クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十二) 陸上部の練習が終わり、いつものように彼と二人、家路につく。 今日は、昼休みの一件があったせいか、普段より少しだけ空気が軽い気がする。 しかし、問題は何も解決していない。 彼と、彼の《家族》との葛藤。 そして、もっと根本的なこと。 彼が言うところの、『俺の根っこに関わる』問題。 二番目の問題については、おそらくすぐには解決しないだろう。 何しろ、これに取り組もうと思ったら、衛宮士郎という存在のあり方にまで遡らなければならないのだ。 とりあえず、と言うほど軽くはないが、最初の問題。 しかし、これも彼によれば、 『今、俺に出来ることは何もない』 という。 ならば、私に出来ることは、さらに無いのだろう。 なのに、私は……「士郎…… 君に、謝らなければならない」「え?」 不思議そうに、彼がこちらを見る。「私は、この問題について問うことはしない、と約束した。 それは、下世話な詮索はしない、と言うことでもある。 しかし……」 彼への申し訳なさに、言葉が詰まる。「今朝、陸上部の二年生に聞いた。 間桐桜嬢が、月曜日から休んでいるということを」「……」 彼の《家族》。 藤村教諭は、少なくとも見た目は普段どおりに教壇に立っていた。 遠坂嬢とは同級であるため、毎日顔を合わせてはいたが、特に変わった様子は見受けられなかった。 ……もっとも、二人とも内心の動揺を表に出すほど、未熟ではないだろうが。 イリヤ嬢に関しては調べようがないが、初めて会った時の印象から、彼女が原因とも考えにくい気がする。 となると、残るは一人。 ある意味、初めから分かっていたことを確認しただけのことだった。「……知って、どうかしようと思った訳ではなかった。 ただ、耐えられなかったんだ。 君の言葉を信じて、黙って君の隣にいる。 ただそれだけのことに、私は耐えられなかった。 ほんの小さな事でも良いから、客観的な事実が欲しかった」 そして、その《客観的な事実》を知った後に味わったのは、以前にも増した苦しみだった。 自分が原因であるという答の再確認。 彼を裏切ったという悔恨。 浅はかな女の独りよがり。 それを、彼はいったい……「……ゴメンな」 呟くように、彼が言った。 ……え? なぜ、彼が、謝る?「鐘、前に俺の家に来たとき、言ってたもんな。 状況は、俺より把握してるって。 いや、その前からずっと言ってた」 それは……確かにそうだ。 およそ、恋する者ならば一目で分かるであろう、間桐嬢の熱い視線。 それに、まったく気付いていない彼に、苛立ちすら感じたものだが……。「鐘は、その時から気付いてたんだよな。 今なら、俺もそれが分かる。 なら、全部は無理にしても、そのことだけでもお前に話せば良かったんだ。 なのに、そんな簡単なことにも頭が回らないで、それで鐘に余計なことさせて、傷つけて……」 また、君は。「少しでも自分が関わってることについて知りたいのは、人として当然の事だ。 なのに俺は、別のことばっかり考えて、鐘のことは……」 そうやって、他人のことばかりを。「確かに、桜の想いに二年も気付けなかった。 骨身に染みたはずなのに、また、こうやって、鐘のことに気付くことができなかったなんて。 なんで俺って、こんなに進歩が……」 それ以上は聞けなかった。 私は彼の言葉をふさぐため、鞄を放り捨て、士郎の胸に飛び込んでいた。「……鐘?」 彼が、呆然とした声を出す。 だが、そんな声さえ、もう聞きたくない。 私は、自分の口を彼の唇に、思いきり押し当てた。 一年でもっとも夜が長い季節。 街はすでに闇に覆われていた。 人通りはほとんどなく、我々が立っている所には、街灯の明かりもうっすらとしか届かない。 しかし、そんなことはどうでもよかった。 誰に見られようと構わない。 今は、この男の言葉を断ち切ることが、私にとって最も重要だった。 長い間、押し当てていた唇を離す。 そして、彼の胴に両手を回し、硬い肩甲骨に額を押しつけ、私は言葉を絞り出した。「もう、いいから。士郎」 士郎は無言で、私の為すがままになっている。「自分のために、泣かないと」 瞬間。 彼の全身が、大きく震えた。 全力で抱きしめているため、彼がどんな顔をしているのかは分からない。 しかし、私の表情は自分で分かる。 私はきっと、大泣きをしているような顔だったろう。 しかし、涙は出ない。 そんな段階は、もうとっくに通り越していた。 彼は長い間、そのままの姿勢で立っていたが、「……」 やがて無言で、私の髪に顔を埋めてくれた。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。