「ハッ、ハッ、ハッ……!」
周囲も足元も定かではない深い森の中、一人の男が息を切らせて走っていた。
余程に急いでいるのだろう、元々が整えられていた訳ではない髪はボサボサに振り乱され、額といわず全身がじっとりと汗に濡れている。
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
容姿を裏切ることなく、服装もまた質素な代物。それも万全の姿であったと仮定しての話であり、あちこちが裂けた今では襤褸か、どう言い繕っても骨董品の評価が適当であるだろう。
そんな襤褸切れのような服装の肩と脇には、大きな赤い染みが付いていた。
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
およそ、真っ当という言葉とはかけ離れた身なりの男である。
だが、彼には自分の姿を気にした様子は一切無い。そんなことは瑣末事に過ぎぬとばかりに、一心不乱に足を動かし続けている。
どこを目指しているというのか。どこであるにせよ、そこまで一心に目指し続けるに値するだけの場所なのだろうか。
「ハッ、ハッ、ハァッ……!」
……いや、そもそも。男はどこかを目指してすらいないのかも知れない。
何しろ彼の眼は酷く虚ろで、その中に何も映してはいないのだ。行きたい所があるから行く、急がねばならぬから急ぐ。そういった事情などとは一切関係無く、男はただ無思慮に身体を動かしているのではあるまいか。
だが、たとえ男の疾駆が思慮の末の行動であれ、或いは無思慮の結果の逃走であったとしても、どちらにせよそれについて考えるのは無意味なことであったろう。
何故なら既に、彼にとっての終わりがその背中に指を掛けていた為に。
「ハッ、……がッ?!」
鮮血が舞う。
男の背後には誰も居ない、鬱蒼とした森の他は虚空があるばかりである。
なのに、男の両足の腱は太刀を一振りされたかのように切り裂かれ、まるでそこに何かがあるかのように、血の雫が何もない空間から滴っていた。
「あ、ああ……ああああ!!」
その虚空に、男は何かを見たのだろう。
両足を斬られ、地面に這い蹲って尚、彼は必死の形相で両手を使い、這うようにして進む。
くふ、と。
どこかから男を嘲る声がした。
静寂。
たっぷりと数分、虫のようにもがいていた男が物言わぬ彫像と化した頃、先程まで走っていた方角から、がさりと草木の擦れる音が響く。
草木の擦れる音は段々と間隔を短く、強くなり――やがてそこから一人の男が現れた。
白色の髪、血色の悪い顔、加えて猫背。
未だ壮年の域を出ていないであろうに、まるで老人であるかのように杖を突くその姿は、どことなく漂う惚けた雰囲気と合わさって、これでもかと胡散臭さを発散していた。
総じて、恐怖を抱くべき対象とは為り得ない。一見する限りでは、いつの世、どこの社会においても珍しくない、小悪党と呼ばれる人種と見える。
だが、もしもその姿を注意深く観察したなら、爛々と奇妙な輝きを湛える双眸の危険さに気付いたかもしれなかった。
現れた男はただじっと立ち、口を開く様子はない。
であるのに不意に、静寂の中をしわがれた声が満ちる。
「こんな所に一体全体なんのご用件かの、雪車町殿。何ぞこの老耄に言いたきことでもお有りかな?」
「滅相も。あっしはただ、長坂殿に言われて結果を見届けに来ただけでして」
唐突に響いた声に、雪車町と呼ばれた男は驚いた様子もなく、どころか薄笑みさえ浮かべて応える。
異常と言えば、その飄々とした態度こそが異常だった。彼の位置からは、血塗れの男の姿がはっきりと映っているのに、一瞥したきり眉一つ動かす様子もない。
「ふむ。長坂殿の命令は、楯突いた者をなるたけ惨たらしく殺せ。それこそ今後、反乱する気さえ起こさぬ程に。
……して如何かな、雪車町殿。儂の仕事振りに不満の程は」
「皆無、と申し上げておきやしょう。あの方もさぞお喜びになるかと」
「ほ、それは重畳。この老骨を路頭に迷わせる結果にならず、胸を撫で下ろしておる所じゃわい」
姿の見えぬ老人と雪車町とは、朗らかそうにそんな言葉を交わし合った。
どちらも己の行動を恥じることなく、気に掛けることなく。
老人の名は風魔小太郎、男の名は雪車町一蔵。
とある山奥の寒村を、怨嗟と流血の底に叩き落した一党の、その内の二人であった。
第四章 神の山
唐突であるが。
武田赤音という青年は実に奇特な男である。
性格や能力の面だけを見ても、それは言うに及ばないだろうが、それらは光の言えた義理ではない。彼女が珍しいと感じるのは、もっと別の所だった。
一言で言うなら、非常に馬が合うのである。
光がまだ湊斗光であった頃でさえ、友人こそ多くとも、そのような相手は居なかった。まして今の彼女をしてそう思わせる、それはどれ程に希少であるのだろう。
ただ一緒に居るだけで楽しい。その感情は光が父親に対して抱くそれとはどこか似ているようでいて、しかし異なる。今まで味わうことのなかった、不思議な感情だった。
「……ふむ」
光はくい、と首を捻りながら思考に耽る。
心を思考で紐解くなど、きっと酷く馬鹿馬鹿しいことであるのだろう。何しろこうして考えていても、まるきり答えに行き当たりそうにないのだから。
それでも一つだけはっきりとしていることは、武田赤音はこの光にとって初めて出会った『人間』であるということだった。
迷走し始めた思考を落ち着かせる為に、ずず、と茶を啜る。
染み渡るように身体の中を広がっていく熱をゆっくりと時間を掛けて堪能した後、ほう、と溜息を吐いて一言。
「時に村正、おれは美しい自然に触れてそれを愛でることは豊かな感受性と人間性を育むのに必要だと考えるのだが、お前はどう思う?」
《いや待て御堂。今、物凄く脈絡の無いことを口にしなかったか?》
「何を言う。それは確かにおれとてとうに見慣れた風景ではあるが、それでも美しい物は美しいし、何よりも飽きが来ない。そんな景色を目にしながら口に出す話題として、これ程に相応しい言葉があるものか」
彼女が座すのは堀越公方府。その一画にある湖に面したとある部屋が、光のお気に入りの場所だった。
つい一週間程前まで訪れていた普陀楽の城も、壮観さという意味では類を見まい。だが、ここから望める景色には、それとは別の美しさが宿っている。
部屋――部屋とは言っても窓はなく、どころか、壁さえも碌に無い。四方の内の三方は等間隔に柱と柵が並ぶのみであり、部屋というよりはむしろベランダと表現するのが正しかろう。
なのに部屋と呼ばれるのは、ここが作られたのは随分と昔の話であり、当時の大和にはベランダなどという概念が存在しなかったことに拠る。
とはいえ幾ら部屋とは言ってみても、ベランダはベランダである。隙間風などという話ではない開放感に溢れたそこは、どう見ても身体を休めるのに適当な場所とは言えなかった。
もしもそうでなかったなら、光はきっとここを己の居所としていたに違いない。それだけが唯一、この場所に対する不満点であった。
《…………》
「む? どうした、急に押し黙って」
《いや、色々と言いたいことはあるが……まぁ、良い。それよりも御堂、客だ》
「客? ……ああ」
唐突な村正の言葉に光が怪訝そうに瞳を瞬かせ、一拍。
得心がいったというように頷いた瞬間、背後の扉が激しい音と共に押し開けられる。
「御姫ぇ!!」
飛び込むようにして現れた姿は――足利茶々丸。
痩身の少女は、天をも割れよとばかりの威勢を持って、光の前に現れた。
――後にして思えば。
その日茶々丸が光の元を訪れたことが幾人もの人間の命運を大きく変える引き金となったのだが、この時はまだ誰もそれを知る由は無かった。