クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (十) それから数日間、表面上は、なにごとも無く過ぎた。 彼と私は、いつものように登校し、滞りなく授業を受けた。 私の部活動が終わるまで、彼は学校の備品修理などで時間をつぶし、 アルバイトの有る無しにかかわらず、私を家まで送ってくれた。 本当なら、部活動も休み、少しでも彼のそばにいたかったのだが、彼の方が承知しなかった。「最後の競技会まで、もう日が無いんだろう? こんなことで練習を休んじゃダメだ。 これで鐘が悔いを残したりしたら、俺は二度とお前に顔向けできなくなる」 真摯な目で見つめられながら諭されると、俯くしかない。「それに、今は普段どおりにした方がいい。 詳しいことを話せなくて、ほんとに申し訳ないけれど、今、俺に出来ることは無いんだ。 だったら、何が起きてもすぐに動けるように、生活のリズムは崩さない方がいい」 彼に何があったのか、それは問わない約束をしている。 彼がそう言う以上、普段どおりに過ごすのが一番なのだろう。 ……その、《普段どおり》という注文が、今の私には一番難しいのだが。 彼の方の態度は、一見、本当に普段どおりだった。 口数もいつもと変わらず、ぶっきらぼうながらも他人の面倒をよく見、外見も行動も、おかしな所は何もなかった。 だが、私の目には、彼が日一日とやつれていくのが、手に取るように見えた。 他の人が気付かないのが、不思議なくらいだ。 いや、異常を感じた人間も、わずかながらいた。「なあ、氷室。 最近、衛宮おかしくないか? なんか元気が無いって言うか、気が抜けてるって言うか……」 私と同じ学級の、美綴綾子嬢が、休み時間に私に尋ねてきた。 その時は、曖昧な返事をして誤魔化したのだが…… そのことを士郎に言うと、彼は苦笑した。 彼も、親友である柳洞一成に言われたのだという。「衛宮。 近ごろ、どうも覇気が無いと感じるのだが、体調でも悪いのではないか? 疲れているのなら、生徒会の手伝いなど気にせず、帰って休んでくれ」 油断してカゼでもひいたかな、って、誤魔化したんだけどな、と彼は笑う。 笑い事などではないのだが、 それにしてもさすが、武芸百般の女武道家、美綴綾子。 そして、古刹柳洞寺の跡取り、柳洞一成。 しかし、逆を言えば、彼等ほどの者でも、その程度にしか感じられないのだ。 実際には彼は、いつ倒れてもおかしくない、 いや、倒れていない方がおかしいくらい、憔悴しきっているというのに。 食事はしっかり取っているのだろうか。 夜はちゃんと眠れているのだろうか。 辛いのならば、休んだらどうだと勧めたのも二回や三回ではない。 だが、「鐘が言うほど、体調は悪くないぞ。 確かに、食欲はあんまり無いし、夜眠れないときもある。 でも、体が少し重いかな、っていうくらいなんだ。 休んだりする程じゃないよ」 そう言って、彼はいつもの笑顔で私を見るのだ。 あの、昼休みの美術室。『少なくとも、私と二人きりのときに、無理に笑ったりしないでくれ』 という私の願いに、彼も頷いてくれたはずなのに。 やはり、私では無理なのか。 彼にとって私は、小さすぎる器なのか。 恋人だと自惚れてはいても、彼が感じる痛み、辛さを受けとめ、支えるのは、 《家族》ではない私には、重すぎる荷なのだろうか。 そう思い、ひそかに落ち込んでいたのだが、 そばで彼を見ているうち、『どうも、事はそれほど単純では無いらしい』 そう思うようになってきた。 彼は、私だから弱みを見せないのではなく、 他の誰に対しても、同じような態度を取るのではないか。 彼の《家族》である間桐嬢、遠坂嬢、いや、一番の信頼関係で結ばれているであろう藤村教諭に対してすら、 このような状況の時、彼は笑顔を見せ、辛さを表には出さないのではないだろうか。 さらに、もっと根本的な問題がある。 彼は果たして、痛みを《痛み》として、認識しているのだろうか。 なにも、小説などでよくある、《無痛覚症》の話をしているのではない。 正しく言えば、彼は『自分が感じている痛み、悲しみを、自分自身の《辛さ》として、変換できているのだろうか』 《家族》との間に軋轢があり、それによって彼が苦しんでいることは理解できる。 だが、彼を見る限り、自分が負った傷が元で苦しんでいるようには、どうしても見えない。 むしろ、大事な人が傷ついたことで、その痛みが何倍にも増幅されて彼に投射され、 それが彼を苛んでいるように見える。 士郎らしい。 その事実に思い当たったとき、私はまずそう思い、 次に、恐ろしさに慄然とした。 彼と《家族》との間にどんな会話があったのか、それは分からない。 しかし、それが争いであったのなら、どちらか一方だけが傷つくことなどあり得ない。 相手が傷ついたのなら、彼もそれ相応の傷を負ったはずなのだ。 なのに彼は、自分の傷のことなど全く無視して、相手の痛みのために苦しんでいる。 だが。 いくら彼が自分の傷に目を向けなくても、彼の肉体は、その傷を鋭敏に感知している。 そしてその傷は、放っておかれたまま、彼の体を、心を、確実に蝕んでいく。 もし、彼に、その傷を《辛い》と感じる回路が存在していないとしたら…… 自分の傷を辛いと感じず、体をすり減らし、 他人の傷に何より苦しみ、心をすり減らす。 こんな事を繰り返していたら、衛宮士郎という存在は…… そして、金曜日の朝。 ついに、私は行動に出た。『詮索はしない』 という、彼との約束を破ってしまうことになるが、 正直、何でも良いから動かないと、私の方がどうにかなってしまいそうだったのだ。 やったことは一つだけ。 朝練習の時、二年生の女子に、何気ない風を装って尋ねた。「間桐さんですか? 月曜日からずっと休んでますけど。 なんでも、風邪をこじらせたとかで……」 ……やはり。 後輩との話題をさりげなく他へ移しながら、 私は心に、苦い水が満ちるのを感じていた。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。