うぇえええ!?
まじで!? まじかよ!!
鏡に映る自分の姿を、俺は何度も何度も目を擦りながら見つめ直す。
「……くぁ、くぁ、くぁ、か、わいい、ね」
暫くして、ぽろりと、そんな言葉が零れ落ちてしまった。
自分の姿を見て「かわいいね」なんて、まるで変態みたいだけど、あたかも自律神経が失調したみたいに呟いてしまったのだ。
「でも――」
ごくり、と唾を飲みこむ。目の前に映っている、喉仏のないほっそりした首筋が、微かに恥じらうように胎動した。本物だ、どう考えても俺は「本物」だよ。
鏡のなかの自分は、いつの間にかツインテールの髪型をしていた。染めた風には見えない、少し癖のある、でも艶やかな亜麻色の髪。
その大きな目には愛嬌があって、不思議な優しさをたたえている。見ている俺が、徐々に吸い込まれるくらいに。
全体的な輪郭はぽっちゃりしていて、可愛い子狸という印象がぴったりの……麗らかな女子高生だった。セーラー服?みたいなの着てるし。
「――でも、さ」
皮肉に呟くと、鏡のなかの女の子が引きつったように唇を吊り上げて笑った。元が可愛い女の子だけに、何やら見てはいけないようなバランスの表情だ。
ちなみに、俺は正真正銘の男だ。男なんです。男のなかの男を目指していたわけじゃないけど、ついさっきまで普通の文系大学生のはず――だった。
それがいつの間にか、寝て起きたら、見覚えのない部屋に居た。
酔っていたわけでもないのに、宇宙的におかしいその事実を目の当たりにして、色々と解決手段を模索するために少女趣味のインテリアを物色してみたら、高価そうな鏡と対面、「くぁ、くぁ、くぁ」という冒頭に戻るわけなんです。
俺の名前は田村慎二、性別男。でも鏡に映るのは女の子。要するに纏めると、俺は別人の女の子になってる、らしい。
「…………でも、それ以上に……」
落ち着け、俺。ほれ見なさい、鏡のなかのおなごが震えておるわい。そういうのは自称ジェンダーフリー論者の所業じゃないよ。
――落ち着け若造、落ち着け俺。
そう繰り返し念じつづけると、何とか震えは止まったみたいだ。
ついでににっこり微笑んでみる。普段の俺がやったら、まず間違いなく吐き気を催す行為だろう。
しかしその女の子の微笑は、見た瞬間に体中でスパークが走って、「これ、受け取ってください!!」と地べたに膝をつきながらロザリオを渡したくなるくらい、やばいのだ。やばいプリティー。平凡そうだけど、平凡さゆえに!と数百のロザリオに向かって力説したくなるくらいだ。
実のところ、見覚えのないようで見覚えのある、その女の子。
ロザリオのかかっている白くて細い綺麗な首、ロザリオを授与したくなってくる薔薇色の雰囲気。そう――その女の子は。
「やっぱり……福沢祐巳、だよな……?」
どう考えても、この前読んだ『マリみて』の福沢祐巳にそっくりなのだ。
……ねえマリア様、僕に何をさせるおつもりですか。
ぐったりと頭を垂れた「俺」の可憐な姿が、その日の朝、祐巳の自室の鏡にまざまざと映し出されていた。
俺が福沢だ! プロローグ
とりあえず悩んでも仕方がないので、色々と柔らかくて神秘のボディチェックを終えたあと、ほんのり動悸が激しい体を抱えながら、情報収集を開始した。
このまま部屋に引き篭もっても埒が明かない。おそるおそる階段を降りてみたら、いきなり祐巳母(推定)と出くわした。シット。
原作やアニメで見たことがあるはずだけど、実際のところよく覚えてなかった。しかし現物はなかなかの美人さんだ。
たしか、この人が祐巳のお母さんならリリアン出身らしいから、典型的なお嬢様の一員なのだろう。
廊下の真ん中に行儀よく立っている女性は、沈黙を貫いて様子を窺っている俺(=愛娘)を見つけると、頬に手を当てて声をだした。
「あら、祐巳。着替えるの遅かったわね。もう、呼びに行こうと思ったのよ」
「あ、はあ……すみま……ごめんなさい」
――祐巳。この人は確かにそう言った。
間違いない。俺が福沢祐巳の可能性が、またひとつ上昇したんだ。あとは福沢という苗字を探るべきだろう。
とりあえず名前が福沢祐巳なのかを確かめることで、自分の推測を信用できるようになる。
世の中に福沢祐巳がどれくらい居るか分からないから、リリアン女学園に通学している事実も、しっかり聞かなくちゃダメだ。
でも、スゴイどうしよう。こんな虚構の世界に紛れ込んだときの対処法とか、教科書には載ってなかった。
そもそも祐巳の言葉遣いが難しい。色々と話しかけて現状を把握しようと思ったが、やっぱりやめて、むすっと沈黙する。
そう、母の愛は思ったより偉大なのだ。俺が祐巳じゃないことを直感されたらマリア様でも直視できない現実が待っているかもしれない。きっと処女受胎どころの騒ぎじゃないことになる。
だから今は本物の祐巳に悪いけど、出来る限り祐巳らしく振舞って、衣食住を確保する必要があるのだ。最悪、祐巳の人生のうち50年間くらいを生き抜くことになっても大丈夫なように。
「? どうしたの、おどおどして……? ご飯、食べる?」
「う、ううん、いいです。今日は、いらない」
……ううんって。癖になったら乙女恥ずかしいよ。
「そうなの? 確かに、時間がもうないみたいだけど」
そういって、首を捻りながらお母さんはリビングらしきところへ戻っていった。
自分の演技は母に通じる…!
バレなかったことにほっとし、それから更に表情を引き締め、俺は母の後を尾けることにした。
母に続いてリビングに入ると、テレビ、ソファー、テーブル、その他諸々、一般家庭より豪華な佇まいが目に飛び込んできた。実にブルジョアな家族らしいです。
テーブルには、食べられたあとの食器がある。父は居ないようだった。何故かソファーで歯磨きをしている少年が、福沢祐麒なのかもしれない。
ドアの前でじっと見てみると、ちょっといまどきの若者で怖かった。
な、何となく生意気そうなツラをしてやがります。こいつめ。シスコン(仮)の癖に。
内心強がってみても、心臓はドキドキとする。ファーストコンタクトが一番重要なのだ。
「お、お、おはよう。今日もそう、ゆ、祐麒、今日も勇気百倍だなあ……」
そろそろと少年の横のソファーに座ってから、言葉のジャブ。
祐巳らしい言葉遣いを意識しながら、勇気と祐麒の言葉のマジック。これで反応したら、きっと祐麒だろう。そうに違いない。そうだといいな。花寺の生徒会長さまだといいな。
「勇気、勇気かあ。勇気りんりんだね」
「なんだよそれ」
「あーん!?」
おっと、あーん?って何だよあーんって! どこの乙女があーんだよ!
俺は慌てて女の子らしいと思われる声を鳥肌をたてながら出す。
「……えーと、ゆうきは、ゆうきある?」
「は?」
呆けたような顔。
勇気がりんりんとかアンパンマンすぎる言葉に今更恥ずかしくなって、俺は更にパタパタと手を振った。視線が痛い。
「あはは! 何でもないって! 何でもないよ福沢諭吉!」
取り敢えず偉い人の名前で誤魔化すと、今度は困ったように少年は笑った。
「ユキチって、祐巳まで言うなよ……。俺はまあ、勇気があったらいいなって思ってるよ」
「そ、そう……」
「祐巳は……いや、なんでもない。うがい、してくる」
何だか急にシリアスな面持ち。
それよりもお兄さんも色々と困ってるんですから会話してよ。
そう思ったけれど、傷心気味に歩き去って行く少年の後姿には声をかけられなかった。とにかく、ユキチと呼ばれてるらしいから、まあ茶髪の彼が祐麒なんだろう。
一応、あっちが洗面台ということを頭に刻みながら、今度は振り返って母にジャブをかけてみた。今度は学校の確認だ。
「お母さん、り、リリアンって素敵ですよね」
「あら、どうしたの?」
「ほら、リリアンだよリリアン! 学校のリリアンヌ!」
「ん……」
食器を洗っていた母はこの娘どうしたのかしら、と言った風に考え込む。
その姿はお嬢様みたいだった。日本で10番目に深い用水路くらい浅い窓のお嬢様。そんな偏見に囚われながらも、庶民の俺は負けじと更に追及した。
「最近、お母さんの母校だなあって意識して……」
早くしないと学校に行く時間が来る。どこの学校に行けばいいのか知らないんだってお母さん、と言いたいのをグッと我慢。
今の時間は7時ジャスト。そろそろ出ないと、きっと間に合わない。本物の祐巳は、遅刻を望んでいないに決まってるのだから。それを俺は尊重しなければならない。
「そうねえ。リリアン女学園は……いいところよ、ほんと。お母さんと同じ気持ちを、祐巳に感じて欲しかったから……入学させたしね」
と笑いながらお母さん。よっし! リリアン女学園! 行き先はマリみてのリリアン女学園――!
「あはは、そうなんだ! じゃ行って来るね! 行って来ます!」
「いってらっしゃーい」
適当に見つけた時間割に合わせて教科書を突っ込んだ鞄を手に、勢いよく家を飛び出す。
その際に、表札を確認。
「よし。福沢」
呟く。外観もアニメで見たのと同じで、未来的でお金のかかりそうなスタイルの家だ。
そんな家を見上げていると、結局、どうも、俺が本当に祐巳になったことを痛感する。俺は、今、間違いなく福沢祐巳なんだろう。
そう考えると、罪悪感が立ち昇ってきた。本物の福沢祐巳の精神は、いま、どこに行ってるんだろう。俺が殺したのかもしれない。殺したとしたら、どうやって償えばいいんだろう。
「ごめん」
表札に向かって謝罪を口にする。表札に謝ってもどうしようもない。バカみたいでますます哀しくなってくる。
だが、こんな風に悲しみを感じることは、珍しいことだった。だいいち俺のせいじゃないのだから。
むしろ俺も被害者だ。でも……この意味不明な結果だけ見れば、やっぱり加害者は俺なんだろう。理不尽な罪悪感。
もしかしたら、優しかった祐巳の精神が、自分の考え方に影響しているのかもしれない。だとしたら、それは少し救いになる。
肩を落としてうじうじ悩んでいたら、もう7時30分だった。
「仕方ない。行くか」
そうやって、祐巳の代わりに、せめて祐巳が満足できるような時間を送ることで罪滅ぼしをしようと思い、足を踏み出したところで――。
「リリアン……?」
リリアン女学園って、どこにあるんだろう。
見渡す限り、見知らぬ異郷。アスファルトの清潔な道路の上を、車が通り過ぎていく。「赦せ」という無情な感じで過ぎていく。
途方に暮れた俺をもてあそぶように風が吹いた。住宅街の静かな朝の日差しのもと、祐巳の柔らかなツインテールが微かに舞い上がる。ロザリオがきらりと自己主張した。
紅薔薇のつぼみの福沢祐巳。俺は本当の福沢祐巳じゃない。でも今はとにかく――。
――タスケテクダサイ、オネエサマ!
空に向かった心のシャウトは、にっこりとしたマリア様の笑顔みたいな太陽に吸い込まれて、消えた。オネエサマは召還できなかった。
清涼な朝の空気に……怒りが、何となくふつふつと湧き上がるのを感じる。
「……爽やかな朝だこと!」
お嬢様らしい言葉づかいでお天道様に嫌味を言う。
それから憤怒の態で家に引き返し、交番の場所を聞いた。祐麒(推測)が唖然としながら答えてくれた。
「な、何怒ってるんだよ……。交番って言ったら、コンビニの――」
コンビニってどこだよこのシスコン野郎!
結局、静かに逆ギレしながらリビングにあるパソコンを使って(母に怪しまれながらも)、リリアン女学園の場所を検索した。
今日は遅刻確定だ。でも必然的な遅刻だから、マリアさまもきっと赦してくださるだろう。
自分の下駄箱の場所やら、教室の場所のことを考えるだけで、億劫になる。記憶って、素晴らしい。
不意に「祐巳」の顔に手をやる。玄関脇の鏡に映っている祐巳は、なんだかちょっと男らしかった。
ふと思った。
「これって、ある意味ハーレム?」
女学園の姿を想像して、むくりと目標(=野望)ができた。勿論、
「紅薔薇のつぼみの権威だったら、両手に花どころじゃないよ……!」
そんな漢らしい夢だった。何となくやる気がでてきた俺は、今度こそ振り返らずに駅へ突っ走り――。
「駅ないし!」
迷ってすぐに引き返したのである。前途多難な旅が始まった、のかなあ?
あとがき
こういうマリみてSSがなかったので下手なりに体験系っぽく書いてみました。
何となくごめんなさい!と思わざるを得ない場違いさで申し訳ございません。