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No.18189の一覧
[0] 【ネタ・習作】P3P女主←無印P3男主憑依であれこれ【TS逆行憑依捏造】[みかんまみれ](2010/06/20 16:18)
[1] ●第一回●[みかんまみれ](2010/04/18 01:56)
[2] ●第二回●[みかんまみれ](2010/04/18 12:09)
[3] ●第三回●[みかんまみれ](2010/04/24 14:48)
[4] ●第四回●[みかんまみれ](2010/05/01 19:48)
[5] ●第五回● 4月21日~タルタロス初探索~[みかんまみれ](2010/06/05 21:00)
[6] ●第六回● 4月22日~“魔術師”コミュ発生~[みかんまみれ](2010/06/05 21:09)
[7] ●第七回● 4月23日~『かつて』からの贈り物~[みかんまみれ](2010/05/29 22:03)
[8] ●第八回● 4月24日~“戦車”コミュ発生~[みかんまみれ](2010/05/29 23:18)
[9] ●第九回● 4月27日~『噂』が呼ぶ悪意~[みかんまみれ](2010/06/20 15:59)
[10] ●第十回● 4月28日~“恋愛”コミュ発生~[みかんまみれ](2010/07/17 00:39)
[11] 蛇足もろもろ[みかんまみれ](2010/07/17 00:51)
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[18189] ●第九回● 4月27日~『噂』が呼ぶ悪意~
Name: みかんまみれ◆4e5a10fb ID:809f8e81 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/06/20 15:59

 複数の、好奇の視線が突き刺さるのを感じる。
 放課後の生徒会室。湊はこの場の長として君臨する美鶴の横に立ち、彼女による紹介を待っていた。

「先日も話したが、彼女が有里公子だ。今日から生徒会の一員として働いてもらう。最初は勝手がわからないと思うので、皆も快く教えてやってほしい」
「有里です。よろしくお願いします」

 テオドアのように完璧にとはいかないが、それなりに綺麗な礼をして顔を上げ、周囲の反応を見る。
 大方の者は、歓迎してくれているようだ。クリップボードを持った、黒ぶち眼鏡の女子生徒が、はにかみつつ会釈を返してくれた。確か1年生で、会計の伏見と言ったか。
 一方でじっとこちらを値踏みするような目を向けてくるのは、小田桐だ。同じ2年生で風紀委員であり、『かつて』では“皇帝”コミュの相手であった。
 気を抜けばすぐに思い出に飛びそうになる己を叱り付け、湊はそつの無い笑顔で対応する。
 小田桐は片眉を器用に持ち上げて、フンと息を吹き出すと腕を組んだ。

「会長が人を推薦するとは。よっぽど有能なんだろう」
「期待に応えられるよう、頑張っていくつもりです。何か問題があれば、ご指導をお願いしますね」

 湊の答えに一瞬面食らったように目を見開いた小田桐だが、やがてニヤリと笑みを乗せた。
 小田桐は聞いてわかる通り挑発的な言動の多い男なので、初対面の相手は大抵が彼に怖気づいたり苛立ったりするのだ。だが湊はその点、実に友好的かつスマートな受け答えをした。これだけでも、小田桐は湊に一目置いたようだった。

「君はなかなか見所があるようだ。僕は風紀委員の小田桐秀利と言う。これから有意義な関係を築いていこうじゃないか」
「ええ、ありがとうございます。小田桐さん」

 貼りついたような笑顔を崩さぬままで、差し出された手を握り返した。それに、同学年だというのに外さない敬語。
 これは湊の、相手に踏み込まぬという隔意であった。
 何故、『かつて』コミュを築き、今もその機会を得た相手に対して心を閉ざそうとするのか?
 それを説明するには、少々日付を遡る必要があるだろう。


 3日前に神社で舞子に逃げられた後、寮の自室へ戻った湊は少し冷静になって考えてみた。
 舞子は『かつて』の“刑死者”コミュの相手だった。その舞子と、コミュを築く前に決定的な決裂を迎えてしまった。
 しかしそれは、この世界で“刑死者”コミュを作り出せない、という根拠にはならないのではないか?
 たとえば“魔術師”コミュだ。『かつて』ではコミュ相手は友近だったのが、今は順平を相手として発生している。
 同様に、“刑死者”コミュもまた、舞子以外の誰かとの間に生まれ得るのではないだろうか?

 ただ、たとえそうだとしても、『かつて』の経験により舞子の抱える悩みを知っている湊は思ってしまう。自分が舞子と一緒に遊んでその心を慰め、相談に乗ってやらなければ、この世界の舞子は寂しいままじゃないかと。
 だがその押し付けの善意めいた感情すらも、別の場所で目にした出来事によって否定されたのだ。

 昨日、日曜日の事だ。本当はリニューアルオープン当日、土曜のうちに訪れようと思っていた古本屋へ、湊は足を向けた。
 古本屋を営む老夫婦の文吉爺さんと光子婆さんは、『かつて』で“法王”のコミュ相手だった。
 ちなみに当日行けなかった理由は、放課後いっぱい使ってテニス部員たちと一緒に、例の噂の掃除に奔走していたためだった。その結果は……はかばかしくなかったと言っておく。噂の根拠は湊自身の心当たりだけでなく、真田の周囲からも1つ信憑性のある話が流れていたそうだ。何を言った、あのタルンダ連発馬鹿が――と、湊が心中で舌打ちしたとかしないとか。閑話休題。

 ともかく古本屋に着いてみると、文吉爺さんも光子婆さんも、店番そっちのけで誰かと楽しそうに話していた。
 はて誰だろうと『かつて』の記憶を引っくり返すうちに、相手が先にこちらに気付いた。明るい表情で話しかけてきたのは、あの柿の木をいつも気にしていた女子生徒であった。どうも彼女は湊の語った話に興味を引かれて、古本屋まで柿の木の葉を持ってきて、爺さんたちに見せてやったらしい。爺さんたちはその女子生徒の行動にいたく感激して、彼女をまるで孫を見るような目で可愛がっている。
 湊は愕然とした。――そこは、おれの場所だったのに!
 心ではそう叫んでも、現実に口に出す事などできやしない。けれど素直によかったねと彼女らの関係を祝福もできず、ただ曖昧に笑みを返した湊に、彼女は続けてこう言った。私のお爺ちゃんとお婆ちゃんは私が生まれる前に死んじゃったけど、こんな風に話してるとほんとのお爺ちゃんたちといるみたいなの、と。
 それを聞いて、湊は思ったのだ。……ああ、この子は自分よりも強く、この2人との絆を必要としているんだ。
 同時にこうも思った。文吉爺さんたちにとっても、きっと必ずしも、自分が必要であるわけではないのだ、と。

 湊はすぐに、古本屋を後にした。寂しさが顔に出ていたのか、爺さんたちが少し心配そうに見ていたけれど、何も言わずに出てきてしまった。名前を名乗る事さえしなかった。
 たぶんあの女子生徒は、『かつて』の自分同様に爺さんたちを励ましてくれるだろう。どうしても『かつて』の記憶を引きずってしまう自分よりも、彼女の方が誠実に、心からの言葉を伝えられるかもしれない。
 だとしたら、自分はこのまま爺さんたちに関わらない方がいいんじゃないのか。爺さんたちだけじゃない、誤解されたままの舞子も、他の『かつて』コミュを築いた人たちも。
 彼らが問う前からその正解を知っていて、わかりきった応答を繰り返すだけの自分じゃなくて。知らないけれど、真剣に自分の頭で考えて答えようとする、別の誰かと付き合えるなら、きっとその方が――。


 突然視界が明るくなって、湊はハッと顔を上げた。
 扉の方を見やると、小田桐が電灯のスイッチから手を離すところだった。

「あ…すみません」
「暗い場所での作業は目に悪い。自分の身体の事も、気遣いたまえ」

 気が付けば、窓から入る西日もかなり少なくなっていた。あれから結構な時間が経ったようだ。
 美鶴は自分を紹介した後、早々に別の用事があると言って去っていった。桐条グループ総帥の一人娘ともなれば多忙である事くらい、皆がわかっているので、誰からも文句は出なかった。
 湊に割り当てられた主な仕事は、広報書類作成の手伝いだった。新学期が始まってまだ日が浅いため、しばらくはこの手の案件が多いのだ。『かつて』の経験を活かしてばっさばっさと片付ける湊は、他の生徒会メンバーから見ても頼もしい助っ人であった。

「仕事の進み具合は――ふむ。さすがだな」
「桐条先輩の顔に泥を塗れませんから。他の皆さんは、もう帰られたようですね」
「ああ。君に声を掛けようとしていたが、集中を乱させたくなかったので僕が伝言として預かっておいた。君に渡したのは普通なら数人がかりで分担して終わらせる量だから、きりの良いところで切り上げて終わってくれという事だが」
「…えっと。全部仕上げてしまったのですが」
「そのようだね。まさかこれほど優秀とは、僕も予想外だったよ」

 湊が手渡した書面に目を通しながら、満足そうに顎を撫でる小田桐。時折ふむふむと頷いているので、スピードだけでなく中身の方も及第点をもらえそうだ。
 時計を見ると、最終下校時刻まで残り30分を切っている。
 生徒会の書類は一応全て、職員室の鍵付きのひきだしに保管しなくてはいけない。自分の帰り支度を終えて、湊は「合格だ」と書面を纏めた小田桐と共に廊下へ出た。小田桐が持っていた鍵で生徒会室も施錠して、2人並んで職員室まで歩く。

「ありがとうございます。小田桐さんの仕事は終わっていたのに、わたしに付き合って残っていてくださったんですよね」
「君の能力を測ろうと思っての私心さ。気にする事は無い。次はいつ来られるのだったかな」
「心苦しいのですが、あまり頻繁なお手伝いはできそうになくて。せめて参加できる時は、十全に働かせていただきます」
「そうか。まあ、君ほどの力量ならばどこでも引っ張り凧だろうしな」

 あまりに小田桐が褒めちぎるので、面映ゆい気分になった湊である。実は作業をしながら延々別の事を考えていたなどとは、言わずにおいた方がよさそうだ。
 職員室で書類と鍵を教師に預ければ、もう帰るだけだ。玄関へ一緒に向かいながら、そっと視線を滑らせて小田桐の様子を観察する。
 胸を張り、肩で風を切って歩く様。普段からしかめ気味の顔を今は機嫌良くほころばせ、その姿はまるで『かつて』自分と並んで歩いた彼と変わらずに。

 ――やはり重ねてしまう。
 仲間たちとは違う。今の仲間たちを『かつて』と切り離して考えられるようになったのは、前の仲間たちとは戦友でこそあれ、個人同士の繋がりは最後まで希薄なままだったという皮肉があってこそだ。戦ってゆくために最初から仲間たちという括りで見ていた『かつて』と異なり、この世界では岳羽ゆかり、伊織順平といった個人を見て、それぞれと手を取り合って仲間という関係を新たに作ったのだ。
 初めから仲間だったという認識を壊される事によって、ようやく『かつて』とは異なる個人としての彼女ら自身が見えてきた。
 ではこの世界の小田桐や文吉爺さん、舞子たちを『かつて』と切り離すには、何を壊せばいい? 『かつて』の彼らと築いた絆を、忘れ去れと言うのか? そんな事できるわけがない。
 できないなら、結局重ねる事でしか彼らを認識できないのなら、最初から深く関わるべきじゃない。深く関わった後で、相手が見ているものが自身ではないのだと気付けば、決して自身を見てはもらえないのだとわかれば、いたずらに傷付くだけではないか。
 だから自分は関わらない方がいい。『かつて』かけがえの無い絆を得た人たちとは、この世界では他人でいるべきだ。
 散々理屈をこねた末に、湊はそういう結論に持っていった。自分が彼らと関わろうとしないのは、彼らのため。彼らを傷付けないためなのだ、と。

 ……だが本当は、違う。傷付きたくないのは、湊の方だ。
 これ以上、『かつて』絆を結んだ人たちから拒絶されたくないから。舞子のように大切だと思う相手から突き放されるのが辛いから。
 今の湊は、仲間たちとのコミュを得て開き直れたようでありつつ、内心にはまだ多くの棚上げした問題を抱えている。ほんの少し弱いところを突付かれただけで、たちまち心は不安定になるだろう。
 舞子に拒絶された事は、今の湊にはショックが強すぎたのだ。時間が経てばやわらぎ、もっと冷静に自分の行くべき道を選べたのかもしれない。しかし湊はその衝撃から逃れるために、拙速な答えを求めた。

 人と人との関係は、0か1かで表されるものではない。
 コミュを作れなければそこに絆は無いのかと問われれば、否だ。だが、今の湊はそれに気付かない。
 ペルソナを生み出すためにコミュが必要だという条件は、湊自身の思考の方向性を固定してしまった。絆の力とはすなわちコミュであり、コミュ無き関係に真の絆は生まれ得ないという思い込みに至ったのだ。
 けれど、いずれ湊は己の間違いを知るだろう。それを教えるのもまた、誰かとの絆であるはずだ。
 タルタロスの中で、ゆかりの言葉が湊の目を覚まさせたように。あるいは、『かつて』湊自身がコミュを築いた人々の心の後押しをしたように。
 その時が訪れるまで。湊は自らで作り出してしまった、心の迷路をさまよい続ける。


 玄関を出た小田桐は、下駄箱前で別れた有里公子の表情を思い返した。
 小田桐は、いずれ多くの人を率いるような立場となる事を目指している。そのためにある程度は人の感情を察する術を知っているし――察したからといって遠慮はしないのだが――そうでなくともさっきまでの有里公子はわかりやすかった。
 何か、酷く思い悩んでいるようだった。それも恐らくは、小田桐に関係ある事で。
 ちらちらとこちらを見て、時折ため息なんぞつかれては、誰だって気になるだろう。だがいかんせん、小田桐と彼女は今日が初対面である。まだ大して親しくもない異性の悩みに無神経に踏み込むのは、小田桐でもさすがに気がひけた。

 頭を振って帰ろうとしたところで、既に宵闇に覆われた周囲の景色を見て、はたと気付いた。
 そういえばここ最近、港区内で変質者が出没しているとかで生徒会でも警戒態勢を強めているのだった。変質者の目撃される時刻はちょうど今のような、日没から夜にかけてが多い。女性である有里公子を、1人で帰していいものだろうか。
 ……いや、待て。それ以前に、彼女はどうしたのだ。少々遅すぎるのではないか?
 彼女は自分と共に下駄箱まで来て、ふと何かを見つけたように反対側の廊下を見ると、先に行ってくれと告げてそちらへ歩いていったのだ。忘れ物かと問えば曖昧に、そんなところです、と答えたが……思えば、不自然だった。まさか校内に変質者が入り込んだなどという事はあるまいが、何か不都合でもあったのかもしれない。一応様子を――

「――離して!!」

 その声が聞こえたと同時、小田桐は駆け出していた。
 壁を隔てて外まで響くほどの大声を出すというのが、今日会った彼女の印象からは考えにくかった。逆にその事実こそが、彼女の身に何か大変な事態が起こっているのだと知らせている。
 玄関に戻りまず下駄箱の周囲に目を走らせると、2年F組の靴箱がある並びから、探していた相手が上履きのまま飛び出してきた。
 彼女は小田桐に気付くと「あ、」と何かを伝えようとして、だがその一瞬足を止めた隙に、靴箱の方から伸びてきた何者かの腕に掴まれて奥へと引き込まれてしまった。どたばたと揉み合う音が聞こえる中、小田桐は彼女を追ってその場に踏み込んだ。

「何をしている!」
「…あァ? 何だオマエ、すっこんでろよ」
「小田桐…さん!」

 目の前に広がる光景は、実にわかりやすい。
 3年生と思しき体格の良い金髪の男が、有里公子の首に手を掛けて下駄箱に押し付けている。さらにもう片手は、彼女の制服の裾を押し上げてその内側へ潜り込もうとしていた。完全な、婦女暴行の現行犯だ。
 有里公子は抵抗しているが、女性の力ではこの状況は覆せまい。小田桐は眉を吊り上げると、風紀と印字された左腕の腕章を強調しながら男へと近付いた。

「風紀委員の目の前で暴力行為とは、いい度胸だ。貴様、何組の何と言う生徒だ? 先生に報告して職員会議にかけてもらうぞ」
「……バーカ。オレぁとっくに退学くらってんだよ」
「何だと? 退学処分になった者が何故制服で――」
「危ない、小田桐さん!」
「!? ッが、ぉあ…っ!」

 有里公子の警告を、確かめる余裕は無かった。ニヤつく男の無造作に振り出した蹴りで、近寄りすぎていた小田桐は、横腹の柔らかい部分へとめり込むような一撃を受けたのだった。
 有里公子が、悲鳴のような声で小田桐の名を呼ぶ。それによって何とか、小田桐は立ったまま踏み止まった。
 このまま男の暴力に屈するわけにはいかない。ダメージは深刻だが、ここで自分が倒れては彼女は悪漢によって心に一生物の傷を負う事になりかねない。己の正義感は、これを見過ごしてはならぬと叫んでいる。
 片手で腹を押さえながら、小田桐は考える。どうすればこの状態を打破できる?
 教師を呼びに行く暇は無い。その間に彼女に加えられる危害、下手をすればどこかへ拉致されて、なおおぞましい仕打ちを受ける可能性すらある。既に退学になっていて、何の枷も無いらしいこの男ならやるだろう。
 しかしかと言って、さして腕っ節が強いわけでもない自分が奴をどうにかできるのか。
 必死に思考を巡らせる小田桐は、有里公子の静かに呟いた言葉を聞き逃した。

「……小田桐を、傷付けたな」
「あン? 何だお嬢ちゃん、聞こえねぇぜ?」
「おれの友達を、傷付けるやつは許さないって言ったんだ…!」

 ……次に見たものを、小田桐は幻覚だと思った。
 有里公子を押さえ込んでいた男が、ボールか何かのように軽々と宙を舞ったのだ。美しく放物線を描いて飛んだ男は、小田桐の視界を外れると壁にぶつかったらしく派手な音をたてた。
 そして男を吹っ飛ばした有里公子だが――何か出てる。
 肩の上から、エジプトの壁画にいそうな頭だけ動物の人型が、握った天秤を思いっきり振り抜いた姿勢で半透明で浮いている……。

 小田桐は有里公子を凝視したまま沈黙した。とりあえず目をこすってみたが、幻覚はまだそこにある。
 有里公子も小田桐をじっと見たまま動かなかった。ただし微妙に顔色が青い。
 彼女の上にいる幻覚が、懐から何か布を取り出して天秤を拭うと、すーっと姿が薄れて消えていった。
 小田桐は意を決して、彼女に話し掛けた。

「………。あー…その、……有里君」
「火事場ノ馬鹿力ッテ凄イデスネー」
「明らかに棒読みだ! と言うか違う! 火事場の馬鹿力はあんな妙なもの出ない!」

 ツッコミまくる小田桐自身も混乱している。さっきまでは蹴られた痛みで声を出すのも辛かったはずなのに、叫ばずにいられない。
 理性ではこれを幻覚だと思いたいが、飛び出す言葉は有里公子を追求するものだ。彼女が異性だとか、大して親しくないとかもう関係ない。自分の信じていた常識を目の前で覆され、平静を保つ事ができるほどの柔軟さは小田桐に無かった。
 有里公子は吐息をこぼし、懇願するように問いかけてくる。

「錯覚だった、という可能性は?」
「……無理だな。僕は現実主義者だが、自分の目で見たものは否定できない」

 小田桐は少し間を置いて、そう返した。
 有里公子の口から、錯覚、という現実的な理由付けをされて。それでも結局信じられなかったのは、答えた彼女の声にこそ、それが嘘であるという色がありありと滲んでいたからだろう。
 自分が落ち着くために、嘘でもいいから何か説得力のある言い訳が欲しいと思った。けれど実際に言われてみれば、やはり小田桐自身の信念が、嘘を嘘と知りつつ受け入れる事を拒んだのだ。

 小田桐は壁際でのびている男の惨状を見やる。顔面が見られたものじゃなくなっているが、命に別状は無さそうだ。床に歯と思われる白い欠片が転がっていた。血はそれほど飛び散っていないので、掃除は必要なかろう。
 有里公子の行為は、危険物を持ち込んだとか、はっきりとした校則違反ではない。だがそれによって醸される結果は、下手な刃物などよりよほど厄介だ。証拠となる武器が無いのだから、目撃者さえいなければ、か弱い少女にしか見えない彼女が、大の男を得体の知れぬ力で殴打したとは誰も考えない。
 そして現状、小田桐は有里公子を完璧に信用しきれるほど、彼女について知っているわけではなかった。
 小田桐の他人に対する基本的なスタンスは、性悪説に基づいている。自分のその主義を正しいと信ずるならば、ここで彼女だけを例外として見逃すわけにはいかないのだ。

「このままでは僕は風紀委員として、君を危険人物と見なさなければならなくなる。たとえ君自身に悪意が無くとも、“事故”という事もありえるのだよ。…今回はまあ、正当防衛の範疇かもしれないが」
「……!」
「正直に答えてくれないか。今のは一体、何だ? 君がやったのは間違いないんだろう。君の――超能力、とかなのか」

 一瞬口ごもったのは仕方あるまい。そんなものが現実に存在するなど、小田桐はこれまで考えた事は無かったのだから。
 僅かに目を見開いて「事故…」と小田桐の言葉を繰り返した有里公子は、俯いて乱された制服を整え始めた。非常事態の連続で意識していなかったが、彼女の今の姿は制服上着の前が開かれ、ブラウスのボタンは千切れ飛んで……白く滑らかな素肌と、2つの膨らみを覆う薄桃色のレースのついた布地が――いやいや、何をいつまでも見ているのだ自分は!
 気付いた途端に狼狽し、「し、失礼した!!」と上擦った声で後ろを向く小田桐。耳に入る音はジッパーを引き上げたり僅かな衣擦れなど、聞くだけなら服を直しているのでなく服を脱いでいるとも区別つかない。何やら背徳的な気分すら感じてしまい、小田桐の内心はさっきまでと違う意味での混乱に見舞われていた。
 そうだ、有里公子自身が意外に冷静なので忘れかけていたが、彼女はたった今暴漢に襲われてあわや貞操の危機だったのだ。女性ならこれほどの恐怖はなかろうに、そこへさらに小田桐の言葉で追い詰められては、いくら何でも酷すぎやしないだろうか。先の事に対する懸念はひとまず置き、ここは被害者を気遣ってやるのが正しい対処法だろう。
 しかし残念ながら、こんな状況で相手に掛ける言葉が小田桐にはろくに思いつかなかった。

「その、…君が悪事を働くなどと考えているわけではない。ただ僕は風紀委員の職責として、この学校で無用な騒動が起こるのを見過ごせないというか、…君自身のためにもここではっきりさせた方がいいと!」
「そうですね。今回の事があった以上、2度目3度目が無いとは言えない……これで終わりか、わからないですから」
「……それはどういう意味だい」

 有里公子の憂いのこもった言葉に、聞き捨てならない部分があった。小田桐はあちこち飛び回る思考を纏めて、問いを重ねる。
 許可を得て再び彼女の方を向くと、何事も無かったように元通りの制服姿で佇んでいた。ブラウスのボタン部分も、リボンタイでうまく隠れているので大丈夫だろう。
 有里公子は小田桐に諦めまじりの笑みを向けると、落ちていた鞄を拾って携帯電話を取り出した。

「先に警察を呼んでいいですか。この人もうこの学校の生徒じゃないから、職員会議でなく公の場で処罰してもらいます」
「ああ、もちろん構わないが。君はいいのか?」
「事情を知ってる方に来てもらいますので」

 警察が関係しているとなると、彼女の事情というのはなかなか大事のようだ。
 彼女が特に隠さなかった電話の内容から、犯人を引き取りに来るのが、黒沢というポロニアンモール交番の巡査だと知った。サイレンを鳴らさずに来てくれるそうで、当直の教師への説明はするが、あまり騒ぎにはならずに済むかもしれない。
 当分は起きないだろう犯人をその場に放置して、2人は玄関扉前の外が見渡せる場所へと移動した。有里公子は靴も外履きのローファーに替えてきた。そうしてぽつぽつと、何気ない会話を始める。

「他の生徒が残ってなくて良かったです。この場合、下校時刻を早める原因になった変質者に感謝でしょうか?」
「やめたまえ。そこのと同類の犯罪者だぞ」
「冗談です。そんな手段でしか女性と接触できないなんて、哀れだなーとは思いますけど」

 有里公子の態度は、小田桐と会った初めよりも砕けたものになっていた。丁寧語なのは変わらずだが、厳密に敬語と言えるほどかっちりした話し方はしなくなった。笑顔も今の方がより自然で、素の彼女に近いだろう。
 小田桐は礼節をわきまえた人間が好きだが、彼女とはもともと学年も同じで、敬語で接される事の方が不自然なのだ。これからも生徒会の一員としての関係は続くのだし、と自分に言い訳してからこう提案する。

「それと、…普通に話してくれて構わないよ。僕と君で、大きな立場の違いは無いのだから」
「普通、に?」

 有里公子はオウム返しにそう言った後、困惑したように小田桐を見上げた。
 向けられる視線は、職員室から下駄箱へ向かう途中に感じたのと同じもの。何かを訴えようとして、けれど躊躇しているような。
 小田桐は辛抱強く待った。やがて有里公子の、か細い声が紡がれる。

「……呼んでも、いいんでしょうか。普通に」
「本人がいいと言っているだろう?」
「えぇと、…じゃあ、――小田桐。……あっ、ですます付けなくていいのと、名前呼び捨てしていいかってのは違う?」
「違わないさ、好きに呼ぶといい。君は少し遠慮が過ぎる。1度や2度の間違いなど、人間なのだから当たり前だ」

 するりと唇から滑り落ちた台詞に、小田桐は自分で言っておきながら微かな戸惑いを覚えた。
 人間だから、間違いを犯すのが当たり前。これではまるで、風紀委員である自分が規則違反を肯定しているようではないか。
 どうしてこんな事を言ってしまったのだろう。取り消さなくては――慌てて口を開きなおすが、それは有里公子の揺れる瞳とかち合って、結局訂正できずに終わった。この状態の彼女を突き放す事は、小田桐が持つ信念のさらに深い部分が許さなかったのだ。
 有里公子は、さながら迷子の子供のようだった。今にも泣き出しそうな雰囲気で、救いを求めるがごとく小田桐に問い縋る。

「間違っても…いいのかな? ……わたし、失敗ばっかりしてる。知ってるはずなのに――知ってるから、どうすればいいのか、わからなくなる。わからなくて、立ち止まったままそこから進めなくて…っ」
「なら、誰かに道を訊けばいい。もっとも、尋ねる相手はしっかり選ばなくてはならないがね。君が信じる、君を本当に思ってくれる相手と、よく話してみたまえ」
「わたしが、信じる人……?」
「そうだ。そして道がわかったら、とにかく歩き出してみる事だ。それでも間違っているというのなら――その時は、君を見守っている誰かが止めてくれるだろう」

 小田桐の言葉は、有里公子の心へ届いたように思えた。
 彼女の顔から、苦悩の影が去ってゆく。その様に安堵して、小田桐は調子付いてこう言い加えた。

「君が望むなら、僕もその誰かの中の1人としてあろうじゃないか。何、気に病む事はない。今はこの学校の一風紀委員というだけだが、僕はやがて人の上に立つ男だからね。正しき指導を必要としている人間を前に、手をこまねいている真似はしないさ」
「……うん。ありがとう、小田桐」
「当然の事を言ったまでだよ」

 慇懃な面を剥がし、迷いの霧を晴らして、有里公子の本当の笑顔が表れた。それは単なる造形の美しさを超えて、感謝と喜びと、人の持つ綺麗な感情のありったけでこちらへぶつかってくるような。
 小田桐は思わず呆けてしまってから、かろうじて目をそらして誤魔化すために咳払いした。
 小田桐の態度の不自然さには気付かなかったのか、有里公子は外を眺めて「あ、来たみたいだ」と玄関扉へ歩み寄った。小田桐も彼女の視線の先を追うと、校門から続く道を小走りに駆けてくる警察官の姿が見える。
 どうせならもう少しくらい、遅くなっても構わなかったのだが。一瞬そんな馬鹿な事を考えた自分を、小田桐はすぐさま消し去った。


 日はとっぷりと暮れ、住宅街に灯る明かりは家族の団欒を思わせる。
 湊はモノレールを降りて、寮へと続く道を歩いていた。隣には、不審者を警戒して端々の暗がりに目をこらす小田桐。
 黒沢巡査に犯人を引き渡した後、湊は小田桐に寮へ来てほしいと頼んだ。事情説明はそこで、美鶴を交えて行いたいと。
 小田桐はそれに頷き、こうしてボディーガードのように湊に同道してくれているというわけだ。
 いつも装備やアイテムの調達のために夜でも構わず出歩いている事を考えると、何やら大袈裟な気がする。湊本人は未だに自分が男だという意識が強いため、先ほどあんな目に遭ったにも拘らず、相変わらず危機感が薄いのだった。

 それにしても、あの犯人は許せない。黒沢に引っ立てられていきながらも、全く反省の色も無くこちらを罵倒していた。
 相手を力で従わせて性的関係を強要するような輩は、男の恥だ。いやむしろ人間のクズだ。死ねとは言わないが、千切れろ。ナニが。
 ――とまあ、元男のくせに、結構過激な事を考えている湊である。
 もともと湊は、男であった時からこういう事に関しては潔癖症のきらいがあった。愛情とその証明としての身体の関係という、今時中学生でも鼻で笑うようなロマンチシズムを信じているというか……結婚とは何かと言う美鶴の問いに、愛の結果と臆面も無く即答しただけはある。
 ともあれ、今回の体験でその認識がより悪化したのは確かだろう。
 汗で湿った犯人の手で触れられた箇所が気持ち悪く、何度も首をさすっている湊を小田桐が心配そうに見た。

「……大丈夫かい? こういった事件がトラウマになる女性も少なくないし、カウンセリングを受けた方がいいんじゃないか?」
「平気。怖いんじゃなくて、怒ってるだけだし」
「そうか。…まあ、男の全てがああじゃない。男の僕が言っても説得力は無いかもしれないが」
「小田桐があんなのと同じなわけないでしょ。ほら、全然大丈夫」

 湊はすぐ傍にあった小田桐の片手を掴んで、ぴたりと自分の頬に押し当てた。何ともないと強調するように笑って見せるが、その仕草は逆に小田桐の方を硬直させてしまった。
 足を止めて、しばらく絶句していた小田桐は、無邪気に「どうしたの?」と問う湊に深々とため息をつく。

「……とりあえず、離したまえ」
「あっ、ごめん。化粧付いた? 最低限にはしてるんだけど、やっぱりぺたぺたするかな」
「いや、そうではなくて…わざとじゃないなら君、無防備すぎるだろう。もう少しこう、自分の言動が男にどう受け取られるのか考えてみないかね」

 小田桐の発言に、湊はむぅと考え込んだ。……確かにちょっと、今のはスキンシップ過多だったか?
 ここにいる小田桐は、最終的に軽くふざけ合う事すら許される距離だった『かつて』の彼ではないのだ。知り合って間もない「野郎」にくっつかれても、気味悪く思うだけだろう。
 ――何度も言うが、湊自身は自分が男だという意識がある。普段なら一応は、今の自分の身体は女である、という認識も残っているのだが、『かつて』男として絆を築いた相手の前ではそれすらすっぽ抜ける場合がある。普通に話していいと言われ、自戒の手段となっていた丁寧語を取り払った後ではなおさらだった。一人称だけは、最初「おれ」と言いそうになるたびに必死に直したので、もう滅多な事では崩れないのが幸いだが。
 そんなわけなので、小田桐の忠告は見当違いに解釈された。

「……わかった。気持ち悪かったよね、ごめん」
「どうしてそうなるんだね?」

 悄然として顔を曇らせ、とぼとぼと1人で歩き出した湊を、小田桐の呆れた声が追ってくる。
 湊は小田桐が再び横に並んでも、無言で足を進めるだけだ。傍から見れば、拗ねているという形容が当てはまるだろう。

「有里君」
「………」

 呼びかけにすら答えない湊に、小田桐がお手上げだと言うように肩をすくめる。
 小田桐は仕方なく、直接湊に触れる事で引きとめようとして、しかし何故か直前で躊躇したようだった。小田桐が迷っているうちに、湊はさらに先へ歩く。

 湊は自分の態度が幼稚だという事は理解していた。この小田桐には自分と共に過ごした記憶が無いという事も。
 けれど、彼が間違ってもいいと言ったから。遠慮するなと、間違ったなら己が止めてやると言ってくれたから。
 だから……賭けてみたくなったのだ。
 ここで彼が自分を見放して、何も言わず離れてゆくならそれまで。
 だけどもし、こんなどうしようもない自分の癇癪を叱ってくれて。多少嫌味混じりでも構わないから、『かつて』の彼のように自分の隣にいてくれるというのなら――。

「……有里君!」
「っわ、」

 思考に沈みかけていた湊は、背後からぐいと肩を引かれてバランスを崩した。だがそこは伊達に戦闘経験を積んでいない、片足を軸にして身体を反転させる事で後ろへと倒れずに済む。顔を上げると、ちょうど正面から小田桐と向き合う形になった。
 小田桐は苦虫を噛み潰したような表情で、湊の両肩に手を置くとやや早口に喋り出す。

「いいかね? 今の君はあんな事があったばかりで、動揺が抜けていないんだ。そこは僕とて勘案しよう。だからこんなわかりきった話をわざわざするのは、今回きりと心得たまえ」
「う、うん?」
「君は先ほど自分を気持ち悪いなどと言ったが、勘違いも甚だしい! あれはつまり、誰にでもあのような仕草をして見せれば、…君にその気が無くとも相手の男を付け上がらせてしまう、と言いたかったんだ。無論、僕はそんな愚かな思い上がりはしないがな!」
「誰にでもなんてしないよ? 小田桐だから…」
「君、本当にたちが悪いぞ!? そういう言葉を男の前で軽々しく言うな、もっと自分が女性であるという危機感を持ちたまえ!」

 小田桐がほとんど叩きつけるように発した警告は、ここでようやく湊に通じた。女性である、というくだりで「あー…」と間の抜けた相槌を打った湊は、おもむろに自分の胸を見下ろして納得する。
 そして自分が女だとして、これまで自分が小田桐の前でやらかした事を振り返ってみると――うん、これはまずい。
 乾いた笑いをもらす湊から手を離し、腕組みした小田桐は念押しする。

「……理解してもらえたかい?」
「実によくワカリマシタ。ほんとごめん。というか、安易な思い込みに走らなかった小田桐の鉄壁の理性に拍手したい」
「当然だ。風紀委員たるこの僕が、自ら風紀を乱すような行為に手を染めるなどあってはならないからな」

 フンと鼻から息を吹き、口端を引き上げる小田桐。本人が言った通り、今回限りは湊の至らなさも水に流してくれるようだ。
 また2人して並んで歩きつつ、湊の頭に浮かぶのは、賭けに勝った、という言葉だった。
 小田桐はちゃんと止めてくれた。
 コミュの有無に拘らず、思った以上に酷い間違い方をしてたらしい湊を、見捨てる事なく正してくれた。
 小田桐はやっぱり小田桐だった。『かつて』も今も、彼の心の芯にあるものは変わらない。己の信念のもとに、正しい事を為し、他者をもまた正しき道へ導こうとする意志だ。

 湊の知る『かつて』の彼はそのうち、信念を貫くためには力が必要であると思い込み、信念が力を得るための口実になるという本末転倒な状況に陥った。他者から独善と謗られながら、そんなものは愚か者の負け惜しみだとうそぶいて。
 だが力を得る代償として、彼自身の信念で正しいと認めている湊を切り捨てる事を突きつけられた時、彼は自らの行動の矛盾に気付いたのだ。そして真実、己の信念を昇華するために進み始めた。

 湊はそういう小田桐と友であれた事が嬉しかったし、今も心根を同じくする彼と友になりたいと思う。
 重ねてたっていいじゃないか。最初のきっかけはそうでも、形作られる絆の姿は必ずしも『かつて』と同じとは限らないのだから。
 相手のためだと言い訳して、結局自分は不安から目を背けたかっただけだ。自分から踏み出す勇気が無いばかりに、小田桐を試すような真似までして。見捨てられなかったという安堵が得られてみると、その自分の臆病さを呆気なく認める事ができた。
 だから次の提案も、突拍子が無く放たれたように見えても、湊にとってはここでこそ言うべき一言だった。

「小田桐。わたしと、友達になってよ」
「僕は友人といえど、問題の追及に関して手を緩めたりはしないぞ?」
「もちろん。そういう小田桐だから、わたしは友達になりたい。友達として、わたしを見ていてほしいし、わたしも小田桐が進む道を傍で見ていたい。だめかな?」
「……君は…まったく。簡単な事がわからないと思えば、時々こちらの望む言葉を的確に突いてよこすのだから、恐れ入る」

 それは、湊が小田桐秀利という人間を「知っている」からだ。
 小田桐がその部分で感心してくれると、やはりズルをしてるような微妙な気分になる。でも、だから彼と関わってはいけない、というのは極論を過ぎた暴論であると思い直した。
 小田桐は言いたい事ははっきり言う男だ。重ねられていると感じて不快に思えばそう教えてくれるだろうし、彼の考えをこちらが勝手に決め付けて、何も言われないうちから尻尾を巻いて逃げ出す必要なんて無いのだ。

 今の小田桐と友になりたい。
 そう思うきっかけは『かつて』の彼と友であった事実でも、この想いが嘘であるわけじゃない。
 湊は、小田桐を知っている今の自分として、この世界の小田桐と友として歩む事を決めた。
 たとえそれが、間違いであるといずれ小田桐自身から断ぜられる可能性をはらんでいても。
 真の絆へ至る関係として、コミュの発生という現象によって認められる事が無くとも。

 湊の差し出した手を、握り返す小田桐。その不敵な笑みに、湊も満面の笑顔で答えた。
 コミュは生まれない。それでも、もう構わなかった。
 やってみないうちから諦めて、そこに壁があると思い込み、ただ震えてうずくまっているのはこれでおしまいだ。

「ありがとう、小田桐」
「どういたしまして、だ。……少し急ごう。あの警官が連絡したから、寮で会長が君の帰りをお待ちかねのはずだ」
「うん。そうだね、桐条先輩にちゃんと話さなきゃ」

 美鶴の名が出た事で、湊はさらに気が大きくなる。1人でぐるぐると迷っていた最近の自分は、馬鹿みたいだった。
 小田桐が言ってくれたように、信頼できる相手に話す、という選択肢があったはずなのに。そもそも最初にモノレールで目覚めた時、自分が仲間たちに相談しようと寮へ向かっていたのを忘れていたのか。
 これはただの、勢いに駆られた開き直りかもしれない。
 けれど、美鶴になら自分は全部話していいと思う。かけがえの無い絆を結び、愛し合った彼女――それ以前に、桐条グループ次期総帥としての教育を受け、聡明な頭脳を有する彼女ならば。きっと自分の話も一概に妄想の類とは切り捨てずに、何らかの検証や背景の調査を行わせ、正しく吟味してくれるはずだ。
 その過程で新たな情報が得られるかもしれないし、少なくとも『かつて』よりは確実な対策を立てられる。
 ああ本当に、今の段階で気付けてよかった! 湊は内心一気に舞い上がって、小田桐の手を引く勢いで寮への道を行くのだった。


 美鶴はラウンジをそわそわと歩き回っている真田にため息をついた。
 数十分前の電話での連絡から、ずっとあんな感じだ。猛然と飛び出していこうとするのをなだめ、その後も何度落ち着けと繰り返したか――どうもつい最近似たような事があった気がする。
 しかし、檻の中の猛獣を監視するような気分もこれで終わりのようだ。玄関の外から、迎えに出ていた幾月の明るい声が響いてくる。
 ばっと振り向いた真田の視線の先、扉を開けて待ち人はやってきた。

「いやあ、心配したよ有里君! 無事で良かった、それに…小田桐君だったね、よく彼女を守ってくれた。感謝するよ」
「いえ、風紀委員として当然の事です。名前を覚えていただけて光栄です、理事長」

 言葉を交わし合う幾月と小田桐の間、護られるようにして姿を見せた有里公子。
 彼女は他の誰でもなく美鶴へとまっすぐに目を向けて、忌まわしい体験の痕跡など微塵も感じさせぬ笑顔で口を開いた。

「ただいま帰りました、先輩」
「ああ、お帰り。…無事と言っていいのかわからないが、その。少なくとも、怪我は無いように見えるな」
「未遂ですから、わたしは大丈夫です。ブラウスは、ボタンを付け直さないと着れませんけどね」

 思いのほか元気な有里公子の様子に、ラウンジに集合していた全員がほっと息をついた。
 真田と違ってソファに座ったまま、俯いてじっと重い雰囲気を纏っていたゆかりが「公子!」と叫んで駆け寄った。抱きつかんばかりの彼女の喜びは、有里公子の方が困惑するほどだ。そこへ順平が、軽い調子で声を掛けている。

「だーから言ったっしょゆかりッチ。公子ッチならヘーキだって。むしろ犯人ボコっちゃったかもしれないぜ?」
「馬鹿言わないで順平! 男のアンタにはわかんないの! 男に襲われるなんて…女の子にはすっごい怖い事なんだから!!」
「えっと、…男でも男にそういう意味で襲われたらショックだと思う。あと、犯人は本当に殴っちゃった。……ペルソナで」
「え?」
「は? …マジ? てか、ペルソナって影時間以外でも出んの?」

 美鶴はそれとなく小田桐を見た。ペルソナや影時間の存在を知らぬ一般人には、不審な会話だろう。
 小田桐は特に今の話に食いつくでもなく、ただ静かに美鶴を見返してきた。だがそれは疑問に思っていないのではなく、むしろ全て話してもらうという固い意思の表れであるようだった。
 有里公子が、おずおずと美鶴の前に進み出て頭を下げた。

「すみません、先輩。状況を脱するためとはいえ、思わずペルソナを使ってしまって……小田桐に、目撃されました」
「……君から彼に、話は?」
「寮で先輩を交えて、と。私だけで勝手に話すべきではないと思ったので」
「そうか。いや、已むを得ない事だ…それよりも君の身の方がよほど大切だからな。小田桐には、私が話そう。彼は口の固い男だよ。加えて利口だ、していい事と悪い事の区別はつけられる」

 美鶴はそこで、小田桐に向き直る。腕を組み、女王の風格で立ちはだかると艶然と唇を吊り上げた。
 学園での、生徒会長として役員たちを束ねる姿とはまた違う。
 今の美鶴は、“桐条”として振舞っている。国を越えて名を知られる巨大複合企業である桐条グループ、その拠点たるこの街において、現総帥の娘たる彼女に睨まれればどうなるかは想像に難くない。そして逆に、彼女の信を得る事で与れる恩恵についても。

「――そうだろう、小田桐?」
「無論ですよ、会長。僕は馬鹿ではありません」

 こちらもニヤリと笑む事で応えた小田桐に、美鶴は頷くと腕を解いて、ラウンジのソファを彼に勧める。
 先にソファの中央に座った美鶴と、テーブルを挟んで対面の位置に小田桐も掛けた。
 さて、どこまで話すべきか。そして今後、彼をどう使うべきか。
 有里公子が戻るまでに確認した小田桐秀利のパーソナルデータを思い出しつつ、美鶴は彼に提示するエサと鎖について考えた。


 順平は有里公子を囲んでいるゆかりと真田を、一歩引いた場所から眺めていた。
 心配だったのはわかるが、あんな猫の子を構うようにひっきりなしに話しかけても、有里公子だって鬱陶しかろうに。
 だいたい、有里公子がこのくらいでどうにかなるわけないのだ。だって彼女は――。

「……そうだよ。アイツ“特別”なんだから。…オレなんかと違ってさ」

 呟いた声は小さくて、彼女らに届く事はない。
 先日有里公子と話した際、順平は自分の本音を自覚した。自分は彼女に嫉妬していた。
 どこまでも平凡で、特別な力を得てさえも結局皆の中の1人として埋没するしかない自分。それに比べて、ペルソナを得た自分たちの中でもさらに特別な能力を持つ彼女――ああほら、今だって幾月に乞われ、召喚器も無しにまた見た事の無いペルソナを発動させている。
 彼女の口から『家族』という言葉が出て気付いた、家族である実の父親から目を背けて、向き合う事を放棄している自分。対して、こんなみっともない思いを抱えている自分を、家族同然だなんて言ってまっすぐにぶつかってきた彼女。

 彼女と自分を比べると、自分がみじめでどうしようもなかった。
 目の前に彼女がいると当り散らしてしまいそうで、でもそんな風にしかできない情けない自分が嫌でたまらなくて。苦しくて、何でもいいから逃げ出したくなって。
 だから順平は、こう考える事にしたのだ。彼女だけが、“特別”であるのだと。

 彼女は“特別”だから、自分が敵わなくたって仕方ない。
 彼女は“特別”なんだから、自分と比較したってしょうがない。嫉妬なんて、する必要もない。
 全部、彼女が“特別”なだけであって、自分が劣っているわけじゃない。自分だけが格好悪いわけじゃない、彼女と比べたら皆似たようなものだ。だから何も、悩む事は無い。このままでいいのだ、何も変わらなくても……。

 彼女と自分が最初から全く違うものだと思えば、すうっと気が楽になった。
 アイツは特別。だからリーダーでも当然。転校してきていきなり生徒会に誘われるのも、特別なんだからおかしくない。
 特別なんだから、一般人に襲われたくらいで大人しくヤられるわけないし。
 特別なアイツに、所詮凡人な自分の助けなんて必要無いだろう? 特別なんだから、最後には何もかも1人で完璧に終わらせるさ。

「そうさ、…オレなんて結局、アイツには必要ねーし……」

 楽になったはずなのに、どこか苦い思いの抜けない内心を隠すように。
 順平は帽子のつばを引き下げると、有里公子に対して背を向けた。


 湊は今しがた帰っていった小田桐の満足げな様子を思い、交渉を纏め上げた美鶴の話術に舌を巻く。
 ゆかりと真田の気遣いに応えるのが忙しく、あまり詳しくは聞けなかったが。さすがは桐条の次期総帥というか、『かつて』目にする機会が無かっただけで、美鶴は本来卓越した対人スキルを身に付けている。ただそれが仲間という身内に対してとなると、交渉相手として捉えないため、うまく説得できない事が多いのだ。

「さて、有里。今度は君の話を聞こう。もちろん、話せるところだけで構わないのだが…君が言ったという、『これで終わりかわからない』とは、どういう意味なんだ?」

 ついさっきまで小田桐に見せていた顔とは違う、自然体に近い態度で湊に接する美鶴。いつかそれを、また恋人としてのとろけるようなものに変えてほしいと思いつつ――おっと、今はそんな事を考えている時ではない。
 今度は全員がソファに座って、湊の話を聞く態勢となった。ただし幾月だけは、これからまた学校へ行って当直教師との話し合いだ。残業だよと肩を落として出て行く幾月を、寮生全員でにこやかに見送ってやった。

「ええと。じゃあ、最初からお話ししますね。わたしのその言葉の根拠も、小田桐が駆けつける前のやり取りにあるので」

 湊はまず、この日起きた事実だけを要点を挙げて説明した。
 小田桐と下駄箱前で別れた後、湊は廊下の暗がりから手招く人影に歩み寄った。考えてみればその時点で既に怪しいのだが、湊はよもや校内での蛮行など思いもよらず、件の犯人であった人影のもとまで近付いてしまった。犯人は小声で――恐らく小田桐に気付かれたくなかったのだろう――湊の名を確認し、自分を真田のクラスメイトで、彼から伝言を預かったのだと言った。

「俺の名前を使っただと…つくづく腹の立つ奴だ」
「たぶん、偶然じゃないと思います。推測になるので、後で纏めます」

 伝言の内容を聞こうとする湊を誤魔化して、犯人はさらに廊下の奥、何故か鍵の開いていた音楽室へと連れ込もうとした。さすがに湊でも不審に感じ、音楽室へ入らずに伝言について問いただしたがはっきりしない。寮に帰って直接真田から聞く、と湊が踵を返したところで、犯人の態度は豹変したのだ。
 犯人は突然掴みかかってくると、壁に湊を押し付けて制服上着のジッパーに手を掛けた。事ここに至っても事態を把握しきれていなかった湊が、何をするのだと怒りを表すと、犯人は下卑た笑みを浮かべて答えた。

「確か……どうせわかってて付いてきたくせに、とか、あいつらの言ってた通り澄ました顔してとんだ淫乱だな、とか」
「何それ!? 許せない! どうしてこう、男って――」
「待て、岳羽。それよりも注目すべき点があったぞ」
「ええ、先輩。わたしもそこが気になって、ちょっと鎌掛けてみたんです。『あいつらって、まさか――』って」
「…いやいや。その緊急事態で、ンな余裕あるって女の子としてどうなの。いくら公子ッチでも、どーよそれ?」
「順平うっさい」「黙れ伊織」「話をそらすな順平」
「ちょ、全員ツッコミとか酷くね!? てか、真田先輩にそれ言われたくないッス!」

 順平の茶々を排して、続きを話す。
 犯人は湊の引っ掛けに、「そーそーその通り、アンタが愛しのセンパイに手ぇ出したってキレまくってるアイツらの事」と返した。調子に乗ったか、「そんなワケで頼まれたのさ、アンタをぐっちゃぐちゃにしちまってくれってな」とまで付け加えてよこしたのだ。
 ほかにも湊の聞かされた内容には、口にするのがはばかられるようなものもあったが、話の本筋には関係ないので割愛する。とりあえず携帯のカメラを向けられた時には、冗談じゃないと少し本気を出して抵抗し、犯人を振り払って逃走に移った。

「そして下駄箱で、小田桐が合流、か」
「はい。それと冒頭の、これで終わりかわからない、と思った理由ですが…犯人は小田桐が駆けつける直前に、こうも言ってたんです。こんな役得ほかの野郎に渡してたまるか、って」
「……なるほど。つまりこういう背景が見えてくるわけだ。犯人は有里を良く思わない数人のグループに依頼され、今回の凶行に及んだ。だが恐らく、その依頼は他の複数の人間にも出されていて、今後も有里は狙われる可能性がある」

 湊の証言を咀嚼し、冷静にそう結論を出す美鶴。
 そして、ここで順平が真顔で手を挙げた。ふざける様子は無いので、発言が許可される。

「オレ思ったんスけど……その公子ッチ良く思ってないグループって、隣のクラスの例の2人組じゃねーかな。前々から嫌なウワサ、結構聞くし…実際こないだ、教室の前で公子ッチの事ネチネチいびってたんスよ」
「もしかしてそれ、私がこの寮に移る時に色々言ってきた人たちの事? 今度は公子にターゲット移したってわけ?」
「やー、ゆかりッチの代わりってか、むしろ本格的に公子ッチ個人が狙われてるっつか……ねえ?」

 順平はちらっと湊の顔色を見てから、真田に視線を固定した。つられるようにゆかりも真田を見る。2人の注目する先を追って美鶴、そして最後にやや複雑な表情で湊が。
 8つの瞳に見つめられ、たじろいだ真田が言葉をどもらせる。

「……な、何だお前たち。俺の顔に何か付いてるのか」
「っかーっ! もう、これだから真田先輩はダメなんスよ!」
「ダメ!? 俺のどこがダメだと言うんだ、おい順平!」
「……犯人の話にあった、依頼主の言う『愛しの先輩』とやらが明彦だと言うのか?」
「たぶん、そういう事だと思います。ほかに心当たりなんて無いですし…あ、わたしが真田先輩に何かしたってのは誤解ですから! 校門前で少し話しただけなのが、変な噂になっちゃってて……」

 真田のあまりの鈍さに呆れた順平が、拳を振り下ろす真似で啖呵を切った。それでもわかっていない真田と、口論になる展開だ。
 その脇では、男どもの騒ぐ声などまるで無視して、美鶴と湊が推理を重ねていた。ゆかりは一瞬どうすべきか考えていたが、テーブルを挟んで両手でがっしりと組み合い力比べを始めた野郎2人に見切りを付け、素直に女性陣に加わったのだった。


 湊の帰宅から小一時間。今後の対策も含めてだいたい話すべき事は話したあたりで、ラウンジでの寮生会議は終了した。
 ちなみに野郎どもの方は、あばらを痛めている真田が途中で無念のギブアップ宣言となった。真田は復帰したらリベンジだと息巻いているので、順平はちょっと覚悟しておくべきだろう。
 それはともかく、話し合いで決まったのは大まかに2点。
 まず湊自身が警戒心を持ち、学校の行き帰りのみならず、校内でもなるべく1人にならない事。特に下校時は、ゆかりや順平、他の寮生と同道するのが望ましい。
 もう1つは湊は関係ない。要するに、真田自重しろ、である。「何故だ!?」と心外そうに言われても、こっちが困る。

 めいめい自室に引き上げ始めたのを見計らい、湊は美鶴に声を掛けた。
 小田桐と話して吹っ切れた決意を、また迷ってしまう前にちゃんと打ち明けておきたかったから。

「――桐条先輩!」
「ん? どうした有里、言い忘れた事でもあったか?」
「いいえ、それとは別件で……あの、でも、とても大切な事なんです。わたし、」

 事件の被害者として気遣ってか、今夜の美鶴は特に湊に優しかった。階段を上がりかけていたのをわざわざ戻ってきて、正面に立つと少し背を倒し、湊の目線に合わせてくれる。微笑みつつ「うん?」と穏やかに先を促す彼女は、『かつて』の恋人としての姿よりも、遠い記憶の中の母を思わせた。ゆるくカールさせた髪が肩口を滑り落ち、ほんの僅か、香水の芳しさが鼻をくすぐる。
 美鶴のいつもとは違う態度に、湊の鼓動は跳ねた。どぎまぎして、頬に熱が上るのを感じる。
 スカートの生地を握り締め、落ち着かない態度で、声まで震えてきた。美鶴の顔を、まともに見られない。

「わ、わたし、…先輩に相談したい事があって。今、まだお時間…ありますか?」
「ああ、大丈夫だ。今日はもう予定は無いし、こんな時くらい君のために何かしてやりたいからな」
「ありがとうございます…!」

 きゅっと胸の前で手を組み合わせ、湊ははにかんだ。……無意識の仕草である。
 美鶴は笑みを深め、呟いた。独り言に近いそれは湊には聞き取れなかったようだが。

「桐条の庭で花を手折ろうとは、愚か者がいたものだ……見ているがいい、次は無い」
「先輩…?」
「何でもないさ。君があまりに愛らしいので、明彦のやつが本当に血迷わないか心配になったよ」

 冗談か本気か判別つかない発言に、湊は返す言葉に迷って「…それは無いですよ」と曖昧に濁した。
 しかしおかげで、少し頭は冷えた気がする。
 湊はしっかりと美鶴の目を見つめると、幾分か力を取り戻した口調で本題を切り出した。

「……わたし、これまで先輩や、みんなに黙ってた事があります」
「黙っていた事?」
「はい。わたし、知ってるんです。これから、…何、が…――?」

 不意に息苦しさを感じ、湊は言葉を詰まらせた。けほっと軽く咳をして、やはりまだ少し苦しい。
 だがこの程度なら話せる――今という機会を逃したくなく、もう1度口を開いた湊を、今度こそはっきりとした苦痛が襲った。

「……有里? おい、どうした!?」
「かっ……は、ぁ――」

 苦しい。まるで何者かに首を絞められているようだ。息ができない。
 本当に誰かの手がそこにあるのではないかと、自分の手で首に触れてみるが何も無かった。しかし圧迫感は酷くなる一方で、よろけた湊はダイニングと廊下の間の間仕切りにもたれかかった。
 これはただ事ではないと見た美鶴が、湊を支えながら、まだ上の階の廊下にいるだろう仲間たちを呼ぶべく声を張り上げた。
 そして湊は、引きつるような細い息の音すら途絶えさせてがくがくと震えていた。身体から力が抜け、視界が暗くなる。
 混乱する頭で、湊は自分が身を預けている透明プラスチック板の間仕切りを見た。照明の落とされたダイニングは暗く、間仕切りに鏡のような効果を持たせて、湊の顔を映し出している。
 湊は目を見開いた。声が出せれば、悲鳴になっていたかもしれない。
 間仕切りに映った湊の首、そこにあの痣が絡み付いていた。人の手の形の痣――いや、これはもう痣というよりも影だ。手の形の影が2つ、まるで両手で湊の首を絞めるような形で浮き上がっている!
 湊の意識は、そこで限界だった。

「有里!? しっかりしろ、有――」

 余裕を失った美鶴の声も、もう聞こえなくなった。
 完全にブラックアウトする寸前、湊は意識と無意識の狭間にわだかまる影を幻視する。
 影は、月光館学園の男子制服を着ていた。ポケットに手を突っ込み、首からイヤホンを下げている。長く伸ばした前髪が目を隠し、その分よく目立つ口元を、ニィと嘲笑に歪めて。
 影が、何事かを囁いた。普通なら聞き取れないだろうそれは、嫌にはっきりと響いて。

 ――それは、“ルール違反”だろう?

 影の言葉を認識した直後、湊の思考は途切れた。
 だがこの奇妙な邂逅だけは、やがて目を覚ました後もくっきりと湊の記憶に残る事になる。
 湊が最後に見た、影の姿。それは、湊本来の――男の『有里湊』の風貌そのままだった。


     ――初稿10/06/20


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