琴月紫苑がなのは達に与えた衝撃は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
(なあ、なのはちゃん……。)
(……何?)
(あれ、ほんまに私らと同じ日本人なんやろうか?)
念話で送られてきたはやての嘆息に、内心で同意するなのは。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。美女を表現する言い回しだが、紫苑ほどこの言葉にふさわしい女性を見た事がない。現代ではほぼ死滅している類ではあるが、ある意味でこれ以上なく日本人らしい日本人女性、それが彼女だ。
今も、たぶん本当は抱きしめたいのであろうに、最大限の自制心を発揮して優喜の手を取るだけでとどめている。その分、目の前の相手の実在を確かめるかのように、自制しきれずにそっとその手を己の頬に当てる仕草が、妙に色っぽい。
「感動の再会に水を差して申し訳ないが……。」
放っておくといつまででもやっていそうな優喜と紫苑に対し、無遠慮に声をかける竜司。その一言で強固に形成されていた二人の世界が消え去る。
「あ、ごめんなさい。」
「いや、邪魔をしたのはこちらだから、別に謝られるいわれもないのだが、な。」
竜司の言葉に、思わず苦笑する優喜。正直、優喜にとっては九年半でも、紫苑にとってはせいぜい一年程度のはずで、こんなラブシーンもどきをやるほどの事ではないはずなのだ。
が、それを言い出せば、紫苑だけでなく聖祥組や、果てはテスタロッサ家の皆様にまで総攻撃を食らう事は確実だ。紫苑にとっては一年、などと言っても、生きていると言う以外に何の情報もなく待たされた時間であり、なのは達とは違う意味で生殺しにされていた時間なのだ。心配して心を痛めている人間に、たった一年などと言う理屈は通用しない。
「積もる話もあろうが、とりあえずここで立ち話をするのはどうかと思うのだが、どうだ?」
「そうだね。折角手土産も用意したんだし、お茶でも飲みながら落ち着いて話しようか。」
「だったら、丁度農場の案内も一通り終わった事だし、一度戻りましょうか?」
「はい。」
竜司の提案に否を唱える者はだれもおらず、一同はぞろぞろと応接室の方へ移動するのであった。
「長い間、私の家族を支えてくださって、ありがとうございます。」
一通りの自己紹介を終えた後、手土産を渡してから深々と頭を下げる紫苑。一つ一つの仕草がいちいち上品で美しく、その様子を見るたびに内心でため息をつくなのは達。上品ではあるが気取ったところはなく、身についた自然な動作には、鼻につくところは何一つない。言葉の一つ、仕草の一つに至るまで、目の前の相手に対する敬意がにじみ出ており、受ける方も知らず知らずのうちに背筋が伸びてしまう。
「気にしないでください。私達も、優喜君にはすごく助けられてきましたから。」
私の家族、と言う単語に微妙にむっとするものを感じながらも、正直に思うところを答えるなのは。いろいろ思うところはあるが、立場が逆なら、なのはも優喜を形容する言葉は「家族」か「身内」しかないのだ。実際、相手もどう表現するべきか一瞬悩んだ事は見てとれたし、事を荒立てるつもりでの表現ではないのは明らかである。
相手が自分達を尊重する態度をとっている以上、ちょっとした表現が気に食わない程度で喧嘩腰になるのは、あまりにも大人げない。悪くすれば、それが原因で相手が優喜を連れて帰る事を選択し、力づくで引き離しにかかりかねない。第一、残念ながら、むっとした程度でとげとげしい態度をとるには、目の前の女性に好感を抱きすぎた。これが計算しての態度であり、全て演技だと言うのであればとんだ食わせ者だが、そういう相手をたくさん見てきたなのはやフェイト、はやてから見ても、彼女は自然に振舞っているようにしか見えない。
「それで、これからはどうなさるおつもりですか?」
「まだ、はっきりとは決めていません。ですが、皆様を見れば、最初に懸念していた問題が杞憂だった事だけははっきりしていますので、彼がこちらでどんな暮らしをしているのかを、ゆっくり確認してから決めたいと思っています。」
「そうですか。」
相手の態度から予想した通り、いきなり連れて帰ると言う話にはならなかったことに、内心で安堵のため息をつくなのは達。とりあえず現在住んでいる家の家主の娘、と言う事でなのはが会話の矢面に立っているが、この後の事もあるのでフェイトがバトンタッチする。
「ゆっくり、と仰られましたが、宿の方はご予定は?」
「まだ決めてはいませんが、同じ日本であるなら、私たちが持ち込んだ日本円は使えますよね?」
「それは大丈夫みたいです。」
優喜が持っていたお金が普通に使えた事を思い出しながら、はっきりそう答えるフェイト。少なくとも材質も製法も両方の世界で一致している以上、鑑定されても偽札と判断される事はない。あまり高額になるといろいろ問題も出てくるが、十万二十万程度なら特に影響もないだろう。
「それなら、適当なホテルを探して泊る事にします。」
フェイトの答えにほっとした様子を見せながら、そんな風に予定を決める紫苑。それに対し、フェイトが口を開く前に、プレシアが割り込んで提案する。
「だったら、今日はここに泊まればいいわ。」
「え?」
「次元空間にぷかぷか浮かんでいる施設が嫌でなければ、ここに泊って頂戴。部屋はいくらでも空いているから、たまにはお客様を迎えないともったいないもの。」
「ですが、突然押し掛けた身の上で、そこまでご厚意に甘えるのは……。」
「私が泊って行って欲しいのよ。向こうでの優喜がどんな生活をしていたのか、あなたが優喜の体についてどの程度知っているのか、他にもいろいろ、ゆっくり話をしたい事がいっぱいあるのよ。あなただって、こっちでの優喜の暮らし振りや人間関係について、もう少し詳しく知りたいでしょう?」
プレシアの言葉に少し悩むそぶりを見せながらも、素直に頷く事はしない紫苑。竜司はこの件については、一切口をはさむつもりはないらしい。紫苑の選択につきあうと言って、何一つ自己主張をしない。そんな様子を見かねた優喜が、紫苑の背中を押してやる事にする。
「紫苑、遠慮せずに泊って行けばいいよ。見て分かる通り、ここは部屋も食材も無駄に余ってるから、竜司が腹いっぱい食べてもびくともしない。だから、わざわざお金使って余計なリスクを冒す必要もない。なのは達も紫苑の事をもっと知りたいみたいだし。それに、僕も向こうの状況をちゃんと教えてもらいたいから、ここにいてくれるとありがたい。」
「……分かったわ。」
優喜の言葉と、期待と不安に満ちたなのは達の表情で方針を決め、プレシアとフェイトに一つ深々と頭を下げる。
「お言葉に甘えさせていただきます。」
「だったら、今日は腕によりをかけて、美味しいものを作らないとね。」
「なのはちゃん、フェイトちゃん、今日は三人で作らない?」
「いいね。和洋中の折衷コースって言うのも、面白いよね。」
紫苑の返事を聞いて、うきうきと夕食のメニューを決める聖祥料理人チーム。
「なのはさん達は、お料理得意なんですか?」
「ええ。正直に言うて、プロ級ですわ。私もそれなりに達者なつもりですけど、なのはちゃんらには、専門分野では逆立ちしてもかないません。」
「ふむ。ならば期待してよさそうだな。」
「竜司さんが満足できるよう、美味しいものをたくさん作りますから。」
にっこり微笑みかけながらのフェイトの言葉に、巌のような竜司の顔がわずかにほころぶ。何しろこの体格なのに貧乏人の彼は、腹いっぱい食べられる事など年に何度もある事ではない。近場の食べ放題系はほとんど制覇しており、出禁にこそなっていないもののあまりいい顔はされないため、一軒につき年に一回と決めているのである。
「ご飯は五升ぐらい炊いておけばいけるかな? 竜司さん、もっと食べるならもっと炊きますけど?」
「すまんな、大食らいで。」
「むしろ、それぐらい食べてくれた方がありがたいわ。優喜達も鍛えてる分、見た目よりかなり食べる方ではあるけど、それでもさすがに一日に一人で何升も食べる訳じゃないし。」
プレシアの言葉に苦笑する優喜。システム構成の問題で、どうしても数家族分だけの食材など作れない時の庭園では、年の三分の一以上稼働を止めていても、食糧庫に食材があまってしまう。時間停止式貯蔵庫ゆえにいつでもとれたてではあるが、それでも気分的に、本当にとれたてのものをもっと食べたくなるのが人間である。
「そういえば、紫苑さんは料理とかしはるんですか?」
「得意、と胸を張れるほどではないけど、家事は一応一通りは。」
紫苑の返事を聞いて、多分謙遜なんだろうなあ、と判断するはやて。
「それにしても、このシュークリームは美味いな。」
「そうね。とても上品で優しい味……。」
「それ、母の自信作なんです。」
「なのはさんのお母さんの?」
「はい。うちは翠屋という喫茶店を経営していまして。」
「明日、案内するよ。」
などと夕食の時間まで、当初の緊張感が嘘のような和やかな時間が過ぎ、
「これはすごいな……。」
「本当。彩りも栄養バランスもよく考えられてるし……。」
出てきた夕食のレベルの高さに驚きの声をあげる紫苑達であった。
「そういえばはやて、あいつらの夕飯、大丈夫なの?」
そのまま全員泊っていく流れになり、適当な寝室に全員集まったところで、ふと思い出したように聞くアリサ。
「最近フォル君とリインが料理覚えてくれてな。とりあえずシャマルがやらかしそうになった時のブレーキ役ぐらいはやってくれるから、割と安心して家をあけられるようになってん。」
「へえ、あの食いしん坊がねえ……。」
「覚えた、言うても大したもんは作られへんけどな。」
八神家のある意味驚きの変化に、思わずしみじみと呟くアリサ。どうやら、結局シグナムとヴィータはまともな料理を覚えるには至らなかったらしく、身近な女性のうちアリサ一人が料理不能、という事態は避けているが、それでもいろいろ思わずにはいられない。
「それにしても、予想以上だったわね。」
「そやね。今のところ、優喜君を無理にでも連れて帰ろう、言う気はなさそうやけど、あれは本気で強敵やで。」
紫苑の姿を思い出しながら、しみじみと語りあう外野の二人。正直なところ、もう最初の段階で張り合う気は失せている。
「はやてはどう見た?」
「とりあえず、見たところアリサちゃんぐらいはありそうやから、一緒に風呂に入る機会を楽しみにしてるんやけど?」
「いやそうじゃなくて。って言うか、そんなに大きい?」
「あれは結構な隠れ巨乳やで。残念ながらなのはちゃんには届いてへんと思うけど。」
いきなりさっくり話の方向性をずらすはやてに、たしなめながらもつい食いついてしまうアリサ。実際には誤差よりやや大きい程度にアリサを上回っている事が後に発覚するのだが、この時点では紫苑の体型など誰も知らない。
「大きすぎへん程度に隠れ巨乳の大和撫子とか、ものすごい手ごわい相手やね。」
「偶然なんでしょうけど、あいつに懸想してる女って、全員胸が大きいと思わない?」
「優喜君がおっぱい星人やったら、ものすごい天国やのに、勿体ない。」
「はやてちゃん、そういう問題じゃないと思うんだけど……。」
本気で勿体なさそうに言うはやてに、苦笑しながら突っ込みを入れるなのは。
「まあ、それはそれとして、どうするの?」
「どうするって、言われても……。」
「妨害するのなら、管理局の連中にも手伝わせて、出来るだけうまくいきそうなプランを考えるけど……。」
「……それは駄目だよ。」
「でしょうね。」
口にしたくせに、アリサはなのは達がそんな手段を選ぶとは思っても居ない。大体、なのは達の性格からして、仮に琴月紫苑と穂神竜司がいけすかない人間であっても、いや、いけすかない人間であればこそ、そんな汚い手を使うのは嫌がるだろう。
「多分、紫苑さんは優喜君の選択に任せると思う。だったら、私達もそうすべきだよ。」
「あんた達がそれでいいなら、私は口をはさまないけどね。」
「ただなあ。紫苑さんも結構筋金入りやで。優喜君がこっちに残るとして、それで引き下がるんかな?」
「優喜がこっちに残ってくれたとして、紫苑さんもこっちに移住する事になっても、それを止めたり邪魔したりするつもりはないよ?」
フェイトの言葉に頷くなのはとすずか。その反応に驚いて、思わず互いに顔を見合わせるアリサとはやて。
「ライバルが増えるけど、ええん?」
「いいも悪いも、誰を選ぶかを決めるのは優喜だし、逆の立場だったら紫苑さんも私たちの邪魔をしないと思う。」
「……そんなに話した訳でもないのに、そこまで言いきれるの?」
「そうじゃなかったら、とっくに連れて帰ってると思う。」
同類ゆえのシンパシーか、やけに自信たっぷりに断言するすずか。何を言っても無駄らしいと判断し、とりあえずそこら辺は置いておくアリサ。正直なところ、下手なことをして紫苑に嫌われたくないのは、何もなのは達だけではないのだ。
「ただ、何のアプローチも無し、って言うのは正直見てるこっちがイライラするのよね。」
「そんな事言われても……。」
「いいえ。あたし達にもあんた達にも、はっきり言う権利はあるわよ。」
妙に強気なアリサの台詞に、思わず気圧されるフェイト。その様子を見て、ある意味一番瀬戸際である彼女に詰め寄るアリサ。
「大体ね、百歩譲って保留にするのは認めるにしても、一年半もうじうじ悩んでるだけってのは男としてどうなのよ。それだけでも文句を言う権利はあるってもんよ!?」
「悩んでくれるようになっただけ、ずいぶん良くなったと思うんだけど……。」
「その消極的な態度がイライラする、って言ってんのよ。あいつの障害の事なんて最初から分かってるんだし、いくら悩ませたところで結論なんて絶対出ないわよ!」
「そ、それはそうかもしれないけど、じゃあ、どうすれば……。」
先ほどまでの毅然とした態度はどこへやら、詰め寄られておどおどしているフェイトに鼻を一つ鳴らすと、ズビシと指を突き付けて高らかに宣言する。
「押し倒しなさい。」
「え? ええっ!?」
「一年半悩んで結局理解できないんだったら、今ぐらいの性欲じゃ判断できないってことよ。だったらもう、思い切って次の治療のステップに移りなさい。」
「そ、そんなこと出来ないよ!」
「どうして?」
この期に及んで腰の引けた事を言うフェイトに、冷たい目で聞き返すアリサ。実際、気が長いとは言い難いアリサにしては、随分と我慢した方であろう。
「だって、いくらなんでもそれは、紫苑さんに失礼だよ……。」
「何でそこであの人が出てくるのよ?」
「私達も紫苑さんも、立場は同じだよ?」
「だからこそ、抜け駆けするのよ。フェイトが駄目なら、なのはでもすずかでもいいんだからね。」
いずれ飛び火してくるだろうと思っていた話題が見事に飛んできて、どう返事をすべきかと視線を泳がせるなのはとすずか。正直なところ、そういう直接的な行動に出る事が、どうにも怖いと言うのが本音である。
「なあ、アリサちゃん。」
心の底から困っているなのは達を見かねて、一応助け船を出す事にするはやて。
「何よはやて?」
「人の事どうこう言うとるアリサちゃんは、ユーノ君とはどないなん?」
「……それなりには進んでるわよ、一応。」
「つまり、まだ肉体関係までは進んでない、と。」
はやての言葉に、痛いところを突かれた様子で沈黙するアリサ。地味に口ほどにもない女である。
「まあ、私は押し倒す、言う選択もありやとは思ってる。と言うか、正確に言うたら、優喜君と肉体関係を持とうと思ったら、必然的に押し倒すしか方法が無い、と思ってるんやけどな。」
「あ、あははははははは。」
はやての身も蓋もない発言に、思わず乾いた笑いを浮かべるなのは。現実問題として、単に上げ膳据え膳ぐらいでは、優喜が食いついてこないのは間違いない。それで食いついてくるのであれば、今悩んでいる問題はもっと別のものだっただろう。
「ただ、それを今せっかちにやるべきか、って言うと何とも言われへん。」
「どうしてよ?」
「紫苑さんの反応が、いまいち読まれへんから。」
「それを気にしてたら、恋愛なんてできないわよ?」
「今回の場合、そういうのともまた違う問題やからなあ……。」
はやてが気にしている事を察して、難しい顔で黙りこむアリサ。抜け駆けがどうとかその辺の話は、優喜の帰属問題が終わってからだというはやての暗黙の主張は、否定しがたいものである。
「……今回の問題の解決策に、滑り込みで無理やり肉体関係を持って、それを既成事実として押し切るのは駄目だと思う。」
「それがなのはの意見?」
「うん。だって、それは反則だもん。」
問題となっているポイントをズバリ突きつけるなのは。
「逆に言うたら、優喜君をこっちにつなぎとめるためやなければ、肉体関係を持つのもありや、と?」
「うん。」
「それは、例えばどういう理由やったら?」
「……あまり褒められた話じゃないけど……。」
そう言って思わずうつむき、言いづらそうに「子供」、と呟くなのは。言葉の意味が理解できず、思わずなのはを見つめ返すアリサとはやて。
「子供って、何よ?」
「優喜君が向こうに帰る、って決まった場合、せめてここにいた証として子供が欲しい、って言うのはいいかな、って……。」
「なのはちゃん、それも大概やで……。」
「うん……。だから、あまり褒められた話じゃない、って……。」
なのはの意見に、思わず唸るような声を漏らすアリサ。今までの流れによって持っていたイメージと違い、なのはのその辺の感覚はかなり突飛なもののようだ。
「……なのはは、怖くないの……?」
「……怖いって?」
「なのはは、優喜に裸を見せるの、怖くないの……?」
フェイトの言わんとしている事が分からず、戸惑うような空気が場を支配する。
「恥ずかしくはあるけど、怖くはない、と思う。」
「私は、怖いよ……。」
「どうして?」
「もしかしたら、どこかおかしなところがあるかもしれない……。優喜に気に入ってもらえないかもしれない……。ちゃんと行為ができる体じゃないのかもしれない……。それが、すごく怖いんだ……。」
フェイトの生々しい言葉に、何とも言えなくなってしまう。フェイト・テスタロッサは、ベルカ戦争以降の技術で生まれた、世界で初めてのクローンだ。これまでも、ロストロギアによって生まれたクローンは時折いたが、完全な新規技術で生まれたクローン人間となると、彼女より年上は一人も居ない。
その事があってか、フェイトは健康診断や身体検査の度に、ひどく不安そうな顔をしていた。今のところ、何もかも個人差の範囲に入っているが、それでも不安がなくなる事はないだろう。さらに言い出せば、クローンと健常者の子供と言うのがどうなるのかも分からない。そういった不安をふとしたきっかけで思いだす事が、フェイトの日常生活で時折見せる、どこか自信なさげな態度につながるのかもしれない。
「……そんなけしからんボディで何言ってんの、と言いたいところだけど……。」
「その不安は、私たちがどう言っても消えないよね。」
「すずかちゃんは、そう言うんはない?」
「私は、義兄さんとお姉ちゃんを見てるから。」
「ああ、そうやね。」
すずかの答えに納得する。やはり身近に上手くいっている実例があると言うのは大きい。
「ただ、私の場合、発情期の自分を見られるのが怖いかな?」
「そんなの、今までだって見られてるじゃないの。」
「一度男の人を知ると、あれの比じゃなくなるみたいだから、それが、ね。」
「あれよりひどくなるんだ……。」
「うん。だから、それが、と言うよりも、そうなった自分を見られるのが怖いかな?」
不安のない人生を歩んでいる人間などいないとはいえ、このグループのメンバーは実に特殊な不安を抱えている人間が多い。
「まあ、その不安をどうにかできるのは、今向こうで積もる話をしている奴だけよね。」
「不安の元凶でもあるけどなあ……。」
はやての言葉に小さく噴き出す。そんなこんなで、言いようのない不安にその身を焦がしながらも、周囲が思っていたより穏やかにその日の夜を過ごすなのはたちであった。
「大抵の事では驚かないつもりだったけど、さすがにここの食糧生産システムは驚いたわ。」
「正直、研究費とか初期投資とか考えたら、食べる分だけ買った方がはるかに安いんだけどね。特に、ここの関係者はそんなに沢山いないし、一人頭の食べる量もたかが知れてるから。」
「でも、何十年も使えるんでしょう?」
「そりゃまあ、十年やそこらで駄目になるほどちゃちなものは作らないとは思うよ。」
「だったら、ランニングコストそのものはすごく安いみたいだし、そのうち回収できるようになるんじゃないかしら?」
紫苑の言葉に苦笑する。確かに、農園システムだけならばそのうち回収もできるだろうが、プレシアが趣味に走って行った無駄遣いはそれだけではない。海産物と塩が欲しいから、などと言う理由で買った惑星は、一体何十世代利用すれば元が取れるのか、想像もつかない金額である。
「あの手の研究者が趣味に走ると、大概限度と言うものを知らずに突っ走るからな。」
「その結果が、今日の晩御飯とか今飲んでる飲み物とかだよ。」
「うむ。実にいい酒だ。」
「旬なんてとっくに過ぎてるはずなのに、美味しい桃の生ジュースが飲めるとは思わなかったわ。」
「まったく、贅沢になじみすぎて、いざという時の心構えが錆びつきそうだよ。」
優喜の言葉にクスリと笑う紫苑。どうやら、本当に大事にされてきたらしい事をその一言で理解する。
「それで、どう思った?」
「……皆、素晴らしい人たちばかり。来る前に心配していたことが、杞憂でよかったわ。」
「別の心配の方は的中していたようだがな。」
「別の心配?」
怪訝な顔をする優喜に対し、苦笑して何も答えない紫苑。代わりに竜司が続きを口にする。
「お前が複数の女を囲っていたらどうするか、という心配をしていてな。あまりその確率は高くないと思っていたが……。」
「……やっぱり、本気だと思う?」
「俺ですら一目見て分かるレベルだ。本気でない、などと言う事はあり得ん。」
「だよね……。」
心底困っている様子の優喜に、思わず目を丸くする紫苑と竜司。向こうにいたころの彼なら、間違いなく本気だと思っても気にもせずにスルーしていたはずだ。
「優君が、そう言う事を気にするところを、初めて見た気がするわ。」
「正直、恋愛感情ってものが理解できないところは何も変わってない。ただ、それがどれだけまずい事か、一昨年の連休ぐらいにようやく理解したんだ。それからずっと頑張って、どうにか理解できないか勉強してきたけど、これがね……。」
「そう……。」
優喜の言葉に、何ともいえぬ表情を浮かべる紫苑。
「……あのね。」
「……うん。」
「なのはさん達を見た時、これでも結構ショックだった。可能性の一つとして予想して、結構覚悟を決めてきたのに、自分でもびっくりするぐらいショックだった。」
「……なのは達もそうだったみたいだよ。」
優喜に指摘されるまでもなく、そんな事は紫苑にも分かっていた。特になのはは、外見や性格、雰囲気などに共通点はほとんどないが、紫苑とは鏡の関係である。夕食のときに、なのはとは優喜に対する考え方やスタンスが驚くほど近い事を察している。
「なのは達の事、どう思った?」
「今日ほど、優君が恋愛感情を理解できない事を感謝した事はなかったわ。」
「え?」
「だって、私にとっては一年でも、あなたにとっては九年半でしょう? そう言う部分が普通の人が、あれだけ素敵な人たちにあれだけの想いをぶつけられ続けて、折れずに居るのは難しいと思う。たとえ、私と優君が恋人同士で肉体関係があったとしても、九年もあれば気持ちが変わるのには十分だし、それを責める事は出来ない。」
紫苑の公正な意見に、何とも言えずに答えに詰まる。普通の感覚なら、何年たとうと浮気は浮気であろうが、紫苑は感情だけで一方的になじるような事をしない。そう言う部分が老若男女構わず大勢の人間に一目置かれ、たくさんのシンパを作る一因ではあるが、二十歳やそこらの小娘に至れる境地ではない。仕事と私、どちらが大事? などと問いかけるタイプの女性からすれば、最も理解できないタイプであろう。
何より驚くべきことだが、紫苑からすれば惚れた男をたなぼた的に横から掻っ攫おうとしている相手だと言うのに、彼女はなのは達を気に入ってしまっている。たとえ結果がどういう形になろうと、仲良く出来るのなら仲良くしたいと、できるだけ相手に不快感を与えないように、普段よりも慎重に対応しているぐらいだ。
「とりあえず、あいつらの事を抜きにして、だ。」
「うん。」
「お前はどうしたい?」
「いろいろと解決してない問題があるから、せめて大学を出るぐらいまではこっちに居たい。」
大体予想していた通りの答えに一つ頷くと、紫苑の方を見る。
「私は、優君がこのまま向こうに帰るのは難しいと思っているわ。」
「だろうな。」
「だから、私の身の振り方は、それを踏まえた上で考えるわ。」
「無理にこっちに来る必要はないよ?」
「優君、無理かどうかは私が決めるわ。だから、私に気を使わず、邪魔なら邪魔だと言ってくれればいいから。」
「邪魔、って訳じゃない。正直、紫苑が来てくれるならいろいろ助かる。でも、そのために無理をしてほしくない。」
優喜の言葉に嘘はないと判断し、一つ頷く。邪魔にならないのであれば、紫苑の心は一つだ。
「優喜。」
「何?」
「仮にこちらに来るとして、生活基盤はどうにかできそうか?」
「日本はともかく、ミッドチルダはどうとでもなる。向こうはいろんな世界から流れ着いた人が、普通に戸籍とかを取得できるような制度になってるからね。仕事に関しても、それなりにコネはあるから、紫苑や竜司ならどうとでもねじ込めるよ。」
「そうか。」
ここに飛ばされる前の穂神家の家庭の事情から問いかけの真意を察し、とりあえず必要な根回しについて頭の片隅にメモる優喜。もっとも、当人がどうするつもりだと宣言しない限り、積極的に動くつもりはない。こういうのは強制してはいけない種類の事柄だ。
「何にしても、どうするかは明日からいろいろ見せてもらって決める事にするから、ね。」
「了解。丁度文化祭の最中だし、アリサに案内してもらう事にするよ。」
「優君の通ってる学校、か。どんなところ?」
「私立の、割といい学校だよ。」
私立、と言う単語に、本当に優喜が大事にされている事を悟る紫苑。その後は互いの近況を語り合い、初日の夜を終えるのであった。
「大きな学校ね。」
「確かに、私立の学校だな。」
聖祥大学付属高校を見た二人の感想は、らしくなくありきたりなものだった。そのあまりに普通なコメントに、思わず噴き出すフォルク。アリサ達は文化祭の最中は校内から出られないため、現在大学部を休学中のフォルクに任せる事になったのだ。なお、休学した理由は単純で、はやてと学年をそろえるためである。
「何かおかしなことを言ったか?」
「あなた達でも、そう言う普通の感想を言うんだな、と思って。」
「誤解があるようだが、別段おかしなことを言った経験はないぞ?」
「だろうと思うよ。」
竜司の己を知らぬ発言に、呆れ気味にそう返すフォルク。ちらっと紫苑を見るが、苦笑しながら一切口を開こうとしない。こういう時のノーコメントは答えを言っているのと変わらないのだが、わざわざ指摘するのも無粋なのであえて何も言わない。
「そう言えば、フォルクさんはこの学校の卒業生なんですよね?」
「高等部は去年卒業した。今はここの大学に通ってる。まあ、休学中だけどな。」
「エスカレーター式か。」
「そ。でも、世間一般に思われてるほど甘くもないぞ。」
「ふむ。」
どうやら、それなりに苦労したらしいフォルクの返事に、やはりいい学校らしいと判断する二人。
「しかし、学園祭の割には大人しめだな。手は込んでいるが、全体的に地味なつくりだ。」
「確かに装飾とかは大人しいけど、活気は十分あるわ。」
飾り付けを見ての二人の評価に、よく見てるなあと感心する。
「伝統的に、うちの学園祭は見栄えより中身で勝負する傾向があるんだ。だから、看板とかは凝った作りの割に地味なものが多いけど、出展されるものは結構レベル高いぞ。」
「ふむ。」
「……確かにそうみたい。」
何かを観察していた紫苑が、フォルクの言葉を肯定する。視線の先には、手際よくベビーカステラを焼く模擬店が。
「昨日だったら、午後からなのはとフェイトのミニコンサートがあったんだけど、さすがに二日連続はやらないからなあ。」
「そうか、それは残念だ。」
「なのはさん達って、歌が上手なの?」
「ここだけの話、ミッドチルダじゃランキングトップの常連だ。」
フォルクの解説に感心していると、そのうちにアリサの居る学園祭運営委員本部に到着する。
「ご苦労様。目立ったでしょう?」
「まあ、しょうがないって。」
「ごめんなさい、迷惑でした?」
「いやいや。去年までずっと、同じぐらい目立つやつとつるんでたし。」
その言葉に苦笑しながら納得する。男子部と女子部に分かれているような学校だと、優喜の存在は無駄に目立つ。
「ま、納得したみたいだし、適当に案内してやってくれ。」
「了解。じゃ、そういう事だから、個人的な事で悪いけど、あたしはお客様をちょっと案内してくるわ。」
他の委員たちに頭を下げると、まずは女子部の各出展品目を見せて回る事にする。ついでに、なのは達を連れて優喜達の模擬店を見せる計画だ。
「いらっしゃいませ。」
「なのは、フェイト。」
翠屋で鍛えた接客モードの二人に声をかけ、とりあえず邪魔をしないようにアイコンタクトをとる。一つ頷いたのを確認すると、紅茶とカップケーキのセットを注文し、適当にあいている席を陣取る。特定の人間に依存しすぎるメニューはアウト、と言う事で、なのは達の喫茶店ではサンドイッチとカップケーキぐらいしかメニューを用意できなかったのだ。本当はそれなりにこだわったショートケーキの類も出したかったのだが、スポンジを焼くのはともかく、デコレーションはなのはとフェイトしかまともにできなかったためである。
「……本当に、見栄えより中身にこだわっているのね。」
「まあ、全部が全部、そう言う出し物ばかりでもないけど。」
紅茶の香りを確認した紫苑の言葉に、苦笑を浮かべながら答えを返すアリサ。実際この模擬店も、派手ではないがそれなりに内装には手をかけているし、なのは達の服も派手ではないが割とクラシカルで可愛らしく、それなりに綺麗に体の線が出る凝ったものだ。残念ながら、食器類は衛生管理の問題もあって、使い捨ての紙皿や紙コップなのが画竜点睛を欠くポイントではあるが、こればかりはルール上、どうにもならない事だ。
「確か、すずかのところは二クラス合同でお化け屋敷、だったかしら?」
「……それは、見ない方がよさそうだな。」
「さすがに、ぶち壊しになりそう。」
「……そうね。紫苑さんはともかく、竜司さんを暗いところで見たら、脅かす側が驚いて仕事にならないわね。」
「うむ。実際に昔やらかした。」
「やらかしたの……。」
竜司の返事に、思わずげんなりした声を出してしまうアリサ。そうこうしているうちに、紅茶を飲み終わったぐらいになのは達が出てくる。
「あれ? 着替えないの?」
「紫苑さん達の案内が終わったら戻る事になってるし、お店の宣伝も兼ねて。」
「そう。じゃあ、先にすずかを回収して、はやての店に顔を出すわよ。」
「の前に、折角だからサンドイッチを頂いて構わんか?」
「は~い。」
竜司の催促に苦笑しながら、食べ歩き用のパックを一つ手に取る。なお、滞在中の費用については、念のためと言う事で優喜が出す事になっている。とりあえず、無茶な散財をしても大丈夫な程度の金は受け取っているため、そこからサンドイッチの代金を出そうとすると、笑顔でなのはに制される。
「む?」
「それなりに自信作なので、ご馳走します。」
「だが……。」
「いいからいいから。」
そう言って、さっさとサンドイッチの代金を支払ってしまうなのはに、微妙に困った顔をする竜司。たかが三百円程度のものではあるが、高校生の小遣いで三百円は結構馬鹿にならない。そんな思考が漏れたらしい。苦笑しながらフェイトがフォローする。
「私たち、あまりこっちではお金使ってないから、それぐらいは大丈夫。」
「そうか。なら厚意に甘えるとしよう。」
重々しくそんな事を言ってパックを受け取ると、その場で一つつまむ。何故か店内に居る人間全員が固唾をのんで見守る中、最初の一つを咀嚼し飲み込み、重々しく一言告げる。
「美味い。」
「良かった。」
「紫苑も一つどうだ?」
「折角だから、いただくわ。」
差し出されたサンドイッチを一切れ手に取り、上品にかじりつく。じっくり味わって飲み込むと、笑顔で一つ頷く。特にコメントをしたわけでもないのに、その様子だけで店内の雰囲気が明るくなる。これがカリスマと言うやつか、と、自分の事を棚に上げて、妙に納得してしまうアリサ。
「さて、さっさとすずかを回収するわよ。」
「了解。」
「お昼は、はやてのところだよね?」
「そうなるわね。」
などと、てきぱきとこの後の行動計画を立てる三人。無論、メインは優喜をからかいに行く事だが、少なくともなのはとフェイトは、それなりに覚悟が必要だろう。
その後、予定通りすずかと合流し、はやての模擬店でお好み焼きや焼きそばを食べて腹ごしらえ。丁度同じタイミングで食事に来たフォルクも誘って、予定通り優喜のクラスの出し物へ。
「先に注意しておくわ。」
「何?」
「どうしたの?」
「笑うのもへこむのも無しだからね。」
アリサのその一言で、言わんとする事を察する。一つ覚悟を決めると、妙に人が多い模擬店に入っていく。
「いらっしゃいませ。」
聞きなれた中性的な声が、一同を出迎える。その青年の姿を見た瞬間、知っていたアリサとフォルク以外全員が絶句する。
「優喜、昨日聞きそびれたんだけど。」
「何?」
「そのサイズの胸パッド、誰の趣味?」
「……クラスで多数決を取った結果。」
アリサの質問に、微妙にダークな表情で的確に答える優喜。その言葉に我に帰る一同。
「女装させられてるのは予想してたけど……。」
「わざわざエクステまでつけてんのに、男物のバリスタの衣装とは恐れ入ったわ……。」
そう、優喜の服装はカッターシャツシャツにスラックスとチョッキと言う、バリスタなどと呼ばれている職業の衣装である。それだけだと男女どちらにも見えるが、わざわざCカップぐらいの胸パッドを入れ、どこから調達したのかサラサラロングのつけ毛で髪を増やし、すらっとした男装の女性を演出してのけているのだ。第一印象は、誰がどう見ても「お姉さま」である。
店内を良く見ると、優喜以外にも女装させられた男子は何人かいて、全員プロ級のメイクでぱっと見はそれほど違和感が無いように誤魔化されているが、まじまじと見つめても性別をごまかしきれるのは優喜一人である。しかも、こいつはほとんどノーメイクだ。
その上この衣装、女性の体型で着ると意外と体のラインが強調され、元々細身で比較的背が高い優喜は、胸パッドの効果もあってまるでモデルのような格好いいスタイルになってしまっている。恐ろしい事に、満員の店内の半分は女性客で、彼女達の憧れの視線を独占している。
「あたし、あまりに見事すぎて、最初に見た時は笑いをこらえるのに必死だったわよ。」
「ごめん、アリサちゃん。ちょっと笑われへん気分やで。」
「俺は遠慮なく笑ったぞ。」
「そら、フォル君はそうやろうけど……。」
アリサとフォルクの言葉に、必死になっていろいろ取り繕いながら突っ込みを入れるはやて。女装ネタは九年、お姉さまネタもすでに五年目に突入していると言うのに、いまだに事あるごとに予想の斜め上を行く優喜。本人は積極的に嫌がっているところがあれである。
「因みに、最初衣装合わせした時は、先生まで大爆笑だったよ。ここまで似合いすぎると笑うしかない、ってさ。」
「そ、それはそうかもしれないけど……。」
「もっとも、接客の練習とかしてる最中に、血迷ったのが何人か出てきて、僕だけ普通の服で練習する羽目になったけどね。」
「生徒会の連中も、似合いすぎてて一週回って笑いをこらえるのに必死だったみたいよ。その後思いっきりへこむかお姉さまに目覚めるかして、割と大変だったけど。」
「もう、自称妹はたくさんだ……。」
優喜のうめくようなつぶやきに、思わず同情するような視線を向けるなのは達。
「しかし、優喜。」
「何さ、竜司。」
「どこに言っても、女装とは縁が切れんようだな。」
「もうあきらめるしかないみたいだ。」
しみじみ疲れたように言う優喜。そんな様子でさえ、無駄にクールで色っぽいものだから、ひそひそと囁き合う黄色い声が止まらない。
「優君、お姉さまって呼ばれてるんだ……。」
「中等部に居たころ、血迷った後輩が一人いて、さ。」
「……ご苦労様。」
「さすがに、いい加減慣れてきたけど、割とへこむと言うか痛いと言うか……。」
優喜のため息交じりの言葉に、どうねぎらいの言葉をかけていいかが分からない紫苑。そんな様子に苦笑すると、あまり無駄話をするのも良くないと注文を促す。
「何がある?」
「コーヒー各種と、簡単な軽食。コーヒーはともかく、軽食の方はあんまり期待しないで。」
「ふむ。ならば……、そうだな。お勧めとある事だし、モカにしておくか。」
竜司の注文を皮切りに、次々と注文が入る。実家がコーヒーを扱っている家があるらしく、文化祭用にいろいろ卸値で譲ってくれたとの事で、えらく本格的な淹れ方をしたコーヒーが出てくる。相当練習したらしく、全員一定水準を超える手際でコーヒーを淹れているが、やはり優喜の挙動は一際目を引く。紫苑の仕草が上品なら、優喜の動きは格好いいとしか表現できない物だ。ただし、あくまで格好いい女性、なのが哀れではあるが。
「なんか、男女双方にダメージでかい格好やなあ。」
優喜を見ながらひそひそやってるはやて達の言葉を、努めて無表情に聞き流す。そうしないと、SAN値がゼロ近くまで削られる事請け合いだからだ。こういうとき、耳がいいのも考えものである。
「なあ、優喜君。」
「何?」
友人の気安さで声をかけ、思い付いた事をやってのけるはやて。その結果を見て、顔を真っ赤にしてそむける男女多数。
「いきなり何をするのさ。」
「いや、その恰好でポニーテールとかも似合いそうやな、思って。」
そう、優喜が前屈みになった隙を狙って、ヘアピースをポニーテールに束ねてのけたのだ。もっとも、やった当人も
「何、このうなじの白さ……。」
余計なダメージを受ける結果になったのだが。
「僕、そんなに色白かなあ?」
「まあ、外を走ってる割には白いかな?」
「うん。少なくとも、美容に気を使ってる女の子の大半ぐらいには白いよ。」
「……ダメージ大きい評価、ありがとう。」
優喜のコメントに、思わずあわてて頭を下げるなのはとフェイト。なお、優喜は気が付いていなかったが、この時の様子を、文化祭の写真、と言う事でアリサが撮影しており、あとで行事の写真として公式に売り出された時、単独三位の売り上げを記録してしまうのは別の話である。
「それじゃあ、またあとで。」
「ゆうくん、お店頑張ってね。」
「なのは達も。」
とりあえず、これから紫苑達に海鳴を案内すると言うフォルクを見送り、残り時間を頑張って店番する一同であった。
「へえ。優君、こんなこともやってたんだ。」
月村家の一室。昔のアルバムを見ながら、共通の思い人の話題で盛り上がる四人。本当は高町家でやりたかったのだが、商店街の会合とやらで士郎達の帰りが遅くなる事が決まっていたため、明日にすることにしたのだ。美由希も調理師関係の研修を受けに行っており、明日まで不在である。
「この時、満場一致で優喜がヒロイン役に決まったんだよ。」
「嫌がらなかった?」
「学芸会ぐらいはいいか、ってあきらめてた。」
多分、今回の女装も、文化祭ぐらいはいいかと諦めた結果に違いない。そう言うところはつきあいがいいのだ。
「私がこのぐらいだった頃は、優君は絶対にうんとは言わなかったわ。」
「普通、そうだと思うよ。」
紫苑の感想に、苦笑交じりに同意するなのは。今でも、文化祭のように少々羽目を外しても問題ない場合や演劇のように女装も珍しくないケース、どうしても女装する必要がある時を除いては、余程強引に着せない限りは女物を着る事はない。なのは達も、小学生のころはともかく、今はさすがに意味もなく強引に女装させるような事はしていない。
「そう言えば紫苑さん。」
「何かしら?」
「本当にこのぐらいの年だった頃のゆうくんって、どんな感じだったの?」
「ん~……。本質的にはあまり変わって無いとは思うけど、凄く怒りっぽくて結構手が早かったかな。」
紫苑の信じられない証言に、思わず顔を見合わせる。
「優君が今みたいに大抵の事を聞き流すようになったのって、退院して、お師匠様のところでいろいろ訓練してからだったわ。」
「そうなんですか?」
「ええ。」
想像もできない話が出てきて、かなり戸惑う三人。その様子に苦笑しながら、懐かしそうに当時のエピソードを、当たり障りのない範囲で披露する。その話を、胸の痛みを隠しながら興味深そうに聞くなのは達。お返しに、九年半の出来事を、同じようにあたりさわりのない範囲で話す。互いに相手を羨ましく思いながら、自分の知らない竜岡優喜の情報を共有する。
だが、どれだけ話しても、どれだけ知らない出来事の話を聞いても、真の意味で情報を共有できるわけではない。その時どんな気持だったのか、などと言うものは、当事者同士ですら食い違う。ましてや、話を聞いただけでは何も分からないに等しい。やきもちを焼く筋合いではないと知りつつも、自分の知らない愛しい男の姿を知っている事に対し、嫉妬の心を押さえきれない。
「……フェイトさん?」
「え?」
「なんだかちょっと上の空だけど、どうかしたのかしら?」
「……何でもない、と思う。」
会ったばかりだと言うのに、やけに鋭い紫苑に内心驚きながら、可能な限り当りさわりのない返事を心掛けるフェイト。納得はしていないようだが、さすがに昨日今日仲良くなった程度の仲であるためか、それ以上は踏み込んでこない紫苑。
話をしているうちに、昨日どうにか寝かしつけた不安が、急激に大きくなってきたのだ。きっかけは紫苑の話す幼いころの優喜の話だろう。フェイトには、五歳ごろから前の記憶や思い出がない。元々、普通の人間でもそのぐらいのころの記憶はあいまいで断片的ではあるが、フェイトの場合はその断片すらまともに存在しない。
当然だ。まだそのころは培養ポットの中だし、アリシアの記憶は今や、プレシアに愛されていた、というあいまいなものしか残っていないのだから。
普段なら、こんな些細な事でここまでの不安を覚える事はない。だが、琴月紫苑という存在が、フェイトの根底を揺さぶり始め、際限ない不安の泥沼に引きずり込み始めたのである。無論、紫苑が悪いわけではない。彼女に対して思うところがないわけではないが、それと自分が抱える不安とは別問題だと言う事も分かっている。
こんな時、なのはのように隠しきって何事もなかったように強がることも、すずかのように素直に不安を吐き出す事も出来ない弱く臆病な自分が、つくづくいやになる。
「ごめん。ちょっと飲み物もらって、頭冷やしてくるよ。」
「大丈夫?」
「うん。心配かけてごめんね。」
そう言って、いまいちよろしくない顔色で微笑んでみせると、そのまま部屋を出る。
「……フェイトさん、もしかして私のせいで……。」
「それは大丈夫。きっかけっていう意味じゃ否定はしないけど……。」
「フェイトちゃん、今まで色々あったんです。だから。」
なのは達のフォローに、少し考え込んだ後に一つ頷く。
「だったら、今日はもういい時間だし、おしゃべりはお開きにしましょうか?」
「そうですね。」
紫苑の提案に一つ頷く。
(フェイトちゃん……。)
(ごめんね。ちょっと、母さんに相談してみるよ。)
(うん。分かった。)
相談する内容を察して、素直にフェイトを送り出すなのは。この後、プレシアとブレイブソウルから助言を受けたフェイトがとんでもない行動に出る事になり、それをサポートするために一緒に暴走する羽目になるのだが、この時のなのはは知る由もなかった。
「色々疲れた……。」
風呂を済ませ、あてがわれた部屋でため息交じりにつぶやく優喜。別に何も悪いことはしていないはずなのに、なのは達と紫苑との間の微妙な空気に、どうにもやたら神経をすり減らしてしまう。
疲れに負けてベッドのふちに座り込み、明かりを消して、カーテンを全開にした窓の外を見る。今日はすばらしい満月だ。雰囲気たっぷりの月村邸で見る満月は、怖いぐらいに風情がある。しかも角部屋と言う構造上、他の部屋よりも大きく、月明かりに照らされた庭を見ることが出来る。
「……フェイト?」
いつに無く弛緩しきった状態で、ぼんやり外の景色を眺め続けていると、不意に足音が近づいてきた。じゅうたんの上を裸足で歩いているらしく、優喜の耳でも少々判別に苦労したが、間違いなくフェイトの足音である。距離から行って、まっすぐこちらに向かっているらしい。既になのはの部屋を通り過ぎているため、目的地はここ以外ありえないだろう。何しろ、このあたりで寝泊りしているのは、あとは向かいの部屋の紫苑だけ。もうそろそろ日付が変わろうかと言う時間に、わざわざ裸足で紫苑の元を訪ねる理由は無いだろう。
「……優喜、起きてる?」
「うん。開いてるから、入ってきて。」
裸足、と言うところに一抹の不安を感じつつも、フェイトを中に迎え入れる。この後、何も考えずに彼女を中に迎え入れたことをひどく後悔することになる。もっとも
「どうし……、た……、の……?」
このときは入ってきたフェイトの姿を見て固まってしまい、何一つ考えることが出来なくなったのだが。
「優喜、こんな時間にごめん……。」
「……。」
「あのね、優喜……。」
「……。」
「……優喜?」
あまりに予想外の状況に固まっている優喜の顔を、小首をかしげながら見つめるフェイト。
「……あのさ、フェイト。」
「……何かな?」
「……その格好は、何の真似?」
ようやく頭が働くようになった優喜が、自分でも驚くほど乾いた声で、フェイトに対して真意を問いかける。青白い月明かりに浮かび上がったフェイトは、九歳のころ初めて作り、ただ一度シグナムとの模擬戦で使ったきり封印された、一番最初のデザインのソニックフォームを身に纏うのみであった。
後書き
一番最初のソニックフォームは、闇の書編10話を参照の事