胸元から規則正しいリズムで寝息が聞こえる。この状態に優鬼が移るまで掛かった時間はおよそ三分。となるとかなり無理をしているようだ。少なくとも昔の優鬼では一ヶ月少々の入院生活を約束されていておかしくないほど無理をし、疲労を溜めていたようだ。
そっと頭を撫でる。少し癖のある髪が指に絡まるが、それでも滑らかなため触り心地は良い。くすぐったかったのか、頭を押し付けてきた。本当に熟睡しているようだ。それも仕方がない。
優鬼は不老不死となってから無理をする頻度が多く、その程度も酷くなった。昔は倒れない程度、病院に行かない程度に抑えていたものの、死なないとなっては死ぬほど、事実死んだほど無理をする。
全く、迷惑極まりない話だ。こちらが望めばいとも容易く無理をしてでもかなえようとするなど。私たちは一度たりともそんなことを望んでいないというのに。むしろ泣いてほしい。無理やり作った笑顔より、本心で良いから泣いてほしい。そう願うのは、無理もないこと。
「……本当に、ばかな人」
少々の天変地異では起きないほど深い眠りに落ちたことを確認すると環境を整える。まずは畳、横になれる場所。続いてエアコンを切る。優鬼の体は今も弱く、エアコンのような人工的な空気を苦手としている。
それから窓を開放し、風鈴を下げ、肌の弱い優鬼のために日傘を差し。ミッドの気候制御装置は悪いが、つい先日にヴァランディールとゼノンと私で壊させてもらったため、窓から入ってくる風は梅雨混じりの春の匂いがする。
以上の事を完了してからまだ寝ている優鬼の傍に座り、その頭を自分のひざの上に乗せる。すると自然と彼のほうから自分にとってちょうど良い場所に移動する。
「ん、むぅ……くー」
「…………」
優鬼にはいくつか今も昔も変わらない習性がある。その一つが絶対的に安心できる、暖かい場所にいるとすぐに眠たくなり、疲労の度合いによっては即座に眠ってしまうことだ。
この時の安心できる場所とは自宅、安全が保証されているといった意味合いではなく、自分が信頼できる人の傍であるという条件である。暖かい場所も夏や春といったことではなく、ただそう感じるところであれば問題ない。
ちなみに今回私が行ったことはただ抱きしめただけである。こういうときばかりは自分の胸が一般的な女性より大きいことに感謝する。男性には少しばかり無理がある行為だから。
「優鬼、確かに私たちは目の前の問題を解決したいと思う。でも、でもその過程であなたに無理をしてほしくないの。いくら私たちに死があり、あなたにそれがなく、いつか別れなければならない時が来るとしても、例えその時であっても、私たちはあなたの無理した笑顔は見たくない」
言い聞かせたところで意味などない。どれだけ言ったところで大切な人を守り、愛するというのは彼の本能。ただ大切な人に笑っていてほしいと思うのは今も変わらない彼の願い。
「嫌なことがあれば怒っても良い。悲しいことがあれば泣いても良い。辛いことがあれば何時でも傍にいる。頼れば何処でも駆けつける。だけどいらない。無理した笑顔なんて、望まない」
大切な人に、失いたくない人に笑っていてほしいと思うのは何も彼だけではない。私はもちろんのことながら、彼の傍を好む皆が望み、また人である故に逝ってしまった人々が私たちに託した心残りだ。
優鬼は死なない。不老不死だ。どれほど私がそれを理解しても、どれほどそれが事実であろうとも、自分の夫が死ぬ場面を良しとする妻がこの世の何処にいようか。少なくとも私は一度たりともそれを受け入れたくない。
「お願い、泣いて。怒って。笑うのは明日で良いから、明後日でも良いから、無理をしないで……」
たぶん、彼はこの思いを知っている、ちゃんと理解している。それでも無理をしてしまうのはまあ、彼がそういう人だから。
果てしなく長い時間の中で変化していった部分が多々あるけれど、そういった根幹をなす部分において一切の改善が行われていない。むしろ不老不死のせいで歯止めがなくなった。
「…………」
もちろん分かっている。ただ優鬼はいつものように、いつもと変わらず後悔の少ない選択をしたいだけ。奪われる痛みを誰よりも知っているからそれを防ぐために子供のようにあれこれと手を伸ばしているにしか過ぎない。
「次は、誰に言いつけようかしら?」
こんなことをしても所詮一時凌ぎにしかならない。精々彼が自滅するのが明日になるか、来週になるかの差だ。何時になれば彼は無理をするのをやめるのか。不老不死に甘えて無理をしなくなるのか。
少なくとも、当分先の話ではある。
夏の風に揺れて風鈴の音が鳴る。遠くでついているテレビが未だに気候制御装置襲撃事件について取り上げている。やれやれ、器の小さい人ばかりだ。どうしてこれを機に、自然というものを見つめなおそうとはしないのか。
そんなことを考えつつ、寝ている優鬼にこっそり耳掃除をする。こんなことをされても起きないのだから、神経が図太く出来ているのか、それとも繊細なのか。兎に角、これは私へのご褒美だ。
それからしばらく、余りにも気持ち良さそうに眠る優鬼に釣られて私も昼寝をしたり、いつの間にか起きて仕事を再開しようとした優鬼を叱るなどして時を過ごした。
「それにしても、来るんだったら事前に一言声おかけてくれたら休みとれたのに……」
「事前に教えて身構えられたらあなた、落ちないでしょう?」
「まあ、それもそうなんだけど」
「だから教えなかったのよ」
二時間もすれば暑さも強まり、そう簡単には眠れない環境になる。ここで滝のそばや鍾乳洞などに行けば気持ちよく自然を感じながら眠れることだろう。まあそこまで寝たとして一体何するんだという話だが。
そして現在、久しぶりに優鬼と共に厨房に立ち、料理を作っている。こんなことをするのは宴会の時を除けば、さて一体何千年前の話か。とても懐かしく感じる。
「所で、今日は何を作るの?」
「この前辛い物が食べたいというリクエストがあってね、だから中華料理でまとめようかと」
「ああ……だから杏仁豆腐を作ったのね」
二度三度の口論の末、ちゃんと休むこと、私も手伝うことを条件にコックの仕事を許した。一部心惹かれたところも否定はしない。
中華料理で纏めるということと材料から推察するに、麻婆豆腐にエビチリ、生春巻き、春巻き、そして何故か火鍋。たぶんそれは辛い料理をリクエストした人への料理だろう。
二人で下拵えをしつつ、人が来るのを待つ。流石に私も和服のままでは違和感が拭えないので優鬼と同じバーテンダーの服を着ている。長い髪も同様に後ろで纏めている。流石に下はスカートだが、主だった違いはそれだけだ。
「そろそろ、かな……」
優鬼がそう呟いたときだろう。人の波がくるのが感じられた。もちろん一部の人は何かあったときに対応できるよう残っている。それでも大多数が今まさに食堂を目指して向かってきている。
「ユウキさん、今日のお昼は何ですかぁ?」
「やぁ、リイン。今日はエビチリだよ」
「わぁい!」
まず最初に本当に小さい人間が入ってきた。見た目青髪の少女だ。なるほど。車海老だけでなく、小海老が少しあったのは彼女のためか。確かにあんなにも小さな体では普通の大きさの海老を食べるのは難儀だろう。
エビチリを作り始める。味付けのほうは少し甘めで。いつものように作るのではなく、少々手を抜いて作る。異端とはいえ神が作る料理、全力で作った料理を人が食べれば心に残りすぎる。
それをかなり前に一度、人間だった頃の優鬼にしてしまった。そのせいで彼には様々な迷惑をかけてしまった。以後気をつけている。ただ、何だ。手を抜いても昔食べたものを何となくで分かったのだろう。私の手料理が好きだといってくれたときは本当に、嬉しかった。
だが、それ以上にあの日以来優鬼が一度たりとも食事で満足したことがないと知った時、心が痛んだ。だから私は手を抜く。普通の人に対する場合は手を抜いて作ることを心がけている。
「今日のユウキさんの料理は何時もより美味しい気がします」
「ああ、僕が作ったわけじゃないからね。今日は彼女、蘇芳が作ったから」
「そうなんですかー。所でそのスオウさんはユウキさんのお知り合いですか?」
「知り合い、というか夫婦なんだけどね」
「ほへー、素敵な奥さんですねぇ。なんだかとっても幸せそうです」
そんな事実、言われなくとも分かっていること。それでも言われれば嬉しく思うのもまた事実。この妖精もどきにはご褒美にデザートの杏仁豆腐のトッピングを少し豪華にしよう。どうやら私は意外と単純に出来ているようだ。
優鬼が一人一人と短い会話をしながら料理を作り、提供する。また私も同様に、口数こそ少ないが話し、出した。
私自身がユウキとよく似た格好をしているせいもあるだろうが、中には当然優鬼が性別転換したのかと勘違いする人もいる。酷い人だと生唾を飲み込む者もいた。そう言う人にはとある某神父直伝にして優鬼による魔改良を受けた特製麻婆豆腐を振舞っておいたと特筆しよう。
「ユウキくん、お昼にしよう」
「なのは……ちょっと待ってね。まだ、やることがあるから」
「うん、待つよ」
時に無理を言う客を裁いているとなのはがやってきた。席はある意味当然のようにカウンターで、優鬼が良く見える席だ。
「あ、スオウさん。お久しぶりです」
「ええ、久しぶりね、なのは。それより今夜、話があるから時間空けておいてね」
「話、ですか?」
「ええ、少し」
「はぁ、わかりました」
きっと彼女は足早に来たのだろう。その気持ちは十分に分かり、そのことは存分に想定可能であり、その事実は充分に後から来たものが証明した。
ローズブラッドのような鮮烈な紅ではなく、ただ赤い髪をした少女が息を切らしては言ってくる。その服装がなのはと同じであり、階級章からあれでも士官の人物なのだろう。普通の人であれば疑問に思わざるを得ない光景だ。
「たく、なのは。食事前だからと言ってさっさと終わらせようとするその癖、早めに直した方が良いぞ」
「そうかな? ある程度の想定外には慣れていた方がいいと思うけど……」
「いや、アレは確実にありえない想定外だ。むしろ人災と言って良い」
『今回使ったのは空間殲滅用炸裂型ディバインバスターですよね。似たような魔法を使う違法魔導師も中にはいるのでは?』
「この世のどこに半径1kmを一発で制圧する砲撃を簡単に使える人がいるんだよ?」
『ここにいますが何か問題でも? むしろ先のはかなり力を抑えました。この温情に感涙してもらいたいぐらいです』
「テメエらの非情さにあたしが涙流しそうだよ……」
何やら酷いことをしたようだ。まあ物事に優鬼が絡めば大概に多様な家庭が繰り広げられるか。それでも死者が出ていないのであればまあ、良い方である。
このまま放置すれのは余りにこの少女の胃が心配なので、後で腕は良い薬師を紹介しよう。今は胃に優しく、消化に良い物を余りの材料で作るとするか。
「はい、どうぞ」
「お、すまねぇな――って、頼んだ覚えはないんだが?」
「まあサービスよ。何かと苦労していそうだから、ね」
「ん、ありがと」
少女は近くに在るレンゲを取り、先ずスープを一口。
「……うめぇ……」
さじ加減は間違えていない。人に食べさせて良い限界の瀬戸際を突き詰めたが、それでもその限界を超えた覚えは一切ない。ならばこの味は、人生で一度でも食べられたならい違法な味なのだ。故に問題はない。少なくとも子供の頃の優鬼に食べさせてしまったような、人が食ってはならない味ではない。
「――いただきます」
それはとても丁寧な儀式だった。この世の全てに感謝し、今という時に感謝し、そして過ぎ去る時に涙する、人類に残された数少ない魔法をただその小さな身で味わえることに対する、儀式だ。その間僅か0.4秒。
そんな事はいったん他所に置いておき、今一度辺りを見回す。これで大体の料理は作り終えたはずなのだが、どういうわけかまだまだ材料が余っている。優鬼が過剰に買ったとは思えないし、となればまだまだいるのか。
しかし知覚領域を広げ、機動六課全域を見てもまだ昼食を取っていない人は精々十人足らず。なのにまだ食材の方は二十人前以上存在する。これは一体、どのような理由か。
「ああ、大食漢が二人いるもので」
「なるほどね。でも流石にこの量を独りで裁くのは辛いでしょうに。何故まだ一人で?」
「……ねえ蘇芳。僕らについて来れる者が、人間やれると思う?」
「…………愚問だったわね」
料理が半端なく上手く、それ以上に手際が良く、最低でも管理者と対等にあれる存在が人間であるとは思えない。確かにこれは余りに愚問で、故に一人でやるしかない。
諦めと言う感情をため息に込めて吐き出し、続いて仕方がないという思いを吸いこんだ。その後だろうか。出された料理を食べ終えた赤髪の少女が今更な疑問を口にする。
「そういやあんた、誰だ? ユウキの知り合いか?」
「私は神楽 蘇芳、優鬼とは夫婦の仲よ」
「ふぅん、夫婦か……って、何だとぉ!?」
「……どうかしたかしら?」
「どうかしたじゃねぇ!! ユウキ、お前なのはと結婚するんじゃなかったのかよ!?」
あ、ああなるほど。重婚に関する疑問か。長く生きる者にとってはそのただ一人で一人きりの関係に執着することはあまり理解できない。人は死ぬ者、生きる限り死に別れる運命にある。それを誰よりも何よりも理解しているため、ただ一人ということに執着できない。
しかし、短い命であり、そう言った常識の中で育ってきた者にとっては既婚者が結婚すると言う行為に納得がいかないのだろう。それは無理もない。
「急に大声出してどうしたの、ヴィータちゃん?」
「なのははユウキが既婚者で良いのかよ?」
「……あ、ああそのこと。それなら付き合う最初の方で話は聞いていたから大丈夫だよ。それに、私はそれ以上にユウキくんと一緒にいたいんだ。だから気にしていない」
「いやいやいや」
「それに、ヴィータちゃんだったかしら。愛されている自覚と愛している思い、愛されている事実さえあれば別に大切な人が少々増えようがどうでもいいのよ。私は優鬼が好き、優鬼には笑っていて欲しい。それだけだから」
「…………もう良いよテメエら。だから誰か、コーヒーください」
優鬼のことを愛している。優鬼は私たちのことを誰一人として疎かにせず、愛してくれている。この二つさえあれば別に今更大切な人が増えようが、誰と結婚しようが構わない。
ああいや、訂正。流石に優鬼に害なす存在と結婚しようとするなら全力で止めさせてもらう。それだけはどれほど優鬼が望んでも受け入れられない。まあそんな事態に陥ったことは今まで一度たりともないのだが。
「はい、コーヒー。所でヴィータ。さっき僕を呼んだようだけど、どうかした?」
「重婚して良いのかという疑問よ」
「ああ、なるほど。良いのかも何も、それで大切な人が幸せでいてくれるなら、別に少々のことは良いんじゃないかな」
「そう言う思考が一般人には伝わりにくいのよね……」
「何でだろうね?」
それは勿論、優鬼が普通ではないから。そう思いながら自分たちの分の食事を作る。一方で食堂に近付いてくる何人かのための料理を作る。その四人が最後のため、彼らが優鬼の言う大食漢なのだろう。
自然なうちに手伝おうとした優鬼に静かに微笑んで退かせ、大人しくなのはの隣で茶を飲ませる。僕の仕事という言葉を零すにはまず体調管理を万全にしてからにしてもらいたい。
「ご飯、ご飯。今日のご飯は何かなぁ?」
「……何でこのバカは、あの訓練の後でもこんなにも元気なのよ……」
「えっと……さぁ?」
残された二十人前の食材、それをこの四人で食べるとなると一体誰がどれほど食べるのか。いくら大食漢とはいえ子供二人が三人前以上食べるとは考えにくい。だとすれば残る十四人前分の食事を青髪の少女と橙色の髪をした少女が食べるのか。まあそんな人間もいるのだろう。
というわけで山盛りの辛めと辛さ控えめの二種類の麻婆豆腐、エビチリ、野菜たっぷりの中華スープ、その他数種を渡す。杏仁豆腐はデザートなので今はまだ出さずに置く。さて、これで全ての食材が消費出来た。
「それじゃ、お昼にしましょうか」
「うん、そうだね。今日は三人いるからテーブルにしようか」
「ええ、そうね。なのは、これ持って言ってくれる?」
「はい、わかりました」
それにしても、疑問が尽きない。何故多くの局員が私の存在をことごとく無視するのか。それはここが優鬼の領域だからと言ってしまえばそこまでなのだが、それを加味しても余りに不用心すぎる。
私たちとしては気軽には言って来れるので今のままの方がありがたい。一々厳しい警備を気にしては言ってくるのに気を使うのは少々面倒なのだ。
「それじゃ、頂きます」
「いただきます」
「はいどうぞ。召し上がれ」
今日の昼食は和食にした。本来ならここで皆に振舞ったのと同じ中華料理を作る手はずなのだろうが、別に変えても構わないはずだ。それに私としても中華料理よりも和食の方が作り慣れている。
「所でスオウさんはどうして機動六課に?」
「ちょっとヴァランディールに話を聞いてね。まあその辺りの話は今夜ね」
「ああ、やっぱり……その話ですか」
「その話なんです」
「いや、何の話なの?」
「ん、秘密」
妙な視線を受けながらも昼時も終わった。後はたまりにたまっている皿を誰も見ていないことを核にした後、水を操作し、時間をかけずに洗う。
優鬼は優鬼で眼を離したすきに何かを作っていた。どうやら本日のおやつであるプリンのようだ。私が気付くまでにバケツプリンを二つ作っているあたり流石と言えよう。
暇つぶしに機動六課内をうろつき、暇そうにしている局員たちとお茶を楽しんでいた時に聞いた話なのだがさて。何が逢って優鬼が戦ったのか。それも彼にとっての鬼門である非殺傷設定を使う魔導師と。
彼は干渉する魔力の余波だけで気分が悪くなると言うのに。ちょっとシグナムという人。話会いたいことがあるのだけど一体どこにいるのか。今からが楽しみで仕方がない。
全く、必要がなさそうだからなのはに教えなかったことがよもやこのような所で裏目に出るとは思いもしなかった。
「……ねぇ、僕が何をした?」
「黙ってそこに正座しなさい。今日という今日は許さないわ」
「本当だよ、ユウキくん。まさかそんな事隠していたなんて酷いよ」
今日のはやてちゃん
「――――ム!」
「どうかしましたか、はやて?」
「いや、今何か、凄く損をした気分が……