「ふう……。」
簿記のテキストから視線をあげ、紫苑は一つため息をついた。そろそろ結構いい時間になる。一息入れた方が効率も上がるだろう。
「お姉様、まだやっていたのですか。」
台所にココアを淹れに降りると、あきれたように妹の瑞穂が声をかけてきた。四つ下の高校三年生で、名門と呼ばれる女子高に通っている女の子だ。紫苑の妹だけあって、上品な美少女である。
「もうじき試験だから、ちょっと気合を入れて、ね。」
「そんなに一生懸命やらなくても、十分合格圏内だってことは知っていますよ?」
「世の中に、絶対とか完璧とか言う言葉はないわ。」
「それはそうですけど……。」
こうと決めたら梃子でも動かない姉の頑固さに、ほとほと呆れかえる瑞穂。特に、事が優喜に絡んでいると、たとえ神でも悪魔でも、そう簡単に意思を変えさせる事は出来まい。何しろ、行方不明になってから一年近くたっているのに、いまだにあきらめていないぐらいだ。
そのくせ、胡散臭い情報に飛びついたりするわけでもなく、ちゃんと情報を取捨選択するだけの冷静さは持ち合わせているのだから、妹としては始末に負えない。
「お姉様、優喜お兄様が行方不明になって、もうすぐ一年です。」
「そうね。」
「確かに、お兄様は普通ではありませんが、それでも事故で音信不通になった期間としては長すぎます。穂神さんの言葉を疑うわけではありませんが……。」
「うん。普通だったら、多分あきらめなきゃいけないと思う。」
「だったら……。」
瑞穂が最後まで告げる前に、小さく首を左右に振る紫苑。あきれる瑞穂に小さく苦笑しながら、それでもはっきりと意思を告げる。
「竜司君に私をだますメリットはないし、それに死体を見た訳じゃない。」
「……。」
姉の言葉に、呆れたようにため息をつく瑞穂。つける薬がない、とはこの事だろう。
「まあ、瑞穂は竜司君達とそんなにつきあいがあるわけじゃないから、しょうがないか。」
「私には、お姉さまがあの方々を無条件で信頼している事が理解できません。」
「優君と同類、って言うだけじゃ駄目?」
「それは……。」
紫苑の言葉には、恐ろしいまでの説得力があった。主に、一般人の物理的な意味での常識を蹴散らしている、という意味で。
「それで、仮にお兄様が見つかったとして、どうなさるつもりなんですか?」
「状況次第ね。ただ、どんな結果になったとしても、簿記の一級は役に立つだろうから、そのためにも頑張らないと。」
姉がむやみやたらと夢見がちなだけで突っ走っているわけではないと知り、少しほっとする。もう四回生の六月だと言うのに、せいぜい教育実習を受けた程度で碌に就職活動もせずに、ひたすら簿記をはじめとしたいくつかの資格の勉強と卒論に専念している紫苑を見て、実のところかなり心配していたのだ。どうとでもなるみたいな態度の両親にも、かなりやきもきしている。
「さてと、もう少し頑張ろうっと。」
「あまり無理はなさらずに。」
「ええ。分かってるから心配しないで。睡眠時間を削って肌でも荒れたら優君に心配をかけちゃうし、それにたかが簿記の資格で、好きな人にそんな無様な姿は見せたくないもの。」
そういって立ち去る紫苑を見送り、気付かれないように深くため息をつく瑞穂。たかがとは言うが、簿記の一級は結構な難易度を誇る。それを美容に気を使いながら、他の勉強と並行で行って、普通に合格できるレベルにいるとか、わが姉ながら大概化け物だ。
違う学校に通っていた事もあって誰からも比較された事はないが、正直瑞穂は自分が姉を上回っていると思えるポイントが、せいぜい運動神経ぐらいしか思いつかない。そんな姉を尊敬してはいるが、その能力のほとんどを竜岡優喜ただ一人のために使い、優喜のためだけに様々な才能を開花させ続けている事に関してはどうかと思う。
姉の最大の欠点は、男の趣味が悪い事。その一言に尽きる。決して優喜を嫌っているわけでも蔑んでいるわけでもないが、それでも瑞穂の目にはそう映ってしまうのであった。
「珍しいね、一人?」
学食でニュースを見ながら日替わり定食を食べていると、中学からの友人である小林雄太が声をかけてくる。竜司達を除けば、優喜が親友と言えるぐらい親しくしている、唯一の相手だろう。一番の決め手は、初対面で性別を訂正してからずっと、ちゃんと優喜を男として扱い、見た目の事を言わなかった事である。ある程度は仕方がないとはいえ、女扱いを嫌がっている正真正銘の男をそういう風に扱うのは、本人だけでなく親しい人間にとっても不快なことだ。
ついでに言うと、優喜の人間関係や現状について正確な情報を知っている、琴月一家以外の唯一の一般人でもある。普通なら信じないような話だが、紫苑と一緒にその手のトラブルに巻き込まれた事もあるため、大概の事は疑わない。そのため、数少ない「関係者」と言う事で、竜司から大体の説明を受けているのである。
「最近、勉強にかまけてつきあいを怠ってたから、ちょっと干され気味、かな?」
「まあ、紫苑ちゃんほどの美人さんになると、ちょっとしたことで反感を買うからね。」
「今回は私が悪いから、しょうがないわ。」
「悪いってほどでもないとは思うけど、まあ、ああいうのは理屈じゃないんだろうし。」
第三者故の気楽さでコメントをする雄太に、小さく一つ頷く。
「珍しいと言えば、弁当作ってきてないのも珍しい。」
「最近はそうでもないの。一人分を作るのって、あまり気が乗らなくて。」
「あ~、なるほどね。」
紫苑の言葉に納得して、うどんをすする。瑞穂は普段、付き合いもあって学食で食べることが多い。なので、最近は瑞穂が弁当が必要だ、と言うとき以外は学食で済ませている。
紫苑にこんな風に気楽に声をかけてくる男など、ゼミの同期生以外は雄太他何人かぐらいだ。入学当初は優喜と二人して、ひっきりなしに声をかけてくる有象無象を袖にするので忙しかったが、さすがにもう四年目ともなると、どう頑張ったところで攻略対象外だと言う事は知れ渡ってしまうらしい。
今年も、噂を知らない新入生のプレイボーイ何人かにアタックされたが、丁寧に相手の顔を立てつつ、断固として拒否している。その取り付く島のない態度に、女の扱いに自信のある男達も、せいぜい五月中にあきらめるのだ。そして、そういう噂が立っているため、彼女の気品あふれる立ち居振る舞いもあって、特に下心のない男子学生も、あまり気軽には声をかけられないらしい。結局、中学や高校のころの友人のように傍目にも付き合いが長い相手や、同じゼミなどの気軽に会話する口実がある人間以外は、男はほとんど寄り付かなくなっていた。
「そういえば、噂で聞いたんだけど、就職活動してないって本当?」
「ええ。優君がもうすぐ見つかりそうだから、あまり行動が制限される状況は避けたかったの。」
紫苑の言葉に、思わずうめき声のようなものを出してしまう雄太。世の学生は厳しい就職戦線に立ち向かっていると言うのに、目の前の女は世間の流れを無視して、たった一人のために無職になる覚悟を決めているのだ。
「優喜がそれを喜ぶのかな?」
「多分、怒ると思う。」
あっさりとそんな事を言い放ち、上品にみそ汁を飲む。分かっててやっている紫苑の態度に、ますます頭を抱えたくなる雄太。基本的に部外者の彼ですらそうだ。瑞穂はさぞ頭が痛い事だろう、と、思わず妹君に同情してしまう。そんな雄太の反応に苦笑し、口の中身を飲みこんで、言葉を続ける紫苑。一つ一つの動作がいちいち美しく上品で、しかもちゃんと美味しそうに食べるのだから、食べているのが単なる焼き魚定食ではなく、高級な御膳の類に見えてしまう。見ると、紫苑が食事を始めた後からは、日替わりのA定食ばかりが出ているようだ。
「別に、無計画にやってる訳じゃないの。そもそも、就職先自体は、職種や企業規模にこだわらなければ、結構あるのよ?」
「それはそうかもしれないけど……。」
「それに、日商簿記の一級を取っておけば、経理関係はそれなりに就職先もあるし、そもそも私は優君と同じで、多分大きな会社には向いていないと思うし。」
「そうかな? そんな事はないと思うけど?」
「私は多分、全体が見えない仕事はできないと思う。だから、従業員数が何万人、とか、世界中に拠点がある、とか、そういう会社には向いていないと思うわ。」
紫苑の自己分析に、どう答えればいいかが思い付かなくなる。確かに、優喜が大きな会社に向かないのは間違いないだろう。だが、同じぐらい向いていないと思われる竜司が、日本最大の非上場企業かつ日本屈指の飲料メーカー、などという規模の会社でちゃんと働けているのだから、彼女なら非合法でない限り、どんな会社でも問題なくやっていけるだろう。
だが逆に、出る杭が打たれるのも、大規模な企業だ。紫苑は基本的に、組織の輪を優先して敵を作らないように立ち回るタイプだが、それでも彼女ほどの能力を見せると、どうあったところで敵対するものが出るのは防げない。そういう意味では、関係者が少ない零細企業の方が向いているのかもしれない。
「一応、現時点で何件かは、目星を付けてあるの。」
「だったら、面接ぐらいは受けてきたら?」
「それは、不義理をする可能性があるから駄目。これから、私のわがままで動くのだから、全く無関係の人には迷惑をかけられないわ。」
「世の中には、いくつも内定を取ってはあっちこっちに不義理してるやつもいるんだけどなあ……。」
雄太の言葉に苦笑が漏れる。実のところ、この話を知った上で、上手くいかなかったら雇ってくれる、という話を持ちかけてきた人も居るには居る。だが、それを当てにするのは、自分を甘やかす事になる。わがままを通す以上、発生するリスクは全部自分一人で背負わなければならない。
「それで、あいつが帰れない状況になってたら、どうする?」
「状況によるわ。」
「状況って?」
「帰れない理由って言うのが、向こうで結婚して子供がいて、と言うのだったら、私はそのまま一人で戻ってくるつもり。」
真っ先に自身にとって最悪の想定を持ってくるあたり、行動の割には現状認識がシビアだ。しかも、あっさり身を引く宣言をしてのけ、それが百パーセント本気であるところが、琴月紫苑の琴月紫苑たる所以だろう。
「本当に、そんなに簡単に割り切れるの?」
「割り切れるわけがないわ。でも、割り切らなきゃいけないの。」
お茶を持つ手が微かにふるえているのを見て、かなり無理をして先ほどの言葉をひねり出した事に気がつく。優喜が行方不明になった、という第一報を聞いた時の取り乱し方を考えれば、当然と言えば当然だろう。だが、どんなに心が乱れようと、言った以上は実行してのけるのが紫苑だ。ちゃんと立ち直れるかどうかについては、雄太は実はそれほど心配していない。
「……他の場合は?」
「何か仕事を任されて、立場上こっちに戻ってくるのが難しい場合、それが短期で終わる事なら、終わるまで手伝って一緒に戻ってくるし、ちょっとやそっとじゃ状況が変わらないようなら、思い切って私が向こうに移ることも考えているわ。」
「それ、大丈夫なの?」
「お父様とお母様は、納得してる。瑞穂は許してくれないでしょうけど。」
両親公認とかどんだけだよ、と、思わず小さくつぶやく雄太。そのつぶやきを聞こえないふりでながし、セルフサービスのお茶の残りを、品よく飲み干す。すでに食べ終わった定食の皿には食べこぼしの類もなく、魚の骨以外は米粒一つ残っていない。これが優喜だと、魚の骨や頭すら残らないのだが、あれと紫苑を一緒にしてはいけない。
「それじゃあ、多分一番面倒な想定だけど……。」
「立場上戻ってくるのが難しくて、恋人もしくはそこに至りそうな女性がいる状況、かな?」
「そんなところ。あいつ、必要だと思ったらいくらでも深入りしちまうタイプだから、向こうの年数次第では、紫苑ちゃんみたいな娘が複数出来てても、全くおかしくないんだよな。」
雄太の言葉に一つ頷く。向こうではどうか分からないが、こちらでは深入りするような相手が同門以外は紫苑ぐらいしかいなかったため、優喜の人間関係はそれほど広くも深くもない。そのため、比較的こちらとの縁は薄いと言っていい。
「それで、そうなってたらどうする?」
「相手の娘たちの本気度合いと優君の態度、それから各々のスタンスによって変わってくるかな?」
予想はしていたが、今までの質問に対する答えの中で、一番怖い返事が返ってきた。思わず背筋に冷たいものを感じながら、そんな風に考える雄太。地雷だと分かっていて質問した訳だが、どうにも、踏んだ地雷の大きさを見誤ったようだ。
「呼び方が違うだけで事実上恋人同士、という状況なら、対応は最初のケースと変わらないけど、それ以外なら身を引くつもりはないわ。共有する、と言う話ならばのけ者にされるいわれはないし、取り合いをしているのなら負けるつもりはないもの。」
紫苑がおっとりと、穏やかに微笑みながら何の気負いもなく言い放った言葉に、心底恐怖をあおられる雄太。気負いはないが妙な気迫のようなものを感じ取り、ここまで惚れこまれた優喜に、思わず同情の念を抱く。世の男どもは知るまい。この美女の愛が、どれほど深く重いものか。ここまで言っておきながら、当人は拘束する気ゼロなのが余計に怖い。
「ま、まあ、頑張って。」
「うん。まずは簿記の試験からかな?」
「紫苑ちゃんが落ちる未来が想像できないぞ……。」
げんなりした表情でそう言い放つ雄太に、思わずくすりと笑う紫苑であった。
卒業研究に目処を付け、そろそろ上がろうかと言う時間。唐突に携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
『もしもし、紫苑さん。エリカだけど、今大丈夫?』
「大丈夫だけど、どうしたの?」
『大事な話があるから、今から会って話せないかな?』
「別にいいけど、大事な話? 今から?」
もう、普通に夕食の時間である。今からとなると、相当食事は遅くなる。紫苑自身は構わないが、エリカはそれで大丈夫なのだろうか?
『紫苑さん、ご飯の予定は?』
「家に帰って食べるつもり。」
『だったら、話のついでに一緒にどう?』
「分かったわ。」
『じゃあ、そっちに迎えをよこすから、少しだけ待ってて。』
その言葉に了解を告げ、家に連絡を入れる。電話に出た瑞穂が少し不機嫌そうだったが、つきあいというものは大事だと言うのも分かっているらしく、特に何も言わなかった。
「待たせたか?」
連絡を入れてからそれほど立たずに、スーツ姿の竜司が現れる。どうやら仕事帰りらしい。なお、彼の体格に合う既製品のスーツなどまずないため、比較的安く作れるブランドのパターンオーダー品だ。パターンオーダーといえどもオーダーメイド品であるため、変に似合っていて妙に迫力がある。
「お迎えって、竜司君だったんだ。」
「優喜の事についての話だからな。全員揃うべきだろう?」
「何か分かったの?」
「ああ。詳しい話は、飯を食いながらだ。」
そう言って紫苑を先導する竜司に、大人しくついて行く。駐車場には、エリカがよこしたらしいリムジンが一台。時間帯の問題でスペースが空いていたからいいものの、昼間だったら悪目立ちしていたであろう。そのままスムーズに走りだしたリムジンは、駅近くのイタリアンの店に二人を案内する。ドレスコードをうるさく指定するような一流の店ではないが、庶民感覚では高級に分類される類の店である。
「や、紫苑さん。」
「こんな時間に済まないな。」
案内された席では、すでにエリカと麗が待っていた。
「それは構わないけど、優君の事、何か分かったの?」
「うん。お師匠様が、優喜を見つけたって。」
「えっ?」
「詳しい話は食べながらで。勝手に注文して悪いけど、料理のオーダーはもう通してあるから、飲み物だけ注文して。」
エリカの言葉に従い、とりあえずグレープジュースを頼む。竜司も酒の値段に眉をひそめた後、同じくグレープジュースを注文する。
「二人とも、酒でなくていいのか?」
「竜司、値段なら気にしなくていいよ? 今回の払いは私が持つし。」
「と、言われてもだな……。」
「と言うか、今月中に使い切らなきゃいけない株主優待券が、おじさんとかの分も合わせて結構あるのよ。竜司と紫苑さんも飲む前提だったから、遠慮されるとかなりの額が余るんだよね。」
「そういう事なら、二杯目からは遠慮なく頂こう。」
そう言って、出されたジュースを遠慮なく飲み干す。乾杯するような集まりでは無いので構わないが、このメンバーでなければ大量に突っ込みが入る行動である。もっとも、竜司自身も分かっていてやっている事だが。
「それで、優君が見つかったって言ってたけど、本当に?」
「うん。無事は確認できたって言ってた。」
出された前菜をつつきながら、気追う事もなく言い放つエリカ。細かい話をエリカに任せるつもりらしく、二人とも料理に専念して口をはさまない。
「で、確認できた時点では、飛ばされてから八年ぐらいがたってる見たい。」
「八年も?」
「うん。まあ、これはしょうがない。お師匠様がやってそれだけの時差が出たんだったら、誰がやってもこれ以上の結果は出せないと思うし。」
エリカの説明に、己の中で事実を受け止めるために沈黙を守る紫苑。この件に関しては、誰を責めても意味がない。
「……八年って言う事は、今二十八歳?」
「そこがちょっとややこしいところでかつ、お師匠様が八年も時差を出した原因でもあるんだけど……。」
「何かあるの?」
「飛ばされた時点で、どうも小学生ぐらいの体に退行してたらしいの。だから、今肉体年齢は十六、誕生日が来たら十七歳だって言ってた。」
「……もしかして、体が子供になってたから……。」
「そう。お師匠様でもなかなかポイントを捕まえられなかったみたい。まあ、次元の乱れが予想以上にひどかったのも理由みたいだけど。」
エリカの言葉に、少し考え込む。八年いて今年度十七、と言うことは、向こうに飛ばされたときには八歳ぐらいの体になっていた、と言うこと。さすがの優喜と言えど、その年で一人で生きるのは厳しかったのではないか。
「エリカちゃん、優君が今、どういう生活をしてるか、とか分かる?」
「そこまで詳しい話は聞いてない。ただ、発見したときは日本とほぼ変わらない土地で、温泉旅行してたらしいけど。」
「温泉旅行……。」
その単語を聞いてほっとする。旅行にいける、と言うことは、ちゃんとした生活をしている、と言うことだ。
「それで、向こうにいけるのはいつ?」
「七月の末になる、と言っていた。」
口の中に料理が入っているエリカの変わりに、麗が答えを返す。
「その間に、向こうではどれぐらい時間が?」
「一年半程度、らしい。」
「こっちの時間はいいとして、その時差はどうにもならないの?」
「一番リスクが少ないやり方をすると、どうしてもそのぐらいの時差が出るらしい。」
「そう……。」
どうにもならないものはどうにもならない。そう自身に言い聞かせて、次の質問をする。
「優君は、このことには?」
「多分、気が付いているだろうな。あいつは、私達の中ではもっとも感覚が鋭い。」
「俺達なら師匠が自分を発見した、と言う以上のことは分からんが、奴なら大体どのタイミングで来る、と言うのも大体判断できているだろう。」
竜司の言葉に一つ頷く。優喜の感覚の鋭さは周知の事実だ。向こうでも、それぐらいのタイミングで何がしかの準備はするだろう。
「向こうとの行き来は?」
「自由に出来るようにしてくれるって。」
「エリカちゃんたちは、向こうには?」
「行かない予定。」
「私もエリカも、少々しがらみが多くてね。その代わり、竜司が護衛としてついていく予定だ。」
麗の言葉に思わず竜司を見ると、何事もなく一つ頷いてのける。
「生活基盤さえどうにかなるのなら、俺たちは向こうにいっても問題がないからな。綾乃はまだ大学に入ったばかりだし、美穂は多分、環境が変わってもあまり変わらん。」
「ありがとう。ごめんね。」
「気にすることはない。」
そう言って、エリカお勧めの高いワインをぐいっとやる竜司。あまりマナーに従った飲み方とは言いがたいが、不思議と下品だとかそういう印象はない。一見照れ隠しか何かに見えそうな行動だが、こいつの場合は素で喉が渇いていただけだと言うのが、態度の隅々からにじんでいる。
ちなみに、美穂は繊細すぎる性格が災いしてか、学校でいじめに会って重度の対人恐怖症になり、現在絶賛引きこもり中である。彼女とまともに話が出来るのは、優喜を含めたこの場のメンバーと綾乃だけである。カウンセラーの先生にすら怯えて拒絶反応を示すレベルなので、実質竜司に出来る事はなく、せいぜいほとんど人がいない時間帯にジョギングに連れだすぐらいしかしていない。
「それで、向こうに行ったらどうする?」
「それは状況次第、と言うか、優君次第。」
「優喜が女の子を複数囲ってた場合、どうする?」
「それも状況次第。ただ、優君がないがしろにされているようだったら、向こうでの立場とか関係ない。たとえ私が悪役になっても、こっちに連れて戻るつもり。」
「それで壊れる娘が出てきても?」
「人一人をないがしろにする免罪符にはならないわ。あくまでも、優君がないがしろにされているなら、の話だけど。」
紫苑の思いのほか強い言葉に、小さく苦笑をもらすエリカと麗。
「でも、優喜はああだから、ある程度強引に迫らないと話にもならないよね?」
「ええ。だから、それだけで判断するつもりはないわ。あくまで、優君がどうなのかだけで判断する。」
「共有するって話になってたら?」
「優君が嫌がってないんだったら、別にそれでもいい。優君が幸せになれるんだったら、別に私は独占とか考えてないし。」
「まあ、どっちにしても、向こうに行ってから、か。」
「そうね。向こうに行ってからね。」
と、海鳴のメンバーにとって結構物騒な会話をする一同。互いにとっての運命の時は、刻一刻と迫っていた。
後書き
いることだけ決めていた紫苑姉さんの兄妹、さいころを振るまで妹だとは作者も知らなかったと言い置いておきます。なお、妹の名前に他意はありません。
皆様、ご意見ありがとうございます。とりあえず、よくよく考えたらSS-FAQ版で質問すべきだったかな、と、いただいたご意見を見てから気が付いたのですが、とりあえずこの話は、そっち方面は特に手を入れないことにします。