クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (九) 氷室の視点 予想どおり、彼は先に来ていた。 いつものように、作業台に二人並んで座る。 二人きりの昼食のときは、いつも彼が弁当を作ってきてくれるのだが、今日は言わばイレギュラーだ。 私は持参の弁当。彼は、購買部で買ったパンと牛乳。 食事中、あまり会話が無いのは、いつものことだ。 ときどき、思いついたことをポツリポツリとしゃべる。 あとは、彼の隣に座って、ときどき視線を交わして微笑みあうだけで、充分だった。 しかし、今日はそのわずかな会話さえも無い。 彼は、機械的に食事を進めていく。 味など感じていないのではないか。 いや、まるで鉄塊を噛み、溶かした鉛を啜っているかのような苦行にすら感じられる。 私も当然、食欲など無いが、箸が止まると、彼が心配そうな顔をしてこちらを見る。 無理にでも食べるしかなかった。 食事が終わっても無言は続いていた。 こちらから切り出してもいいのだが、怖くて出来ない。 何が彼をそんなに苦しめているのか、それも分からずに安易に声をかけるのは、ためらわれるのだ。 だが、ひょっとしたら……「……ゴメンな」 ポツリと、彼が言った。「説明する、なんて言っといて、ずっと黙ったままなんて。 …でも、すごく説明しづらい、言葉にしにくいことなんだ」 辛そうな、彼の声。 一言、言葉を吐くために、全身の力を振り絞っているのがわかる。「ここに来るまで、鐘になんて説明しようか、ずっと考えてた。 でも、詳しく話そうとすると、いろんな人に迷惑がかかっちゃうんだ。 だから、……曖昧にしか言えないことを、許して欲しい」 彼が話すたび、自分の身が割かれるように痛む。 これは、彼が感じている痛みの、何千分の一なのか。「……簡単に言うと、俺の馬鹿さ加減のせいで、ある人を傷つけた。 それだけなんだ。 ……それしか、言えないんだ。 だから……ゴメン…」 もういい。 しゃべることが、そんなに苦痛なら、話さなくていい。 私は、自分が感じる痛みに耐えきれず、彼の右手を両掌で掴んでいた。「……わたしの、せいなのか?」 無意識に、言葉が出る。「……」 彼は、目を見開いて、私を見つめた。 やっぱり。 私も、今までずっと考えていた。 夕べ、私の家の前で別れたときまでは、いつもどおりの彼だった。 ならば、彼が家に帰ってから、何かがあったということになる。 そして、その前に起きた、私と、彼の《家族》との邂逅。 その二つを合わせ、少し想像力を働かせれば、結論は簡単に出る。 しかし私は、その結論を出すのが怖かった。 私自身が原因で、彼がこんなにも憔悴するという事実に、耐えきれなかったのだ。 しかし、現実はやはりそのとおりだった。 私という存在が、彼と彼の《家族》の絆を脅かし、そのことで彼は……「違う」 きっぱりとした声が、耳元で聞こえた。 いつの間にか俯いていた私は、その声に顔を上げる。 そこには、 普段に近い生気に満ちた、彼の顔があった。「確かに、鐘もこの事に少し関係してる。 でも、断じて鐘のせいじゃない。 それだけは、信じてくれ」 何度か見た、表情。 付き合ってくれ、と海浜公園で言ったとき。 私を抱きしめ、『氷室、好きだ』と初めて言ってくれたとき。 本当に大事なことを言う時、彼はいつもこの表情をしていた。「問題は、俺自身の根っこに関わることなんだ。 鐘は、その問題に巻き込まれただけだ。 そのことについては、ほんとに申し訳なく思ってるけど…… 頼むから、俺のためにそんな顔をしないでくれ」 ならば、信じて良いのだろうか。 少なくとも彼は、私のせいではないと、本気で思っている、と。「……わかった」 私は、言った。 私が原因ではない、と思って安心したわけではない。 むしろ、彼がそう信じているが故に、確信はますます深まった。 だが。 彼がそう言ってくれる以上、私はそれに従う。 昨日の、間桐嬢との邂逅のときと同じだ。 ここで引いたら、彼を失ってしまう。 今は両手で、私の両掌を包んでくれているこのぬくもりを、永遠に失ってしまう。 その思いがどんなに狡く、浅ましくても。 その想いの故に、どんなに彼を傷つけてしまったとしても。 この手を放してしまう恐怖には、代えることはできなかった。「……君の思いは分かった。 なぜ、と問うのも止める。 だから、私もひとつだけ言わせてくれ」 私も、彼の両掌を包み返すように握った。「我慢しないでくれ。 少なくとも、私と二人きりのときに、無理に笑ったりしないでくれ。 先ほど、君自身が言っていたろう? 私のために、そんな顔をされるのは、……辛い」 私はそう言って、握りしめた手に目を落とした。 私の浅ましさへの代償。 彼が、私のために苦しんでくれるというのならば、 私は、少しでもそれを受けとめる皿になりたい。 彼の苦しみが、私の器などをはるかに超えるものであったとしても、 せめて、それくらいの自己満足はさせてほしかった。「ありがとう」 そんな、彼の言葉に、ふたたび視線を上げる。 彼の顔からは、一瞬だけみなぎっていたあの生気は、消え失せていた。 かわりに、何とも言えない目で、私を見つめてくる。 笑っているような、泣き出しそうな、苦しんでいるような、愛しんでいるような。 そんな目のまま、彼は私を抱きしめてくれた。 ああ。 結局、私の苦しみの方を、彼が受けとめてくれたんだ。 そんな、やるせなさが胸に満ちてくるのを感じながら、 午後の予鈴が鳴るまで、私は彼の胸に身を預けていた。 ---------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。