トリスタンはゴア総督たる大アルブケルケが第三艦隊を設立した際、その命令によって小アルブケルケの麾下に属した。
小アルブケルケは配下の人間と親しく語らう為人ではなく、両者の関係は命令をする者とされる者のそれであり、個人的な情誼は存在しない。
だが、それでも短からぬ歳月、第三艦隊に属して戦ってきたトリスタンは、小アルブケルケが父の威光にすがるだけの愚者ではないことを承知していた。
小アルブケルケの戦に対する姿勢は、ドアルテに全権を委ね、自身はドアルテが十全に指揮を揮えるよう飾り物に徹する、というものである。
いまだ散見される小アルブケルケの無能論はこのあたりに端を発するのだが、小アルブケルケはドアルテに戦の指揮を委ねる一方で、ニコライのような優秀な若者を抜擢し、元傭兵のガルシアを提督に引き上げ、女性であるトリスタンとロレンソに重任を与えるなど、積極的に人材を登用してきた。
トリスタンは聖騎士として、ロレンソは父の名声と自身の才覚により、南蛮軍でも相応に名が知られていたが、指揮官として軍上層部に席を与えられたのは、第三艦隊に属して以後のことなのである。
父の大アルブケルケのように、自ら陣頭に立って敵軍を蹂躙するような分かりやすい武勲ではないゆえに、その真価を知る者は多いとは言えぬ。
だが、その後の第三艦隊の活躍ぶりを見れば、小アルブケルケの人材を見抜く目の確かさは明白である。
軍将として見た場合、小アルブケルケは大アルブケルケよりも配下を活用する術を知る。それがトリスタンの、小アルブケルケに対する評価であった。
バルトロメウの最後尾に位置する船長室。
小アルブケルケに呼び出されたトリスタンは、室内に入り、わずかに歩を進めてから跪いて頭を垂れた。
「トリスタン、参りました。ご用向きをお伺いいたします、殿下」
「気忙しいな。だが、愚にもつかぬ礼儀に時を費やすよりはよほど良い」
小アルブケルケはそう言うと、特に構えることもなく、あっさりと用件を口にする。
大谷吉継を連れて来い、と。
トリスタンが応じるまで、ほんの一呼吸ほどの間があった。
「……何故、今この時に、とお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「今、この時だからこそ、と答えようか」
小アルブケルケの返答を受け、トリスタンは伏せていた顔を上げ、小アルブケルケの面上に視線を注ぐ。
黄金を溶かしたかの如き髪と、遠洋の海面を思わせる深い青の瞳。顔立ちは端整の一語に尽き、容姿が時に人の上に立つための要素になりえるという事実を、無言のうちに証拠立てるかのようである。
「どうした、何をためらう? 他に何か質したいことでもあるのか」
そう口にする小アルブケルケの表情は平静そのもので、特段苛立たしげな様子は見受けられない。トリスタンに向けられた眼差しは、常は迅速に命令に従う配下のためらいを興がるように細められていた。
トリスタンは再び顔を伏せ、小アルブケルケの問いに応じる。
「……は。大谷殿をお連れする前に、殿下の御意を得たく存じます」
「許す」
「ありがたき幸せ」
頭を下げたトリスタンは、かねてよりの疑念を質すために口を開く。
「お訊ねしたき儀は此度の戦についてでございます。先の布教長とのお話はうかがっておりましたので、殿下のお考えは承知しております。しかし、薩摩における敗戦により、わが軍は人的、物的に多大な損害を被りました。これにより、当初想定していた戦果を得ることはきわめて困難になったと推察いたします。薩摩より一度手を引き、ガルシア卿らの艦隊をもってムジカを保つ――それが殿下のお考えでありますが、言うをはばかることながら、布教長の力ではガルシア卿らの来援までムジカを保つことは難しいものと思われます。また、仮に間に合ったとしても、それは一時のこと。彼の地を長く南蛮の領土とすることは至難の業ではないか、と」
トリスタンがそこで言葉を切ったのは、小アルブケルケの叱声に備えてのことであった。
トリスタンが口にした『想定していた戦果』とは、この国の征服に先立つ九国制圧を指す。現在の戦況、そして南蛮軍の戦力を鑑みれば、その遂行は不可能に近い――遠征軍総司令の眼前で、トリスタンはそう言明したのである。
また、ムジカを長く保持することは出来ないだろうというトリスタンの意見は、すなわち、あの都市で小アルブケルケが口にした策を否定することにつながる。小アルブケルケが激怒したところで何の不思議もなかった。
だが、トリスタンの予測ないし危惧とは裏腹に、小アルブケルケは声にも、また表情にも怒りを示さなかった。
肘掛に乗せた右手をあごにあてた小アルブケルケは、じっとトリスタンの言葉に耳を傾けている。黄金と翡翠をちりばめた、それ一つで一財産になるであろう豪奢な椅子に腰を下ろし、脚を組んで話に聞き入る姿は、まるで一幅の絵画を見るようだった。
その傍らでは、先にトリスタンを案内した黒髪の少女が潤んだ眼差しを小アルブケルケに向けている。
やがて、小アルブケルケはゆっくりと口を開いた。
「貴様の言の正否はさておき、今の言葉はただの現状の分析に過ぎぬ。訊ねたいこととは何か」
「……は、殿下が現在の戦況をどのように考えておられるのか、それについて伺いたく存じます。また、私の推察に誤りがあるのであれば、ご指摘をいただきたく」
「ふむ、なるほどな」
小アルブケルケは納得したように頷くと、あっさりと言った。
「指摘するべき誤りなどない。貴様の推察は正鵠を射ているよ、トリスタン」
あえて付け加えるならば、と小アルブケルケは言葉を重ねる。
「ガルシアらが赴くまで、カブラエルがムジカを守りきるなどということは万に一つもありえぬ、ということか。貴様はあれの将器を指してそう言ったのだろうが、それ以前に艦隊をムジカに行かせるつもりなど私にはない」
そもそも艦隊は救援には向かわない。ゆえに、艦隊の救援までムジカを守りきるなど不可能。『万に一つもありえぬ』とはそういうことだ、と小アルブケルケは口にしたのである。
その言葉の意味を理解したトリスタンは息をのむ。トリスタンが次の言葉を発するまで、しばしの時間が必要だった。
「……殿下、仰る意味がわかりかねます。布教長に対し、ガルシア卿らが向かうまで聖都を守れと命じたは殿下ではございませんか?」
トリスタンの問いに小アルブケルケは答えなかった。だが、それはことさらごまかしているわけではなく、ましてや自身の言葉を忘れ去ったわけでもない。トリスタンに向けられた小アルブケルケの眼差しは微塵も揺らいでおらず、言葉よりもはるかに明確に小アルブケルケの内心を代弁していた。
トリスタンの唇から、重く低い声が押し出される。
「……殿下は、布教長を欺かれたのですか?」
「そうだ」
「何ゆえにそのような……」
この時、咄嗟にトリスタンの脳裏に閃いたのは『捨て駒』という言葉だった。
だが、小アルブケルケの答えはトリスタンの予測を超える。
「褒美だよ。功をたてた者に褒美を与えるは貴族の義務であろう」
はじめて。
トリスタンは小アルブケルケの意図を測りかねた。
偽りをもってムジカに押し留め、押し寄せる敵軍の相手をさせる。それは褒美ではなく、罰ではないのか。
口には出さないトリスタンの思いを読んだのだろうか。小アルブケルケはどこか愉しげに口元を笑みの形に動かし、告げた。
「カブラエル『への』褒美ではない。カブラエル『が』褒美なのだ」
「……は? 殿下、何を……」
戸惑うトリスタンを見て、今度はよりはっきりと、小アルブケルケはくつくつと嗤ってみせた。
「貴様とて無関係ではないのだがな、トリスタン。直接ではないにしろ、高千穂での貴様の行動が、南蛮軍を敗北へと導く一つの因となったのだから」
それを聞いた瞬間、トリスタンは身体を強張らせた。
小アルブケルケが何を言わんとしているかは明らかだった。トリスタンが高千穂において、小アルブケルケの命令を破り、彼の地の異教徒や寺社仏閣に手を出さずに信徒たちを退かせたことに言及しているのだ。
トリスタンとしては、吉継との約定を守るために必要な措置であったのだが、高千穂に同行したカブラエル配下の宣教師たちからは最後まで執拗な非難を浴びた。実際、小アルブケルケから受けた掃討の命令に反していることは確かであったから、理は彼らの方にあったであろう。
宣教師たちは間違いなくカブラエルに事の次第を報告したはずであり、カブラエルは小アルブケルケにその事実を伝えるはず。
そう考えたから、トリスタンはみずからその旨を小アルブケルケに伝え、処分がくだされるのを待ったのである。
しかし、小アルブケルケはトリスタンを罰しようとはしなかった。これにはカブラエルも驚いていたようだったが、より驚いたのは当のトリスタンである。
――吉継に執着しているのは小アルブケルケではなく、父の大アルブケルケである。父王からの命令は小アルブケルケにとって絶対的であり、過程はどうあれ、結果としてトリスタンはそれを果たした。その功績をもって罪を免じることにしたのだろうか。
トリスタンは小アルブケルケの内心をそう推測したが、実際に確かめることはしなかった。
二人に敵意を持つ者が、吉継を害する可能性は絶無ではない。トリスタンが罪に問われた場合、吉継の身柄は当然、別の人間の手に委ねられる。そして、その人物が吉継に害意を持つ人間ではないという保障はどこにもないのだ。
ゆえに、小アルブケルケの気まぐれで罰を免れたのであれば、それはそれでよし――トリスタンはそう判断したのである。
それを今この時に持ち出す意図は何なのか。
トリスタンは緊張を余儀なくされたが、それは高千穂における違命を責められることを恐れたというより、今の小アルブケルケの言葉に潜む、無視し得ない意味に気づいたからであった。
『高千穂での貴様の行動が、南蛮軍を敗北に導く一つの因となった』
この言葉は、小アルブケルケがすでにして南蛮軍の敗北を受け容れていることを意味する。
そして。
『褒美だよ。功をたてた者に褒美を与えるは貴族の義務であろう』
(褒美、といった。カブラエルが褒美である、と。何故、自軍を討ち破った相手に対して褒美を与えるなどという言葉が出てくる?)
そんなトリスタンの疑問が聞こえたわけでもあるまいが、小アルブケルケはつい先ほどの笑いの余韻を残しながら、言葉を発した。
「彼奴らにとって、カブラエルは憎んでもあきたらぬ仇であろうからな。カブラエルにしても、己のすべてをかけて築き上げた聖都で果てることが出来るのならば本望であろう」
そう語る小アルブケルケはいつになく上機嫌であり、いつになく饒舌であった。少なくともトリスタンの目にはそう映った。
その姿をトリスタンは凝視する。貴人の姿を凝視するのは礼を失することなのだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
トリスタンはムジカを離れる寸前の小アルブケルケとカブラエルの謀議を思い起こす。
ガルシアらの名を出すことでカブラエルの希望を繋ぎ、大友家当主に言及することで南蛮軍によるムジカの直接支配を使嗾した。
ただ、カブラエルをムジカに留め置くためだけに、あのやりとりを為したのか。
だが、それではまるで……
「率直に言って、意外であったな」
小アルブケルケの声で、トリスタンは思索の海から引き戻される。
「意外、とは」
「貴様がまだ気づいていなかったことがだよ。貴様が私の行動に疑問を抱いているのはわかっていた。一度疑問を抱いたのなら、すぐにも気づきそうなものだが……」
そこまで言って、小アルブケルケは小さくかぶりを振った。
「いや、貴様の為人では想像もつかないか。中途で変心したわけではないゆえ、かえって貴様が気づく機会はなかっただろうしな。私はな、トリスタン、貴様が麾下に加わってから今日まで、南蛮国の勝利を望んだことなどただの一度もない」
「な……ッ?!」
「この事実を推測に組み込めば、貴様のことだ、おおよそのことは理解できるだろう」
小アルブケルケの言葉は正鵠を射ていた。
小アルブケルケが南蛮軍の勝利を望んでいなかった。その一事が明らかになれば、これまで抱いていた疑念の大半に答えが見出せる。
だが、わからないこともあった。
インド副王、ゴア総督を兼ね、南蛮国の東方支配の象徴ともいえる大アルブケルケの正嫡たる小アルブケルケが、南蛮国の勝利を望まないその理由である。
◆◆
何故。
そう問いかけてくるトリスタンに対し、フランシスコ・デ・アルブケルケは沈黙をもって応じた。
父との間に深刻な不和や確執があったわけではない。廃嫡を言い渡されたわけでもなく、父の統治に限界を見た末に涙をのんで造反を決意したわけでもない。そんなもっともらしい理由はどこにもなかった。
にも関わらず、長じてゴアの軍事力の一部を預けられるに至った時点で、子はすでに父の排除を決意していたのである。
強いて理由を挙げるならば。
父アフォンソ・デ・アルブケルケこそ南蛮国の東方支配の象徴。南蛮軍の勝利とは、すなわちあの父の武勲と名声が増し、その支配が強まることに他ならぬ。
フランシスコ・デ・アルブケルケにとって、それが否定されるべき現実であった、というだけのこと。
その思いが根ざす土台は何なのか。権力欲といえば権力欲であろうし、自尊心といえば自尊心だろう。きっかけさえ忘れた父への反抗心、その延長であるかもしれないし、あるいはそれら総てかもしれない。
だが、そのいずれであれ、ゴアの若き王子が、父への造反を決意した事実を覆すものではない。小アルブケルケは望まぬ現実を変えるために行動を始めたのである。
一方で、小アルブケルケは自分の望みが容易にかなうものではないことを理解していた。
相手は南蛮国の英雄、軍神大アルブケルケである。
人望、武力、知識、経験、どれをとっても小アルブケルケは父に及ばない。正面きっての反逆など論外。謀略をもって父を王の座から蹴落とすことも不可能に近い。
そもそも、小アルブケルケがどの手段を選んだとしても、大アルブケルケに迫ることすら容易ではないのだ。何故なら、小アルブケルケの傍には、常にドアルテ・ペレイラがいたからである。
ドアルテは小アルブケルケの傅役であったが、それ以上に大アルブケルケの股肱であり、そしてなにより南蛮国の安寧を第一とする兵であった。
大アルブケルケが倒れれば、南蛮国が乱れるのは誰の目にも明らかであり、兵と民とはいつ果てるとも知れない戦火で焼け出されることになる。それが明白である以上、ドアルテは小アルブケルケの背信を知った段階で、あらゆる情を押し殺して主君の子を斬り捨てることだろう。
大アルブケルケを除くことで、南蛮国がより安定する。そんな施策を打ち出せれば、あるいはドアルテを説き伏せることが出来たかもしれない。が、そんな都合の良いものがあるはずはなく、結果、小アルブケルケはドアルテの傍らで南蛮国の転覆を画策するという、氷刃の上を歩くにも似た綱渡りを余儀なくされる。
とはいえ、小アルブケルケは乾坤一擲の気概をもって父王に挑むつもりはなかった。父の支配を覆す意思に変わりはないが、己の命やら運命やらをかけて挑む必要は認めない。
ゆっくりと、だが確実にその支配の土台を蝕み、食い荒らし、自らの重みで沈みゆく父の様を嗤ってやろう。表立って動くのは、彼我の戦力差が完全に逆転したその時である……
大アルブケルケが自身の矜持を面上に漲らせ、覇道を歩んで今日まで来たのとは対照的に、小アルブケルケはそれを心の奥深くに秘め、詭道を歩んで目的を果たさんとした。
あるいは、この父子はとても似ていたのかもしれない。その表し方はおおいに異なるものであったけれども、理由の如何を問わず、自分の上に誰かが立つことを許容できない、という一点において二人は共通するものを持っていた。
小アルブケルケが若い人材を抜擢してきたのも、突き詰めればこのためだった。
壮年以上の者たちは大アルブケルケに対する畏怖ないし忠誠の念が強すぎるが、若者であればその弊はない。彼らに恩を売り、機会を与え、自らの股肱として育て上げる。
経験の浅い彼らがしくじって南蛮軍が敗れたとしても問題はない。何故なら実質的に第三艦隊を率いるのはドアルテであるからだ。無論、小アルブケルケも罪を免れないが、ドアルテの為人を知っていれば、あの元帥が敗北という事態を前にどう行動するかは容易に予測できる。みずから責任をとって命を絶ってくれれば御の字というものだった。
また、今回の遠征において、大谷吉継を捕らえるためにトリスタンを提督から直属の騎士としたのも、小アルブケルケの策動の一つ。
結果として、ドアルテは信頼できる提督を一人失い、採り得る作戦行動の幅はおのずと狭まった。トリスタンのように人格的にも能力的にも安定している提督を失うことの不利益は言を俟たない。
くわえて、ロレンソは小アルブケルケが自分よりもトリスタンを選んだことで動揺し、その動揺が他者への敵意に変じて第三艦隊の中に不和を生じさせた。これもトリスタンがドアルテ麾下に残っていれば起こりえなかったことである。
仮にドアルテやトリスタンがこの人事に異を唱えたとしても、小アルブケルケはこう言えば良い。
すべては父王の命令を果たすためである、と。
異国の娘一人を捕らえるために提督級の人材を投入する。それはトリスタンにとって役不足の観を拭えないが、万に一つの失敗もないようにするためだ、と言われれば反論も難しい。
また、南蛮と倭国の戦力差を考えれば、トリスタン一人が欠けたところで勝敗に影響を及ぼすはずがない――それが当然の認識というものであった。
事実、ドアルテは多少渋い顔をしながらも、トリスタンが別行動をとることに反対は唱えなかったのである。
改めて言うまでもなく、トリスタンの離脱が南蛮軍の敗北に直結したわけではない。だが、たとえわずかであっても、この布石が勝敗の天秤に影響を与えたことは事実である。
一方で、この命令から小アルブケルケの叛心を察することは不可能に近い。小アルブケルケは父王の命令という誰も異議の唱えようのない名分を掲げ、それを誠実に果たすために動いていたのだから。
――つまりは、これが小アルブケルケのやり方だった。
滾るような野心をもって、父王に反逆するわけではない。
凍えるような覚悟をもって、南蛮軍の敗北を画策するわけではない。
南蛮軍の敗北を望みつつ、勝とうが負けようが小アルブケルケ自身は何一つ傷つかず、責を負わない。そういう距離を常に保つ。
野心家と呼ぶには保身が過ぎ、策謀家と呼ぶには小心に過ぎる。このやり方を採る限り、小アルブケルケの行動には明確な限界が生まれてしまう。
しかし、それはそれで構わないのだ。南蛮軍の勝利は父王に益し、小アルブケルケを落胆させるが、一方で小アルブケルケ自身の名声と実力も確実に増していく。それは父王を凌ぐために欠かせないものなのである。
今回の戦いで、小アルブケルケが大谷吉継を捕らえた理由も、すなわち保身だった。
南蛮軍が勝利した場合、吉継の身柄を父王の下へ送らなければ、小アルブケルケが罰せられてしまう。トリスタンほどの人材を投入して、失敗しましたで済むはずがない。
もっともこれに関しては、失敗したら失敗したで別に構わない、とも小アルブケルケは考えていた。
そも、吉継の身柄は南蛮国の戦略とは何の関わりもない。失敗したからとて公に罰することは出来ないのである。
むろん、大アルブケルケの不興を買えば、小アルブケルケとてただでは済まないが、一国の軍事行動に際し、自らの子に私欲に基づいた命令を与え、その挙句、失敗して息子を処罰したなどという事実が知れ渡れば、軍神の名声に傷がつく。それはそれで、小アルブケルケにとっては悪くない結果といえる。
処罰が自身の想定を超えるようであれば、トリスタンやカブラエルに責任を押し付けることも出来る――そう考えたからこそ、小アルブケルケは雲居らが薩摩へ向かった際、吉継に危害が加えられる危険を承知の上で、平然と油津への砲撃を命じることが出来たのである。
では、トリスタンが吉継を捕らえて帰還した後、吉継に一切の危害を加えなかった理由は何かと言えば、これもまた保身であった。
島津の手で処断されたのならまだしも、一度、獲物を掌中に入れてしまえば、これを害することはかえって危険だった。下手なことをすれば、父王はおろかトリスタンをはじめとした配下にまで不審を抱かれてしまう。
ある意味で、吉継は虜囚となったゆえに小アルブケルケの害意を免れることが出来たのだ。
逆に言えば、小アルブケルケは吉継に対してその程度の関心しか抱いていなかった、ということでもある。 ゆえに、高千穂でのトリスタンの違命を不問としたのは、吉継の世話を任せるのにトリスタンが適任であったから、などという理由ではない。
そもそも、小アルブケルケはトリスタンが命令に従わない可能性をはじめから考慮していた。というより、おそらくは従わぬだろうと考えていた。
にも関わらず、あえて高千穂掃討の命令を出したのは、トリスタンの違命の事実を握るのに良い機会だと考えたからである。
トリスタンはかつて大アルブケルケの直属であり、さらに教会から聖騎士に任じられた人物。小アルブケルケの独断で処理するにはいささか問題がある相手なのだ。
だが、明確な命令違反を犯した事実があれば、しかもその命令が異教の掃滅という名分を備えたものであり、これにトリスタンが従わなかったのであれば、小アルブケルケの独断でトリスタンを処断するに十分すぎるほどの理由となる。
そして、トリスタンが見逃した者たちの口から、高千穂における南蛮軍の行動が知れ渡れば、カブラエルにいいようにかき回されているこの国の民とて反抗に転じよう。それはそれで、南蛮軍を追い詰める要因となりえるのだ……
◆◆
父王の命令。異教徒の討伐。様々な大義名分を掲げながら、小アルブケルケは己の目的を果たすために敗北の種を蒔き続けた。
――ただ、と小アルブケルケは口を開く。
「まさか私もドアルテが討たれるとまでは考えていなかった。この国の複雑な地形では重装備は枷になり、火器も大した意味を持たなくなる。それゆえ、戦いが長期化することは予測もし、期待もしていたのだがな」
そう言いながら、小アルブケルケは左の手で、控えていた少女の髪を撫でる。その動作が、小アルブケルケにこの国の情報をもたらした者が誰であるかをトリスタンに告げていた。
考えてみれば、小アルブケルケの下にはこの国の人間が何人もいる。彼らは南蛮の言語をもって、小アルブケルケに母国の情報を事細かに教えていたのであろう。
あるいは小アルブケルケは、カブラエルやコエリョよりもはるかに倭国に通じているのかもしれない。
その両者を見据えるトリスタンの視線が鋭くなったのは、無理からぬことであったろう。自然、トリスタンの声は低くなる。
「……それゆえの褒美、ですか」
「そうだ。これまでは私がどれだけ敗北の種を蒔こうとも、ことごとくドアルテによって刈り尽くされてきた。それを思えば、この国の者どもはまことによくやったよ。どれだけ褒賞を積んでも足りぬところ。ゆえに最も欲しているであろうカブラエルの命をくれてやったのだ」
南蛮艦隊を討ったのは島津であり、カブラエルを憎むのは大友である。小アルブケルケは両者の区別がついていないのだろうか――そうではなかった。
「『敵国の民を案じる心があるならば、より以上に自国の民を案じるだろう』」
その言葉を聞いた瞬間、トリスタンは目を見開いた。それは、トリスタンが雲居筑前の口から聞いた言葉であったから。
「……何故、それを」
「あの場にいたのは貴様だけではあるまい。カブラエルから聞かされた時は失笑を禁じえなかったが、まさか本当に艦隊を燃やしてくれるとは思わなかった。しかもドアルテごと。ふふ、ムジカでの事といい、雲居とやらはカブラエルにとって天敵であったようだな」
そう言うと、不意に小アルブケルケは椅子から立ち上がり、壁際に据えられている書棚に歩み寄った。
そこに収められていたバルトロメウの航海日誌を取り出しながら、小アルブケルケは言葉を続ける。
「この国の制圧に手間取れば手間取るほどに、かかる戦費は膨れ上がっていく。ゴアの富をもってしても、この遠征軍を支えるのは容易ではない。本国の者たちが付け入る隙も生まれるというものだ」
何気ない小アルブケルケの言葉。だが、その意味するところはトリスタンならずとも気づくことが出来たであろう。
「……まさかッ」
小アルブケルケの造反。その予想だにしない根の深さを感じ取ったトリスタンの驚きの声を受け、小アルブケルケは小さく嗤う。
「第三艦隊は蛮族に敗れ、ドアルテは死んだ。ドアルテの死の意味が、ただ一軍人の死にとどまらないことは貴様とて理解していよう。しかし、遠征は終わらぬ。終わらせぬ。何故ならば、父からの命令は倭国の制圧であり、それは未だ果たされていないからだ。果たしてどれほどの兵と財をつぎ込めば、この失態を埋められるのかな。軍事的にも、財政的にも、ゴアの根幹を揺るがすには十分すぎる出来事だ」
――そして、大アルブケルケの支配を突き崩すには十分すぎる失態だ。
それは、トリスタンの耳ではなく心が聞き取った小アルブケルケの本心であった。
◆◆
そっと。無意識のうちに剣の柄へと伸びかけた手を、トリスタンは意思に力で押さえつける。
だが、手は押さえても、言葉を抑えることはできなかった。小アルブケルケの言葉は、トリスタンにとって到底座視できるものではなかったのだ。
「第三艦隊の指揮官は殿下でございます。殿下お一人が敗北の責を免れることはできますまい」
「先の敗戦の責はドアルテのもの。何故なら私は父の命令に従い、やむを得ずに艦隊を離れていたのだからな。仮に私に罪ありとするならば、公私を混同した命令を下し、総司令官を本隊から引き離した者の責はそれを上回る――本国はそう判断するだろう。いずれであれ、私にとっては悪くない結果だ」
「……本国の宮廷狐どもが、殿下の思い通りに動くとお考えですか」
それを聞き、小アルブケルケは小さく肩をすくめた。
「彼奴らが何を考えようと知ったことではない。利用できる間は利用するまで。当然、向こうも同じことを考えていようがな」
「ですが――」
「トリスタン」
なおも硬い声で口を開きかけたトリスタンを遮るように、小アルブケルケは手にしていた航海日誌を書棚に戻すと、刺すような眼差しでトリスタンを見据えた。無駄話は終わりだ、とでも言うように。
「何故、私がこのような話をしたのか、すでに察していよう。貴様は父によって強いられて故国を離れ、身を穢されぬよう処女の祝別を受け、生涯、子を産めぬ身となった。その挙句、望まぬ戦に駆り出され、多くの血で手を汚し、聖騎士などと呼ばれるようになった。一つとして、貴様自身が望んだものはなかったはずだ。父への恨みは骨髄に徹しているのではないかな?」
大アルブケルケを恨むのであれば、自分の企みに加われ。
トリスタンは小アルブケルケの言葉をそう受け取った。
――たしかに。
トリスタンは大アルブケルケに対し、心底から忠誠を誓っているわけではない。
しかし、その存在が南蛮国を支える強く太い柱であることは認めていた。大アルブケルケが倒れれば、ゴアを中心とする東方の南蛮領はおろか、本国も激震に襲われるだろう。
そうなれば、これまで大アルブケルケの武威を恐れて慴伏していた大小の国々は一斉に南蛮国に牙を剥くであろうし、大アルブケルケを失った南蛮軍ではこの反抗の波濤を防ぎとめることは出来まい。
この動乱によって苦しむのは貴族や領主だけではない。南蛮軍が敗れた場合、本国はまだしも、ゴアやその周辺に暮らす一般の南蛮人たちがどのような目に遭うかは想像に難くなかった。そこにはトリスタンの故郷も含まれるのである。
大アルブケルケに対する恨みや憎しみがないと言えば嘘になる。あの男に奪われた、ありえたであろう未来に未練がないはずがない。
だが、最終的にトリスタンは自らの意思で大アルブケルケに仕えることを肯ったのだ。選択肢などあってないようなものであったが、それでもトリスタン自身の決断には違いない。小アルブケルケが口にしたことは、トリスタンにとって昔日の苦悩に過ぎなかった。
まして、小アルブケルケの造反は、ただ彼個人を満足させるだけのもの。
自らは安全な場所を動かず、人や物を弄んで勝敗の天秤を揺り動かすそのやり方は、トリスタンに生理的な嫌悪感をもたらすだけだった。
熱も光もない、常温の悪意。
そんなものを共有するつもりなど、トリスタンには微塵もない。
だが、ここで否と答えて無事に済むはずがないこともトリスタンは察していた。ここまではっきりと内心の叛意を口にした以上、小アルブケルケはトリスタンが首を横に振れば、先の違命の件を持ち出して処断しようとするに違いない。
ここは海上、乗っている船は小アルブケルケのものであり、トリスタンに逃げ場はない。
ここに来て、トリスタンは自分が完全に追い込まれていたことを自覚する。
そして。
トリスタンがその自覚を得るのを待っていたかのように、小アルブケルケはゆっくりと、一歩一歩トリスタンに近づく。
応じて、咄嗟の行動に備え、全身に力をこめたトリスタンの耳に、小アルブケルケの声が響いた。
「返答を聞こうか、トリスタン・ダ・クーニャ」
トリスタンは小アルブケルケに表情を察されないよう顔を伏せ、何かを悔やむようにわずかに唇を噛んだ。
だが、その表情がトリスタンの顔を覆ったのはほんの一瞬だけ。次の瞬間には、トリスタンは顔を上げ、面上に決意を漲らせ、決然と返答しようとして――
――火薬が炸裂するその音は、いっそあっけないほどに小さかった。
しかし、その音と共に撃ち出された銃弾をまともに食らったトリスタンにとって、その事実は何の意味も持たない。
「……グッ?!」
銃弾が抉ったのは、トリスタンの右の肩口。致命傷には至らぬ部位だが、撃った人間はトリスタンを即死させるつもりはなかったのだろう。いかにエスパーダの称号を得た武人とはいえ、肩口を撃ちぬかれては、痛みで満足に手を動かすことが出来ない。当然、剣を操ることも出来ない。それを狙ったのだろうと思われた。
突然の不意打ちであったが、トリスタンは無様に床を転げまわったりはしなかった。苦痛の声をもらしながら、咄嗟に自分を撃った相手を睨み据える。
小アルブケルケではない。今なお短筒を構えたその人物は、黒髪も美しい倭国の少女だった。
トリスタンは小アルブケルケの動きには注意を払っていたが、少女に対しては完全に意識の外にあったのである。
それは油断といえば油断であったろう。だが――
歴戦の兵でさえ正視しかねるであろうトリスタンの勁烈な眼光を正面から受け止め、少女は微動だにしない。それは少女の優れた胆力を示すものであったろうか。
トリスタンにはそうは思えなかった。
何故なら、筒先をこちらに向けている今この時でさえ、トリスタンは少女の目から殺意も敵意も感じとることが出来ないのだ。少女の黒い瞳は硝子玉のように透き通り、まるで……
「貴様が私の誘いに頷くとは思っていなかった。それでも可能性がないわけではない。そう思って語らってみたのだが……先刻からの様子を見れば、やはり答えを聞くまでもない」
肩だけでなく、腕全体を覆うような激痛をこらえつつ、トリスタンは歩み寄ってくる小アルブケルケに視線を向ける。その顔を彩る嘲笑を見て、トリスタンは総てが――この部屋に呼び出されたその時から、すべてが小アルブケルケの思惑の内にあったことを悟った。
「でん、か。あなたは……」
「素直にあの人形を連れて来たら、また話は違ったのだが……いや、貴様のことだ。あの人形が犯され、壊されるのを見れば、どの道、同じような結果になったか」
愉しげな小アルブケルケの声。トリスタンは激痛に苛まれながら、その意味を考える。
しかし、トリスタンが答えに行き着くよりも早く、小アルブケルケは答えを口にしていた。
「ドアルテの死により、もはや父の命令を果たす必要はなくなった。人形は父へのあてつけに飼ってやろうかとも思っていたが、それよりはドアルテを討った手並みを買ってやろう。狂うほどに犯し抜いた末、四肢のうち三つばかりを削いで薩摩の地で晒してやる。手を触れることさえ許さぬと言った娘がそのような目に遭えば、ふふ……焼き尽くしてもらおうではないか。灰燼に帰してもらおうではないか。王も、民も、兵も、宣教師も、ゴアも、本国も、貴様の故郷も、ことごとく。東方の蛮族がどこまでやってのけるのか、実に楽しみだ」
「きさ、ま……ッ」
それを聞き、トリスタンは確信した。父を凌ぐかつてない好機を前に、小アルブケルケが保身という名の自制を取り払ったことを。
思えば、ドアルテ敗死の報が届いてから今日まで、小アルブケルケはずっと哄笑を押し隠して過ごしていたのだろう。すべての言動が、その事実を示して余りある。
だが、今になってそうと悟ったところで、トリスタンに出来ることは何一つ残っておらず。
「そのためには、そろそろ手をつけねば間に合わぬのでな」
言いながら、小アルブケルケは腰間の剣を抜き放つ。
咄嗟にトリスタンも剣を抜くべく利き腕に力をこめるが、肩口から全身を貫くようにはしった激痛のため、柄を握ることさえ容易ではない。
トリスタンの傍らまで歩み寄った小アルブケルケは、冷めた眼差しでその様を見下ろし、無造作に剣を振り上げた。
そして――
「さらばだ、聖騎士」
無造作に振り下ろした。
室内に響く刃鳴りの音。肉を絶つ鈍い音が、それに続いた。