利だ。 ここは一刻も早く、彼女に立ち去ってもらって……「間桐も、時間には厳しいからな。 まあ、理由を言えば、納得してくれるだろうけど」 ……去る前に美綴嬢は、見事な爆弾を落としてきた。「さ、桜!?」 士郎が、頓狂な声を上げる。「ん? ああ、今日は、弓道部レディースの新年会なのさ。 今年は、間桐が纏め役だからね。 あのコ、怒ると怖いからなあ……」 自分が怒られることを恐れるふりをしつつ、私たちにプレッシャーをかけてくる。 流石は美綴綾子。 敵ながら、あっぱれな高等戦術だ。「……確かに、今日は自分も出かける、って言ってたけど……」 士郎が、私の横で呟く。 なるほど、間桐嬢は士郎と半分同居しているのだから、彼がその動向を知っていてもおかしくない。 だが、それならば間桐嬢が士郎の予定を把握していてもおかしくないわけだ。「?」 眼で、士郎に問いかけるが、「 ――― 」 彼は、無言で首を振る。(言うの、忘れてた) という意味だ。 めったにないフォーマルスタイルで出かけたのだから、恋人である私と会うことは予測しているのだろうが、 私の家に行くことまでは、彼は話していないらしい。 別に悪いことをしているわけではない。 士郎の言うとおり、ただの年賀なのだし、よしんば美綴嬢の揶揄するような状況であったとしても、私と士郎は恋人同士なのだ。 誰に憚ることがあろうか。 ……と、開き直れれば良いのだが。 間桐桜嬢にだけは、私も士郎も、少々憚らざるを得ない。 あの、新都大橋のたもとでの、彼女との対決。 お互いに遠慮などせず、堂々と競おうと、手袋を投げ合った。 だが、だからこそ。 彼女に《卑怯》と思われるような行為はしたくない。 今日のことにしても、別に隠していたわけではないし、隠したいわけでもないのだ。 ただ、知られるのならば、士郎か私の口から。 第三者を通してではなく、公明正大な形で……「……そんなにマジな顔するなよ、二人とも」 かけられた声に顔を上げると、美綴嬢が苦笑しながら頬を掻いていた。「冗談冗談。 心配しなくたって、あんたらの事情に首を突っ込む気は無いさね。 ましてや、間桐はかわいい後輩なんだ。 からかいの対象にはしたくないからね」 軽くバンザイをしながら、彼女が続ける。 考えてみれば、そういった陰湿な行動とは対極にあるのが、美綴綾子という女性だ。 分かっていたはずなのだが、事が事だけに、少々動揺してしまったらしい。 ……しかし、美綴嬢。 ならば、《私たちは》からかいの対象にしても良い、ということか?「美綴……」 感謝の眼差しを向ける士郎に、「気になるんなら、衛宮。 あんたの口から話しとくんだね。 ま、多少怖い目には遭うかもしれないが、話し忘れたあんたの自業自得、ってことで」 湿気ゼロ、意地悪度100の眼差しを返す、美綴嬢。 ゴクリ、と士郎が喉を鳴らす。「おっと、ほんとに遅れちまう。 じゃあな、お二人さん。 衛宮、頑張りな。 セリフ間違えるんじゃないぞ」 スカッとした笑顔を残し、美綴嬢が背を向ける。「せ、セリフってなにさ!? だ、だから俺は……!!」「『あけましておめでとうございます』、だろ?」「……」 口をぱくぱくさせる士郎と、額に手を当てる私を残し、 美綴嬢はカラカラと笑いながら、手を振って去っていった。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。