「さて、と……」
肩で息をしながら、ぐいっと額の汗を拭う。ここまで走って来たため、ツインテールの毛先が額に張りついてとんでもないことになっていそうだった。
駅やらバス停やらを探してさ迷ったりと困難尽くしだったが、取り敢えずは目的地の校門前に到着。
はあはあと息を整えながら、いそいそと福沢祐巳のキューティクルな髪の毛も整えてみる。整えるといっても、こんなに長い髪の毛は生まれて初めてだったから、正直色々と見当もつかないうえに暑苦しかった。ゴムが窮屈すぎていやになる。
しかしここからが本番なのだ。紅薔薇のつぼみらしく振舞わねば。
そんな意気込みと反して、学園の敷地外ということもあるだろうが、生徒の姿は見えない。何となく既にHRどころか授業も始まっていそうで取り残された気分だけど、何も恐れる必要はない。
うん、俺はこれでも一応お気楽大学生。時間にはルーズだし、ここが大学だと思えば恐怖も薄れるだろう。
それに加えて、さっき教科書と学生証をよく確認したときに判明した、氏名と学年とクラスと出席番号。やっぱり俺は間違いなく福沢祐巳だった。二年生だから、紅薔薇のつぼみということになる。
「ぜはっ……ぜぃっ」
決意的な静寂のなか、全力疾走で出来上がった自分の激しい息遣いだけが耳をうつ。
女学校。
誰も居ない校門前。
激しい息遣い。
この三種の神器が揃ってしまった現実に少々の戦慄は禁じ得ないが、決して興奮している……わけじゃない。
そうだ。やましい気持ちなんてこれっぽっちもないんだから大丈夫。
むしろまったく安全な優良市民といえる。俺はむしろ国民主権的に尊重されるべき存在のはずだ。だからお願いです、さっきからこちらを窺っているそこの守衛さん、是非とも俺の潔白を再考してみてください。
じーっ。
しかし俺の願い虚しく、一種の暴力装置たる校門脇の守衛室らしき小屋の窓から、不穏な視線が注がれる。よく分からないけどあと一歩で踏み込まれる粘度を感じさせる視線だ。
流石に頬を火照らせて肩で息をしながら苦悶げに校門前から離れない俺は、リリアン女学生らしからぬ態度だったのかもしれない。もしかしてリリアンの制服を着用しただけの変態、と思われているのかも。
むしろ福沢祐巳に憑依してから二時間しか経っていないにも関わらず怪しまれている、その事実に戦慄。ここの守衛の職務態度は、極めて勤勉、優秀すぎる凄腕だっ。
「くそっ、何のための民主主義、何のための……!」
反国家的な存在ではありません――そんな意味を篭めた呟きを、機械的に髪を梳かしながら呟いてみる。もう祐巳語(乙女な言葉遣い)を使う余裕なんてない。
がたっ。
「くっ……!」
聞こえていないと思ったのに守衛Aが腰をあげた。このままじゃ職質される――!
「行くしかない」
勇気を出して、のしっと足を一歩踏み出す。
そして部外者を締め出してやまない柵みたいな校門に触れる。
女の子、俺は女子、と心に言い聞かせながら、3メートルくらいありそうな由緒正しき門を開けようとして――。
「くっ、このっ! こいつ!!!」
開かなかった。
がちゃり。
そしておもむろに守衛Aがでてきた。
福沢祐巳の小さな心臓が、肋骨を突き抜けたような気がした。
俺が福沢だ! 一話
眼前にそびえ立つのはリリアン女学園。
まるで大学レベルの威容を誇るその姿は、男と部外者とを威圧してやまないオーラをかもし出している。
やっぱりスゴイ神聖さだゼ、女子高は……。
ファンタジックな背徳感が男らしくも背筋を駆け抜けては消えていく。女子校の可憐な佇まいが網膜を刺激して大変だ。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
少し脇見をしていた俺に、守衛Aが門の鍵をがちゃりとかけ直しながら言った。何をされるかと思えば、この凄腕は校門を開けてくれたのだった。
「それじゃ、自分はこれで」
「ご、ごきげんよう」
早速ごきげんようと言えた自分に感心するなか、守衛はきびきびした動作で守衛室へと戻り、そして何かこちらをチラチラ見ながら電話しだした。
いい人だ。と感動したけど、何となくその視線が俺の全身を這っている感覚が絶えなかった。
やっぱりこれって――。
「気付きたくなかった……」
ずーん、と気分が沈んだ。女として値踏みされてるんだ。
外見は16歳の女の子でも、中身は成人男性の自分。色々と致命的にすれ違ってる。
「これが男の業なんですね……って感じかな。男の業なんだ、くらいかも」
自分と守衛とに同情しながらも祐巳語の予行演習に没頭し、後ろの哀れな熱視線を振り切っていく。
イチョウ並木を小走りに進んでいくと、やがて校舎の前に池とマリア像がみえた。
これが高名なマリア像。うーん、不気味だ。意外にでかくて気持悪い代物だった。
作法を知らないのでお墓を拝むときみたいに手を合わせ、神罰を恐れながらも謝っておく。すみません、よく見ると神秘的なお顔ですね。俺はいま女の子です。清き乙女です。いわばこれでお仲間ですねマリアさま。どうにかしてくださったら嬉しいです。
お祈りをすましてあたりを見回す。内側から見てもやはり規模が大きく、建築様式もどこか違っていて、まるで貴族のお屋敷に招待されたみたいで圧倒される。
「でかい」
圧巻だ。
豊かな自然の香りもして、マリアさまのご加護に包まれている錯覚がした。でも。
「………どこに入ればいいんだろ」
校舎は見えるだけで五つくらいあるのだ。しかもどれも似たような形でよく分からない。相変わらずギャンブルな登校だった。
ひょっとしたら小・中・高が同じキャンパスにあるのかもしれなかった。だとしたら構造は至上の複雑さ、人に聞かなきゃ分からない。
「マリア様、さっそく出番です。助けてください」
シーンとした無言が耳をうつ。イチョウがさわさわと揺れていた。これだからお嬢様学校はいやだと、怒涛の不幸すぎて泣きそうになった。
「ごきげんよう、福沢祐巳さん」
マリア像の前で今後の人生設計を思って嘆いていると、年寄りのシスターが静々と歩いてきた。清楚な雰囲気と神の威厳におされて、思わず頭をさげてしまう。
「ご、ごきげんよう」
「今日は随分と盛大な遅刻をなすったんですね。珍しいこともあるものです」
マリア像に軽くお祈りしてから、シスターが言う。手の合わせ方が自然で上手だった。
「は、はい。すみません。迷ってしまって……」
本物のシスターの迫力を前にして、いよいよ罪悪感が激しくなる。自分の存在は嘘そのものだからだ。福沢祐巳と呼ばれると、ちくりと胸が痛む。
「迷う?」
「あ……。えっと」
しまった…! 迷ったとかありえなすぎる迷宮で死ねる。
「それは……ですね」
「それは?」
考えろ祐巳のブレイン!
全教科で平均点を叩きだす高度に安定した頭脳をフル回転させる。
しかし即座に解答は導かれない。祐巳脳のせいなのか俺のソフトのせいなのか分からないが、むしろオーバーヒートでもってかれそうだ!
「そ、それは……」
苦肉の策として、マリア像を眺めて時間と余韻を稼いでみた。これだけは使いたくなかったが、マリア様との心の対話はまさに乙女色のセンシティブ。傍から見れば、祐巳の外見も手伝ってどこか深淵な苦悩に見えることだろう。まさに虚構すぎて罪悪感が募る一方。
そんな俺を見て、シスターは心配そうな顔をした。
「どうかしましたか?」
「いえ……ただ、最近物忘れが酷いんです。どうしてでしょうね」
「物忘れ?」
「はい」
神妙に頷く。シスターも老齢で物忘れが酷いのか、妙に同情したような顔になった。え、行ける! この手ごたえ…!
「はは。若いのに、おかしいですよね。健忘、というのかもしれません」
「健忘……大変なのですね」
はは。と自嘲げに笑ったのは祐巳らしくなかったかなと思いながら、調子に乗った俺はさり気なく、実に自然な様子で続けた。
「それで、お……私の教室は、どこでしたっけ?」
「は?」
やっぱり物凄く退かれた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です、日常茶飯事ですから。異常と正常の違いは、きっと日常のなかにあるんだと思います」
「紅薔薇のつぼみ……。本当に、大丈夫ですか?」
念を押すように言ってくるシスター。更に不安を煽ったような気もしなくもないけど、取り敢えずシスターにアルツハイマー説を否定してから、教えてもらった校舎へ向かった。
「下駄箱は、どこかな」
閑散とした昇降口。取り敢えず学年とクラスと出席番号順だと推定して、適当に見当をつけて開けてみる。
「上履きなし」
違った。
恐れずにどしどしと開けていき、やっと見つけた『福沢』と内側に書かれている上履きをはき、場所をしっかり記憶。
自然と、自分の居場所を刻み付けるように。こうやって一つ一つ、福沢祐巳の領域を奪っていくことが良いことなのか悪いことなのか、それはもう分からなくなっていた。
近くの階段をのぼって、人の気配がする廊下を歩き、うろうろと自分の教室を捜す。壁一枚を隔てた多くの教室にはもう高校生の女子が居ると思うと、不安になってくる。
想像したより静かなのはリリアンだからだろうか、一時間目の授業は遅々とせず進んでいるようだった。
窓から眺めおろせる景色、グラウンドの土の色や、イチョウや桜の若い色に、何となく心が惹かれた。祐巳の体に宿った後遺症なのか、自分の情緒が不安定になっていることに気付く。
「今更だけど、逃げたいのかもしれない」
そう思った。でも、俺はもう福沢祐巳なんだ。逃げたところで意味なんかないに決まってる。せめて……。せめて……。
せめて、何だっていうんだろう?
ぞろぞろと押し寄せてくる憂鬱のなか、自分のクラスと思われる教室をみつけた。
一時間目は、時間割によると現国の授業だった。終わるまで待とうと思ったが、これは踏ん切りをつけるための入室だ、と思いなおす。
慣れないツインテールの毛先を改めて整える。
コンコン、とノック。
先生の朗読の声が止まる。
それから。
「失礼します」
ドアを開けて教室への一歩を踏み出した。
すぐ見知らぬ知人たちの視線が、突き刺さってくる。でも、――負けない。よく分からないけどそう思った。
そうだ、せめて胸を張って行こう。祐巳に恥じないように。紅薔薇のつぼみの名に負けないように。
「遅れてすみません」
それだけが、この流されるままの状況に対する精一杯の反撃なのだと信じて。
先生に謝罪してから視界の隅で空き机を探すと、俺は紅薔薇のつぼみとして、福沢祐巳として、堂々と席についたのだった。
しかし――。
ひそひそ。
「祐巳さん、どうしたのかしら」
ひそひそ。
「遅刻だなんて」
う、注目の的だ……。
開始10秒で、もう負けそうだった。