教皇ヴィットーリオは礼拝堂で一人祈りを捧げていた。祈りの時間が彼の自由時間だった。多忙を極める教皇にとって、唯一安らげる時間と言える、長い祈りの時間である。祈る内容は日によって違う。例えばブリミル教の信者の幸福やら世界が平穏である事やら、休みが欲しいやら今日の夕餉はビーフシチューがいいやら様々である。良いではないか。祈る内容は自由だ。自由時間なんだから。今日、彼が祈っているのは孤児たちの幸せである。子どもは世界の未来であると考えるヴィットーリオにとって、孤児が溢れる現状は嘆かわしい事なのだ。うん、嘆く気持ちがあるのはいいのだが、飴玉を舐めながら祈るのはどうかと思います。そんな状態で祈っていたのが神様はご不満なようであるようだ。礼拝堂の扉が開き、ヴィットーリオは思わず飴玉を飲み込み咽そうになった。彼が振り向くと、聖堂騎士の案内でアニエスと頭が神々しい輝きを放つ中年男性がやって来た。「アニエス殿ではありませんか。いかがなされましたゴホゲホ!?」爽やかに決めようとした若き教皇だったが、咳と共に口から飴玉が出てきた。聖堂騎士達がヴィットーリオを咎めるように言った。「聖下!また飴を持ち込んでいたのですか!?今度は一体何処に隠していたんですか!」「違います。私は神の力で体内で飴玉を作れるのです」などと言いながら落としそうになった飴玉を口の中に入れて噛み砕く若き教皇。おい。どうやらこの程度の事は日常茶飯事のようである。いきなりトリステインに来た事といいこの教皇は破天荒な人物である。「飴玉を舐めると集中力が増すとジュリオが言っていました。私はより良い祈りをする為に仕方なく舐めているのです」「無理に舐めなくても良いではありませんか」「より良い祈りの為ですから仕方がないのです」日々の祈りは教皇の大事な仕事でもあるからして、その祈りに集中する事は確かに大事なのだ。だからって飴玉を持ち込むのはどうかと思います教皇様。「気を取り直しまして、アニエス殿、如何なされました?」アニエスはハッとした表情になった。「聖下に、お尋ねしたい義が御座います」「ふむ、なにやら込み入った話の様子ですね。さてそちらの方も・・・」神々しい光を頭部から放つ男、コルベールは神妙な顔で口を開いた。「聖下に、お返しせねばいけないものが御座います」「ほう。これはどちらも大事のようですね。ここではなんですから、執務室にどうぞ」執務室にやってきたヴィットーリオは、椅子に腰掛けると二人を促した。「まずは、おくつろぎ下さい。大事な話ほど楽な状態でするべきです」コルベールは腰掛けたが、アニエスは腰掛けず、本題を切り出した。「聖下、失礼の段、平にお赦し下さい。聖下は『ヴィットーリア』という女性をご存知ですか?二十年前、ダンデルグールの新教徒たちの村に逃げ込んだ女性の事を・・・」ヴィットーリオは懐かしそうにそして悲しそうに言った。「ええ、知っています。我が母です」アニエスの顔が歪む。彼女の瞳には涙が浮かび、そのまま片膝をついた。一方、コルベールは顔を俯かせた。「聖下を一目見たその時から気になっていたのです。そのお顔立ちはあまりにもかのヴィットーリアさまに瓜二つ・・・」「女性のような顔立ちだと子ども達によく言われますよ」「聖下、母君の変わりにわたくしの感謝をお受け取り下さいませ。わたくしは貴方の御母君に、この命を救われたのです。卑劣な輩の陰謀で、わたくしの村が焼き払われた際・・・、ヴィットーリアさまはわたくしをお庇いになり、お命を失われたのです」「・・・そうですか。子ども好きのあの人らしい最期だったようですね・・・」続いて膝をついたのはコルベールだった。「・・・聖下。貴方の御母君を炎で焼いたのは、他ならぬわたくしで御座います。わたくしの右手が杖を振り、この口が呪文を唱え、貴方の御母君のお命を焼いたので御座います・・・当時のわたくしは軍人でしたが、今でもその時の罪を背負い、今日まで生きてまいりました。隣のアニエス殿と同じく、聖下にはわたくしの命を自由にする権利があると考えます」コルベールはなおも言葉を続ける。アニエスは黙ったまま俯いていた。「此処に、御母君の指輪が御座います。これをお受け取りになり、わたくしの処遇をお決め下さい」ヴィットーリオはコルベールからルビーの指輪を受け取った。その指輪を指に嵌めてから、穏やかな表情に戻った。「・・・わたくしの指に、この『火のルビー』が戻るのは二十一年ぶりです。お礼を言わねばなりませんね。我々はこのルビーを捜しておりました。それがこのようにして指に戻りました。今日はよき日ではありませんか。本当に・・・」「では聖下、わたくしの処遇を」ヴィットーリオは首を横に振った。「貴方は命令に従ったまで。責められるべきはそのような命令を下した者達です。そしてそのような命令を下した者達は既に罰を受けていると記憶しています」ヴィットーリオは膝をついて、コルベールと同じ視線になった。「ですが聖下・・・わたくしは・・・」「もしわたくしがもう少し幼く、加えてこのような地位でなければ貴方に対して憤りの感情を覚えたはずでしょう。ですが・・・そのような事が理解できる地位に今のわたくしは就いています。貴方が責められるべきではないという事はわたくしは知っているのです。ですから貴方を裁くつもりなど、わたくしにはありません」ヴィットーリオはコルベールに言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。「ミスタ・コルベール。現在の貴方は教師です。ならば貴方の贖罪はより良い未来を作るような若者をこの世界に輩出することだとわたくしは思います。これからのあなたに神と始祖の祝福があらん事を」立場は人間を変えると言う。ヴィットーリオは軍人が上官の命令に従わなければならないという常識は理解していた。おそらく目の前のコルベールという男は優秀な軍人だったのだろう。ただ、あの時の悲劇で戦いから身を引くほど人間的でもあったのだろう。贖罪する気があるのならば死なせてはならない。アニエスとコルベールが退室した執務室で、ヴィットーリオは火のルビーを見つめていた。・・・母の形見のようなものになってしまったこの指輪を見て若き教皇は思い出したように執務室の机の引き出しを開け、その中に入っていた小箱を取り出した。この小箱の中には固定化の魔法がかけられた羊皮紙が入っていた。それはヴィットーリオに宛てられた母の最後の手紙であった。「母上・・・やはり運命は私の手元に収まってしまったようです。結果的に貴女の行為は無駄というわけでしたね」運命。母はこの力を持ってしまった自分の運命を嘆いていた。その運命から自分を救うつもりだったのだろうか。ある時彼女は火のルビーを持って逃げ出した。自分を置いて。そんな母親を『異端』として時の教皇は異教徒狩りと称し、彼女を探す為だけに凄惨な殺戮の命令を出した。母が逃げ出したせいで自分は余計な十字架を背負う事になった。このままでは自分への風当たりが強くなると感じ、自分は人の何倍も努力したと胸を張って言える。保身の為にこの地位まで上り詰める直前、自分は書庫の整理中、この手紙を見つけた。『運命だと諦める事は簡単です。ですが愛する息子よ、私は貴方をそのような運命へ送り込む事はできません。馬鹿な母をお恨みください』簡潔にただそれだけ書かれた手紙だった。母は結局死んで、二十一年の時を経て、結局指輪は自分の手に収まった。母の想い等、運命の前には儚いものでしかなかったという事である。結局努力の結果自分が教皇にまで上り詰めたのも、指輪が戻ってきたのも全て運命なのだ。教皇になって、自分はこの世界が辿らんとする運命を知った。諦めれば確かに楽かもしれない。だが、納得は出来ない運命に対して抗う事は生物として間違ってはいない筈だ。母は力が足りなかったから運命を変えれなかった。だが、自分はどうだろう?力は集まってきている。自分も力を持っている。未来の為、子ども達のため・・・この先待っている運命を黙って受け入れるつもりは自分にはなかった。力があれば運命は変えられる。ならば変えてみせる。それが教皇である自分の使命なのだから。教皇即位記念式典は明後日である。水精霊騎士隊は大聖堂の中庭で調練の最中だった。表向きは式典に出席するアンリエッタの護衛なのだが、実際はアンリエッタと教皇の敵を捕まえる為に呼ばれたのだと知り、大張り切りなのだ。「陛下は栄えある任務に我らをお選びになられた!教皇の御身を狙う悪辣なガリアの異端どもの陰謀を食い止めろ!」マリコルヌが叫ぶと、一斉におおおおおおお!!!と地鳴りのような掛け声が飛ぶ。虚無の説明を除いた計画をアンリエッタが説明したのだが、その虚無が大事だろうよ常識的に考えて。この件で手柄を手柄をあげれば、故郷に凱旋できるので騎士隊の士気は物凄く高かった。敵は大きなゴーレムを使うというので現在騎士隊はギーシュが作った巨大ワルキューレ相手に魔法をぶつけていた。「ぎゃあああああ!?ギーシュ、もっと手加減してくれーー!!」「何こいつ!?でかいのに速いー!?」俊敏な動きで騎士隊を翻弄する巨大な戦乙女に騎士隊は大苦戦というか崩壊の危機である。これではミョズニトニルン相手にはどうしようもないだろう。「僕のワルキューレ相手にこれではね・・・」「まあ、足止めにすらならんな。まあ、そこら辺は各自の創意工夫に期待しよう。俺も楽したいしな」「やれやれ・・・創意工夫ね・・・。僕も出来る限りの事はするけど・・・ま、死なないように頑張ろうじゃないか」ギーシュは溜息をついて、ワルキューレ相手に逃げ回る騎士隊を見つめた。ルイズは教皇の執務室の前まで来ると、扉を叩いた。話があると呼ばれて来たのだが一体なんだろう?どうせ碌なものではないとは思うのだが。「どうぞ」と教皇の声がする。扉を開けると、椅子に腰掛けたヴィットーリオとジュリオ、そしてアンリエッタとティファニアの姿があった。「お待ちしておりました」教皇の指に光る指輪を見てルイズは目を見開く。「聖下、それは・・・」「ええ。先日、わたくしの指に戻ったばかりの『四の指輪』の一つ、火のルビーです」「それでわたくしに用事とは・・・?」「始祖の祈祷書を拝見させていただきたいのです。始祖の秘宝は、新たな呪文を目覚めさせる事が出来ます。わたくしはかつてこのロマリアに伝わる火のルビーと秘宝を用いて、呪文に目覚めたのです」「どのような呪文ですか?」「いやぁ・・・戦いに使用できるような呪文では御座いません。遠見の呪文に似た呪文ですよ。遠見ならば偵察にも役立つのでしょうが・・・それが映し出すのはハルケギニアの光景ではないのですよ」ルイズのあからさまにがっかりした様子にヴィットーリオは苦笑する。「虚無にもおおまかな系統があるのです。どうやらわたくしは移動系のようだ。使い魔も呪文もね」「ではティファニアは?ガリアの担い手は?」「それをこれから占うのです。さて、ではアンリエッタ女王陛下。風のルビーを彼女に」アンリエッタは風のルビーをティファニアに差し出した。「お受け取り下さいまし。この指輪は貴女の指におさまるのが道理。アルビオン王家の血筋を継ぐ担い手の貴女が・・・」ティファニアはされるがままに、風のルビーを嵌める。ルイズはヴィットーリオの指示に従い、始祖の祈祷書をティファニアに渡す。だが、どういうわけか彼女に始祖の祈祷書は答えてくれなかった。必要があれば読める筈なのだが、彼女に虚無の呪文は必要がないというのだろうか?「・・・どうやらまだその時期ではないようだ。では、次はわたくしの番です」若き教皇が祈祷書を受け取り、何のためらいも見せずに開く。すると、祈祷書のページが光り輝く。ルイズたちは思わずその光景に見入った。「中級の中の上。世界扉・・・」ヴィットーリオはそう言うと呪文の詠唱を始める。ルイズはその様子を呆然と見守る。世界の扉?ハルケギニアとは違う世界の光景が見えると彼は言った。それってもしかしたら・・・もしかしたら・・・教皇は途中で詠唱を打ち切り、程よい所で杖を振り下ろす。虚無の威力は詠唱の時間に比例するから、ぶっ倒れるまで詠唱する訳にはいかなかったのだろう。初めに見えたのは、豆粒ほどの点だった。徐々にその点は大きくなり、手鏡ほどの大きさになる。鏡の中に映っているのは見たことも無い光景だった。高い塔がいくつも立ち並ぶ異国の風景だ。「これは一体・・・この光景は・・・?」「そうです。これこそ別の世界です。あなたたちの飛行機械や、我々の前に幾度となく現れた場違いな工芸品の故郷です」この世界が・・・達也と真琴がいるべき世界だというのか・・・?多くの塔が立ち並ぶ都市。その全てがハルケギニアとは比較にならない程の洗練された技術を感じる。「わたくしが以前使えた呪文は、ただこの世界を映し出すものにすぎませんでした。だが、今度の呪文の世界扉は実際に向こうの世界に穴を開けることができるのです」思いもよらないところで達也達を元の世界に戻す方法が見つかった。ルイズはいてもたってもいられず、駆け出した。その背をジュリオが呼び止める。「おいおい、何処へ行くんだい?」「決まっているじゃないの!タツヤに教えてあげんのよ。帰る方法が見つかったって」散々帰りたいとぼやいていたアイツならば大層喜ぶことだろうと、ルイズは思っていた。「そんなことされたら困るんだけどね。ぼくは彼に『聖地に向かえば帰る方法が見つかるかも』って言ったんだ。この魔法を見せたら彼が聖地に行く理由がなくなるじゃないか」「元々タツヤにとっては聖地なんて関係ないでしょう!」「もう一つ問題があります。今、ためしに小さな扉を開いてみましたが・・・倒れそうです。彼一人くぐれるほどの大きさを作ろうとしたら、わたくしは精神力を使い果たすと思われます。わたくしの虚無はハルケギニアの未来の為に使わねばなりません。彼を帰すだけに呪文を使う訳にはいかないのです」「それにさ、ルイズ。彼が帰ってしまって本当にいいのかい?」「それが私とアイツの約束なの。約束も守れない女にはなりたくないのよ」とは言うものの、達也を素直に返す事に恐怖もあった。これまでの日々を続ける事が出来るのか?またつまらない毎日が戻るだけではないのか?そんな状態に今の自分は耐えられるのか?でもそんな弱音を吐けば絶対アイツは笑って言うのだ。『お前は一人じゃないだろう』約束は守りたい。これ以上自分達の世界のいざこざにアイツを巻き込む訳にはいかない。彼はガンダールヴじゃないし、帰しても全然問題ないだろう。アンリエッタはルイズに言う。「タツヤ殿を帰さねばならないという考えも立派ですが、彼を帰さない事で救われる命もあると思います。帰してしまえばその命は救われないという事です」「人生は選択肢の連続です。貴女が彼を帰すというのも正解、彼を残すと言うのもまた正解なのです。わたくし達の理想には出来れば彼の力も欲しいのです。それはつまり、彼の力を得ればハルケギニアは救われるやも知れないという事なのです」「ルイズ、貴女は慎重に決めなければなりません」ルイズは唇を噛んだ。過大評価な気もしたが、達也はこれほどまでに必要とされている。だが、達也にとっての正解なんてルイズには痛いほど分かっていた。彼には愛する人が元の世界で待っているのだ。達也にも真琴にも元の世界での未来があるのだ。この世界の事を自分達の力だけで何とかしようと思わないのか?全員が見つめる中、ルイズは悔しそうに俯くのだった。一方その頃のド・オルエニール。ルイズたちがいないのに学院にいるわけにはいかなかったシエスタと真琴はこの地にいた。シエスタは屋敷の掃除に忙しく、真琴は暇で仕方なかった。孤児院の皆は何か遠足に行っているらしく留守だった。エレオノールも仕事で屋敷にいない。好奇心旺盛な真琴は、屋敷の中を歩き回り、面白そうなものがないか見て回っていた。やがて鍵の束を見つけ、何処の鍵かと探し回った。「うわ~・・・真っ暗だぁ・・・」やがて真琴は地下に繋がる階段を見つけ、ワクワクしながら降りていった。この妹は兄なんぞより数倍好奇心が強い為、鍵が開いている扉より鍵が閉まっている扉の先の方を優先して調べようとする。兄が王女と探索した場所を鍵を持って行けるところまで進んでいく。戻る時の事など微塵も考えていないその足取りは軽く、やがて真琴は地下3階の小さな食堂がある扉を開けた。「ほえ?」「ん?」食堂には先客がいた。身体のラインがはっきり認識できる修道服に身を包み、その先客はパンを齧っていた。赤い眼と白く長い髪が印象的だ。背丈はマチルダと同じかやや低めであったが、身体のラインから出るところは出ているようだった。「お姉ちゃん誰?」「ほほう、可愛い来客ですね。それにしてもお姉さんとは・・・私もまだ捨てたものじゃないようですね」嬉しそうに言う修道女。「久しぶりに起きて出会った人間が幼女とは・・・ああ、すみませんねぇ。私はフィオ。この建物の大家さんみたいな凄い存在です」「大家さん?」「そうですよ~?」「でもこのお屋敷、お兄ちゃんのお屋敷って皆が言ってたよ?」「ふむ・・・私が寝ている間に当主が交代したようですね。あのヒヒ野郎に妹はいなかったはず・・・そもそも熟女好きだったし・・・そうですか、貴女のお兄様が今の当主というわけですね?ところでお嬢さん、貴女の名前を聞いていませんでしたね」真琴は元気良く答えた。「はい!因幡真琴です!こっちではマコト・イナバだって、お兄ちゃんが言っていました!」「ほう・・・?イナバ?そうですか・・・」フィオは心底愉快そうな表情になった。「ではマコト。大家として私は貴女のお兄様に挨拶をしなければなりません」「んとね。お兄ちゃんは今、ろまりあっていうところにおでかけしてるの!」「ロマリア・・・ですか」フィオは神妙な表情で考え込む。やがてにんまりと笑い、真琴に礼を言った。「マコト、有難う御座います。久々に遠出をする理由が出来たようです」「はにゃ?どういたしまして」真琴の頭を撫でるフィオ。くすぐったそうにする真琴を見て、更にフィオは微笑むのだった。(続く)