クロスゲージ (『エンゲージを君と』異聞) (一)「ん……」 突然で済まないが。 私は今、衛宮の腕に抱かれている。 すっぽりと包み込まれ、唇にくちびるを押し当てられている。 ようするに、その、口づけをしている。 場所は、衛宮の家の、衛宮の部屋。 晩秋のことであるから、もう少しすると辺りも薄暗くなってくる時刻だ。 ほとんど何も無い、彼の部屋の真ん中で、私たちは口づけを交わしている。 もちろん、これが初めてではない。 衛宮士郎と氷室鐘は、おおっぴらにはしていないとは言え、男女の付き合いをしているのだから。 しかし、数え切れないというわけでもない。 指を折ってみると、これで六度目だ。 初めは、誰もいない美術室で。 触れ合ったか、触れあわないか分からないくらいの、ソフトキスだった。 それから、幾度かのデートの最中に、または彼が私の家まで送ってくれたときの別れ際に、 もちろん人影の無い時を見計らって、私たちは口づけを交わした。 たいがいの恋人がそうだと思うのだが、交わすたびにそれは、深く、長くなっていった。 しかし、今回ほど長く、深い口づけは初めてだ。 やはり、戸外ではなく、誰に見られる心配のない部屋の中、という状況も大きいのだろう。 彼の求めは、いつになく激しかった。 衛宮の部屋に入るのは、これで二度目だ。 最初は、初めてのデートの時。 あのデートの末、私たちは『エンゲージ』を交わし、付き合い始めた。 今日は、あのときと同様、彼が昼食をご馳走してくれるというので、衛宮邸にお邪魔した。 正直、間桐嬢や藤村教諭と顔を合わせるのは気が重かったが、邸に着いてみれば全員が出払っていて、今回は二人きりの昼食を堪能することが出来た。 その後、改めて屋敷内の案内をしてもらい、衛宮の部屋で談笑していたのだが……「ん…う、……」 彼の舌が、私の唇を割る。 歯茎をなぞり、歯をこじ開け、舌を絡める。 時折、上唇を甘噛みしてくる。 それは、彼の性格を現すごとく、焦らず、ゆっくりと。 こちらに負担をかけないよう、やさしく、丁寧に。 しかし、それに答える余裕は、私には無い。 蒔寺や美綴嬢から借りた書物によれば、こういう場合、女性もそれ相応の反応を示さなければならないらしいが、 まるで木石のように、彼の行為を受けとめているだけだ。 正直、意識を保ち、膝の震えを押さえるのが精一杯で、他のことにまで力を割く余裕など無い。 時間の経過が、分からない。 数分は過ぎたのか、それともまだ数十秒なのか。 分かるのは、いつもより長いということ。そして、もっと続けばいいと思っている自分を見つけ、混乱しているということだけだ。 彼の左手はしっかりと私を支え、右手はやさしく髪や背中を撫でている。 その右手が、ふいに違う動きをした。 ゆっくりと前に回ると、私の左の胸に……「!!」 瞬間。 私は、彼のやさしい拘束から逃れ、飛び退いていた。「……え?」 しばらくして漏れた声は、彼ではなく、私からのものだった。 今……私は、何をした? 彼と私は、誰はばかることのない恋人同士。 それも、たった今まであれほど熱い口づけを交わしていた仲なのだ。 ならば、彼が次の段階に進むことなど、当たり前ではないか。 私とて、そうなった時の覚悟はしていたつもりだし、もっと言えば、その、期待すらしていた。 彼に、さらに愛されることを。 なのに、私は…… 彼は、初め驚いていたようだが、今は頬を指で掻きながら照れ笑いを浮かべている。「…衛宮、その……」 ようやく、言葉を絞り出す。「いや、いきなりで驚かせちゃったな。ゴメン」 私の言葉に被せるように、彼は頭を下げる。いつものように、誠実に。「い、いや!決して嫌だったというわけではないんだ。ただ、その、心の準備が…」 心の準備など、とうに出来ていたはずだ。彼が彼である限り、私は彼の求めに応じられる。「ちょ、ちょっとびっくりしただけだ。済まない。だから……」 そこまで言って言葉が続かなくなった私は、飛び退いた分の距離を詰めて、再び彼の胸に体を預けた。 でも。 その距離は、自分が想像していた以上に離れていて。 目をつむり、顎を上げる。先ほどと同じ姿勢だ。 だが、顔がこわばり、眉が寄っているのが自分でも分かる。 こわいのだ。 彼の求めに応じられなかった自分を、彼はどう思ったか。 自分が飛び退いた分だけ、彼と距離が出来てしまったのではないか。 その証拠に、彼は先ほどのように、私に腕を回してくれない。 もし、このまま…… ふわり 怯えに肩が震えだしたとき、先ほどと同じく、いやそれ以上にやさしく、何かが私を包んでくれた。 そして、唇にあたたかくて湿ったものが触れる。 それは、初めてのときと同じ、ソフトキス。 目を開けると、変わらぬ彼の笑顔が、そこにあった。「お互い、無理はやめよう」 笑顔のまま、彼は言った。 そして、私の両肩を掌で包むと、自分から畳に座った。 必然的に、私も彼の前へ腰を下ろす。「む、無理などしていない。私は、き、君とならば……」 そう言いかけた私に、彼はゆっくりと首を振った。「いや、無理をしてるんだ。 俺も最近分かりかけてきたけど、どうも、頭の覚悟と心の覚悟って、必ずしも一致しないらしい。 自分では準備万端のつもりでも、いざその時になると慌てふためく、っていう事ってけっこうあるんだ。」 彼は、私の目を見ている。薄暗くなった部屋の中でも、その光はしっかりと見て取れた。「氷室が俺を好きでいてくれるのは、飛び上がりたくなるほど嬉しい。 でもそれって、こういった心の準備とは、別のことなんだ。 俺も男だからな。正直言って、氷室をもっと抱きしめたい、体を触りたいっていう欲望はすごくある。 でもそれは、俺だけが突っ走っても意味がないんだよ。 そんなことしても氷室が傷つくだけだし、俺にしたって、その場限りの満足は得られるだろうけど、後で後悔するのは分かりきってる。」 いつもの笑顔のまま、彼は続ける。「俺が氷室のことを好きで、氷室も俺のことを好きでいてくれるんなら、頭と心の準備が一つになるときは、きっと来る。 それを待つ時間くらいは、俺たちにはあるんじゃないか?」 そして、座ったまま私を抱き寄せると、またやさしく口づけをしてくれた。 先ほどと同じフソフトキス。 でも、今度は初めに負けないくらい、長い間。「……すまない」 ようやく、言葉が出た。「なんで氷室があやまるのさ?」 私は衛宮の胸に顔を埋め、彼はずっと髪を撫で続けてくれた。 -------------------------------------------------------- このストーリーは、「SS投稿掲示板Arcadia」で連載されている、 『エンゲージを君と』(Nubewo 作) http://58.1.245.142/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=type-moon&all=1034&n=0&count=1に触発され、書かれたものです。 TYPE-MOON風に言えば、第十七話から分岐した、平行世界と考えていただければよろしいかと思います。 『エンゲージ~』を下敷きにはしておりますが、 今後書かれる、正編『エンゲージ~』第十七話以降とは、ストーリー的に《全く》関係は無く、 その文責はすべて中村にあります。