それは不思議な光景であった。
鎧も兜も身につけず、ただ一振りの刀を構え、白無垢の衣をまとって佇む女性。
この場所が戦場である、という厳然たる事実を忘れさせるほどにたおやかなその姿は、羽を休めるために船に舞い降りてきた白鳥のようだ、とそんな風に思った者もいたかもしれぬ。
だから、というべきだろうか。一片の躊躇すら示さず、女性が前に進み出るのを見て、そのあまりにも自然な姿に、南蛮兵は一瞬だが切りかかるのをためらってしまった。
騎士道、などと表現すれば、南蛮の侵略を受けた国々からは嘲りの声があがるであろうが、国としてはともかく、個々の南蛮兵の中には高潔と称しうる者は存在する。ことにこの旗艦では元帥たるドアルテの薫陶が行き届き、戦場の外で血を流すことを忌み、国を護り、民を守ることこそ騎士の精華、と考える者が少なくなかった。
だが、この女性――丸目長恵は、いかに外見が白鳥のごとく優美に映ろうと、その内実は猛禽のそれである。ためらいは、すなわち乗じるべき隙であった。
いっそ軽やかに振るわれた刀の切っ先が、先頭に立つ南蛮兵の左の肩口から右の肩口へまっすぐに通り抜ける。首を断ち切るような真似はしない。骨を切れば、刀の傷みが早まってしまう。敵を討つには、ただ喉元の柔らかい肉を切り裂けば済むのである。
同じ理由で、長恵は得手としている袈裟斬りを用いることもしなかった。
今、船上にいる南蛮兵のほとんどはなんらかの防具を身に着けている。海の上であるから、陸よりは軽装といえたが、中には少数ながら全身を覆う板金鎧をまとっている者もいた。そんな南蛮兵に、真正面から刀で挑みかかっていけば、どんな名刀であってもたちまち用を為さなくなってしまうだろうからである。
切り裂かれた喉をおさえながら、南蛮兵が甲板に倒れ伏す。
その空恐ろしいまでの正確な一閃に、歴戦の将兵が息を呑んだ。そして、それもまた長恵にとっては乗じるべき隙となる。
白の戦衣をまとった剣聖が甲板を蹴る。先の南蛮兵が倒れたことで開いた陣列の隙間に、ふわり、と飛ぶように割り込みながら、再びその剣が振るわれる。
ごとり、と。
重い音と共に甲板に落ちたのは、長恵の至近に位置していた南蛮兵の手首であった。
当の南蛮兵は、自分の身に何が起きたのかわからなかったのだろう。奇妙に間の抜けた顔で長恵を見て、慌てて剣を振るおうとして――ようやく、その剣が自分の手ごと切り落とされたことを理解する。
「……あ、ああァァァァッ?!」
腕から這い登ってくる激痛が、南蛮兵の口から絶叫となって迸った。
斬られた者にさえ、すぐにはそれと悟らせぬ手練の業であったが、南蛮軍はもはや驚愕を覚えている暇もなかった。
長恵の剣が翻るたびに、そこには血風と悲鳴が沸き起こる。しかも一度ではなく、二度、三度、四度と続いていく。すべての南蛮兵が倒れ伏すまで止まらず、止められぬかに思われる真紅の連鎖。その刃先にかかった者すべてが命を失ったわけではなかったが、手首を落とされ、肘を断たれ、あるいは腱を切られ、動くこともかなわない彼らに、これ以上戦う力が残っているはずもなかった。
混乱の中にあって、曲がりなりにも整えられていた南蛮軍の陣列が、ただ一人の剣士によって見る間に食い破られていく。
刀の損耗を避けるために骨や鎧を出来るかぎり避けたとしても、人を斬れば刀には否応なく肉や脂がこびりつく。刀の切れ味が鈍るという点では、こちらの方がよほど厄介であるはずだが、舞うように繰り出される長恵の剣撃は時が経つほどに冴え渡り、微塵もその影響を感じさせなかった。
「おのれッ」
その有様を見かね、進み出たのは南蛮軍でもそれと知られた人物だったのだろう。
大柄な身体から繰り出された一撃は力感に満ち、速さも正確さも申し分ないものであった。並の兵士ならば、受け止めることさえ出来ずに身体を両断され、地面に倒れていたに違いない。
しかし、長恵は様々な意味で「並」とは縁遠い武人である。
その攻撃を受け止めることはしなかった。受け流すこともしなかった。かといって、後方に飛んで避けたわけでもない。
その場から一歩も動かず、ただほんの少し、身体をひねる――長恵が採った行動はただそれだけ。 そして、それだけで十分だった。
長恵の眼前を剣が通りすぎていく。刃風だけで額を断ち割りそうな豪速の一閃である。もし、この一撃が長恵を捉えていたら、頭蓋ごと頭部を断ち割られていたであろう。
だが、実際には 剣先で切られた数本の黒髪が、この攻撃の成果のすべて。
絶対の自信をもって放った一撃をかわされた南蛮兵は、驚愕に目を見開く。
その南蛮兵に向け、長恵は小さく言葉を発した。
「見事でした」
見切ったはずの攻撃を、前髪に触れさせた相手への心からの賛辞。
だが、この南蛮兵は日本語を知らなかったので、その意味を解することは出来ず――かりに理解できたとしても、次の攻撃を避けることは出来なかったであろう。
寸前の回避の動作から、得手とする八相崩しの構えまで瞬き一つの遅滞もなく。
「――ッ!」
短い呼気に次いで振るわれた長恵の一撃は、相手の左の肩から右の腰へ一条の剣閃を刻みつける。
一瞬の後、斜めに両断された南蛮兵の身体からは、血と臓物と、鼻を刺す悪臭があふれ出した。
「な……た、隊長ッ!」
「カルロス様ッ?!」
ドアルテの信頼厚い騎士隊長が、一合すら交えることができずに討たれてしまった。剛速の一閃は、騎士隊長の身体を甲冑ごと断ち切り、しかもそれをなしたのは隊長の半分にも満たない異国の女である。その光景を目の当たりにした南蛮兵の口から、驚愕と悲鳴の声がたちのぼったのは必然であったろう。
この場にいる南蛮兵は、旗艦に乗ることを許された猛者であり、先刻から続く混乱の最中にあって、なお勇敢に敵兵と刃を交える精鋭中の精鋭である。
その彼らをして自失せしめるほどに、眼前の光景は現実感を喪失していた。南蛮兵の表情に漂う凄愴さは、起きながらに悪夢を見せつけられた者のそれである。
人の身では阻めない脅威を災厄と呼ぶのなら、南蛮軍にとって眼前の女性こそ正に災厄そのものであった。
この時、長恵があえて鎧ごと断ち切る、などというこれまで避けてきた荒技を使ったのは、この表情を引き出すためである。
エスピリトサント号に切り込むことに成功した者は三十七人。後方から弓矢で援護している兵を含めても、島津軍は六十人に達していない。
一方、これを迎え撃った南蛮軍は、少なくとも島津軍の倍――おそらくは三倍近いだろう、と長恵は判断していた。ゆえに南蛮兵の士気を殺ぐために、打てる手はすべて打っておくべきと考えたのである。
兵力に関する長恵の観察は正確であった。
百五十四名。これがこの時点における南蛮兵の総数であり、敵旗艦への切り込みが成功したとはいえ、島津軍は苦しい戦いを強いられていた。
もっとも、エスピリトサント号は本来三百名を越える戦闘要員を抱える船である。それが半分近く減じているのは、無論、先刻からの混乱が旗艦を包み込んでいるからに他ならぬ。
爆発による恐怖に耐えかね、海に逃れた者がいた。先の黒船の爆発によって負傷した者がいた。あるいは、切り込む前に投げ込まれた焙烙玉によって傷ついた者がいた。
そういった者たちを差し引いた数が百五十四名なのである。
六十対百五十。島津軍にとっていまだ勝利は遠い。
だが同時に、かつてないほどに近づいてもいたのである。八十八隻の大艦隊を向こうに回し、この戦況に持ち込めたことこそ、奇跡という言葉では足りないくらいの大戦果であったから。
この機を逃せば、もはや勝機は再びめぐってくることはないだろう。
船上にいる島津軍の全員がそのことを承知していた。そして、勝利を得られなかった時――すなわち敗北を喫した時、薩摩の地にどれだけの災厄が降りかかるのか、そのことも。
ゆえにその士気と勢いは、多勢ながら動揺をぬぐいきれない南蛮兵を圧していく。
丸目長恵が剣の切っ先であるならば、それに続く島津の逞兵は鋼の刀身。
護国の刃となって押し寄せてくる島津軍に対し、南蛮軍が受身になってしまったのは避けられないことであったろう。
ことに眼前で名だたる騎士隊長を討ち取られた南蛮兵は明らかな狼狽を示していた。島津軍がこれを見逃す理由はなく、長恵を先頭として、更なる攻勢をかけていった。
◆◆
南蛮軍を率いるドアルテ・ペレイラは、自軍が徐々に押されていく中、冷静に戦況を見据えていた。
南蛮兵は大きく数を減じたとはいえ、逆に言えば、今残っている兵士は数々の混乱を耐え抜き、指揮官の命令に従った精鋭たちなのである。完全に動揺が拭い切れたわけではないとはいえ、三倍近い彼らを相手にしては、島津軍とて容易く勝ちを得るというわけにはいかない――そのはずだった。
しかし、現実は異なる結果を示している。
その理由は、と問われれば、ドアルテは二つの要因を挙げたであろう。
一つは無論、白の戦衣をまとう女傑である。ドアルテが手塩にかけて鍛え上げた兵士たちを、次々と屠っていくその力量は恐るべきものがあった。南蛮軍に属していれば、間違いなくエスパーダの称号を――それも上位のそれを与えられているだろう。
女傑と並んで兵を指揮する敵将も侮れぬ。その敵将は妙に小柄で、ともすれば子供にも見えたが、南蛮兵が女傑を囲んで討ち取ろうとすればその包囲を崩し、距離をとって対峙しようとすれば更に押し込み、女傑の武技によって崩れた南蛮軍の隊列を、さらに広く、深く穿っていく統率力は目を瞠るものがある。
南蛮軍が押されている理由は、この二人以外にありえない。
――ありえない、はずなのだが。
先刻から奇妙なほどに胸が騒ぐ。これが何に由来するものなのか、ドアルテは計りかねていた。
敵の猛攻に脅威を覚えなかったといえば嘘になる。旗艦に切り込みを許す失態を演じたのは久しくなかったことであり、その点も兵の士気が奮わない理由であろう。
だが、挽回の手段はある。たとえば、同士討ちを恐れて発砲を控えさせている鉄砲隊に命じれば、敵を殲滅することは可能であろう。いかに女傑が優れた剣士であっても、鉄砲の弾を防げるはずはなく、女傑を討ち取りさえすれば、いかに敵が精鋭であったとしても数を利して押し包めば勝利を得ることは出来よう。
ゆえに、胸にわだかまる奇妙な焦燥が、あの二人によるものであるという可能性は低いように思われるのだ。
では、何がここまで胸を騒がせるのだろう。この、全身の毛穴という毛穴が残らず開いたような感覚を、ドアルテはもう三十年近く味わったことがなかった。最後に味わったのは、あれは――
「カルロス様ッ!」
傍らに控えていたルイスの口から悲痛な声が発される。
ドアルテもまた、ルイスと同じ光景を見た。
自身が信頼を寄せる三人の騎士隊長の一人が、先の女傑によって身体を斜めに両断されるその瞬間を。
(いかん)
ドアルテは咄嗟にそう思った。騎士隊長が討たれた衝撃は無論あるが、それ以上に問題なのは、眼前でその光景を目の当たりにした兵士の動揺を抑えきれなくなることであった。
これは自ら前線に出なければおさまりがつかぬか、とドアルテは即座に判断し、行動に移そうとする。
しかし――
「……お待ちを、元帥」
そのドアルテの行動を遮るように前に出たのは、それまで油断なくドアルテの身辺を守っていたもう一人の騎士隊長であった。
「なんじゃ、ギレルメ」
「元帥は船の中へ。ここは私が引き受けます」
「敵を前にして、逃げよと申すか?」
「あの敵を残らず討ち取ったところで、旗艦に侵入を許した不名誉は消せませぬ」
その言葉にドアルテは声を詰まらせる。自身、そうと意識していたわけではなかったが、自らの手で敵を討ち、汚名を返上せんとする気負いが、ドアルテの中には確かにあったのだろう。そこを正確に突かれたのである。
「たとえ連中を皆殺しにしたところで、元帥が討たれては南蛮軍が瓦解します。弓矢ならばともかく、鉄砲で狙われては防ぎようがありませぬし、この敵ならば自ら火薬を抱いて突っ込んできたところで不思議ではありますまい」
だから兵の指揮は自分に任せ、船内に避難するように――ギレルメという名の騎士隊長はそういって頭を下げた。
その頭の半ば以上から頭髪が失われているのは、過去、とある攻城戦で城壁から投げつけられた煮えたぎった油を浴びてしまったからである。
その傷跡は頭部だけでなく、顔の半分近くにも及んでおり、はじめてギレルメと相対した者はその醜い相貌から視線を背けるのが常であった。
元々、ギレルメは有能な軍人として将来を嘱望されていた身であったが、これによって栄達の機会を失ってしまう。軍人として、容姿は不可欠の要素ではないとはいえ、将兵や民衆が怯えを示すような面貌の軍人が前線に立つわけにはいかない。ことにゴアを治めるアルブケルケは、麾下の将兵に能力は無論のこと、容姿の秀麗さをも求めるような為人であるから尚更であった。
だが、ドアルテはそんなギレルメの下に自ら足を運んで麾下に加わるように請い、ギレルメが幾度謝絶しても諦めず、ついに根負けした形でギレルメが首を縦に振るや、ただちに隊長職に据えたのである。
以来、十年あまり。ドアルテの燦然たる軍歴を支えてきたギレルメの功績は誰の目にも明らかであり、その容貌を忌避する者は、少なくとも旗艦の中には一人もいなかった。ギレルメに対するドアルテの信頼はきわめて篤く、ギレルメもまた、ドアルテのためならば死をも厭わぬ、と特に気負うでもなく考えていたのである。
他の者であればともかく、ギレルメの進言を等閑には出来ない。また、その内容も頷くに足りるものだった。
にも関わらず、その進言を退けようとしてしまうのは、やはりギレルメの指摘したとおり、ドアルテの中に汚名返上を望む気持ちがあるからであろう。
そう悟ったドアルテは、短く命令を発した。
「……任せる」
「御意」
つかの間、交錯した互いの視線に何を見たのかは、当人たちにしかわかるまい。
ギレルメは、三人の兵士にそのままドアルテについていくように命じた。
「護衛は不要ぞ。そこまで老いてはおらぬし、相手はカルロスを討った者だ、全力で当たらずばなるまい」
「元帥ではなく、ルイス様の護衛でありますれば」
「ぬ」
ギレルメの言葉にドアルテは呻くような声を発し、面白くなさそうな顔で頷くのであった。
◆◆
エスピリトサント号は三百名を越える兵員を載せることが出来る巨大な船だが、乗船しているのは兵員だけではないのは当然のことである。水夫や料理人、理容師、司祭、ルイスのような従軍医師まで含め、多くの人員が船内での生活を送っている。
航海には欠かせない要員である彼らも、戦いにあっては船内でじっとしているしかない。無論、彼らもドアルテ麾下の人員である。いたずらに騒ぐような真似はしないが、それでも常になく騒然としている船上の様子に不安を隠せない様子であった。
ドアルテは彼らの動揺を鎮めるべく声をかけながら、船尾の船長室へ向かった。
危急の際に指揮官の所在が知れないようでは落ち着くものも落ち着かない。戦況に変化が生じたのであれ、あるいは船内で何かしらの異常が起きたのであれ、船員が真っ先に思い浮かべるのは船長室であろう。それがドアルテが船長室を目指す理由であった。
そしてもう一つ。この時、ドアルテが船長室に向かった理由がある。
それは航海日誌をはじめとした重要な書類を、事あったときにすぐに持ち出せるようにしておくためであった。
おそらく、ギレルメもそれを考えて船内に戻るように進言したのだろう、とドアルテは考えていた。
それを口に出さなかった理由は簡単である。船長が航海日誌を外に持ち出すのは、航海が終わった時か、あるいは自らの船を捨てる時しかない。
つまりは今の時点で航海日誌を持ち出す準備をはじめたと知られれば、この戦いに敗北するのではないか、という不安を将兵に与えてしまうのである。
無論、ドアルテは負けるつもりは微塵もない。
だが、敵に切り込みを許したことで、わずかではあっても敗北の目が出てしまったのも事実。そしてドアルテが敗れた場合、船内の軍資金や食料、弾薬などの物資が丸々敵の手に落ちてしまうのは避けられない。
とはいえ、それらの物資は貴重なものとはいえ、代わりとなるものはある。取り返すことも不可能ではない。
だが、第三艦隊の旗艦であるこの船には航海日誌や今後の作戦行動を記した物、さらにはゴアからの指令をはじめとした軍事機密が山ほど積まれている。その重要さは物資の比ではなく、これを敵の手に渡すことは断じて避けなければならなかった。
ゆえに、たとえ万が一の可能性に過ぎないとしても、これを運び出すための用意はしておかなければならない。
そう考えて船長室に戻ったドアルテは、そこで白い眉を急角度にはねあげる。部屋の前にいるはずの兵の姿がなかったのである。
「変ですね、どうしたのでしょうか?」
同じことに気づいたルイスが首を傾げる。その顔はやや青ざめてはいたものの、それは先刻来の衝撃がおさまっていないためであり、眼前の光景に不吉さを感じたわけではないのだろう。
ドアルテは小さくかぶりを振った。
この場を離れないように、という厳命を受けている者たちがどうしていないのか。今の時点でドアルテにわかるはずもない。敵の切り込みを知って甲板にあがったのか、あるいは――
「わからぬ。ルイス、一応さがっておれ。すでに敵が入り込んでおるとも思えぬがな」
「かしこまりました」
ルイスは促されるままに、護衛の兵士たちの後ろに下がろうとする。
その寸前だった。
『――がああ、ああァァァァッ?!!』
医師であるルイスが思わず身を竦めてしまうほどに、苦痛に染め抜かれた絶叫が響き渡る。
その源が眼前の船長室であるのは明らかであった。
いちはやく反応したのはドアルテ本人である。
滑るように船長室に近づくや、待ち伏せを恐れる色もみせずに扉を開く。
誰が隠れ潜んでいたところで、抜き打ちに切って捨てる自信をドアルテは持っていたが、室内にいたその人物には、身を隠す意思は欠片もないようであった。
部屋の奥に位置するドアルテの机、その上に置かれていた航海日誌のページを左手でめくりながら、青年はどこか煩わしげにドアルテに視線を向ける。
一方のドアルテは素早く室内を確認していた。
部屋の隅には、今なお苦痛の悲鳴をもらしつつ、顔をおさえて床にうずくまっている南蛮兵がいる。顔をおさえる手はすでに真っ赤に染まっており、ドアルテが入ってきたことにすら気づいていない様子である。よほどの激痛に苛まれているのだろう。
そして、その痛苦を与えたのが、青年が右手に持つ短い鉄の棒のような何かであることは間違いないと思われた。鉄棒の先端をそめる赤黒い液体が、雄弁にその事実を物語っている。
ドアルテにやや遅れて室内に飛び込んだ三人の護衛兵は、室内の様子を見てとるや、すぐに行動に移った。
二人はドアルテを守るために青年とドアルテの間に立ちふさがり、一人はうめき声をあげる味方の兵に駆け寄っていく。
だが、青年はその三人の動きに対し、特に気に留めた様子を見せなかった。
その視線はドアルテに据えられ、微動だにしない。いつの間にか、煩わしげな表情も消え去っていた。
防具らしき物を何一つ身に着けていない姿は、先の女傑と酷似している。だが、あの女傑のような武威を感じられず、その外見だけを見れば、なんら脅威とするに足らぬ相手であったろう。
だが、ドアルテは青年の視線に無視しえないものを感じ取っていた。一瞬でも視線を外してしまえば、次の瞬間、青年の持つ何かが心の臓を抉り取ってしまうかのような、夢想じみた考えさえ脳裏をよぎる。
強い意志によって濃縮され、さらに尖鋭化された戦意。あるいは敵意。ドアルテの長い軍歴の中でも、ここまでのものを浴びせられた経験は数えるほどしかない。
何者か。
その問いをドアルテが発するよりも早く、青年が動いた。
穏やかな――そう形容することも出来そうな声音で、青年は口を開く。
「南蛮軍総司令とお見受けする。それがし、この国の士にて雲居筑前と申す者。願わくば尊名をうかがいたし」
ドアルテはその言葉を理解できた。言葉を返すことも出来なくはなかった。だが、元帥ともあろう者が異教徒の言葉に堪能である、と将兵に知られることはあまり好ましいことではない。
「ルイス」
呼びかけられたルイスは、怪我人を気にする素振りを見せたが、ここで勝手に動いてはドアルテたちの邪魔になると考え、衝動をこらえつつ、口を開いた。
「こちらは南蛮軍第三艦隊を率いるドアルテ・ペレイラ元帥であります、倭国の武士よ」
流暢な日本語が返ってくるとは思っていなかったのだろう。雲居と名乗った青年は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに表情をあらためた――というよりは、驚きを凌駕するほどの喜びを覚えたようであった。
「第三艦隊を率いる、元帥、か……」
雲居は左手に持ったままであった航海日誌に今一度視線を向け、今度ははっきりとした笑みを浮かべた。
「返答を感謝します。それは何にもまさる良き知らせ」
一瞬、ルイスは自分が相手の言葉を解しそこねたか、と不安になった。
「良き知らせ、ですか?」
「いかにも。八十八隻もの艦隊を率いながら、旗艦に切り込みを許すがごとき将が元帥とは。生憎、そちらの文字は解せぬが、図や数字を見るかぎり、これ以上の増援はなしと判断できる」
つまりはこの海戦に勝てば、南蛮軍に勝てるのだ。
この部屋に山と積まれた情報があれば、たとえ南蛮軍が再来しようとも恐れるに足りぬ。知らないからこその脅威。あらかじめ知っていれば、いかようにも対処できる。
いかなる遠慮も躊躇も、もはや不要。
雲居はそう言ってもう一度微笑むと、航海日誌を机の上に放り投げ、右手に持った鉄の棒を音高く開いた。
それが鉄扇という名の道具であることをルイスが知るのは、もうすこし先の話。
この時、ルイスはそれが何なのかを知らず。
ただ雲居の声を聞いていた。穏やかでありながら、灼けるような戦意に満ちた、その声を。
――では、死合おうか、元帥殿。