クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (三ノ五)「さて士郎。 次は、どこへ連れて行ってくれるのかな?」 紅茶の馥郁たる香りを楽しみ、ランチセットでそこそこ腹を満たした私たちは、次なる目的地に向かっていた。「んー、どこってほど大層なところじゃないんだけどな。 この先は、鐘にも協力してもらわなきゃならないんだけど……」 士郎は曖昧に微笑んだまま、その割に迷いも無く歩を進めていく。 そのままヴェルデの店内に入り、辿り着いたのは、片隅に設けられたDIYコーナーだった。「? なにか必要な買い物でもあるのか?」「いや、別に無いけどさ。 一週間考えて、結局こんなことしか思いつかなかった、って言うか……」 ますます分からない。『一週間考えて』 ということは、ここが、士郎が選んだ次なるスポットなのだろうが、デートの場所にしてはあまりにも……「……あ…」 そこまで考えて、思い出した。 まだ、私たちが付き合い始める前。 半ば強引に彼と帰宅の道を共にし、『興味がわいたのでね』 というミエミエの言い訳で、彼の買い物に付いていったことがある。 その時の店が……「あのときの俺、ほんとに鈍くてさ。 鐘の気持ちに、全然気付けなかった。 そのやり直しもしたい、っていうのが目的のひとつなんだけど…… わがままかな?」 彼が、恐る恐る尋ねてくる。 ……不覚にも、涙がこぼれそうになった。 彼は、憶えてくれていたのだ。 私にとっては、ありったけの勇気を振り絞った行動。 だが彼には、日常を彩るに過ぎない風景の一コマ。 あの頃の彼にとって、私はその程度の存在だったはずだ。 なのに彼は、そんな風景に対してさえ責任を感じ、想い出を重ねようとしている。 あのとき感じた苛立ち、空しさ、惨めさは、消えるわけではないが。 彼の暖かさに、それらの感情さえ今は愛しく思えた。「……『あのとき』の君が本当に鈍かったのは確かだが。 では、今は鋭くなった、と言うのかな?」 目尻に滲みそうな涙を誤魔化すため、私はあえて気持ちとは全く離れたフィールドについて言及した。「あう…… い、いやそれは……まあ、鋭意努力中、ってことで」 痛いところを突かれた、といった顔で、士郎が頭を掻く。「ふふ…… まあ、確実に進歩しているのも確かだ。 それに、鋭すぎる君など、想像もできないしな」 そんな会話の中で、なんとか平常心を取り戻した私は、彼の掌をそっと握った。「では、今日は買い物をするわけではない?」「ああ。 ウインドウショッピングってやつかな。 前に来たとき、鐘がなんとなく興味ありそうに見てたのが、頭にあってさ。 ここなら、俺の得意分野だし、いろいろ説明もできるし」(あのとき興味深く見ていたのは、店の品ではなく、その品を選ぶ君だったのだがな) まあ、そんな台詞は野暮になるだろう。 私の未知の分野であることは確かだし、新しい知識を憶えることも楽しい。 なにより、私の手を引きながら、嬉しそうに道具の一つ、材料の一枚を解説していく彼を見るのは、幸せだった。 ……そう言えばあの時、ここで見知らぬ人から声をかけられたな。「おや、エミヤん、こんなところで何してんの?」 そうそう、こんな感じの台詞で……え?「ね、ネコさん!?」 驚き声の彼といっしょに振り向くと、ややくたびれた黒のカッターとエプロンをつけた、目の細い女性が立っていた。 正に、あの時出会った女性。 彼が勤めている酒屋の店員、と紹介されていた。名前は《ネコ》としか聞いていなかったが。「ど、どうしたんですか、こんな時間にこんなところへ!?」 妙に慌てている士郎。 あのときは、私と一緒にいたところを見られても『こんちわ、ネコさん』 で済ませていたのに。「それはこっちの台詞、ってセリフは、こういうときに使うんよね。 ……ふーん」 そのまま、本物の猫そっくりの細目で、私たちをじっくり眺める《ネコ》女史。「おかしいとは思ってたんよね。 いつもバイトはオールオッケー。どんな日でも断ったことのないエミヤんが、 『24日の夜と25日は、なんとか休ませてもらいたい』 なんて直訴してくるんだもん。 そりゃあ、アタシを拝み倒してでも休みたくなるよねえ?」 私と士郎を交互に見比べながら、《ネコ》女史は、うんうんと頷く。「しかもこのコ、前にここで会ったコじゃん。 『そういうのじゃないですよ』 なんて、しらばっくれてたくせに、今度こそ手なんか繋いじゃってこのー」 そう言って、肘で士郎の脇腹をうりうりと抉る。「い、いや、嘘はついてません。 あの時はほんとに、『そういうの』じゃなかったんです!」「へえ。 じゃ、そのあとに『そういうの』になったん?」 必死で弁明する士郎だが、どうやら《ネコ》女史の方が、一枚も二枚も上手のようだ。 ……まあ、振り回す手の先に、私の掌がくっついているのだから、説得力など皆無なのだが。「まあ、あの時のアタシの勘は、間違ってなかったってことよね。 改めましてコンニチハ。 アタシは蛍塚ネコ。 《ネコ》って呼んでいいよ」 チェシャ猫のような笑いで士郎を突っついていた《ネコ》女史が、急に私に目を向け、片手を挙げる。「あ……ど、どうも。 氷室鐘、と申します」 あわてて頭を下げる。 正確には初対面ではないのだが、考えてみれば、未知である士郎の知り合いに挨拶するのは、これが初めてだ。 ……しかし、《ネコ》というのは本名なのか? てっきり、ニックネームだと思っていたのだが……「うーん。 前に見たときは、エミヤんのタイプと違うかなあ、って思ったんだけどね。 今見ると、ホントお似合いよ、お二人。 てゆーか二人とも、あの時と印象違うよね」 ニヤニヤ、とは言っても、少しも陰湿な感じがしない笑いを向けてくる《ネコ》女史。 ……第三者の目から見ても、そうなのだろうか。 あの時から今日まで、様々なことがあった。 それを潜りぬけてきた私たちは、少しでも《似合う》と言える間柄になったのだろうか。「氷室さん、だったよね。 キミは目が高いよ。 こんな優良物件、今どきめったに転がってないからね。 大事にしたんさい。 まあ、ある方面でニブいのが玉に瑕だけど、それも味わいのうち、ってことで」「あ……は、はい。 私のほうこそ……」 重ねて頭を下げる。 ……士郎の周りには、本当に一筋縄ではいかない人が集まる。 この《ネコ》女史も、まさにそうだ。 あたたかく優しいからかいに、私の顔の温度は上昇しっぱなしだった。「……で、ね、ネコさん。 ほんとに、今日はどうしたんです?」 士郎も、私と同じだったのだろう。 半ば強引に、話の舵を切った。「ん? ああ、あっちで首輪とリードを買いに来たんよ。 バーボンのヤツ、今のじゃ合わなくなっちゃってねえ」 そう言って《ネコ》女史は、隣のペットコーナーに目を向けた。「だから言ったじゃないですか。 あいつ、レトリーバーなんですから、これからもっと大きくなりますよ。 店員さんと相談して、それ用のを買わないと」 苦言を呈する士郎。 ……《バーボン》とは、犬の名前だろうか。 いかにも酒屋らしい、というか。「ああ、そうするわ。 あ、あとエミヤん。アイツの家もちっちゃくなったんで、その相談にもまた乗ってよね」 どうやら、あの時に買った材料では、《バーボン》氏の体に合う家は作れなかったらしい。「んじゃ、お邪魔さま。 氷室さん、今度ウチにも遊びに来てよね。 ウチ、居酒屋もやってるから。 お酒はさすがにだけど、料理もちょっと評判なんよ、ウチ」 もう一度、さっぱりしたチェシャ猫笑いを見せた《ネコ》女史は、あっさりと背を向けた。「ありがとうございます。 あの、近いうちにぜひ……」 あわててお礼を言う私の言葉が届いていたのか。 そのまま彼女は、こちらを見ずに手を振りながら去っていく。「……いや、まさかのまさか、だったよな。 ここまで『やり直し』できるとはなあ……」 大きく息を吐きながら、彼が言う。「……同感だ。 しかし、本当にさっぱりした、感じの良い方だな」 同じく深呼吸をしながら、私も素直な感想を彼に伝える。「ああ。 藤ねえや、柳洞寺の零観さんとも、穂群原の同級生で親友だったそうなんだ。 改めて見ると、納得だよな」「藤村教諭や、零観氏と?」 柳洞一成の実兄である柳洞零観氏とは、私も面識がある。 ……なるほど、お二人と親交があったのなら、あの人柄も頷ける。「しかし君の周りには、本当に個性的な人が集まるな」「む。 個性的な人が多いのは認めるけど、別に集まってるわけじゃないし、集めてるわけでもないぞ。 だいたい、鐘がそれを言うか?」「……ほう? それはどういう意味かな?」 そんな、たわいない言葉のやりとりを楽しみながら、 私は、また彼の世界を少し知ったことに、嬉しさを感じていた。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。