「あれ? 紫苑さん?」
「こんにちは、綾乃ちゃん。」
市街地から離れた地区の裏路地。そこに居を構える、さびれた感じの古本屋。大学で掘り出し物が多いと評判の、意外と大きな敷地面積を持つ店。少々マイナーな専門書を探しに来た琴月紫苑は、店番をしていた穂神竜司の妹・綾乃に挨拶をする。
「ここでアルバイトだっけ?」
「うん。兄貴にばっか、負担かけられないからね。」
綾乃は竜司や紫苑の三学年下で、今年大学受験が待ち構えている受験生だ。奨学金や授業料免除をがっつり受けられるだけの優等生で、そうあるための努力を欠かさない少女でもある。貧困と学力の低下の関係が指摘されている昨今において、それでも学力を維持しながら家事とアルバイトをこなす彼女には、紫苑も頭の下がる思いだ。
因みに、穂神綾乃は兄と違って、外見は普通のカテゴリーに入る。百五十二センチの身長と、限りなくAにちかいBカップのバスト。プロのメイクなら余裕で美女に化ける程度の、整っているというほどではないが不細工と言われるほどでもない顔立ち。顔写真だけを並べれば竜司と兄妹に見えなくもない程度には似ているが、実際に並ぶと血縁とは思えないほどかけ離れた女の子だ。
なお、穂神兄妹は竜司が成人を迎えるまで、遠縁の親戚であり、住んでいるアパートの親でもあるおばさんが保護者をしていた。現在竜司は綾乃と、遠縁の親戚の美穂(現在小学四年生)の保護者になっている。
「それで紫苑さん、ここになにを探しに来たの?」
「宝飾品製造関係の本と起業・経営関係、それからデザイン周りの基礎を。」
「……深く突っ込むのは野暮だからやめとくけど、また思い切った選択だ。」
紫苑の言葉に、苦笑しながら目録を開く。書棚に並んでいない物も結構あるので、よく来る客はまず、彼女か店主に、探しているカテゴリーについて聞くのが普通だ。因みに、昔は目録は紙の台帳だったが、今はパソコンで管理している。もっとも、専門のソフトではなく、単なる表計算ソフトを使っているのだが。
「宝飾品関係だと、彫金細工の入門書と宝飾品・ブランドの歴史的変移って本があるね。経営関係はいっぱいあるから、適当に立ち読みして選んで。デザイン関係は、アクセサリーがらみだと思うのは一冊かな?」
目録をざっと調べて、それっぽい本をピックアップする。大した検索機能も無い表計算ソフトだが、慣れればそれほどかからずに、目当てのジャンルの本を探す事も出来る。手元のメモ用紙に、調べた本のタイトルを走り書きして紫苑に渡す。
「宝飾関係とデザインは二階奥の右の棚を探して。経営書の類は一階の左の棚一列を占拠してる。あ、後経営を勉強するんだったら、簿記の本でいいのが入ってるよ。まだ棚に並んでないから、ちょっと出してくる。」
「うん。ありがとう。」
綾乃に教えられた書棚を探し、それらしいタイトルの本を集めてくる。一階の経営書を何冊かパラパラと流し読みし、比較的具体論や実例の多い本を二冊ほど選び、レジの前に移動する。レジでは、綾乃が一冊の本を持って待っていた。
「この本、勉強しやすいんだ。」
「綾乃ちゃん、簿記の勉強してるの?」
「うん。税理士とか会計士で食っていくつもりはないけど、何するにしても貸借対照表とかぐらいは、読めた方が便利だと思ったんだ。」
高校生の発想とは思えない綾乃の言葉に、思わず苦笑する紫苑。やはり自分はお嬢様育ちなんだな、と、竜司や綾乃を見るとつくづく思い知る。
「とりあえず、レジ打っちゃうからちょっと待っててね。」
「うん。」
「お茶どうぞ。」
「ありがとう。」
どうせ来る客は皆顔見知りだ、という理由で、綾乃が紫苑をさぼりにつきあわせる。
「今日は店長さんは?」
「今、仕入れ。昨日好事家向けのがごっそり売れて、少し在庫がさびしい事になってるから。」
「店長さん、ああいう古文書とかどこから仕入れてきてるんだろうね?」
「さあ? まあ、ああいうのの収益がこの店を支えてるから、店長には頑張ってもらわないとね。」
聞くところによると、普通の古本を買いに来る客は、一日に二桁も行かないらしい。専門書の類が新品だと目をむくほどの額なのは、必要とする人が少ないからだ。そういう本の割合が高いこの店も、必然的に客が少なくなる。
「やっぱり、お客さんは少ない?」
「うん。大学生が教科書を漁りに来る時期も、卒論の資料さがしのピークも過ぎたし、ね。」
「後は常連さんだけ?」
「うん。紫苑さんが常連に入るレベルだけどね。」
言うまでもないが、紫苑とてそれほどこの店に用事はない。何しろ、基本が専門書だ。優喜と同じく教育学部にいる身の上で、しかも先輩やOBに覚えのよろしい彼女の場合、自分で調達せねばならない専門書の類は、それほど多くはない。
それでも、優喜に引っ張られる形ではあるが勉強熱心な彼女は、たまに専攻とは関係ないジャンルの専門書を調達しに来る事があり、普通の学生よりはここに来る機会は多い。
「まあ、これぐらいの客入りの方が、受験生の身の上としてはありがたい。何しろ、勝手に店にある参考書を使って勉強しても、誰にも咎められないし。」
「……店長さんは怒らないの?」
「むしろ、店長が推奨してんだもん。元来古本屋の店番ってのはそういうもんだ、とかほざいてね。」
何ともまあ、理解のあるアルバイト先だ。
「そーいや、優喜さんも似たような事をしてたんだっけ?」
「優君の場合は、さすがにアルバイト終わってから勉強してたけど。」
「それでよくあの大学に受かったよね。何というか、優喜さんにせよ兄貴にせよ、ちゃんと学問にも通じてるんだから驚く。」
「すごく密度の濃い勉強の仕方をしてるから、体力が無いと三十分も持たなかったりするみたいだけど。」
「なんか、それだけ聞くと、筋肉で勉強してるような感じがするよね。」
綾乃の感想に苦笑するしかない紫苑。何しろ、紫苑も初めて聞いた時、筋肉で勉強しているイメージを持ってしまったのだから。現実には、極度に集中力を高めて、単位時間当たりの読み書きの速度・記憶量その他を、普段の何十倍まで加速しているらしい。当然、脳は大量に糖分を消費するし、それ以外の部分でも、必要なカロリーが跳ね上がる。
まあ、そもそもやり方がやり方だけに、体力うんぬん以前に、自力で自在にそのレベルまで集中力を高められる必要があるので、結局は武術の応用なのは確かだ。二人が感じた、筋肉で勉強しているという印象も、あながち間違っていないのかもしれない。
「まあとりあえず紫苑さん、出来ない勉強方法については横に置いといて、いい参考書とかあったら、紹介してよ。」
「うん。」
「それにしても、優喜さんがうらやましい。」
「え? どうして?」
しばらく勉強方法や、優喜がどんな参考書を使っていたかなどで盛り上がった後、ぽつりと綾乃がつぶやく。
「うちの兄貴、外見と口調がああでしょ? 女の人と縁がないから、紫苑さんみたいに一生懸命想ってくれる人がいる優喜さんが、すごくうらやましい。」
「……私は、優君に依存してるだけよ。」
「依存してるだけの人が、店の経営のノウハウまで勉強しようとするとは思えないけどね。」
言いきってお茶をすする綾乃に、苦笑を返して同じようにお茶を一口口に含む。
「前から思ってたんだけど、優喜さんってあの外見であたりも柔らかいけど、中身は本気でうちの兄貴の同類だよね。」
綾乃からすれば、優喜は竜司と同じで、別の世界に飛ばされた程度でどうにかなるような、やわな人種とは思えない。
「だから、かえって心配なの。」
「もてそうだから?」
「向こうでもててるんだったら、それはそれでいいんだけど、ね。」
一つため息。正直なところ、紫苑としては優喜を男として愛してはいるが、必ずしも己の恋が成就することだけを望んでいるわけではない。
「多分竜司君もそうじゃないかな、って思うんだけど、優君って、特に精神的に何かあった時、無理して隠して、解決するまで誰にも関わらせようとしないところがあるから、もし、向こうでそうなってたら、と思うとすごく心配なの。」
「確かに、そういう部分なるなあ、うちの兄貴も。ぶっちゃけ野生の獣と同じで、深刻なダメージ受けたら、誰にも悟られないように周りを威嚇して、隠れてひたすら食って寝て回復を待つ感じ?」
「うん。しかも、優君達って、そういう時ほど威嚇の代わりに周りの事を優先して、出来るだけダメージを悟らせないようにするでしょ?」
「うんうん。」
「だから、ね。今も、そういう状態になってるんじゃないかなって、どうしても心配なの。」
紫苑の言葉に、ようやく納得が行く綾乃。同時に、竜司が言った、優喜を心配するのは紫苑の役割だ、というのも理解出来てしまった。正直、紫苑ほど優喜とは関わりが深くない事もあって、心配してもしょうがないと割り切ってしまう。
「……本当に、優喜さんは果報者だ。」
「そうかな? 綾乃ちゃんだって、竜司君が同じように行方不明になった時、すごく心配してたじゃない。」
以前、竜司が異世界に引きずり込まれた時、綾乃は見てられないほど取り乱していた。結局のところ竜司は、三日ほどで向こうに呼ばれた理由を片付けて帰還し、バイトを首になったと普段通りの様子で散々ぼやいて、周囲をあきれさせていたが。
「そりゃ、たった一人の肉親だもん。心配しない方がおかしいよ。」
「だから、単純に、あの時と立場が逆になっただけだと思うわ。」
綾乃からすれば、血縁でも何でもない、こんな美人にここまで心配してもらえるというだけで、十分果報者だと思うのだが、当の優喜は紫苑のこの感情に対しては、妙にそっけない。本当にもったいない。
「紫苑さんにこんなに心配かけて、もし飛ばされた世界で女囲ってたりしたら、とっちめてやらないと……。」
「私は、それで優君もその人たちもちゃんと幸せだったら、別にそれはそれでいいと思ってるわ。」
「は?」
「優君、いい加減ちゃんと幸せになるべきだと思うの。だから、幸せになった結果が私の失恋でも、それは別にかまわない。そうなったとしても、ショックは大きいだろうけど、多分受け入れられると思う。」
紫苑の言葉に絶句する。たった四つしか違わないのに、この目の前の美女はそこまで深く人を愛しているのだ。本当に優喜は果報者だが、同じぐらい、そこまで誰かを愛せる紫苑も果報者なのかもしれない。
「……あたしはその域には到達できそうにないなあ……。」
「単に、重くて邪魔くさい女なのかもしれないよ?」
「そういうこと言う男には、紫苑さんもったいなさ過ぎ。」
どうにも、綾乃には過大評価されている気がする紫苑。正直、惚れた男が難儀な相手だけに、自分も十分面倒な性格になっているのではないか、と常々思っている。
「優喜さんの、どこがそんなによかったの?」
「……考えたことも無かった。」
「え?」
「優君を好きになったきっかけは覚えてるけど、どこが好きなのかとかは、今まで考えたことも無かった。」
「きっかけって?」
「それは秘密。」
そう言って、上品な仕草でお茶を飲み干す。この人の場合、些細な仕草ですら全部絵になるな、と、ひそかな憧れを強くする綾乃。
「あたしも、受験終わったら彼氏ほしいなあ……。」
「綾乃ちゃんだったら、きっといい人が見つかるわ。」
「だといいんだけどさ。あたし、性格がこうだから、同性の下級生とかが、お姉さまお姉さま言って懐いてくんのよ。おかげでそっち方面だと思われて、男が全然寄りつかない。」
綾乃の言葉に苦笑するしかない紫苑。綾乃の面倒見がよくてさばさばした性格を考えると、分からない話ではない。
「これで、兄妹そろってずっと一人身だったら、さすがにさみしいなあ……。」
「大丈夫。綾乃ちゃんなら、必ずいい人が見つかるから。」
「ありがとう。今までを考えるとあまり期待は出来ないけど、希望は持っとくよ。」
紫苑の言葉を気休めと受け取った綾乃は、自分のお茶を飲み干すと、茶器を片付けるために立ち上がる。
「あ、そうだ。」
「何?」
「伊良部教授から頼まれてたんだ。紫苑さんが来たら、この本渡しといてって。」
そう言ってカウンターから取り出したのは、どこぞの文明について書かれた一冊の論文。
「直接渡せば? って言ったんだけど、今いろいろと打ち合わせ中で動けないからって。」
「……これって。」
「あの事故があった遺跡の文明についての論文。あそこの再調査、許可が下りてスポンサーがついたんだって。瓦礫の撤去からスタートだから結構な日数かかるけど、参加するなら基礎知識として読んでおくように、だって。」
「……私が参加していいの?」
「日程が大丈夫で、参加する意思があるんだったら、ってさ。もちろん行くんでしょ?」
「……うん。」
真剣なまなざしで食い入るように論文を見つめ、紫苑が頷く。再会の日までに紫苑がやるべき事は、まだまだ増えるようだ。こうして、紫苑の人生でも指折りの密度の濃い日々は、二つ目のスタートを切ったのであった。