筑前国休松城。
本丸に立て篭り、決死の抗戦を繰り広げていた秋月種実は声を失っていた。
眼前に佇む人物が、どうしてここにいるのか皆目見当がつかないために。
「は、春姉さま、どうしてここに……?」
「なに、先走った不出来な弟を叱りに来ただけだ」
そう言うと、有限実行の乙女、吉川元春は種実の頭に拳骨を叩きつける。
声もなく、頭を抱えて座り込む主君の姿を、深江美濃守が呆然と見やっていた。深江は長年筑前で活動していたため、毛利三姉妹の顔を知らなかったのである。知っていたのはもう一人の重臣である大橋豊後守の方だった。
「元春様、それに隆景様まで……一体、どうしてここに?」
「そなたも無事だったか、豊後殿」
種実に負けず劣らず、呆然とした様子の大橋に、元春は先の口上を繰り返す。
「今いったとおり、種実を叱りに来たのだよ。秋月家が我らの到着を待たずに古処山を出たと知って、急ぎ駆けつけてみれば、秋月軍は城で追い詰められているという。種実が功に逸る可能性には思い至っていたが、豊後殿、そなたのような老臣までが引きずられてどうするのだ?」
「……まったく面目次第もござりませぬ」
大橋はそう言って深々と頭を下げた。
種実を止められなかったことを指して言っているのではない。そもそも大橋は一度も種実を止めていないし、止めようとも思っていなかった。種実と同様に筑前衆だけで、大友軍に勝つことが出来ると考えたためだ。
その見通しの甘さと、それによって世話になった毛利に多大な迷惑をかけることになってしまった、そのことへの謝罪だった。
それまで黙っていた隆景が小さく肩をすくめて、口を開く。
「ま、普通なら勝てて当然の戦だからね。あんまり責めちゃかわいそうだよ、春姉」
「なんだ、めずらしく寛大だな。隆景のことだ、てっきりねちねちと種実を責めるものとばかり思っていたのだが」
「いやだなあ、そんなことしないってば。ぼくだって可愛い弟が無事でいてくれて嬉しいんだし、それに叱るのは春姉と隆姉に任せるって決めてたからね」
可愛い、のあたりを強調する隆景に、ようやく立ち直った種実が実に複雑そうな表情を見せた。
ちなみに種実は隆元を「隆姉さま」、元春を「春姉さま」と呼んで慕っているが、隆景は「姉さま」をつけず、普通に「隆景様」と呼んでいる。
一番年が近いこと、性格がびみょーに合わないこと――色々あるが、要するに国を失った種実にとって、慕っている二人の姉の愛情を一身に受けて育った隆景が小憎らしかったのである。
これが平時であれば、明らかに意趣を含む隆景の言葉に、種実も一つ二つ言い返したであろうが、現状では何も口に出来ない。それに正直にいえば、口げんかをするほどの余裕も残っていなかった。
そんな種実に向け、元春が問いを向ける。
「種実、生き残っている将兵はいかほどだ?」
「は、はい、およそ百二十名です、怪我人も含めて」
「ならば全員に伝えよ。ただちに城を出るとな」
その言葉に、種実のみならず秋月配下の将兵全員が驚愕の表情を浮かべた。
種実が慌てて問いただす。
「し、城を出るといっても……大友が許さないでしょう? い、いえ、そもそもどうやって春姉さまたちはここまで来たのですか?」
「大友の許可を得てに決まっている――種実」
「は、はいッ!」
元春の言葉に、言い様のない凄みを感じた種実は知らず背筋を伸ばしていた。
「秋月は此度の大友との戦に敗れた。そして、それは我ら毛利も同じこと。我らは筑前より手を引く。無論、古処山城も大友に引き渡す」
「なッ?!」
「不服か? だが、従ってもらうぞ。もし否というなら、我らの手勢でそなたらを破った上で、首に縄をつけてでも安芸に連れ帰る」
あまりといえばあまりの言い草に、それまで状況がわからずに口を閉ざしていた深江が憤然と口を開きかけるが、それを大橋が制した。
元春はといえば、そのやりとりに気がつかないはずもないだろうに、一向に気に留める様子もなく言葉を続けた。
「何故、我らが到着するまでに軍を動かしたのか。一家の主として、お前が考えたであろうことはわかるし、否定するつもりもない。だが、勝利に拠らねば、その主張には一文の価値さえないのだ」
そう言って、眼差しに厳しさを加えて言葉を続ける。
「今回に限り、大友は我らを見逃す。その代償として、我らは筑前より手を引く。それが戸次殿との約定だ」
「……道雪とて、消耗しているはずです。春姉さまの毛利軍ならッ」
「今、手元にいるのは騎馬のみ三百。本隊はいまだ古処山にすら着いておらぬだろう。たしかに大友軍もずいぶんと疲労しているようだが、こちらも嵐の中、昼夜兼行で駆けつけた身だ。戸次殿が望めば我らを皆殺しにすることは容易いのだ、種実。戸次殿がそれをしない理由が、わからぬお前ではないだろう。そして、お前の請いを我らが受け入れる理由がないことも、だ」
元春の言葉に、種実は声もなくうつむいた。
そう、種実にはわかっていた。
完全に種実を追い詰めていた大友が矛をおさめたのは、毛利の存在ゆえだ。この場にあらわれた元春や隆景は、現時点で脅威ではない。では大友は毛利の誰をはばかったのか。決まっている、安芸の毛利元就だ。
秋月家が毛利家の援助を得ていることは周知の事実。ある意味で、この戦は毛利が大友になぐりかかったに等しい。だが、大友にとって腹に据えかねるであろうこの事実があってなお、大友は毛利元就をはばからねばならない。種実の命を助けることで、毛利に筑前から手を引かせることが出来るのならば安いものだ、と大友は――戸次道雪は考えたのだろう。
つまりは、秋月家の当主としての種実に、道雪はその程度の価値しか認めていないということである。本当に種実や秋月を脅威に思っているのだとしたら、毛利が何を言おうとも断固として種実の命を奪おうとしたに違いない。
一方の毛利が種実を救おうとするのは、個人的な情誼のためだ。だからこそ、元春たちはここまで来てくれた。逆に言えば、秋月家の当主が種実でなければ、あえて危険をおかして駆けつけてくれることはなかっただろう。
大友と半ば重なる意味で、毛利もまた秋月家当主に価値を認めていないのである。そんな人間から戦を続けるように頼まれたところで頷く必要がどこにあろう。
その上で元春はこう言ったのだ。
両家にそう思わせたのは種実自身の選択と行動の結果である。それをわきまえろ、と。
悄然とうつむく種実を見て、元春は再びその頭に手を伸ばす。さきほどとの違いは、その手が拳骨ではなかったこと。
ぽん、と軽く撫でるように種実の頭に手を置いた元春は、かすかに微笑んだ。
「まあ私からの説教はこのあたりにしておこうか――よくもちこたえたな、種実。正直間に合わぬと思っていた」
「春姉さま……」
「ちなみに説教の続きは姉上がなさるだろう」
「……そ、それは、その、出来れば春姉さまにおとりなしいただきたいと切にお願いしたいんですけど……」
「諦めよ」
「うぅぅ……」
あっさりと断言され、さらに深くうつむく種実。種々の経験から、怒ったときの隆元の怖さは骨身に染みて知っている種実だった。
ここで怯むくらいなら、最初から毛利軍を待っていればよかったのに。
常であれば、ここらで隆景がそんな言葉を口にし、種実と剣呑な視線を交し合うことになっただろう。
だが、今の隆景はそれどころではなかった。
種実の無事を自分の目で確かめてからは、他のことに気をとられていたのである。
隆景はつい先刻交わした会話を思い浮かべた。
◆◆◆
「ご協力感謝、というべきなのかな、そこの方」
皮肉っぽく笑いながら隆景が話しかけると、その人物――天幕の外で実にわざとらしく会話していた父娘の父親の方――は、なんのことやら、という感じで首を傾げてみせた。
「さて、小早川殿に礼を言われるようなことをした覚えはありませんが」
「そっか、じゃあ礼は述べないでおくよ。それはそれとして、敵味方の集う天幕のすぐ外で、ああもあっけらかんと軍略を語るというのは、いささか無用心の謗りをまぬがれないと思うよ」
「まったく返す言葉がありませんね。思った以上に事態が好転していくので、少々動転していたようです」
その言葉を聞くや、隆景の大きな目に鋭い光がよぎった。
「好転、ね。ぼくたちが手を引いたところで、筑前の騒乱がおさまるわけではないんだけど」
「なに、ご心配には及びませぬ。毛利家の方々をこの騒乱に引き込んだ不心得者たちは、間もなく制圧される頃でしょう。立花山城に篭城したところで、呼応する者がいなければ脅威にもなりませんよ」
そう言うと、その男は嘲るように低い声で嗤った。
「先の豊前も、今回の筑前でも、毛利家は実にたくみに兵を退かれる。くわえて御身内を助けるためには無理をも通す。名だたる両川がそろっていらっしゃるとは思ってもみませんでした。それは実にお見事な心がけですが……」
それは、別の見方をすれば、自家以外は失敗すれば切り捨てるということでもある。男はそう言った。
「先の小原、今回の立花、高橋、いずれも毛利に利用されて捨てられた哀れな家……内実はどうあれ、そう考える者はさぞ多いことでしょう。これだけ実例が続けば、毛利の助力を得ようとする者たちがどう考えるかは自明の理というものです。向後、毛利家が策動する余地はずいぶんと失われることになりましょうな」
無論、と男は口元をゆがめた。
「これは一面から見てのこと、貴家にとってみれば、九国からいらぬ厄介事を持ち込まれることがなくなり、その都度兵を出す必要もなくなる――双方の御家にとってまさしく万々歳と申すべきです。秋月の若殿の命を助けることで、これだけの成果を得られるのですよ。あまりの都合の良い展開に動揺を禁じえなかったとしても、仕方ないとは思われませんか?」
男との視線がぶつかった時、空中に火花が散らなかったのが隆景には不思議に思われた。
知らず、隆景はわずかに腰を落としていた。すぐにも斬りかかれるように、あるいは斬りかかられても対応できるように。
それは相手の男も同様のようで、隆景を見据える視線は、今や刃のそれに等しい。
張り詰めた空気は、たちまちのうちに破裂寸前まで膨れ上がり――
「やめよ、隆景」
隆景の肩に手を置きながら、元春が発した一言で、たちまち散じたのであった。
「でも、春姉ッ」
「落ち着け、ここで揉めて何もかも水泡に帰すつもりか」
そう言われてしまえば、隆景としても口を閉ざすしかない。
妹を抑えると、元春はおもむろに男に向かって問いかけた。
「それはそれとして、私も貴殿に伺いたいことがあったのだ。お答え願えようか?」
「吉川殿の求めであれば、応じぬわけにはいきますまい」
「先刻、貴殿は言っていたな。ここに来たのが我らでなければ、和睦以外の方法を考えたやもしれん、と」
「確かに申しましたな」
「あれはつまり、ここに来た者次第では、たとえ毛利がほどなく総攻撃をしかけてくるとわかっていても、始末する気だったということだろう――誰のことを指していたのだ?」
そういえば、と隆景もその言葉を思い返す。
だが、毛利の両川以上の影響力を持つ人物など元就以外にいない。少なくとも、外から毛利を見るかぎりはそうとしか見えないはずだ。
だが――
「毛利の要たる人が誰であるのか、あえてそれがしが口にせずともおわかりになられましょう? まあ答えるといった手前、お答えしますが……そうですね、それがしが仮に戦場で毛利の一族の誰かを討つ機会に恵まれたとしたら、迷うことなくその人物を討とうといたしますよ」
その人物――毛利隆元を。
男はそう言って小さく嗤った。
その言葉を聞いた瞬間、隆景はそれまでの擬態をかなぐりすて、本気の敵意を男に向けてしまった。それまでの底の浅いものではなく、歴戦の武将がおもわず怖気をふるいかねないほどの濃密な敵意である。
すぐに気づいて、それまでと変わらない態度を装ったのだが、男の苦笑じみた表情を見るに、それも無駄であるように思われた。
やがて口を開いたのは男でも隆景でもなく、元春だった。誰よりも先に敬愛する姉を討つと言明した敵将を前に、元春の目にはどこか面白そうな光が浮かんでいる。
「なるほど、な。聞くべきことは聞けた。これで失礼するとしよう。名をうかがってもよいか?」
「雲居筑前。戸次家の客将にござる」
「その名、おぼえておこう。いくぞ、隆景」
「あ、うん、春姉」
雲居の名を聞くや、すぐに元春は踵を返す。隆景は雲居に警戒の一瞥をくれてから、すぐにその後を追った。
二人の背を見ながら、雲居もまた踵を返そうとした、その寸前。
まるでそれを見計らったかのように、元春が雲居の方を見ずに声だけ投げかけた。
「雲居殿、軍略は知らず、芝居の才は貴殿には乏しかろう。あまり無理をせぬことだ。まあそれはこちらにも言えることだが」
返答は返ってこなかった。
◆◆◆
あの場の状況を思い返し、考え込む隆景に気づいたのか、種実との話を終えた元春が声をかけてくる。
あるいはとうに隆景の内心を察していたのかもしれない。前置きもなしに言ってきた。
「どう見た?」
主語を省いた問いかけだったが、隆景もあえて確認する必要を認めず、あっさりと返答した。
「たぶん、間違いないね」
「ふむ、種実や豊後殿が言うには、雲居なる名に聞き覚えはないそうだが、此度の戦で妙に手ごわい敵将がいたらしい」
「豊前で見せた大友の妙な動き、義母上と隆姉が気にかけていた『何か』、全部が全部そうだとは言わないけど、少なくとも無関係ってことはないよ。ぼくはそう思う」
隆景の言葉に、元春も異論はなかった。
「毛利の要が、我らでも義母上でもなく、姉上だと見ぬいている時点ですでに只者ではない。それに、隆景の小芝居も見抜いていたようだしな」
「……否定はしないけどさ。猿芝居って言われないだけましなんだよね、きっと」
ふん、とすねたようにそっぽを向く隆景。
雲居という人物がこちらの敵意を煽ろうとしていると察した隆景は、あえてそれに乗ってみせることで、小早川隆景くみし易しの印象を与えようとしたのである。
それで相手が隆景を、引いては毛利家を侮ってくれればしめたもの、と考えたのだが、あの一瞬、姉隆元を討つと口にされたときだけは素の感情をむき出しにしてしまったのだ。
しまった、と内心で臍をかむ隆景だったが、元春は別に気にする必要はないという。挑発を仕掛けてきた段階で、隆景の芝居は半ば見抜かれていたのだろう、と。
その姉の言葉に反論することは出来そうもなかった。
「しかし、ふむ、口先だけではなく、将としても秀でているとなれば厄介な相手だな」
「雲居って名前に聞き覚えある、春姉?」
「これといって心当たりはないな。とはいえ、あの若さだ、先の戦から新たに戸次殿に登用されたのであれば、名前が知られておらずとも不思議ではあるまい」
「若いっていっても、ぼくたちよりは年上だろうけどね。ま、正体が知れれば対応も出来るし、むしろ今の時点で存在が明らかになってよかったのかもしれない。戸次家の客将なら、手の長さも知れたものだし、付け入る隙はいくらでもあるからね。その意味では種実の独走も無駄じゃなかったってことかな」
その隆景の言葉に、元春は短く苦笑する。
「それは種実には言うなよ、傷口に塩を塗るようなものだ」
「そこまで鬼じゃありません」
◆◆◆
休松城、大友軍本営。
毛利、秋月の両軍が城を出て行くのを眺めながら、俺は何度目のことか、深いため息を吐いた。
すると、傍らにいた道雪殿が不思議そうに問いかけてくる。
「どうしました、筑前殿。さきほどから、なにやら打ち萎れているようですが?」
「あ、いえ、なんでもな――」
「毛利軍に油断ならぬ策士の印象を植え付けようとがんばってはみたものの、あっさりと見抜かれた挙句、芝居の才はないと断言されて傷心の真っ只中なのです、戸次様」
なんでもない、と答えようとしたら、反対側にいた吉継があっさりと理由を暴露しやがってくださいました。
応じて道雪殿がなるほど、と頷く。
「ああ、そうでしたか。たしかにあの天幕での、いささか不自然な会話はわたしもどんなものかと思いましたけれど」
「私も、顔を頭巾で覆っていることに心から感謝したのははじめてでした」
「しかし、努力はその結果ではなく、為したこと自体に意味を持つのです。筑前殿と吉継殿が大友のために努めてくれたこと、わたしはとても嬉しく思いますよ」
「ありがたきお言葉です。しかし、お義父様はどうもご自分の演技力に並々ならぬ自信があったらしく、戸次様のお言葉も届くかどうか」
「その自信の源は何なのでしょうね?」
「なんでも、小野様に芝居の才を褒められたことがあったとか」
「それは判定する者に問題があったとしか言いようがありませんね」
「同感でございます」
…………泣いても良いですか?
「ところで。冗談はさておき、筑前殿」
「…………なんでしょうかべっきさま」
枯渇寸前の生命力をかき集めて返答する俺に、吉継が苦言を呈した。
「お義父様、死んだ魚のような目をしていないで、きちんと戸次様のお話をうかがってください」
「…………だれのせいだとおもってるんだだれの」
というか、俺に何かうらみでもあるのか、娘よ。
「何をばかなことを。敬愛するお義父様に恨みなどあろうはずがないではありませんか。猿芝居に付き合わされたことなど気にしておりませんし、まして意趣返しをするなどありえぬことです」
「打ち合わせもなしに、見事な息の合い方だったと思うんだが」
「あらかじめ言っておいてくれたら、その時点で断固反対してました――息が合っていたのは否定しませんが」
「むう」
何やら怒りの冷めやらない様子の吉継に、俺は戸惑った。思いついたときには良いアイデアだと思ったんだが、などと考えていると、道雪殿が口元に手をあてて笑いを堪えながら、こちらを見ていることに気づく。
「っと、申し訳ありません、お話の途中に」
「ふふ、仲がよろしくて結構なことです。ともあれ、これで秋月と毛利は片付いたと見て良いでしょう。あの方々の為人を見るに、約定を反故にするとは考えにくいですから」
「はい」
道雪殿の言葉に、俺は頷いた。
吉川元春と小早川隆景の二将は、おおよそ俺の考えていたとおりの為人だった。男女の別を問わず、できれば戦場では会いたくない類の人たちだが、一度交わした約定を違えるような人物ではないだろう。
「ゆえに、鑑載殿、鑑種殿の始末に向かわねばなりません。本格的に動くのは、紹運たちからの知らせが届いてからのことになりますが、あらかじめ部隊は宝満城に向けて動かそうと思います」
「それがよろしいでしょう」
その方が、いずれの方角に動くにせよ、素早く部隊を展開できる。
そう考える俺に、道雪殿は新たな命令を下した。
「宝満城の城主北原殿は、鑑種殿が敗れれば、おとなしく城を明け渡すでしょう。かりに紹運らが敗れたとしても、こちらが高橋家の裏切りに気づいていないと思わせることで、隙をつくることもできます。筑前殿は岩屋、宝満落城の後にと言っていましたが、もう構わないでしょう。肥前へ発っていただけますか?」
ここからまっすぐ肥前へ向かうには、どうあっても高橋家の領内を通らなければならないが、一度筑後へ抜ければ、大友領内を通りながら肥前へ入ることが出来る。
確かにここまでくれば筑前での戦はほぼ終わったと見て良いだろうし、良い頃合かもしれない。
そう考え、俺が承知した旨を伝えると、道雪殿の口から思わぬ言葉が出てきた。
「そうそう、それと筑前殿も吉継殿も筑後の地理には詳しくないでしょうから、案内役として誾をつけますので、よろしくお願いしますね」
実にあっさりとそう告げる道雪殿を前に、思わず固まる俺。
「……いや、よろしくって、あの道雪様?」
かりにも一家の嫡子を道案内って、役不足も甚だしいというものではないでしょうか?
「獅子はわが子の成長を願い、千尋の谷に叩き落すというではありませんか」
「いつから肥前は千尋の谷にたとえられるような魔境になったのでしょうか……?」
「なんでも隆信殿は生身で熊を倒した豪傑であり、常にその熊皮を身にまとっておられるとか」
「なんと?!」
それは知らなかった。熊殺しとはおそろしや。
「その軍師である鍋島直茂殿は鬼面の人物と聞きますし」
「それは存じておりますが……」
「中でもおそるべきは、成松、百武、江里口、円城寺、木下の四天王です」
「それも存じております……って、あれ?」
なんか数があわないような?
「気がつきましたか。そう、五人なのに四天王なのです……」
道雪殿はどこか緊張した面持ちで、指折り肥前の不思議を数え上げる。
「熊殺し、鬼面、そして五人なのに四天王。肥前が、凡人には理解できぬ不可思議な理が支配する魔境だと判断することに、何の不思議があるというのですか?」
「……どうしよう、なんか否定できない……」
「というわけで、誾のこと、お願いしますね、筑前殿」
「かしこまりました……ん?」
首をかしげながらも、俺は道雪殿の言葉に頷いていた。傍らの吉継の深いため息が、何故か耳に痛かった。
◆◆◆
それからしばし後。
安見ヶ城山から北東の方角へ、毛利、秋月の軍勢が引き上げていく。
その様子を小高い丘から望む一人の少女の姿があった。
「元就公に取り入るには良い機会だと思ったのですが……なんだか妙な展開になっているようですね」
嵐が去り、見事に晴れ渡った空の下。
どうしましょうか、と少女は馬上で呟いた。
すらりとした長身に浅葱色の着物がよく映えた少女だった。商人のような目利きでなくとも、その着物がきわめて高価な布地であることは誰の目にも明らかだったろう。
だが、それよりも驚くべきは、目と鼻の先で人死が出ている戦場で、それほどの高価な装束をまとっている少女の神経の方だったかもしれない。
金目の物目当てに戦場を徘徊する者などめずらしくもない。わずかでも高価だと思われる物を身につけていれば、いつ何時襲われるとも限らないのだから。
まして少女のように、人目を惹くに足りる端整な目鼻立ちの女性であれば、別の意味でも危険は増す。
だが、腰に差した大小の刀がもたらす自信ゆえか、少女はそういった危険をまったく意に介している様子を見せなかった。
不意に吹き寄せる風に、少女の長い黒髪が宙にたなびく。左の手で髪を軽くおさえ、少女が何やら考え込む。
「元就公に近づくためには、あの人たちを追うべきなのでしょうが、どうみても負けてますよね、あれ。元就公自身が敗れたというわけではないですから、気にすることもないのかもしれませんが、やはり敗軍に学ぶというのは面白くありません」
そうすると、答えは一つ、ということになる。
「どの道、殿から逼塞を言い渡された身、時間はいくらでもあります。大友が駄目なのであれば、あらためて毛利に向かえば良い。まずは思うがままに行動してみましょうか」
この場に少女の従者や弟子がいれば、それ以前に逼塞の身で堂々と出歩くな、と口をすっぱくして説いたであろうが、幸いここには少女しかいない。
物心ついてから、当たり前のように聞いていた口うるさい諫言がないというのは、存外楽しいものだ、と少女は花が咲くような笑みを浮かべながら思った。
その少女の目に、再び兵馬の群れが映し出される。
だが、今度は先刻のそれよりもはるかに小規模の部隊だった。
おそらく百騎もいない。進む方向も、さきほどの毛利軍とはほぼ正反対の方角だ。あのまま進めば筑後、さらにすすめば少女の生国である肥後に達するだろう。
ふむ、とその兵馬の一団を見ていた少女は、不意にこくりと頷くと、誰にともなく呟いた。
「うん、決めました」
そういって、軽く馬腹を蹴る。ただそれだけで騎手の意を感じ取った馬が、軽やかに大地を蹴った。
「きっと、あっちの方が面白いです」