身に染み付いた慣習は恐ろしい。例えその日何があろうとも、意気消沈しようともそんなことに拘らず、身体は仕事をこなした。肉体は落ち込む暇を許さず、心は悩む時を得ず。
それでも夜、一人になると話が変る。日中あったことに悩む暇が無かった分、夜に皺寄せが来る。しかしきちんと睡眠をとらなければ明日の仕事に響いてしまう。だから早々に悩むことをやめ、睡眠に入らなければならない。
このことにも慣れ、いつもであればすぐに眠ることが出来たはずなのだが、どういうわけか今回は都合悪く眠ることが出来ない。寝て忘れることを許さないほどに酷い出来事だった。酷いと言っても他人が聞けばああそうで終わるような、そんな単純な話だ。
「今日はどれにしようかな……」
心が悩んで眠れない夜はいつも酒に逃げる。近頃身についた悪癖だ。そんなことをしても何の解決にならなくても、でも心を苦しめたところで何の解決も見えてこない。ただただ心が痛むだけに終わる。だから温かい夢に逃げる。
とは言え私もまだまだ十九歳。はやてに言わせて見れば華の十九歳だ。酒を飲めてもまだ酒に慣れているわけではない。強い酒はまだ飲めないし、ユウキさんやその愉快なお友達のように湯水のように飲めない。ゲンヤさんやヴァイスさんのように強い酒を格好良く飲めるわけも無い。
今のところは飲めて甘いお酒だ。特に普段は保管もしやすく、手軽に飲める缶チューハイを愛飲している。無論これよりもバーで飲むカクテルが美味しい。そう言えば最初にお酒を飲んだのはさて、何時だったか。
心を偽って記憶を探る。親と、ではない。確か十七の時にどこかのバーで、ドッペルゲンガーかと思ってしまうほど瓜二つの人に飲まされたのが初めだったか。あの時飲んだ様々なお酒はとても美味しかった。
――悩むのはいいけど、悩み続けるのは心にも身体にも良くないよ。一つの過去に囚われて生きることはただの執着で、後悔だから。
――それだけでは何の問題解決にもならないし、余りに今が勿体無い。
ああ、少し思い出せた。マスターに言われたこの言葉が私が解決できない悩みから逃げるようになった切欠だ。あれ以来、様々な酒を少し飲んでみたが、あの時飲んだお酒ほど美味しいお酒とは出会えていない。
そう言えばあの人、バーで会った瓜二つの少女。あの少女の名前は何だったか。酔っていたために思い出せないけどもどこかで、幼い頃どこかで聞いたような覚えがある。まあそんなこともあるか。
「…………」
慣れた手つきで缶を開ける。あの後少女は母親らしき人に連れて行かれた。マスター曰く、また派手に親子喧嘩をしてバーに来たそうだが、派手に親子喧嘩をした割に、口論していた割にとても幸せそうな家族だった。その光景が未だ心に焼きついている。
私には親がいない。家族はいるが、ここにいない。母さんなら私の心を縛るこの悩みも尋ねればきっと答えてくれるだろうか。その答えを知るには少しボタンを操作するだけで終わる。でも私が求めているものはそんなものではない。
ただ画面の上で話をしたいわけではない。あの時見た家族のように時々喧嘩して、でも縁りを戻して。そんな風に暮らしていきたかった。でも私も母さんも上手く暮らしている。上手に何事もなく暮らしてしまっている。それが私の選択間違い。正しさ故の間違い。
「……あま」
ここに親はいない。それは私がこんな仕事をして、また逃げた結果でもある。たぶん今、母さんが来たならどうするだろうか。泣き付くか、嘆くか。しかし私が酒の味を覚えるには余りに遅かった。だから、もはや全てが遅い。
でも、エリオ、キャロ。二人がいるから今を頑張ることができた。何があっても前を向いて、明日に向かって生きることが出来た。だからこそ今日あった出来事は私の根底を揺るがす。
「甘いなぁ、本当に」
エリオに、負けた。最初は補助魔法のみで何も出来ずに負けた。次に防御魔法ありで防御ごと貫かれて敗れた。続いては攻撃魔法ありで。でもこちらの射撃魔法を容易く弾かれて敗北した。最後には大人気なく、オーバードライブを使用して私の心は打ち砕かれた。
切欠は何だったか。そんなことはもうどうでも良い。その後ユウキさんに狭い空間で戦うな言われたけども、例え戦い辛い場所であってもまさか経験の浅い息子に負けるとは思いもしなかった。
私が幼い二人を守らなければならないのに。なのに私の力はエリオよりも弱く。そうか、私ではもう幼いエリオさえ守ることが出来ないのか。本当に私の手には何が残っているのか。何を残せるのか。それさえ今の私には、分からない。
「なのはぁ」
「ぇ――え、フェイトちゃん? どうしたの?」
「私、どうしたら良いのかな?」
「えっと……とりあえず何があったのか最初から話そうか」
四本目に手を伸ばしたところまでははっきりと覚えている。気付けば人恋しさに惹かれてなのはの部屋に足を運んび、抱きついていた。うむ、温かい。胸に顔をうずめながら久しぶりの温もりに心を委ねる。
こんな時間、と言ってもまだ十時ごろか。なのはもユウキさんと一緒にお酒を飲んでいた。正しく言えば晩酌を嗜んでいた。ユウキさんが朱塗りの杯で飲んでいるのは日本酒だろう。一方なのはが飲んでいるのは何か。
「んむ、美味しい」
「あ、私の……まあいいか」
ちょっとだけなら良いよねと少し拝借して味見する。白ワインかな。懐かしく感じる美味しさだ。流石ユウキさん、伊達にバーのマスターをしていない。美味しいお酒を持っている。
「それで、フェイトちゃん。何があったの?」
「えっとね――」
ユウキさんからワインを貰っていたからこれは私が飲んで良いのか。流石に同時に二つもいらないだろう。差し出された座布団の上に座り、適当に二人に間にあるつまみを食べながらなのはに事の顛末を説明する。
その間暇を持て余したユウキさんは膝を枕にして眠るヴィヴィオを撫でていた。私たちにとってはまだ十時だが、ヴィヴィオにとってはもう十時だ。傍にあるマグカップが少しは頑張ったと物語っているけれども、幼い子供はもう寝る時間である。
とは言え、同じ子供と言えるエリオやキャロには定期的に深夜訓練があったり、あるいは抜き打ちの真夜中の緊急訓練がある。それを考えると今彼らに科している責務はどれだけ酷いことか。
お酒は時折普段考えないことまで考えさせる。それでも明日には都合良く忘れていることだろう。それが悪いことか良いことか、その区別さえ今の私はつかない。
「――というわけなんだよ。どうしよう?」
「私にはちょっと、何が問題なのか分からないんだけど……つまりエリオと手合わせして負けたっていることだよね?」
「うん、そうだよ」
「えっと、それのどこがいけないのかな?」
それは勿論、と行き詰る。私より強くなり、もはやエリオは自身で自分の身を守れるようになった。それは非常に喜ばしいことだ。何も悪いことではなく、何時か遠い未来にはやがて来ること。確かにそれはどこも悪くない。
しかしエリオにはまだ早い。一人で独りで外に行くには早過ぎる。幼過ぎる。危う過ぎる。そんな言葉を私が言う前になのはは続けた。
「エリオやキャロ達は私たちと違ってまだまだ伸び代がある。私たちは既に完成しているけど、あの子たちはまだ発展途上。それに子供は何時か親元から巣立つんだよ」
「だけど……」
「それよりも早く安心できるほど自分より強くなったと確認できたことは、良いことなんじゃないかな」
でも、と言葉が続かない。ただ心だけがそれを認められず、ざわめく。思考は勝手に悩み、最適な回答を求める。確かにそれは良いことだ。何時まで今の関係が続くのか分からないが、それでも何時か終わってしまう。ならそれまでに安心できるなら、それは良いことに違いない。
そもそも何故自分は早いと感じているのだろうか。既に酔いが回って確りと考えられないが、酔いが回っていなくともその答えにたどり着けないかもしれない。良く、分からない。
それに自分が親元から巣立ったのは普通より断然早い。それは未だ因縁続くロストロギア、ジュエルシードによる不可抗力のためもある。なにも私が原因ではない。しかし、例えあれが無くとも結果として私は人より早く親元をを旅立っていたのかもしれない。いや、元より親元になどいなかったか。
零れる笑みは全てに自嘲のもの。所詮、速いだ何だと言っておきながら、それらは全て何らかの基準、明確な価値観に寄る判断ではなくただ自分がそうあって欲しい、そうあれと願う欲望による願望だ。つまりこれは、単なる我が儘。
「それに教えている人が教えている人だしね。ねぇ、ユウキくん。少しは自重を覚えようか」
「残念ながらその要求は却下されます。それにさ、向こうが真面目にやってくれるものだからこちらもやはり真摯に対応しないと失礼だ。あとこれでも自重している方だよ」
『マスター、この人にとって自重とは問題にならないように上手くやると言う事です。事実、エリオさんの場合でも世界に発覚した所で現状、問題にならない範疇です。例えそれが、誰に習った槍捌きであろうと』
「どう考えても大問題だよね……」
「良くも悪くも事実は捻じ曲がるもの」
「いや、それ絶対悪いから」
怒っているのか、怒っていないのか。この二人の間ではその区別が非常にし辛い。とはいえ、一応は怒っているのだろう。二人の仲がとても良いのは周知の事実だ。最早本当に喧嘩することも考えられない。
私たちはどうなのだろう。確かに喧嘩なんてする事はないが、そこまで分かりあっているとは間違えても言えない。むしろお互い隠し事や気遣いの方が多く、分かり合えることも分かっていない。二人のように自然体で納まっていない。
今すぐにでも会って話をするべきか。それもやはり難しい。あった所で言葉に詰まることは明白で、結局当たり障りのない会話で終わるだろう。義母さんもそんな事を感じていたから、踏み出せなかったのかもしれない。
「そんな事は事実どうでも良くて。問題は、だ。問題ではないのに君がそれを頑なに認めようとしていない所なんだよ」
「そんな事は、ないです」
「いや、それこそ問題なんだよ」
いや、しかし。上司として魔導師になって日の浅い彼らに負けるのは問題だ。また親としてまだ幼い彼らに負けるのは問題だ。親として子を護るのは当然の義務で、上司として部下を守るのは当たり前の責務だ。それを無視して問題ではないとは断じて言えない。
「そもそもさ、たかが試合で負けただけじゃないか。それのどこに問題がある?」
「え、いや……それは」
「力の優劣だけで決まるだけの関係を家族とは言わないよ。それに頼るだけの関係が家族であっていいわけがない」
「…………」
「もしその程度の関係であると言うのなら、」
「そんなわけはない!」
「……そう、だよ。そうなんだよ。だからそれだけの話なんだよ」
続けさせてはならない。そう感じる前に反射的に明確な拒絶が零れた。
ああ、そうか。
「君の抱えたそれは」
私の抱えたこれは
「些細な」
――出来事だった
それだけの話。答えなんて見つからない。当たり前だ。何故ならそれに答えはないのだから。終わりはない。始まりがないのだから。当然の帰結に、何の過程を求めたのか。
始まりも無ければ終りがない。問題がなければ答えが無く、答えがなければ終りがない。終りがなければ、始まらない。ただそれだけの矛盾を、螺旋のようにぐるぐると悩んでいた。それだけの、些細な日常。
「何より、エリオが君に勝てるのは現状、限定された空間という条件を付加した場合のみ。それさえなければまだ、エリオは君に勝てない」
「それは、本当ですか?」
「だからそんな事に何で拘るのかな?」
まあ、確かに。私は少々力に固執している部分がある。いや、絆なんて言う不可思議の曖昧模糊なものを信じることが出来ないと言うべきか。それは間違いなく親だと思っていた母親に手酷く裏切られたからだ。
この世で最も強いと思っていた家族の絆、容易く斬られた傷は今も心に残っている。だから私はこの手に残るものに固執する。この手で出来ることを望む。
だが、家族は彼の言う通り、本当はもっともっと強いものなのだろう。強くなければ家族ではないのかもしれない。家族とは何か。立った数度しか顔を合わせない程度の間柄を家族とは言わない。血の繋がりが無くとも家族である人々はいる。
そこまで考えた所で、こてんと横になった。流石にこれほどまでに酒を飲んだ頭で哲学をするのは困難だ。何よりワイン、缶チューハイよりも約三倍ほどアルコール濃度が高い。正直、ここまでお酒を飲んだのは初めてだ。明日が怖い。
「あの、フェイトちゃん?」
「…………」
良い匂いと、久し振りの温もり。程良くというよりかなり酔ってしまっているため睡魔も酷い。どうでもいいから、ともかく眠りたい。寝たい。寝てしまいたい。
「まあ、そんな日もあるよ」
一先ずここで、お休みなさい。
ふと、目が覚める。案の定頭が痛い。間違いなく二日酔いと断定される。さて、そんなになるまで何故飲んだのか。お酒とは恐ろしい物でそのような記憶も時として奪う。
それらよりも前に、何よりも前に、ここはどこでしょうか。なんて、愚問を並べる。まあ答えは当然、何故かはわからないがなのはの部屋だが。さて、はて。
きっと何かを相談に来たんだと思う。相談事がなければそもそもお酒は飲まない。では問題、一体その相談事とは何で、そしてどう相談してどのような回答を得たのか。ふむ、全く思いだせない。
「あ、おはよう。フェイト」
「おはようございます。えと、昨夜はご迷惑をおかけしました?」
「あはは。まあ少し、なのはが拗ねた程度だよ。気にしないで」
何かとてつもないことだった気がするし、一方どうでも良いような些細なことのような気もする。うやむやで、あいまいで、あやふやで。何ともはっきりしない。少し、気分が悪い。
「体調はどう? 余りお酒は飲みなれていないようだけど、二日酔いとか大丈夫?」
「少し……二日酔い気味です」
「やっぱり。ともかく、程度は弁えた方が良いよ。君の呑み方は余り、お勧めできない」
「えと、すみません」
「ん。そろそろ朝食の準備が出来るからシャワーを浴びてきたら? 少しはすっきりすると思うよ」
「あー……はい、そうさせてもらいます」
ただ、悪くはない。きっとそれは良くない事なのだろうけど、同じくらい悪くない。ならばいいじゃないか。世界は何時だって善悪で判断できる事の方が少ない。むしろ、善悪は人の価値観だ。どのような問いにも百人いれば百通りの答えが返ってくる。だから、良いじゃないか。悪くなければ、それで良い。
そもそも善悪は難しい。それは判断付ける前までではなく、その後も続くのだからさらに面倒だ。だから、出来るならばつけたくはない。そんな狭い価値観で世界を縛りたくはない。
「所で、今日の朝は何ですか?」
「二日酔いになった馬鹿が二人もいるんで、シジミのみそ汁を中心に和風」
「あ、あはは……」
とりあえず、少し遠出がしたい。家族揃って、皆で。無論エリオやキャロだけではなく、クロノ義兄さんや義母さんも誘って。何か話したいわけでもなく、ただ、何かを話したい。だから、少し。
何はともあれ、頭が痛い。
今日のエリオくん。
「フェイトさん、酒臭いです」
「キュクルー……」