筑前国 立花山城
立花山城。
およそ筑前に野心を抱く大名であれば誰もが欲して止まないこの要衝は、その名が示すとおり筑前は立花山に築かれていた。
立花山は大小七つの峰から成り、防衛の要となるのはその中の三峰――井楼山、松尾山、白岳である。城の堅牢さは、筑前はおろか九国全土を見渡しても屈指の域に達しており、先年、立花鑑載が大友家に叛旗を翻した際、彼がこの城に拠って最後まで抵抗を続けていれば、乱の鎮圧にはさらに一月以上の時間を要したであろう。
だが、鑑載は事やぶれたりと判断するや潔く腹を切り、立花山城はほぼ無傷で大友軍の手に渡った。
鑑載の死後に立花家を継いだ道雪は、前の城主と同様にこの城を根拠地として筑前の支配を推し進めたが、城の防備にはほとんど手を加えなかった。あえて手を加える必要なし、と判断したのである。
立花道雪の配下にあって双璧と謳われる小野鎮幸と由布惟信の両名も主の判断を諒とした。
当時、鎮幸は考えていた。この城であれば、毛利なり竜造寺なりが一万――否、二万の大軍を率いて攻めて来たとしてもビクともしまい、と。
だが、現実を見れば、立花山城はわずか一月足らずで陥落の危機に瀕している。
城の堅牢さに対する鎮幸の見立てに間違いはなかった。間違っていたのは寄せてくる敵軍の規模の見積もり。
まさか毛利軍が五万近い大軍を動員してくるとは、さすがに鎮幸も予想できなかったのである。
毛利隆元、吉川元春、小早川隆景らに率いられた四万五千の大軍は関門海峡を渡ると門司城に入城。隆景率いる水軍一万を豊前南部の攻略および豊後の牽制にあてると、それ以外の軍勢のすべてを筑前に向けて叩きつけてきた。
毛利軍が国境を突破するや、大友家に敵対的な豊前、筑前の国人衆は喜んで『一文字三つ星』の旗の下に馳せ参じ、毛利軍の軍容はたちまち四万を越え、五万に迫る。この大軍を食い止めんとした大友方の諸城は衆寡敵せずに蹴散らされ、筑前北部はほとんど一瞬で毛利に飲み込まれてしまった。
この敵の猛威に対して、立花山城の鎮幸たちは有効な手立てを何一つとして講じることができなかった。大友軍はもともと篭城策を選ぶつもりではあったが、仮に出戦する意思があったとしても為す術がなかっただろう。そう確信できてしまうほどに、毛利軍の侵攻には付け入る隙がなかったのである。
城を取り囲む敵軍をはじめて目の当たりにしたとき、鎮幸は胃の腑がずしんと重たくなるのを感じた。立錐の余地もないほどに周辺の山野を埋め尽くす敵の布陣は、ただそれだけで城兵の心身を圧迫してくる。
まさかこれほどの相手だったとは――鎮幸はそう思い、ひそかに臍をかんだ。
決して相手を甘くみていたつもりはないのだが、結果だけを見ればそうとられても仕方ない。
毛利の大動員に関しては、同僚である由布惟信も、主である立花道雪さえ予測を外されたことになるが、それは鎮幸にとって何の慰めにもならなかった。
世には烏合の衆という言葉がある。敵がただ農民をかき集めただけの軍であれば戦いようはあったかもしれない。
だが、間もなく始まった毛利軍の猛攻はそんな安易な期待を粉微塵に粉砕するものであった。
敵将の毛利隆元は自軍と国人衆の部隊を巧みに連動させ、誾が守る井楼山、鎮幸が守る松尾山、惟信が守る白岳を、時には同時に、時には交互に攻め立てて守備側が連携する隙を与えない。
この猛攻に対し、鎮幸らは分断されながらも懸命に防戦に努め、かろうじて敵を追い返すことに成功するが、この攻勢さえ毛利軍が次手を打つための布石に過ぎなかった。
毛利軍は鎮幸たちが防戦に追いまくられている隙をつき、前線付近に人足を多数動員して水の手を断ち切ってしまったのである。
篭城戦においては水の確保はそのまま城の命運に直結する。
ゆえに、通常、水源は厳重に秘されているもので、これを見つけ出すことは困難を極めるのだが、毛利軍はあっさりとこれを看破してのけた。おそらくは先の叛乱以後、道雪に仕えることをよしとしなかった立花鑑載の旧臣たちが毛利軍に参じているのだろう。彼らにとって立花山城はかつての我が城であり、機密に類する情報を知っている者がいてもおかしくはなかった。
鎮幸たちもこの事態を予測していなかったわけではない。
道雪は城郭に関しては「ほとんど」手を加えなかった。では、わずかに手を加えたのがどこであったかといえば、水源に関する防備である。
だが、柵や櫓なら一度壊して別の場所に作り直すこともできるが、水源を移動させることはできない。見つかりにくいように隠蔽したとしても、おおよその位置を掴まれていれば、その情報をもとに見つけ出すのは困難ではない。結果として、鎮幸たちがほどこした備えは毛利軍の思惑を防ぐには至らなかったのである。
水の手を断ち切られたことで、城内の大友軍には深刻な動揺がうまれた。
鎮幸はそのことを敵に悟られないよう、敵兵の目につきやすいところで米を炊いて見せたり、あるいは米を高所から滝のように流して、いかにも城内に水が豊富であるように装ってみたりしたものの、それらがただの悪あがきに過ぎないことは承知していた。
まとまった雨が降ってくれれば何とかなったかもしれないが、季節柄、雨は少なく、一度だけ降った時も城内の渇きを癒す量には到底足りなかった。
渇きによる苦しみは、敵と戦っている時よりも、むしろ敵が退いた後の方がきつくなる。
大友軍の士気は日を追うごとに衰えていき、反比例して毛利軍の攻勢は勢いを増していく。
一日、小野鎮幸は松尾山の曲輪で天を仰いだ。
「押したと思えば退き、退いたと思えば押す。一糸乱れぬ見事な攻勢と、付け入る隙のない巧みな退き方。水の手を断っておきながら、焦らず逸らずの磐石な戦運びは凡将のよくするところではない。おそらく前線で指揮を執っているのは吉川元春どのであろう」
彫りの深い顔立ちに苛立ちと疲労と感嘆を複雑にとけあわせて鎮幸は慨嘆した。
主導権は常に毛利軍の手中にあり、大友軍はそれを取り戻す糸口さえ掴めない。戦に慣れた鎮幸であっても、今の戦況で泰然としてはいられなかった。
渇いた喉に痛みをおぼえ、けふんけふんと咳き込みながら、鎮幸は再度敵陣に目を向ける。
「けほ……まったくな。こうしつこく張り付かれては味方の援護も敵への逆撃もままならん。おまけに大兵を利して昼夜の別なく攻め立ててきおるから、まともに兵を休ませることもできぬ。鬼吉川の評に偽りなし、であるな」
苦い賛辞を口にしながら、鎮幸はこれからどうするかについて考えをめぐらせた。
道雪の援軍が来着するまで耐え凌ぐ、というのが今のところ大友軍が採れる唯一の策であるが、水の手を断ち切られたことでそれも難しくなった。
すでに渇きの苦しみは限界に達しつつある。このままでは耐えかねて敵陣に駆け込む者も出てくるだろう。
そうなる前に一か八か打って出るか、それともあくまで城に篭り続けるか。
それは言葉をかえれば、自軍の十倍を越える敵に捨て身の突撃を仕掛けるか、あるいは渇きに苦しみながら、いつ来るともしれない援軍を待ち続けるか、そのどちらかを選ぶということである。
考えあぐねた鎮幸は再び天を仰ぐ。この鎮幸の焦燥は、多少の差異こそあれ、井楼山の戸次誾、白岳の由布惟信と共通していた。
と、その時だった。
松尾山を包囲していた毛利軍に大きな動きが起きる。潮が引くように、一斉に攻め手が城から離れ始めたのである。
鎮幸ら将兵は何事かと目を瞠った。
この毛利軍の突然の後退の理由を鎮幸が知ったのは、それからしばらく後のこと。毛利軍が退いた隙を縫うように井楼山からやってきた戸次誾の使者が、慌しく次のように告げたのである。
――大友家のかつての重臣 高橋鑑種が、毛利家の使者として戸次誾との対面を望んでいる、と。
◆◆◆
井楼山、本城。
誾からの知らせを受けて急ぎ駆けつけてきた鎮幸は、そこで一足先に来ていた僚将の姿を見かけて声をかけた。
「惟信」
「これは鎮幸どの」
鎮幸は松尾山、惟信は白岳と、今日まで別々の場所で激戦を展開していた二人であったが、互いの無事を喜びあっている暇はなかった。挨拶もそこそこに、鎮幸は先着していた惟信に事の真偽を問うた。
「まことに高橋さまなのか?」
「間違いなく。さきほど私自身が確かめました」
それを聞いて鎮幸は深く嘆息した。
「そうか……生きておられたのだな」
先に筑前で叛乱を起こした二つの大家、立花家と高橋家。
立花家の当主である鑑載は腹を切ったが、鑑種に関しては杳として行方が知れなかった。
鑑種ほどの武将が山野で窮死したとは思えない。おそらく他国へ逃亡したのだろうと鎮幸は考えていた。
先の乱を見れば鑑種と毛利の間につながりがあったことは明白である。したがって、鑑種が毛利家の使者として姿を見せたことに対し、鎮幸は驚きはしても狼狽はしなかった。
ただ、それはあくまで自分自身に関してのことであり、他の将兵の動揺は避けられまい、と鎮幸は判断していた。
高橋鑑種という人物の影響力もさることながら、鑑種と血のつながりを持つ人間がこの城にはいるのである。その人物の心境を慮れば、鎮幸とて虚心ではいられなかった。
「若はいずこに? 高橋さまとの話し合いの最中か?」
「誾さまは城主の間にいらっしゃいます。鑑種どのから話を聞くのは、鎮幸どのと私が揃ってからにすると仰って」
「そうか。鑑種どのは若にとって実の叔父上であらせられる。この戦況で向かい合えば、平静を保つのはなかなかに難しかろう。わしと惟信でお助けしてさしあげねばなるまいて」
「はい、それは当然のことです。ところで、それはそれとして、鎮幸どの」
惟信は形よく整った眉をしかめると、年上の同輩に手厳しい声を向けた。
「誾さまはすでに戸次家の当主となられた身。そして飛騨守に任じられた御家の重臣でもあります。若、などと気安く呼んではなりません。兵に聞かれれば、鎮幸どのが誾さまを軽んじているととられかねません」
「む、そうであったな、すまぬ」
惟信の注意を受け、鎮幸は慌ててうなずいた。
むろん、鎮幸が誾を軽んじていないことは惟信も承知している。「若」というかつての呼びかけは誾への親しみゆえのものだろう。惟信自身、いまだについ若さまと呼びかけそうになることもあった。
だが、親しいからこそ、よりいっそう注意しなければならない。
現在の立花勢の主力は、鎮幸や惟信がそうであるようにかつての戸次勢であり、誾のこともよくしっていた。しかし、中には立花家の旧臣や、道雪が当主となってから加わった者たちもいる。彼らにしてみれば戸次誾という大将は若すぎるのである。道雪との関係は承知していても、実際に若輩の誾が戦の指揮を執るとなれば、不安に思うなという方が無理であろう。
ただでさえ苦しい戦況なのだ。ここで誾に対する不安、あるいは不満が顕在化してしまえば、勝てる戦も勝てなくなってしまう。
惟信がそんなことを考えていると、鎮幸が気ぜわしげに問いかけてきた。
「それで、その誾さまだが、大丈夫であろうか?」
「大丈夫、とは? 問いは明確にするべきです」
「うむ、それは、なんだ。どういったらよいのかわからんが……」
困じ果てた様子の鎮幸に対し、惟信はあっさりと核心をついてみせた。
「鑑種どのに説伏されて降伏を選ばれるのではないか。鎮幸どのはそれを案じていらっしゃるのですか?」
「う、む。まあ、そうだ。日向より戻られてからというもの、絶えず何かをお悩みになっておられたようであるしな。わしも幾度かそれとなく訊ねてみたのだが、はかばかしい答えは得られなんだ」
「……それとなく、ですか? 『何かお悩みのことがあれば、遠慮なくこの鎮幸に仰られよ!』と衆人の前で言い放つことは、その表現に似つかわしくありません」
「仕方なかろうが。世間話にことよせて少年の悩みを聞く、などという器用な芸当はわしにはできんッ」
「自信満々で断言することではないように思うのですけれど」
惟信は呆れたように溜息を吐いたが、誾が何かを思い悩んでいた、という鎮幸の考えには同意であった。
ただ、惟信は鎮幸のように、その悩みに関して問いただそうとはしなかった。誾が何に悩んでいるかはおおよそ察しがついていたし、その答えは余人に問うて出せるものではないとわかっていたからである。
さらにいえば、自身の性格を熟知する惟信は、自分が年少の男の子の相談相手に向いているとはまったく考えていなかった。
その反面、誾を気にかける鎮幸を止めなかったのは、誾が鎮幸に話す気になるのであれば、それはそれで良いことだと考えたためである。
「道雪さまがムジカに赴かれるおりに仰っていたでしょう。誾さまが自分で出した答えならば、それがどのようなものであれ支えてあげてほしい、と」
「それはむろん覚えているが」
「であれば、ここでわたしたちが思い悩む必要はないでしょう。誾さまが答えをお出しになるのを静かに待つべきです」
惟信の言葉を正論と聞いたのだろう、鎮幸は力なく肩を落とした。
「うむ、それはわかっているつもりなのだがな」
「ならば、もっと泰然と構えていてください。この苦しい戦況にあって、一番に誾さまを支える私たちが不安げな顔をしていては話になりません。誾さまは情が強いところがおありですが、頑迷にはあらざるお方。私たちの助けが必要だと思えばそうなさるでしょう。それまで私たちは、しっかと誾さまをお守りすることに注力するべきです」
「む、確かにそのとおりだな。承知した。そうと決まればこうしてはおれん。はよう誾さまのところへ参ろうぞ」
そういうや、鎮幸はどしどしと足音を立てて城主の間に向かって歩き出す。
そのすぐ後に従いながら、惟信は小さく肩をすくめるのだった。
◆◆
「お久しぶりです、叔父上」
誾はそういって眼前に座す人物に視線を向けた。
高橋鑑種。ほんの数ヶ月前まで、高橋家の当主として大友家の筑前支配に力を尽くしてきた重臣であり、誾にとっては実の叔父にあたる人物である。
甲冑はおろか脇差ひとつ身につけておらず、持っている物といえば腰に差した扇子のみ。武士とは思えないその格好にくわえて、諸事に落ち着きを感じさせる挙措は、どこか僧籍にいる人間を思わせた。
鑑種の口がゆっくりと開かれ、明晰な声が紡ぎ出される。
「久しいな、誾。こうして面と向かって顔を合わせるのは、先年の正月以来になるか」
「はい、そうなります。あの時は、次に叔父上とお会いするのがこのような時、このような場所になろうとは想像もしておりませんでした」
それは受け取り方によっては棘を含んで聞こえる言葉だったが、鑑種は気にする風もなくうなずいた。
「さもありなん。わたしとて明確に今日のことを思い定めていたわけではなかった。そなたが予測しうるはずもない」
そう答える鑑種を、誾は睨むように見据えた。そうすれば叔父の言葉の虚実を見抜けるのだと信じるように。
鎮幸と惟信の二人は、誾の左右にあって黙ってこのやりとりに耳を傾けていた。
誾と鑑種の声にはある種の距離が存在する。叔父甥の間柄とはいえ、この二人はこれまで格別に親しかったわけではない。道雪と共に豊後にいた誾と、筑前を領地とする鑑種とでは顔をあわせることも稀だったのである。
鑑種が所用で府内に戻ったおり、気を利かせたつもりの宗麟が二人を会わせることも何度かあったが、その際もとおりいっぺんのやりとりで終始するのが常であった。
とはいえ、それは二人が互いを疎んじていたからではない。むしろその逆であった。
誾にしてみれば、自分が物心ついた頃から高橋家の当主に立っていた鑑種は、実の叔父であるよりも前に目上の大身であるという意識が先に立つ。
また、鑑種は領内における南蛮神教の布教にはっきりと否を唱えるなど、宗麟に忠誠を尽くしながらも諌めるべきところはしっかりと諌めており、誾はそんな鑑種に敬意を覚えてもいた。その鑑種に対し、肉親だからとて狎れるような振る舞いをすることはできず、結果として一線を引いた対応になってしまったのである。
一方の鑑種もまた亡き兄の忘れ形見である誾を常に気にかけていた。
積極的に誼を通じようとしなかったのは、二階崩れの変の首謀者とされる一万田鑑相の実弟と実子が親しくしていれば、周囲にいらぬ誤解を与えかねないと判断したためである。宗麟はともかく、カブラエルあたりが悪意をもって暗躍すれば、誾はもちろん義母である道雪にも危難が及ぶ。
そう考えた鑑種は意識的に誾との接触を控えた。自身の行動次第で再び大乱が起こるかもしれぬと思えば、そうする以外になかったのだ。
鑑種が誾に向けて口にした言葉は事実である。
何年も綿密に謀反の計画をたてていたわけではない。鑑種が明確な叛意を抱いたのは本当に先の正月以降のことであった。正確にいえば、小原鑑元による豊前の叛乱が終結した時となる。
それまでも主君に対して思うところがなかったわけではない。だが、鑑種は道雪や石宗ほどではないにせよ宗麟に期待をかけていたし、主家への忠誠心は幼い頃から兄や父に叩き込まれていた。なにより義鑑(宗麟の父)も塩市丸も亡くなってしまった以上、大友宗家の血を継ぐのは宗麟のみ。大友家存続のためにわが身をなげうった兄の思いを理解していた鑑種は、臣下としての節を曲げることなく大友家に仕えてきた。
だが、そんな鑑種の思いとは裏腹に大友家は混迷の波に翻弄され続ける。
二階崩れの変の後、大友家は表向き宗麟の下で繁栄と発展を続けていたが、その陰では拭えない不和と不信が育まれ、その統治は常に不気味な軋みをあげていた。
施政の中心である大友館で、異国人が肩で風を切って歩く姿を見るなぞどうかんがえても尋常ではない。
鑑種は一度ならず自問しなければならなかった。これまで大友家に捧げてきた忠誠を、これからも捧げていくべきか否か。
その頻度は宗麟が南蛮神教に傾倒していくにつれて増していき、朋友ともいえる立花鑑載と夜を徹して語り合ったことも一再ではない。
鑑種が大友宗麟との決別をはっきりと思い定めた豊前の乱。
宗麟が乱の首魁であった小原鑑元に死を授けたことに不満はない。謀反に失敗した以上、それは当然のことであるし、鑑元も覚悟していただろう。鑑種が許せなかったのは、宗麟が鑑元に対し、助命の条件として南蛮神教への改宗を突きつけたことであった。
宗麟は鑑元が謀反に踏み切った理由を何一つとして理解していない。そのことを思い知ったとき、鑑種の心の秤は急激に一方に傾いていったのである。
鑑種は沈痛な面持ちで口を開いた。
「宗麟どのが当主であるかぎり、大友家が衰亡の一途を辿ることは明白であった。しかも、その行き着く先はただの滅亡ではない。領民は宣教師によって南蛮神教を強制され、政(まつりごと)は南蛮人に牛耳られ、我ら家臣は彼奴らの走狗として他国を侵す尖兵に仕立てあげられる。それはすなわち、大友家が南蛮の奴婢に成り下がるということ。ひいては日ノ本に異国の勢力を引き込むことである。そのような結末は滅亡よりなお悪い。大友の名は、唾棄すべき売国奴として歴史に刻みこまれることとなろう」
激することなく、あくまで淡々と言葉を紡ぐ鑑種。
誾はそんな叔父に反論することができなかった。鑑種の危惧が考えすぎでもなんでもなく、正確に将来を予見したものであることは、その後の宗麟の行動が証明している。
もっとも、今の台詞は日向侵攻に始まる宗麟の行動を聞き知った鑑種が、それを自己正当化のために用いたと考えられなくもない。
だが――
(叔父上はそんな方ではない)
誾は内心でそう断じた。
それに鑑種の危惧は誾も常々感じていたことだった。
いや、誾や鑑種だけではない。その危惧は、宗麟の南蛮神教への耽溺と宣教師の抬頭を知る者すべてが等しく抱いていたものといえるだろう。
鑑種の言葉はなおも続く。
「兄上は――そなたの父上は、すべてを懸けて大友の家を守ろうとした。わたしもまた臣下として大友家のために尽くしてきた。その御家を売国の汚辱にまみれさせんとする者を、どうして主君と仰ぐことができようか。そう考えて、わたしは鑑載どのと共に兵を挙げた。そして、見事に敗れた」
もはや諫言が通じぬことは明白。ならば実力をもって意を通すのみ。
鑑種たちはひそかに語らい、兵を集め、かつての敵と手を結び、寸前まで味方を装った末に裏切って後背を襲うという策略を用いてまで勝利を欲し――そして、敗れた。
鑑種にしてみれば、叛意を悟られるような下手を打った覚えはなく、今なおどうして敗れたのか判然としない奇妙な敗北だった。
とはいえ、敗北は敗北である。ひとたび兵を挙げて敗れた上は、何を言ったところで負け犬の遠吠えにしかならない。恥を承知で吠えたところで、宗麟に思いが通じないことは小原鑑元に対する始末を見れば明らかである。
立花鑑載は敗戦の責を一身に負って腹を切った。
鑑載らしい潔さだと鑑種は思ったが、自身は朋友に倣わず、毛利家に匿われて次の機会を待つことにした。別段、毛利家に無理強いされたわけではない。卑怯未練と罵られようとも、あくまでも生きて大友宗麟を止めることを鑑種は選んだ。ただそれだけのことであった。
――そのことを口にした時、一瞬、誾の目には鑑種の眼差しがわずかに翳ったように見えた。
だが、それはどうやら気のせいであったらしい。
鑑種の顔は依然、伏せられることなくまっすぐ誾に向けられており、広間に響く朗々とした声には自責も羞恥もない。鑑種が自身の決断に対して何ら悔いを抱いていないことを誾は察した。
ひとたび決断を下した上は、その決断に対するすべての責任を負う。そう思い定めているのだろう。
そんな鑑種に対して、タチの悪い開き直りだ、と罵ることはできただろう。
責任を負うといえば聞こえはいいが、ただ恥を知らぬというだけではないかと責めることもできた。
だが、誾はそうしなかった。
しようとさえ思わなかった。何故といって、誾には鑑種に対する反感も嫌悪もまったくなかったからである。鑑種だけではない。誾は立花鑑載や小原鑑元らを裏切り者と責める気にはどうしてもなれなかった。
彼らは二階崩れの変以降、誠実に宗麟に仕え、大友家を支え続けた重臣である。南蛮神教に関しても保身のために阿諛追従を口にしたりせず、宗麟に幾度も諫言を行っている。鑑種などは領内への布教すら拒んで自身の立場を明確にし、それでもなお主家への忠誠を失うことはなかった。
鑑種たちは臣下としての節義を守り、主の非を正そうと何年も努めた末、それがかなわないと悟ってはじめて兵を用いたのである。
むろん、だからといって謀反の罪が消えるわけではないが、それでも誾は彼らの行いを否定できない。誾が彼らの立場であれば、やはり同じような決断を下したのではないかと、そう思われてならなかった。
そんなことを考える誾の姿は、鑑種の目にどう映ったのか。
ほどなくして、鑑種は穏やかな口調はそのままに、誾に決断を求める言葉を口にした。
「――隆元どのの話では、そなたは高千穂を攻めていたそうな。どのようなゆえあってこの城に来たのかはわからないが、ムジカもすでにその目で見たのではないかな? そうであれば、そなたはわたしよりもずっと物事が見えているはず。今、大友家のために戦うということは、宗麟どのの売国を是とすることに等しい。これ以上の抵抗は無益であるばかりでなく、大友家にとって、そして日ノ本の国にとって有害であろう。よく考えてほしい。この戦いに、そなたをはじめとした大友の将兵が命をかけるに足る意義があるかどうかを」
◆◆
「誾さま」
それまで黙して二人の会話に聞き入っていた惟信が静かに呼びかける。
どのように返答するにしても、少し時間を置くべきだと考えたからだったが、誾は軽く右手をあげて惟信を制すると、誤解の余地のない明快さで告げた。
「結論から申し上げます、叔父上。立花山城は筑前の要。大友の将として、これを敵に明け渡すことはできません。あくまでもこの城を欲するのであれば、弓矢もて決着をつけましょう。毛利隆元どのにはそうお伝えいただきたい」
「――あくまで宗麟どのに尽くす。そう決めたのだな」
「はい」
誾は深くうなずいた。
ためらいなど微塵もないその姿に、鎮幸はもちろん惟信さえ目を瞠る。今日までの苦悩がまるで幻であったかのように、誾の態度には揺らぎがなかった。
(いや、それは順序が逆かもしれない)
ふと、惟信はそう思った。今日まで迷いに迷いを重ね、ついには迷う余地がなくなるほどに迷い続けた末の決断だからこそ、ここまで毅然たる態度をとっていられるのかもしれない。なにしろ、もう迷う余地は残っておらず、余計なものに足をとられる恐れはないのである。
惟信がそんなことを考えていると、鑑種の声が耳にすべりこんできた。
「今の言葉、必ず隆元さまにお伝えしよう。ただ、出来得ればそなたがそう決断するに至った理由を知りたく思う。どうだろうか」
それを聞き、鎮幸と惟信も知らず誾の顔に視線を向けていた。
三者の視線を浴びた誾は困ったように首をかしげたが、やがて何事か思い定めたようにうなずくと、静かに語り始めた。
「はじめに申し上げておきますと、私は叔父上の行動を非難するつもりはありません。今の叔父上のお言葉、いずれも然りと聞こえました。もし、私が叔父上の立場であれば、同じ行動をとっていたかもしれぬとさえ思っています」
そういった後、すぐに誾は付け加えた。
「同時に、私のような若輩がそう考えることがどれほどおこがましいことか、そのこともわかっているつもりです」
大友の家臣として長らく主家のために働いてきた鑑種と、戸次家を継いで間もない誾とでは、主家への貢献は比べるべくもない。鑑種の叛意と誾の叛意では、その重みがまったく違うのである。
また、みずから望んだことではないとはいえ、他者から見れば若くして戸次家を継ぎ、飛騨守に任じられた誾は主君から格別の寵愛を授かった権臣であった。恩を仇で返すなど人としても武士としても陋劣の極みといってよい。
主君に忠ならんと欲すれば売国奴、これに叛けば卑劣漢。
すべてを満たす答えはどこにもない。そうとわかっていて、それでもなお諦めることができなかったから迷っていた。今日まで毛利軍と矛を交えながらも、どこかで「これでいいのか」という思いに苛まれていた。
その迷いを払う契機となったのが今回の鑑種の訪れである。
ただしそれは、状況に強いられ、否応なしに答えを出さざるをえなかった、という意味ではない。
「それはどういう意味か?」
静かでありながら力感に満ちた視線で鑑種は誾を見据えた。さきほど話をしていた時よりもよほどに迫力と威を感じさせる。ここにきてはじめて、誾は長年に渡って一国を統べてきた叔父の渾身を目の当たりにした思いであった。
だが、だからといって怯んだりはしない。誾は堂々と鑑種に応じてみせた。
「簡単なことです。叔父上がお越しくださったことで、私は売国奴にも卑劣漢にもならない道を見出すことができたのです」
「ふむ……?」
訝しげな鑑種に対し、誾はつい先ほどの叔父の言葉を引き合いに出した。
「叔父上が今しがた仰ったように、私は一軍を率いて高千穂を攻めました。この戦いがどういうきっかけで起きたのか、叔父上はご存知でしょうか」
「日向との国境で殺された南蛮宗徒の報復戦と聞いている」
「はい、そのとおりです。あの折、豊後でそのことを知らずにいたのは赤子だけでした。その一方で、殺された南蛮宗徒の名前、人数、住まい、具体的にいつ、どのように殺されたのか、そういったことを知る者は皆無でした。ただ南蛮宗徒が日向の者たちに虐殺された、その情報だけが野火のように国内に広がっていったのです」
誾自身、何とかして調べようとはしてみたが、手がかりひとつ掴めなかった。そうこうしている間にも報復を求める声は豊後の国を覆いつくし、派兵は半ば既定のものとなっていた。
この戦いの行き着く先を予測した誾は、すべては南蛮神教の企みではないかと考え、報復の軍を起こすことに反対するつもりでいた。
しかし。
「結局、私は反対どころか別働隊を率いる立場となったのです」
それを聞いた鑑種は小さく首をかしげる。
「それは、宗麟どのからそう命じられたからではないのか?」
「いいえ。私はみずから宗麟さまに望んだのです。これ以上、他国の暴虐を許さぬためにも報復は避け得ざるところ、願わくば新しき戸次家の当主に一軍を率いることをお許しあれ、と」
当時のこと――といっても、ほんの数ヶ月前のことなのだが――を思い出した誾の胸に、ほろ苦いものが湧き上がる。
「復讐の狂騒に包まれた軍勢が敵地で何を為すかは想像するまでもないことでした。大友家の名を損なわぬために、私はそれを止めたかった。ですが、事態はすでに一人や二人の反対でどうこうできる段階ではありませんでした。私のように何の功績もない若輩では尚更のことです」
誾はそこで言葉を切る。その口元には、苦笑と称するには苦すぎる笑みが浮かんでいた。
「それでも足掻こうとした私に、ある者がこう言い放ったのです。此度の一件を止めたいのならば、反対を唱えるのではなく、進んで報復に加わるべし、と」
「なに?」
鑑種が眉をひそめる。
その顔を見て誾は思った。おそらく、あの時の自分もこんな表情をしていたのだろう、と。
「進んで報復に賛同し、宗麟さまの歓心を得て軍を率いる立場となれ。そうしてはじめて暴兵を掣肘する権限を得ることができる――はじめて聞いたときは激怒してしまいましたが、冷静になって考えれば、私があの状況に一石を投じるためには他に手がないことは明白でした」
「……虎穴にいらずんば、ということか」
鑑種は宗麟が誾に格別に目をかけていることを知っている。戸次家を継いで間もない誾が、南蛮神教の企みをわずかなりとも阻もうとするのであれば、たしかにそれ以外に手はないといえるだろう。
だが、それが今回の誾の決断とどう関わってくるのか。
「時に、目的のために手段を選んでいられないことがあります。私は高千穂の戦いでそれを学びました。ひるがえって、此度の私の目的は何か。宗麟さまを討つことではありません。かといって、盲目的に宗麟さまに従うことでもありません。私は宗麟さまを糾したいと、そう思って………………え?」
不意に誾の声が途切れ、戸惑ったような声が口から零れ落ちた。
突然のことに、鑑種はもちろんのこと、鎮幸と惟信も不思議そうに誾を見つめる。
彼らの視線の先では、誾が戸惑いもあらわに右手で口元を押さえ、なにやらぶつぶつと呟いていた。
「僕は、毛利を討ち払った大功をもって、宗麟さまを糾そうと……もし、それでも宗麟さまが聞き入れてくださらないのであれば、その時こそ正面からって…………」
ここで毛利の大軍を追い返すことができれば、その大功は誾の未熟をおぎなって余りある。誾が主君に諫言を呈そうとも、それが分不相応だとそしられることはない。それでもなお宗麟が南蛮に尽くそうとするのであれば、その時は忘恩と謗られようとも面と向かって刃向かおう。
力及ばず毛利軍に敗れれば、誾はここで死ぬ。けれど、鑑種が毛利軍にいるかぎり、宗麟の行いを食い止めてくれるだろう。
勝とうと負けようと、いずれにせよ大友家が売国奴として歴史に汚名を残す事態だけは避けられる。
そう確信できたから誾は戦うことを決断した。売国奴にも卑劣漢にもならない道はこれしかないと、そう思えた。
だが、それを言明しようとする寸前、誾の心から不意に一つの思いがわきあがってきた。
売国奴とか、卑劣漢とか。糾すとか、糾さないとか。
そういった堅苦しい言葉ではなく、恥ずかしいくらいにむき出しの素の心。
今この時まで、自分自身気づいていなかった戸次誾の本当の目的。
それは――
突然、誾がこらえかねたように笑い出したのを見て、この場にいた者たちは一様にぎょっとした顔になった。
決断の理由を口にしていた最中、いきなり口ごもったと思ったらこの大笑である。彼らが少年の正気を疑ったとしても、それはいたし方ないことであったろう。
特に鎮幸と惟信の二人は、今日まで誾が懊悩し続けていたことを知っているから尚更であった。
「わ、若! しっかりなさいませ!」
「若さま、どうかお気を確かに」
鎮幸の慌てふためいた声に比べれば惟信の方はまだ落ち着いているように思われたが、つい先刻、鎮幸に注意したばかりの呼びかたを用いているところからもわかるように、鎮幸に負けず劣らず取り乱していた。
だが、幸いというか、当然というか、誾は別段気が触れたわけではなく、慌てる二人をなだめるように右手をあげる。
「ふふ……ふ、だ、大丈夫、大丈夫なんだけど、くく」
「いや、どう見ても大丈夫なようには見えませぬぞ!? 若、いったいどうなされたッ!?」
「うん、その、あんまりにもおかしくて……ちょっと、耐え切れなかった――けほ、けほッ!」
水断ちで渇いた喉に笑いすぎが響いたのだろう、誾が苦しげにせきこんだ。
素早く駆け寄った惟信が誾の背を優しく撫ぜる。そうしながら、惟信は誾の言動に確かな意思を感じ取ってほっと胸をなでおろしていた。
しばし後、居住まいを改めた誾は鑑種に頭を下げた。
「……叔父上、失礼いたしました」
「いや、かまわないが……いったいどうしたのだ?」
「本当の目的がわかったのです。いえ、目的というか、本心といった方がいいのでしょうか。私はつい先ほどまで宗麟さまを糾したいと考えていました。誰にも文句のつけようのない大功をたてて、その上で南蛮を盲信する宗麟さまを正道に引き戻したい、と。必要とあれば力ずくで、それこそ叔父上のように。それが私にとっておこがましい考えであるとは承知していますが、毛利軍を追い返した大功があれば、誰に引け目を覚えることもなく事にあたることができる。そう考えていたのです」
そう言った後、誾は楽しげに微笑んだ。
鑑種はもちろんのこと、鎮幸や惟信でさえかつて見たことのない心底から楽しげな微笑だった。清々しいとさえいえるその表情に、一瞬、鑑種は幼き日の兄の姿を重ね見る。
ひそかに目を瞠る大人たちに気づかず、誾は先を続けた。
「けれど、それを叔父上に申し上げようとしたとき、不意に思ったのです。そうじゃない。僕が本当にしたかったのは、糾すとか、正道に引き戻すとか、そんな小難しいことじゃなくて、もっと単純に――」
――宗麟さまを叱ってやりたかったんです
――必要とあらば、頬でも尻でも引っぱたいて
あっさりと言い放たれた一言に、場の空気が音をたてて凍りつく。
ある意味、さきほどの大笑よりもよほど正気を疑いたくなる言葉だった。
「……宗麟どのを、主君を、叱る、だと? しかも、主の、女性の頬や尻をひっぱたく?」
うめくような鑑種の言葉に、誾はもう一度うなずいた。
「はい。父上が命懸けで守った大友家にお前は何をしているんだ、と。お前が南蛮神教にうつつをぬかしている間、義母上たちがどれだけ身をけずってきたのかわかっているのか、と。もっと当主としての自覚をもって民や家臣に迷惑をかけるな、と。僕は、ずっと、ずっと、そういってあの人を叱ってやりたかった」
叛意はない。殺意などさらにない。
ただ、大友家の当主としてもっとしっかりしてくれと、面と向かってそう言いたかっただけ。
それがどれほど礼を失した行いであるかはわかっている。実行せずとも、そう考えていると知られただけで道雪や紹運から鬼のような説教を受けるだろう、きっと。
それでなくとも、誾自身、それがどれだけ臣下としての道を踏み外した望みであるかは理解できる。だからこそ、これまで意識の端にのぼらせることさえなかったのだろう、と誾は自分の心を分析した。
その望みを今日この日に自覚した。してしまった。
そして、一度自覚してしまうと、その望みは驚くほどにしっくりとくるのである。是が非でも実行してやる。あっさりとそんな決心を抱いてしまえるほどに。
あるいはそれは、今日までの屈託した自分自身への苛立ちがうみだした「逃げ」の気持ちなのかもしれない。その危惧がないわけではなかったが、誾は考え直そうとは思わなかった。
どのみち、売国奴にも卑劣漢にもならない選択肢など他にはない。あったとしても、誾には思いつかない。結果として主君に呈するのが諫言になるか、叱責になるかの違いだけだと思えば、あえて決心を翻す理由はなかったのである。
◆◆
「どうやら、再考を求めても無駄のようだ」
そういう鑑種の声には、呆れを通り越して、どこか愉しげな響きがあった。
誾はそれを意外に思いつつも、悪びれずに頭を下げる。
「申し訳ありません、叔父上」
「なに、かまわない。元々、若いそなたに、わたしと同じものを見よなどと言うつもりはなかった。いっておくが、そなたの若さを侮って言っているわけではないぞ? 若いからこそ見えるものは多くある。年を経て失ってしまうものも多くある。たとえ同じものを見たとしても、わたしとそなたが見る景色が異なっているのは当然のこと。ゆえに、結論が異なるのもまた当然というものだろう」
さすがに主君をひっぱたくというのは予想できなかったが、と鑑種は苦笑する。
誾はそんな叔父の態度を見て、少なからず意外の感に打たれた。
「叔父上は私に降伏を求めに来たわけではないのですか?」
「降伏してくれれば良い、と考えてはいた。だが、道雪どのの薫陶を受けて育ったそなただ、そう簡単に心変わりはしないだろうとも思っていた。一度主家を裏切ったわたしの言葉が、今なお大友家を支え続ける者たちの耳に届くと考えるのも虫の良い話だろう」
「では、叔父上は何のためにここにいらっしゃったのですか?」
その問いを受け、鑑種は一度目を閉ざす。
再び開かれたとき、その目には誾でさえはっきりとわかるほどに強い意志が感じられた。
「そなたに頼みがあった。勝手な願い、と言いかえても良い――誾、そなたはこの戦いで死んではならない」
「……それは」
「此度の戦い、わたしの目には十のうち十までが毛利の勝利と映る。毛利軍を率いる隆元どのの目的は宗麟どのの売国を阻むことであって、大友家を完全に滅ぼすことではない。宗麟どのを当主の座から降ろすことがかなえば、大友家存続の芽は残るのだ。むろん、領土の大半は失われるであろうし、大友が毛利の付庸となることは避けられまい。だが、少なくとも大友の名跡を残すことはできる。宗家の血が絶えたとしても、同紋衆の中からしかるべき者を選んで家名を復興させることは不可能ではない」
鑑種はそういうと、じっと誾の顔を見つめた。
「過去の大乱に囚われることなく、現在の苦境を弾き返し、新しい大友家をつくりあげる。その中心となれるのは、そなたをはじめとした次の代を担う若者たちしかいない。だからこそ、そなたは此度の戦で死んではならない。そなたを失えば、大友家の復興は永く成し遂げられないだろう」
そう口にする鑑種を、誾は半ば呆然として見つめていた。
話が飛躍しすぎている、と思う。
しかし、鑑種が本気で言っていることは疑いの余地がなかった。それに冷静になって考えてみれば、今回の戦いで大友側の勝算が薄いのは事実であり、毛利に敗れた場合、大友家が敵の付庸となることは避けられない。
鑑種が口にしたのは十分にありうべき未来の一片であった。
その時に備えて、たとえ戦に敗れたとしても生き残れ、と鑑種はいう。
鑑種自身が「勝手な願い」と言明したように、誾に従う義務はない。
だが、鑑種が自身の言葉を現実とするべく行動していくのは確信できた。というより、そう行動できるだけの権限を得るために、鑑種は腹を切ることなく生き延びたのではないか。
それこそ、かつて誾が南蛮神教を止めるために南蛮神教に従ったように。
「……叔父上」
誾の呼びかけに対する返答は、鑑種の静かな一瞥であった。
「今のはあくまでわたしの勝手な願いでしかない。そなたがどう身を処するかは、そなたの考えによる。そなたが宗麟どのを叱りつけるために戦うというのであれば、それもまたよし。元服した甥にあれこれ指図する叔父というのも鬱陶しかろう」
そういうと鑑種は楽しげに笑った。
鎮幸と惟信は、その表情が誾のそれと酷似していることに気づき、そっと視線を交わす。
これで用件は済んだとばかりに立ち上がった鑑種は、しかし、広間から立ち去る前にひとつだけ誾に問いを向けた。
「余計なことかもしれないが。誾、そなたの父上が、そなたが元服した時のために残した名があること、道雪どのから聞いているか?」
「……はい、聞いてはおります」
「そうか。では、道雪どのも知らない事実をひとつ教えておこう」
そういうと、鑑種はいきなり人名を羅列しはじめた。
「統虎、鎮虎、宗虎。それに正成、親成、尚政、政高、俊正、経正、信正……と、こんなところだったか。もう二つ三つあったような気もするが、さすがにすべて覚えておくことはできなかった」
「…………あの、叔父上、今のは?」
「そなたの名を考えあぐねた兄上がたどった変遷だよ。あれも良い、これも良い、いやこちらも捨てがたい、と迷いに迷っておられてな。一度決めたと思っても、時が経てばやはりもっと良い名があるのではないかと考え直す始末。いきなり呼びつけられて何事かと駆けつけたら、お前に良い案はないかとせっつかれたこともあった。あの時はそなたの母上に迷惑をかけて申し訳ないと平謝りされたものだ」
当時のことを思い出したのか、鑑種は優しい表情を浮かべる。その顔に拭えない寂寥の陰があるのは、その後の出来事のせいであろう。
鑑種はその表情をかえぬまま、誾の面差しに視線を落とした。かつての赤子の成長を寿ぐように。その成長を見られなかった誰かの心情を思いやるように。
「そなたにも思うところはあるだろう。ただ、そういったこともあった、と心の隅にとどめておいてほしい」
そういうと鑑種は、それ以上の多言を忌むように口を閉ざし、踵を返した。
「敵に武運を祈るわけにはいかない。誾、壮健であれ。できるだけ長く」
「叔父上も」
呼びとめたいという思いがなかったわけではない。だが、呼びとめてどうなるものでもないとわかってもいた。
結局、誾は気の利いた言葉を返すこともできず、ただ去りゆく叔父の背を見送ることしかできなかったのである。