戸次家の本領は豊後の鎧ヶ岳城である。
だが、その当主である道雪殿は加判衆筆頭として戸次家のみならず大友家の政務にも携わる身であり、事あるごとに領地と府内を往復するわけにはいかない。そのため、道雪殿は宗麟から府内の一画に屋敷を与えられており、現在、俺はそこに逗留していた。
他紋衆の乱と呼ばれる先の戦が終わってまだ幾許も経っていない。叛乱軍を短期間で降伏まで追い込んだとはいえ、実際に謀反が起きてしまった以上、その影響は計り知れない。ことに小原鑑元はつい先ごろまで加判衆に任じられていた人物であり、それだけの重臣が背いたことによる家中の動揺は容易に鎮まることはないだろう。
実際、屋敷の中でも、主の道雪殿はともかく、その他の人々の表情はピリピリと尖ったものがにじみ出ており、声をかけることをためらってしまうほどだった。
そんな中で、大友家の家臣でもない俺が客人扱いで逗留するというのは結構きついものがあった。
無論、なんだこの若造めが、と邪魔者扱いされたわけではない。それどころか戦で受けた傷の治療も含めて、これ以上ないほどに良くしてもらっている。
ただ、やはり俺は部外者であるという感覚が強いのも事実なのだ。何か仕事でもあれば気を紛らわすことも出来たろうが、俺と同様に戸次屋敷にいる吉継はともかく、俺は大友家の正式な家臣ではない。戦の最中の助言であればともかく、終わった後の始末にまで口は出せない。
ならば屋敷の雑用でも手伝おうかと声をかけても、お客様にそんなことはさせられません、とにっこり笑って断られてしまう。まあ、客人兼怪我人に雑用などさせられないというのは、当然といえば当然だが。
結果、俺は屋敷の人たちが忙しげに立ち働く中、手持ち無沙汰のまま、ずずっと茶をすするしかなかったのである。
ゆえに。
「……暇だ」
自然、そんなつぶやきも零れてしまう。
そもそも何で俺が府内の、それも道雪殿の屋敷にいるのかといえば、そうするように道雪殿に強く請われたからである。
最初、俺は道雪殿の頼みを謝絶した。大友家と毛利家が和睦した以上、一刻も早く東に向かいたかったのである。
――いや、なんかこのところ、そちらの方角からしばしば妙な重圧を感じるのだ。重圧の種類は様々だったが、あえて一つ挙げるなら、先日の夜、とある筆頭家老の怒りを正面から浴びせられたような、もう重圧ってレベルじゃねえぞ的な悪寒を覚えたこともあったほどなのだ。思わず跳ね起きてしまいましたよ、ええ。
……まあそれは冗談(?)としても、すでに海上から毛利水軍の姿は消えており、東行を阻むものはないと思われたのだが、道雪殿いわく「戦の後こそ海は荒れる」とのこと。
簡単に言えば、戦のせいで滞っていた物流が一斉に動き出し、それを狙った海賊もまた大きく動き出すそうだ。それを討つべき各国の水軍は戦の後ゆえにすばやく動くことが難しく、被害が無視できないものになることも少なくないらしい。なるほど、言われてみればそれも道理。ことに今回の戦で大友水軍はかなりの打撃を受けたらしいから尚更だった。
では陸伝いで行けば、とも考えたのだが、そうすると当然のように毛利領を通り抜ける必要が出てくる。正式に臣下になったわけではないとはいえ、今回の戦で俺は大友家に策を献じ、その兵士として戦場で毛利軍と戦っている。さすがに雲居筑前の名を毛利軍が把握しているとは思えないが、身体の各処の傷は戦に加わった事実を示して余りある。不測の事態が起こる可能性は十分にあるのだ。
ではどうすべきか。
考え込む俺に向けて、道雪殿はこう言った。
「わたくしの屋敷で海が落ち着くのを待っていただければ、京の将軍家へ向かう船に同乗できるよう取り計らうこともできましょうし、あるいは時が惜しいのなら、豊後から伊予へ渡って四国伝いに東を目指すという手もあります。毛利家の勢力はいまだ四国には及んでいませんから、中国地方を通り抜けるよりはよほど安全な道のりになるでしょう。いずれにせよ、一度府内へお越しいただかねばなりませんけれど……」
どうなさいますか、と問いを向けつつ、上目遣いにこちらを見やる道雪殿の顔には、どこか悪戯っぽい微笑が浮かんでいた。
もうなんか見慣れた観すらあるその道雪殿の笑みを見ながら、俺はふとあることに思い至る。
九国を離れてしまえば道雪殿や紹運殿たちと会う機会は永く失われてしまう。二人だけでなく、鎮幸や惟信、そしておそらく九国にとどまることを選ぶだろう吉継も同様だった。
ことによると『次』はもうないかもしれない。戦国の世であれば、それは予想してしかるべき未来なのである。それはつまり、目の前の佳人の微笑を見ることがもう出来なくなるかもしれないわけで……
◆◆
「そんなわけで、こうしてここにいるわけですが、これは決して東をないがしろにしたわけではないのです。いや、もちろん道雪殿たちとの別れを惜しんだのは事実ですが、それは誰に恥じる必要もない感情であり、そもそも府内に来たといっても、精々出立が数日延びる程度の差しかないわけで……」
「……誰に何を釈明しているのですか、あなたは?」
「ぬを?!」
いぶかしげな――というか、明らかに不審人物を見る視線と声を間近から浴びせられ、俺は思わず妙な悲鳴をあげていた。
見ればいつのまに来ていたのか、そこには頭に白布を巻いた吉継の姿があるではないか。
「こ、これは吉継殿、何か御用で?」
「はい、雲居殿にお聞きしたいことがあって参ったのですが――」
そこで吉継はいったん言葉を切った。明らかにさきほどの俺の様子に引いている。それはまあ、いい年した男が前触れもなくぶつぶつ独り言をつぶやきだしたら怖いわな……
「……なにやらお忙しいようですし、日を改めたほうが良さそうですね」
「いやいや、別に忙しくは! 少し暇を持て余して、気が緩んでいただけですッ」
早くも腰をあげかけた吉継を、俺はあわてて引き止めた。
――言ってから気づいたが、これだと俺は気が緩むと独り言をつぶやく怪しい人だと自白したことになるような?
いかん、言い訳するにしてももうすこしましな台詞を言うべきだったと内心で慌てるが、幸い吉継はそれ以上追及しようとはせず、再びその場に座りなおした。
一言二言は皮肉を言われると思っていた俺は少し意外に思い、吉継の様子を伺う。すると、その指先が忙しなく動いていることに気づいた。見れば頭を覆う白布も落ちつかない様子で揺れ動き、視線もあちらこちらに向けられて定まる様子がない。
明らかに落ち着きを失っている吉継を見て、俺は目を瞬かせる。
そもそも聞きたいことがあるということだったが、何を聞きたいのだろうか。
吉継もこの屋敷の客人として世話になっているのだが、豊前から戻って数日、俺とはほとんど顔をあわせていなかった。
吉継はその容姿や生い立ち、石宗殿と南蛮神教との関係もあって府内を気軽に歩き回ることができない立場であり、つまりこの屋敷から滅多に外に出ていないはずである。ずっと俺と同じ屋敷で過ごしながら顔をあわせていないということは、つまり会う意思がなかったということだろう。聞きたいことがあるなら、もっと早くにたずねてきても良さそうなものだが。
疑問に思った俺は、それをそのまま口に出してみた。
すると、何故か吉継の動きが倍速になった。
「? 吉継殿?」
「それは、その……戸次様に御命令の撤回を懇願して無理だと言われてどうしようどうしようと途方に暮れてえいもうどうしてこうなったと半ば自棄になって心の準備をしていたら気づいたら今日になっていたのです……」
「は、はあ、さようですか」
動作にまさるとも劣らない早口の説明が、頭巾をくぐりぬけて俺の耳に届けられる。なにやら切羽詰っていることはわかるのだが……うん、すみませんさっぱり意味がわからんですよ。
明らかに混乱している様子の吉継だが、いつかの夜のように我を失っている様子ではない。ここはとりあえず、吉継の言う『聞きたいこと』というのを聞いてしまうべきか。
もっとも眼前の吉継が何を聞きたいのかは想像もつかないのだが。答えられる範囲であれば良いのだけど。
「ともあれ、私に聞きたいこと、というのをうかがってよろしいか?」
「は、はい……ッ!」
俺の言葉を聞いた吉継は、一転して身体の動きを硬直させた。
正座をした格好で背をこれでもかとばかりに伸ばし、膝頭に置かれた両の拳はきつくきつく握り締められている。
――なんかもう、壮絶なまでの緊張ぶりだった。こちらまで緊張が伝染してしまいそう……というか崩していた足を慌てて正座に直さざるを得なかった。
一体、何を聞こうとしているのだ、吉継殿?! などという驚愕を内心に押し隠しつつ、俺は表面上は冷静を装って吉継の言葉を待った。
すると、吉継は何を思ったのか、口ではなく手を動かしはじめた。
首筋に手を伸ばすと、頭部を覆う頭巾の結び目をするりと解いたのである。
ふわり、と柔らかい音と共に白布は吉継の手の中に落ち、秘められていた銀の髪と紅の瞳があらわになる。
頭巾の中の容貌をあらかじめ知っていた俺だが、それでも吉継の容姿を目の当たりにすると息を呑んでしまう。
人の手が届かない、神域の森の住人を目の前にしたような――いや、自分でも言っていて気恥ずかしいのだが、本当にそんな抒情的(リリカル)な形容が自然に浮かんできてしまうのである。ついでに初めて逢ったときの情景が脳裏にフラッシュバックしてしまい……
と、そこまで考えた時、吉継がじとっとした眼差しを向けていることに気づく。
「……雲居殿、ご存知でしょうか?」
「は、はい?! 何をですか?!」
「石宗様より伺ったのですが、人間は頭に強い衝撃を受けると、それまで過ごしてきた記憶を失ってしまうことがあるとか」
「た、たしかにそういったこともあると聞いたことはありますね」
「それを聞いて安心しました、二人の智者のお墨付きがあるのであれば、嘘偽りではないのでしょう」
「――と言いつつ、なぜ刀の鯉口を切っておられるのでしょう?」
「人の顔をみる度に不埒なことを思い出しては顔を赤らめる変質者の記憶を削除しようかと思いまして」
「……念のために確認しますが、峰打ちですよね?」
「もう不埒云々のあたりは否定もしないのですね……」
はあ、とため息を吐く吉継に対し、俺はわざとらしくこほんと咳払いした。
脳内の光景をとっぱらいつつ、この場を切り抜けるために頭をひねる――かなり本気で。具体的に言うと対毛利戦の作戦を考えた時と同じレベルで。ここで選択肢を誤ると、かなり高い確率でどこぞに『完』の字が刻まれてしまいそうで怖かったのである。
だが。
そんな俺を見つめる吉継の口から、不意に小さな笑い声が零れ落ちた。失笑――ではない。本当に、思わず、という感じの微笑だった。
「……吉継殿?」
「……何日も悩んだ挙句、ようやく真摯に向き合う決心ができて、こうしてやってきたというのに……なんでこんな緊張感の欠片もないやりとりになってしまうんでしょう?」
「……いや、緊張感はけっこうあったと思いますが」
俺も思わずつぶやくと、吉継はにこりと微笑んでみせた。それを見て、自分の頬がさっきとは別の意味で赤くなるのがわかったが、それはたちまちのうちに凍りついた。吉継がこう続けたからである。
「なにか言いましたか、いい年して子供の裸身を思い出して赤面してる軍師殿? というか、今度同じことをしたら、問答無用で戸次様に御報告しますからね。多分、その方があなたには堪えるでしょうし」
覗いたこと自体は許しても、それ以外のことまで許した覚えはありません。
ぴしゃりとそう言い放つ吉継に対し、俺は一も二もなくひれ伏して許しを請うしかなかったのである。
「――家族のことを知りたい、ですか?」
あちらこちらに脱線した後、ようやく本題に入ることが出来た俺たちだったが、吉継の言葉を聞いた俺は戸惑いを隠せなかった。
「それは私の氏素性を知りたいということでよろしいので?」
「いえ、そうではなく。純粋に雲居殿のご家族の為人をお聞きしたいのです。差し支えがあるようなら、名前や生まれた地などは除いていただいて結構です」
「それはまあ、お安い御用ですが……なんでまた、そんなことを聞きたいんですか?」
俺の疑問に、吉継は何故か恨めしげな視線を向けてきた。え、なんで?
「なんでもありません……とは言えませんね。なんで同じ当事者なのに私ばかり悩まないといけないのか。不条理を感じてもしょうがないというものです」
と、なにやら低声でぶつぶつとつぶやく吉継。
しかし、俺には何のことやらさっぱりだった。というか、今日の吉継はいきなり会話の波長がずれる時があるのだが、本当にどうしたのだろう。もしや石宗殿が亡くなって以来の疲労が、ここにきて一気に表面化したのだろうか。
「……私のことはお気になさらず。理由は近いうちに――というか多分、明日か明後日くらいに明らかになります。まあ、その時は逆にうろたえるあなたをのんびりと眺めていられるでしょうから、おあいこということにしておきましょうか」
「ほんとにさっぱり意味がわからんのですが」
などと言葉を返しつつ、俺は両親のことを思い浮かべる。
しかし、よく考えてみると――
(誰かに両親のことを話すのは、あの時以来か)
俺という人間にとって、疑いなく転機となった出来事が自然と思い浮かぶ。同時にあれやこれやも思い浮かんでしまいそうになったので、慌ててそれらの情景、感触その他もろもろをシャットアウト。ここでまたにやけようものなら、本当に吉継に斬って捨てられてしまう。
こっそりとそんなことを考えつつ、俺はどこか緊張した面持ちで話を待ち受けている吉継に向かって口を開いた。
どこか郷愁にも似た懐かしさを覚えながら……
◆◆◆
府内は豊後の国の政治、軍事、経済の中心として長い歴史を持つ古都である。大友家が豊後のみならず、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後といった北九州全域に影響力を持つようになってからは、その大友家の枢要の地として、人と物の流れの中心地となっていた。。
くわえて、近年には海外との交易の要としての役割をも担うようになっており、博多や堺に比肩しえる空前の繁栄を遂げていたのである。
ひとたび街中に出れば、そこには南蛮様式の建物がそこかしこに立ち並び、道行く人の中には当然のように異国人の姿が見受けられる。そんな光景を見ることが出来るのは、日の本広しといえど、ここ府内だけだろう。
だが、そんな府内の喧騒も日が沈めば落ち着きを取り戻す。もちろん、日が沈んでからが本番だ、という区画もあるにはあるのだろうが、少なくともここ戸次屋敷の周囲は静穏な空気に包まれていた。
近づく夏の暑気も、今の時刻では海からの風でなだめられている。夜半を過ぎれば、時に肌寒さを感じることさえあるほどだ。
屋敷の縁側に腰掛けながら、吉継は夜空を見上げていた。あらわになった髪が夜風になびき、月明かりを受けて鮮麗な銀光を映している。
この光景を見ている者がいれば、自分が見ているのは夢か現か物の怪かと戸惑いを禁じえなかったことだろう。
無論というべきか、吉継自身はそんなことを考えてはいない。夜空に浮かぶ月を、ただ無心に眺めやっているだけだった。
否、正確に言えば無心に眺めているわけではなかった。その胸中には、先刻、話を聞いた雲居の声と姿がたゆたっていたからである。
吉継が雲居に家族の話を請うたのは、無論、先日の道雪の命令が原因だった。
正直に言って、吉継は道雪がどうしてあんな命令を口にしたのかはわからない。師である石宗の言葉に従ってか、とも考えたが、石宗とてまさか本当に養子縁組をさせるつもりはなかっただろう。あの手紙にあった父や兄という言葉は、あくまで例えに過ぎず、それは道雪とて十二分に承知しているはずなのだ。
とはいえ、それを道雪に問うても答えてくれず、命令を撤回してもくれない以上、吉継に残されたのは従うか、それとも拒むかの二つに一つ。しかし、かりにも加判衆筆頭たる戸次道雪の命令である。これを拒めば、大友家に吉継の席はなくなってしまうだろう。石宗亡き後、領土も後ろ盾もなく、孤立無援の吉継をかばってくれる人がいるはずもない。
もっとも、吉継は大友家の臣という立場に執着を抱いているわけではないから、放逐されたところで別にかまわないという気持ちもあった。一人で生きる術も持っている以上、理不尽な命令に唯々諾々と従う必要もない。
その吉継をためらわせているのは、やはり石宗が残した手紙だった。道雪の命令は多少――いや、かなり行き過ぎた面もあるとはいえ、石宗の遺言に沿ったものであり、だからこそ反感を抱くことも難しいのである。
無論、道雪本人への尊敬の念も、反感を抱けない理由の一つに含まれていた。明らかに面白がっている様子だったが、そこにはたしかに吉継に向けられたいたわりの念が感じられたから。
「まあ、別に妻になれと言われたわけでもないですし」
ぼそりとそんなことをつぶやく。
義理の兄妹、あるいは父娘。吉継と雲居の年齢は十も離れておらず、父娘は明らかに無理があるから、名乗るとすれば兄妹の方が相応しいだろう。実のところ、それ自体は別に構わない、とすでに受け入れている自分に吉継は気づいていた。
無論、吉継が自発的に喜んでそうしたい、というわけではない。それはもう断じて違う。
ただ、そうすることで亡き師や道雪がわずかなりと安心できるならば、あえて拒むこともないと思えるのである。
では、なんで雲居の家族の話などを聞きに行ったのか。その疑問に対する答えは二つある。その一つは、もう雲居本人に向かって口に出していた。
「なんで私だけ悩まないといけないのか、まったく……」
何故か道雪は雲居本人に対しては命令を下していない。一度、それは何故かと問いかけたら、口元を手で覆って含み笑いをしつつ、雲居が大友家の家臣ではなく、道雪は命令を下せる立場ではないからだと言っていた。
それは確かにそのとおりであり、反論の余地がないのだが、あの顔は明らかにそれ以外の理由があると吉継は見て取った。具体的に何を企んでいるかまではわからなかったが……
「結局、私も雲居殿も、戸次様の掌の上で転がされているのかな」
さしずめ釈迦と孫悟空の関係かと吉継は考え、自分の発想に小さく噴出してしまった。あまりに的確な例えだと自賛したくなる。
しばし笑いの発作に身をゆだねた後、吉継は口を引き結んだ。
「まあ、それはさておきましょう。今、考えるべきはそこではなく――」
形はどうあれ笑ったことで、吉継の思考は再び眼前の問題に立ち戻る。
雲居が順風な生を送ってきたわけではないことは吉継も察していた。
明らかな偽名を名乗り、戦略に長け、戦術に通じ、九国最高の名将たる戸次道雪とまがりなりにも対等の立場で言葉をかわす人物が、安穏とした生を送っているはずもない。
今でも思い出すと顔から血の気が引いてしまうのだが、以前、吉継が狂乱の態で雲居に斬りかかった時、和尚もそれをにおわせることを口にしていた。
和尚が気づいていたということは、おそらく石宗も同様に察していたのだろう。だからこそ、出会って間もない雲居に吉継のことを託そうとしたのだろうか。
吉継はまだそこまで雲居に信を預けているわけではないが、あらためて顧みれば、すでに十分すぎるほどに雲居の存在を受け入れている自分に気づいて驚いてしまう。石宗自身を除けば、ここまで他者を近くに感じたことはかつてなかった。
これが人徳というものなのかと思い、あらためてその特異な存在に興味を惹かれる。
雲居を訪ねた理由のもう一つがこれだった。
師である石宗。
その菩提寺の和尚。
さらには戸次道雪。
そんな人傑たちに認められる雲居筑前という人物を少しでも知ることが出来れば。そう考えたのである。
結果として、少なからぬ事実を知ることが出来た、と吉継は思う。
雲居の父と母に向けられた尽きせぬ尊敬と自責の念。驚いたことに、雲居もまた吉継と半ば重なる意味において二親の死に責任があるという。
その事実に、自分では気づかぬままに壊れそうになっていたのだと、雲居はこともなげに語った。そして、とある人物に、その寸前で引き止められたのだ、と。
そのことを語ったときの雲居の顔に、吉継は名状しがたい感情を覚えた。それが何という名前の感情なのかは今になってもわからない。羨望といえば羨望だろうし、焦燥といえば焦燥かもしれない。だが、あえて名前をつける必要はないのかもしれないとも思う。
同時に、いつかの月夜、和尚が雲居に向け、感嘆と共に言った言葉が脳裏をよぎる。
『良き出会いを、そして良き別れを経てこられたのであろう。それは、これから先の吉継殿になにより必要なことだとは思われませんか』
その言葉の本当の意味を知ることは、多分、今の自分には無理だろう。吉継はそう思う。他者との接触を避ける者に、出会いも別れもおとずれるはずがないのだから。
しかし、だからといって、今日これから今までの生き方を転換させることなど出来ようはずもない。吉継は自分がそんなに器用であるとは思っていないし、かりに吉継がそうしたところで、他者がそれを受け入れてくれるとも思えない。手を差し伸べたところで、振り払われてしまうのが関の山だろう。
そんなことを考えながら、吉継は空を見上げる。彼方に浮かぶ月に目を向け、そして――
「……でも、そんなことばかりは言っていられない、か」
ぽつりと。本当に囁くように、吉継はその言葉を紡ぎ出していた。
本当のことを言えば、ずっと悩んでいたのだ。ずっと――父と母の生に、どのような意味を込めるのかは吉継次第だと、あの日、和尚に言われてから、ずっと。
今回の件で何もかも変えることは出来ないが、少なくともきっかけにすることは出来るだろう。
半ば強いられるような形になってしまったが、逆に言えばこんな妙な出来事がなければ、いつまでも意を決することが出来なかったかもしれない。
いや、あるいはもしかしたら――
「戸次様は、見抜いてらしたのかな?」
だとすれば、やはりとてもかなわない、と吉継は嘆息する。嘆息しつつ、それを打ち消すように両の手で自分の頬を叩いた。
思いのほか力がこもっていたらしく、ばちん、とやたら良い音があたりに響く。じんじんと伝わってくる頬の痛みは、目を覚ますには十分すぎるほどの刺激だった。
そうして吉継はゆっくりとその場に立ち上がる。
脳裏に浮かぶのは、さきほどの雲居の話の最後の部分。
『あとまあ、一人、妹がいるにはいるんですが、義理の……といっていいのかな?』
たしかそんな風に言っていた。であれば――
「……やっぱり二番煎じというのは面白くないですね」
そんなことを口にしつつ、銀髪の少女は屋敷の主の部屋へと足を向けた。
一つの結論を告げるために。