白い。
両目などという概念すら抱けぬような蒙昧な意識の中、しかしその真っ白な光は確かに暖かく頬を照らしている。
他には何も無い、ただ全身を穏やかに包み込むそれ以外は、何も。
どこまでも空虚な、しかし安らぎに満ちたまどろみ。それは彼にとって、最早夢の中ですら得られないような安息だった。
ゆらゆら、ゆらゆらと、まるで真夏の盛りに見る陽炎のようにたゆたう。
上下左右、天地の区別無く、重量の頚木もない安逸。
不意に、頬を温かく、けれど涼やかに――確かな質感を伴った何かがさわさわと撫でた。
純白の空気の中に僅かに混じる一滴の異物。しかしそれは不快感よりも、どこか懐かしく心地よい感情を抱かせる。
(何だ……?)
所在の定かならぬ感情への思索。
海綿のように穴開きだらけの意識を手探るうち、徐々にその郷愁が何に起因するのかが浮かび上がってきた。
あれは――そう、確か。自分が今と同じように光に包まれ、午睡の内にまどろんでいた時のこと。
(……光)
その名を心の内で呼んだ瞬間、景明の意識は腕を引かれるように浮かび上がった。
まるで鉛のように重い瞼を、ゆっくりと押し開く。
それは意識して行った行為ではなかったが、それでも、その行為は彼に大きな負担を強いた。
学生時代より久しく経験していないが、まるでしたたかに深酒をやった次の日の朝、二日酔いに悩まされながらも眼を覚ましたときのような心地である。昨晩、というよりもここ最近、酒など一滴も口にした覚えはないのだが。
呆とした頭でそんな思考を巡らせていると――不意に、彼の頭上から静かな声が落ちてきた。
「起きたか、景明」
その声に景明は痛切なまでに聞き覚えがある。何故ならばその声の持ち主は、彼という存在と不可分なものであるからだった。
胡乱な頭はそこまでの事情に思い至ることはなかったが、かといって聞き誤るわけもない。頬を流れる細指を心地よく思いながら、その名前を口にした。
「……、光……?」
「うん、おれだ。……すまないな、先程はつい加減を間違えてしまった。大事にはならないと思うが……。
そうだ、長いこと眠っていたから咽喉が渇いているだろう。少し待て、何か果物を貰ってくる」
そう言って光はそっと手を離すと、そそくさと立ち上がって背を向けた。
確かに、言われてみれば咽喉が渇きを訴えている。果物を貰ってくるという彼女の配慮は実に有難いのであるが、景明はどうにもその光景に痛烈な違和感を覚えて仕方がなかった。
そもそも、ここは何処なのだろうか。見る限りでは部屋の内装は記憶にあるどれとも異なる。あるいは本家の屋敷の一室だろうか、それにしてはやや貧相な気もするが。
それに長く眠っていたとは言われても床についた記憶もない。ならば自分はそれまで何をしていたのだろうか……と、そこまで考えた時、景明の脳裏へとフラッシュバックのような光景が流れ込んだ。
「…………。あ」
――思い出した。
そう、ここはかつて追憶の彼方に追い遣られた時間ではなく、どこまでも重く苦々しい現実である。であれば、あの光もまた彼の記憶にあったままの存在ではなく、
「ッ、光!!」
景明は、襖の向こうへと消え行く背中へ咄嗟に呼びかける。
しかし彼女は振り返ることはなく、トン、と木の打ち合わされる音が冷たく無慈悲に響き渡った。
(行かねば)
その段になって、景明の頭を占めていたのはたった一つの思い。光を止めねばならぬという、強迫観念のような考えだけだった。
胸元まで掛けられていた布団を跳ね飛ばすようにして起き上がると、駆け出さんばかりの勢いで閉ざされた襖へと手を伸ばす。およそ冷静とはいえないその行動を留めたのは、回復した景明の理性ではなく、横手から飛んできた呆れを含んだ男の声だった。
「おいおい、んな慌てて追っかけることもないだろ。いくら拗ねてるにしたって、わざわざあんたの嫌いなものを選んでくる程に根性曲がりじゃないだろうさ、あいつは」
「え?」
唐突に掛けられた声に足は止まり、伸ばされた手は中を掻く。半ば呆然自失としながら声のした方へと眼を向けると――そこには、僅かに過ぎぬにせよ面識のある男が床、に敷いた座布団の上に座していた。
以前に纏っていたレザージャケットは長袖の白シャツに変わっているが、中性的な顔立ちと薄茶色の髪などは初めて見かけた時とは変わっていない。どことなく皮肉っぽい表情といい、まず間違いなく記憶の中の者と同一人物だろう。
とはいえ、そのことが現状把握の手助けになりそうもなかった。何しろ、景明が男について知っていることなど殆ど無きに等しいのだから。
分かっていることといえば――そう、この男が、あの光と一緒に居たということくらいである。しかも、言動からしてかなり親しい仲であるに相違なかろう。
(……あの光と、連れ立っていた男)
その事実が指し示す所は幾つか予想が立てられるにせよ、どれも碌でもない想像になる。
思いついたそれらを薄く頭中に流しながら、景明は数秒の間その男をじっと見詰めていた。
仮にそれを訝しく思っていたにせよ、相手はそれを面に出す様子はない。それがポーカーフェイスによるものであるなら、あるいは彼の想像が正鵠を射ている証左であるかもしれなかった。
――二年。
人の一生の間で考えればさしたる時間ではないように思えるが、仮にどれだけ力量長けたる者であろうと、行方不明者として全国に手配の回っている者が独力で姿を隠し続けるには長すぎる年月である。
それでも尚、それだけの間ずっと姿を隠し続けていられたなら……それは恐るべき幸運か、もしくは何者かの後ろ盾有ってのことになるだろう。
前者であるのならばまだ良い。だが往々にして、嫌な予想は大抵が当たるものと相場が決まっていた。
そうして考えを回している内に、景明は先程までの己の行動の無意味さに気付く。仮に光が性急な虐殺を望んでいたならばとうの昔に手遅れであり、まして四肢も萎え切った今では、止められる可能性など論ずるだに愚かしい。
そんなことに時間を費やしているよりも、今は他にやるべきことがあるのではないだろうか。今まで何度となく折に触れては考えていた想像、その答えを得られる可能性が、目の前に座っているのである。
景明はく息を吐くと、それまでとは打って変わった落ち着いた仕草で膝を折った。
「……お騒がせしたご様子で申し訳ありません。自分は、湊斗影明と申す者。失礼ながら、貴殿の名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」
「ん? ああ、そか。そういやお互いに初対面だったっけな、おれ達。おれの名前は武田赤音、あんまし堅苦しく呼ばれるのは好きじゃないから、呼び捨てで構わねえよ」
「は。では……赤音殿」
いかにも気安げに語りかけてくる男の様子に些か面食らいながらも、景明は自分の頭の中に納まった人物辞典を手繰り始めた。
該当する名前は――無し。大和における全権力者の名前を把握しているとは言わないが、名も知らぬ相手を匿うとなればやはり相応の有力者になる。まして、その相手が悪名高き銀星号となれば尚更だろう。
そしてそんな人物ならば、まるで記憶にないというのも流石におかしな話である。となれば残るのは偽名を名乗っている可能性だが……赤音と名乗る男の様子は、そういった疚しさとは無縁の余裕さに満ちていた。
無論、景明とて問い掛ければ一から十までつらつらと目論見に至るまで語り聞かせてくれるなどという芸当を期待していた訳ではない。だが、これでは次に続けるべき言葉を捜すのも困難である。
その沈黙をどう受け取ったのか、赤音は愉快そうに口を尖らせた。
「だからさ、殿とかは要らねぇって。それともなにか、おれもあんたのことを一々殿付けで呼ばなきゃならないのか?」
「いえ……自分のことは、どうか呼び捨てで。私に対して、そのような敬称を付けて頂くには及びません」
「ほら。自分が他人を呼び捨てで呼ぶのは駄目で、他人が自分を呼ぶのに呼び捨ては良い、ってんじゃ理屈に合わないだろう」
「む……。ですが、自分は一介の公僕に過ぎません。公僕とは公衆に奉仕する者、そのような者が他者から敬意を尽くされるのも、他者に敬意を尽くさぬのも本末転倒ではありませんか」
期せずして景明は謹直な表情を作りながら、丁寧な口調で答えていた。
赤音の喋り方には、どうにも相手を自分のペースで語らせない雰囲気がある。それと察せぬ景明ではなかったが、いつの間にやら相手の空気に乗せられていたらしい。
彼は思わず瞑目しつつ、心中で深く溜息を吐く。元来が腹の探り合いなど得意と思った試しはない。だが、それを差し引くにしても、この相手から有益な情報を引き出すことは全く持って楽なことではないように思えた。
(さて、どうしたものか……)
如何にしてこの一筋縄では行かぬ相手に対し、どのようにして情報を引き出すかに思いを馳せる。
だが、それは結局のところ無駄になったらしい。くつくつと笑う相手の顔を眺めやりながら幾つかの手管を検分していると、不意に襖の向こうから床を踏みしめる音が聞こえて三秒――静かな音と共にそれが引き開けられたからだった。
「うん? なんだ、二人共もう互いに仲良くなったのか。もしかしたら、あまり反りは合わないかもしれないと思っていたのだが……どうも要らぬ懸念だったらしい」
襖に手をかけたままの光は、意外そうな眼で二人を見つめながら呟いた。
「どうだ。美味いか、景明?」
「……ああ」
景明がどことなく渋い顔で口にする。表情はともかく、その言葉は嘘ではない。
口中に広がった芳醇な酸味と甘味は間違いなく美味であったし、噛んだ際に溢れ出た水気も渇を癒してくれる。
その感情はきちんと伝わったのだろう。光は嬉しそうに小さく笑うと、いそいそと二つ目の蜜柑を剥きに掛かった。
赤音との会話を中途で打ち切られた後、景明は片手に夏蜜柑の収められた蔓籠を提げて現れた光に半ば強制される形で布団に戻らされ、手ずから剥いた蜜柑を手渡されていた。
本来ならば断るべきだったのかもしれない。だが、今まで殆ど眼にしたことのない、表情に翳りを帯びさせた光を目の当たりにして、何故か彼は冷厳と突っぱねる言葉を放つことが出来なかった。
……おかしな話である。今ここに座っているのは、厳密な意味での光ではない。彼の良く知る、最も大切であった少女はとうに狂っているのだ。今ここに居るのは、ただ姿形が同じで、性格に残滓を残すだけの別人に過ぎない。
そう、狂っていなければならない。
この二年間、数多の死を撒き散らしてきたその行いが狂気ゆえでなく、憎悪でもなく、ただ正気にて行われたなどと――有り得ない。そんな事は不可能だ。
ならばこそ、景明はただ光の身に襲い掛かった悲運を嘆き、ただ責務によって戦うだけで済む。
彼は頭の芯へと襲い掛かってきた軽い眩暈を振り払い、益体もない想像へと思考を浸していた己を恥じた。
今は……そう、別の事を考えているべき時である。
景明は、光との話を始めてからはすっかりと大人しくなっていた赤音へと視線を向ける。先ほどまでとは打って変わって、壁にもたれ掛かった男は光の持ってきた蜜柑を口に運びながら、呆とした眼差しを窓の外へと向けていた。
少なくとも、彼から言葉を引き出すよりは、光を相手にする方が幾分かは楽であるだろう。そう打算を働かせると、悪戦苦闘しながら皮を剥く彼女へと言葉を掛けた。
「お前に一つ、聞きたい事がある。
その……赤音殿は、一体どのような方なのだ?」
……言葉を吐き終えて、思わず景明は額に手を当てたくなった。
これではまるで、娘に交際相手のことを問う父親のようではあるまいか。
よもや彼の心中をそれと察したのではあるまいが、聞き終えた光は屈託なく微笑んだ。
「赤音か? ふうむ……そうだな。一言で言うなら、この光と対等にして互角の武人といったところか」
「………………………………。何?」
二度、数秒の自失を挟んだ後、慌てて赤音へと視線を向ける。
彼は呆れたような表情で光を見つめていたが、その中に彼女の発言を誤りだと思っているような様子は伺えなかった。
「あのなぁ……お前はもっとこうマシな、人に誰かを紹介するのに適した言葉ってのは選べないのか?
それと、前々から思ってたんだが、お前の頭の中には戦いのことしか無いのかよ」
「何を言う、おれと引き分けた男を紹介するのにこれ以上に適した言葉があるものか。そもそも、赤音は謙虚に過ぎる。もっと自慢げに振舞って貰わねば光としても立つ瀬がない。
それはそうと、それを赤音に言われるのは物凄く理不尽なことのように思えるぞ」
もはや景明の存在を無視した様子で丁々発止の会話を繰り広げる光と赤音。しかし同様に、景明の方でも二人のそんな様子など意識の内には入っていなかった。
『あの光と引き分けた武人』
その言葉は、景明の脳裏をぐるぐると回り続けていた。