クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ十六) マスターの暖かい言葉に送られて、店を出る。 足は自然に、海浜公園の方へと向く。 彼の左手首には、私の贈った腕時計。 私の胸元には、彼に贈られたネックレス。「……正直、期待していたこともあったのだがな」 彼を横目に見つめ、意味深に左手の薬指を撫でる。「う…… まあ、その……考えなかったわけじゃ、ないんだけどな」 彼が、済まなそうに頭を掻く。 そんな彼の困り顔に、「ふふ……」 つい、笑みがこぼれてしまう。「冗談だ。 お互い、そんなに焦ることはないだろう。 ゆっくりと二人で進んでいければいいし、今は……」 胸元のアメジストに、そっと指を触れる。「今は、これで充分過ぎるほどだ」 川に沿ってゆっくりと歩く。 温暖な冬木市ではあるが、冬はやはり寒い。 この時刻、普段なら人影もまばらなはずの海浜公園だが、今日この日だけは、二人連れの姿がちらほらと見受けられた。 そのシルエットたちは、みな幸せそうに寄り添っている。 私もごく自然に、士郎の左腕に腕を絡めた。「……受験の準備、進んでるか?」 士郎が、囁くような声で聞く。 この場では、大きな声は相応しくない。「ああ。 先日は下見がてら、学校へ願書を提出しに行った。 なかなか、過ごしやすそうな佇まいだったぞ」 だから私も、彼に聞こえるように寄り添いながら囁いた。 年が明けたら、私は近郊の美術大学を受験する。 穂群原の学園生活を、陸上競技で過ごしてきた私だが、本来は文化系の人間だ。 この三年間、部活動に勤しみながらも、決して絵筆を忘れたわけではない。 入学の易しい学校ではないが、技術、知識ともに、まず合格圏内だろうと、教師達からも言われてはいた。 ただ……「…これを話すのは、君が初めてなんだが……」 私は、少しためらいながら口を開いた。「美術の勉強は、もちろん努力していくつもりだ。 ただ……、その他にも、やりたいことが増えて、な」「やりたいこと?」 士郎が、不思議そうに首を傾げる。「ああ……。 どういう形で行うかは、まだ決めていないが…… 実は、政治関係の勉強をしようと思っているんだ」 政治家を父に持つ私にとって、《政治》は幼いころから身近な存在だった。 父の苦労、それを支える母の苦労も、間近に見てきている。 尊い仕事だが、決して綺麗事だけでは済まない、 『労多くして功少なし』 の典型。 それが、私にとっての《政治》だった。「だが……、憧れていた。 人に何と言われようと、黙々と己の責務を果たす父の姿に。 ……同時に、私には無理だ、と諦めてもいた。 あんな……あんな重圧に耐えることは、私にはできない、と」 士郎は、私の独白にじっと耳を傾けてくれている。「正直、諦めていたことすら、忘れかけていた。 でも……最近、思い出したんだ。 父の姿が眩しかった、いや、今も眩しいことを」 そう。 そして、その眩しさを思い出させてくれたのは……「……鐘が政治家、か。 うん。 合ってると思うぞ」 士郎は、にっこりと笑って、私の考えを肯定してくれた。「い、いや…… まだ、政治家になる、とまで決めたわけではないんだ。 ただ……、父の力になれるような、その世界の片隅で力を尽くせるような…… そんな能力を、身に付けたい。 折を見て、父にも相談しようと思っているんだが……」「そうだな。 お父さんなら、きっと適切なアドバイスをしてくれるよ。 どんな形で関わるにせよ、鐘の力なら、その世界で生きていける。 ……お父さんみたいに、たくさんの人たちの生活を守っていけると思うよ」 士郎は、笑顔を絶やさずに続ける。 私の考えを……進みたい道を、本気で喜んでくれている。 ……… 笑顔のまま、夜空を見上げる彼の横顔に向かって、(……きみの、せいだぞ)「ん? なんか言ったか?」「……なんでもない」 本当に、君のせいだ。 君の、救いようのないほどの善意。 己を初めから無い物として考えるほどの、正義。 すべての命は、命の分だけ幸せであれと願う、その魂。 一言で言えば、偽善。 そんな夢物語など、実現できるわけがない。 ただ。それでも。 誰もが一度は夢見る、その姿。 それを、本気で実現しようとしている、君の姿。 衛宮士郎。 君は、正しい。 その正しさ、眩しさが、 私に、幼い頃の夢を、思い出させてくれたんだ。 同時に、思う。 衛宮士郎。 君もまた、命ある者だ。 だから君も、幸せにならなければ。 私に何ができるか、分からないけれど。 私の進みたい道が、君の道とどう重なってゆくのか、見当もつかないけれど。 士郎。 幸せになろう。 なるために、努力しよう。 わたしと、いっしょに。「―――でも、そうなると、美大と政治学との二足のわらじか。 来年から、鐘も忙しくなるな」 私の気持ちを知ってか知らずか、士郎は変わらぬ微笑みを向けてくる。 焦ることはない。 私は多くの人と、……自分と、約束したのだから。「そうだな。 専門学校のような所に通うか、通信教育か…… その点も、父に相談してみるさ。 まあ、忙しくはなるだろうが……」 そう言いさして、彼の腕に絡めた手に、意味深に力を込める。「こうして二人で居る時間は、ひねり出してみせる。 ……さしあたっては、来年の初詣、かな?」「お、おう……」 士郎も、頬を赤くしながら応じる。「そっか……。 もう、初詣なんて時期なんだな。 あ…… じゃあ、鐘の振り袖姿も、期待していいのかな?」「ふふ…… それはまあ、その時のお楽しみ、ということにしておこう」 他愛のない言葉を重ねながら、ゆっくりと、本当にゆっくりとプロムナードを歩く。 川面から吹く風は寒いはずなのに、体は寒いと感じているのに、何故かそれが気にならない。「……あ、正月、って言えば………」 士郎が、何かに気付いたような声を上げる。「……なあ、鐘。 前から思ってたんだけど、な。 その……」「どうした?」 照れくさそうに言葉を濁す彼に、首を傾げる。「いや…… 鐘の家に、お年賀に行った方がいいかな?って。 ほら、俺、まだちゃんとご挨拶してないし……」「あ……」 そう言えば、私の両親と士郎はすでに顔馴染みではあるものの、正式な形での面会はしていない。 初めは、許嫁騒動の時、士郎の家で父と。 次は、私の入院騒ぎで、うやむやのうちに病室で父母と。「……そうか。 そう言えば、士郎が私の家に、正式に挨拶に来たことは……」「 ! い、いや! 『挨拶』って言ってもだな! そういう意味で言ったんじゃ…… あ、いやその、そういうのが嫌なんじゃなくて、その前段階というか、手順を追って、だな……!」 私の独白をどう取り違えたのか、士郎はいきなりとんでもないことを言い出した。「あ、当たり前だ! わ、私とて、そういう意味で言ったわけじゃない! そういうことは……ま、まだ、その…早……」 私の言葉も、どんどん語尾が細くなっていく。「……」「………」 しばらく無言。 いつの間にか、足さえ止まっている。「は、話を戻すぞ! とにかく、だな!!」「お、おう!!」 急に声を張り上げた私たちに、周りのカップルが驚いたように振り向く。「「……」」 二人、済まなそうに沈黙したのち、「……と、とにかく、だな。 ぜひ、うちには遊びに来てもらいたい。 父も母も、きっと喜ぶだろう」「そ、そっか。 じゃあ、ぜひお邪魔させてもらうよ」 ただ、父の仕事上、正月は年賀の行き来やパーティなどで、特に多忙になる。 虚礼廃止が叫ばれているとは言え、政治の世界ではまだまだ避けては通れない道だ。「そんなわけで、松の内……いや、1月の前半は難しいと思う。 父も、どうせならゆっくりと士郎に会いたいだろうからな。 だから、詳しい日程は父に聞いてから、ということで良いか?」「もちろん。 俺はいつでも構わないから、ご都合を伺ってみてくれ」 真面目な顔で頷く士郎を見て、私もひとつの可能性を切り出した。「年賀、ということで思い当たったんだが…… 士郎。 私も、その……お邪魔できないか?」「お邪魔、……って、うちにか? そりゃ、いつでも大歓迎だけど……」 何も、年賀などと改まらなくても、と彼は言う。「いや、もちろん君の家にも遊びに行きたいが、 藤村教諭のお宅にだ。 具体的には……雷画翁に、ご挨拶できないだろうか?」 藤村教諭の祖父でもある藤村雷画氏には、以前、多大なるご迷惑をおかけした。 約束無しに会いに行き、士郎のことを根掘り葉掘り聞いたり、そのことが原因で、父まで交えての面談となったり…… 今、思い出しても、顔から火が出る。 その上、その面談の席で動転した私は、ろくに挨拶もしないまま席を立ってしまったのだ。 それ以来、雷画翁とはお会いしていない。 あの時の失礼も、お詫びしたいのだが……「んー…… 雷画の爺さんなら、そんなこと気にしないとは思うけどな。 確かに、俺にとっても後見人だし、鐘が顔を見せてくれれば、爺さんも藤ねえも喜ぶだろ」 私の緊張とは反対に、士郎はいかにも気楽に請け負ってくれた。「ただ、鐘のお父さんとは違う意味で、あの爺さんも正月は忙しいからな。 やっぱり、松が取れてからになると思うけど…… 都合を聞いてみるよ」「よろしく、お願いする」 今年がもうすぐ終わり、次の年が始まる。 今の時期ならば、鬼も笑ったりはすまい。 私たちは、来年のことについて、これからのことについて、言葉を交わした。 話は尽きないが、道はやがて尽きる。 そろそろ、公園も終点。 プロムナードも、そこで終わる。 時計を見るまでもなく、もういい時間だ。 これ以上遅くなると、両親に心配をかけてしまうだろう。 ……でも、もう少し。 この、本当にいろいろなことがあった一日を、もう少しだけ……「……じゃ、そろそろ帰ろうか。 ご両親も、心配してるだろ」 士郎の声音にも、残念そうな響きが混じっている。 仕方がない。 どんな一日だろうと、終わるときは終わる。 終わったのなら、また始めればいいだけの……「あ……」 ひとつ、ひらめいた。「……鐘?」 不思議そうに私を見る士郎の掌を取って、足早に歩く。「士郎、先ほどの続きだ。 もう一箇所、いいだろう?」「ここは……」 士郎が呟くとおり、ここは新都大橋のたもと。 新都側の、ちょうど橋を渡りきった箇所だ。「想い出の場所巡りから始まった今日だ。 最後のスポットに相応しくはないか?」 そう。 初めてのデートの時。 今日行った、紅茶専門店や輸入食材店。 そして、衛宮邸。 そんな所を回った私たちは、最後にこの場所で立ち止まった。「……そうだな。 今日の最後にふさわしい。 俺の、馬鹿さ加減の再確認も含めて」 士郎が、苦い顔で笑う。 あの日。 橋の真ん中で、彼は私に『俺と、付き合ってくれるか?』 と言った。 その場では他の言葉は、私の本当に欲しかった言葉はくれなかった。 その時のことを、思い出しているのだろう。 彼に、そんな顔をさせるのは本意ではない。 だから、わざと軽い口調で続けた。「君があのとき、馬鹿だったことは、確かに認めるが……」「……おい」 身も蓋もない言葉に、彼が世にも情け無さそうな顔になる。 そう。 そっちの顔の方が、まだ良い。「そういう意味で来たわけじゃない。 ここは、私にとって特別な場所だ。 ……私が、初めて安心できた場所なんだから」『付き合ってくれ』 とは、言われていた。 抱きしめられもした。 だが、それだけでは、確信が持てなかった。 本当に彼が、私を見てくれているのか、 浅ましい私は、手に取って眺めることのできる言葉が欲しかった。 そして、その言葉を、彼がくれたのが、この場所なのだ。 あの日、この場所で一日は終わり。 そして、この場所から、私たちは始まった。 ならば、今日も……「……鐘」 彼が、私を抱き寄せる。 あのときは荒々しく強引で、少し怖いくらいだった。 今は、……「鐘、好きだ」「……うん」 すっぽりと、パズルのピースがはまるように、私が彼の胸に収まる。 あの時は、ほんのちょっとだけ、隙間があったように思えたが…… 彼は、少し背が伸びただろうか?「……私もだ」 彼の背中に、腕を回す。「士郎、君のことが、好きなんだ」 この時間でも、橋にはひっきりなしに車が通る。 そのヘッドライトに、照らされながら。 彼は、あの時の言葉を、もう一度私に贈ってくれ。 私も、心の底から、彼を抱きしめた。 ―――――――――――――――――――【筆者より】 『クリスマス編』、終了です。 長かった…… オールスターキャスト、プラス、スペシャルゲスト。 このストーリーを、3~4話で軽く、と考えていた、私は馬鹿です。 でも、彼らのイチャイチャをたっぷり書けたので、満足満足。 まだ描きたいエピソードはありますので、もうちょっと続きます。 気が向かれたら、覗いてやってください。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。