昨夜のタルタロスは、順調に最初の番人を倒して、自分たちの力に手応えを感じたところでお開きとした。
湊は今のところ、一晩で新たに上るのは5階ずつと決め、ゆっくりと事を進めていた。まだ1年は始まったばかりだし、仲間たちの体調に気を配りながら、翌日に疲れを残さない範囲で経験を積んでいけばいい。自分も含めて皆にある程度スタミナがついてきたら、もう少し攻略ペースを上げるつもりだ。
持久力を上げるためには、戦闘経験を重ねて効率的な体力・精神力の使い方を身に着ける事だ。
しかしそれ以外、日常の部分でも、今の湊にはまだ努力できる余地が残っている。
4月24日、放課後。湊は早々に教室を出ると、運動場を集めた別棟に続く渡り廊下を走っていた。今日から運動部の今年度部員募集が始まると、昼休みに順平から聞いたからだ。
順平はあれから、本人の言葉通りに普通の友人として付き合ってくれている。まだ彼の事情に深く踏み込めるほどではないが、“魔術師”のより強いペルソナを得るためには、いずれ避けては通れないだろう。
渡り廊下は、校内緑地として整備された明るい広葉樹の木立の中を突っ切っている。緑地へは廊下の中ほどから出られるようになっていて、季節ごとの野の花も楽しめるそこは、友人と集ってお昼を食べるのに人気のスポットだった。
湊がふと視線を流すと、どこかで見たような女子生徒が、緑地の手前側に生えた1本の木をしげしげと眺めていた。
思わず足を止めて、彼女の背後から「あ、柿の木」と言ってしまう。
「! これって、やっぱり柿の木なの?」
「う、うん。そうだよ。商店街の古本屋のお爺さんたちが、大切にしてる木なんだ」
思い出した。この生徒、『かつて』もここでいつも木を見上げていた子だ。柿が好きなんだろうか?
彼女は湊に驚かされた事など気にもせず、さらに「古本屋?」と話を聞きたがる様子だ。
湊はその勢いに押されて、古本屋の老夫婦が柿の木の生育を気にしている事や、その店が25日にリニューアルオープン予定だというのも喋ってしまった。うんうんと頷く彼女に、木が切られる事になるという未来までうっかりともらしそうになって、慌てて口を噤む。
「そっかぁ…うん! 何か色々わかった。誰だか知らないけど、ありがとね! バイバイ!」
「あ、うん。バイバイ…」
彼女はぶんぶんと手を振ると、竜巻のようにあっという間に去っていった。
唖然としつつ、思う。……何だったんだろう。
思わぬ寄り道になったが、さほど長く話し込んでいたわけでもないらしい。湊は我に返ると、本来の目的に従って、運動場棟へ繋がる扉に手を掛けたのだった。
扉を開けると、その音に気付いたのか1人の少女がこちらを振り向いた。湊と彼女の距離はやや離れているが、じっと見つめてくる彼女の視線の強さは無視できなかった。
だが湊が近くへ寄っていくと、彼女は逆に興味をなくしたように目をそらした。よくわからない相手だ。
とはいえせっかくなので、女子の部活について訊いてみるくらいはいいだろう。湊は彼女の前に立って話しかける。
「こんにちは。運動部に入りたくて来たんですが、今募集してるのって女子だとテニス部とバレー部だけですか?」
「ええ、そうですけど。…テニスがやりたい、とかってはっきりした意欲があるわけじゃないんですね」
「正直に言うと、その通りです。どちらもやった事が無いのは同じで、部活に入りたいのはまず基礎体力を上げたいからですし」
あけすけに答えれば、少女はやや意外そうに湊の顔を見た。
さらに湊の手、中でも爪が伸びておらず、マニキュアも塗られていない事を確かめると、それまでの無表情を崩して笑う。
「ごめんなさい、何だか勝手にあなたの事決め付けてたみたい。最近、部活をただの肩書きだって考えてるような人が多くって」
「別に気にしてません。あなたは、どこの部の人なんですか?」
「私はテニス部で、2年のリーダーをしてる岩崎理緒。あなたは見ない顔だけど、新入生かな?」
「2年F組の転校生で、有里公子です」
「同じ学年なんだ。なら、敬語とかいらないよ。テニス部の見学、していく? やる気のある人なら大歓迎」
理緒はテニス部の部員勧誘のためと、この運動場棟の廊下で独り、来るかもわからない部員候補を待つよう顧問から言われたらしい。新入生が何人か通りかかったが、声をかけてみても見込みのなさそうな相手ばかり。
勧誘と言うならいっそプラカードでも作って校内を巡回するべきかと、本気で検討を始めていた頃に湊が訪れたというわけだ。
湊はひとまず、理緒の申し出を受けてテニス部の活動風景を見学する事にした。
理緒によると、バレー部についてはわからないが、テニス部では基礎練習と体力づくりが活動の半分以上を占めるそうだ。確かに実際の試合をして技を磨くのも大事だが、基本となる部分をおろそかにしては結局うまくいかないのだ。
理緒の後についてグラウンドへ出て、女子テニス部に割り当てられた一角へ向かう。
しかしやがて視界に入ってきた光景は、ほとんどの部員が練習もせずそれぞれ好き勝手に駄弁っているというもの。理緒は苦虫を噛み潰したような顔で「もう、また…!」と呟き、湊を置いてつかつかと部員たちのもとへ歩み寄った。
「何してるの? 走りこみ終わったら壁打ちって、言ってあるはずだけど」
「げ、岩崎……別にさぼってたんじゃないって。ちょうど走り終わって、ちょい休んでたってか…」
「その割には、息上がってる人誰もいないみたいだね。だったらもう、休憩は切り上げていいんじゃない?」
「はいはい。もう、うるさいなぁ…」
理緒の注意で三々五々に散っていく部員たちは、「熱血スポ根女とか今時はやんないし」とか「せっかく次の合コンの話してたのに」などとぶつぶつ文句を言っている。
それでも練習が再開されたのを見届けて、理緒はハッとして湊のところへ戻って来た。
「ごめん! あなたの事、放り出しちゃってた」
「いいよ。だいたい、状況はわかったから」
「……ほんと、ごめん。最近はいっつもこうで…あなたが入ってくれても、あんまりしっかりした全体練習とかできないかもしれない」
「基礎練は人数必要ないみたいだし、平気だよ。まあ、できれば大会とか出たいなって、思わなかったわけじゃないけど」
早瀬のように、部活の大会で知り合った相手とコミュを持てたかもしれない、と考えれば少々残念ではある。しかし今の自分が女である以上、男の早瀬にライバルと認識される事はないので、これは捕らぬ狸の皮算用だろう。
何気なく言った言葉だったが、理緒はそれに「大会に?」と食いついてきた。さっきからの態度といい、他の部員の評する通り、『熱血スポ根』なのかもしれない。
「えっと。どうせやるなら、って」
「そう…そうだよね? せっかく大会っていう、みんなで目指せる目標があるんだもの。やってやろうって思うよね?」
「わたしは、ね。でも、別に無理なら部内の空気とか乱すつもりもないし…」
「大丈夫! 一緒に頑張っていこう? 真面目に基礎練やれば、あなたが必要だっていう体力はちゃんとつくから」
理緒の気迫に負ける形で、湊はそのままテニス部の入部届けにサインした。
職員室に顧問を訪ねると、テニス部顧問はあの叶エミリであった。倫理の担当で、『かつて』友近が熱を上げていた女教師である。
叶は気だるげに髪をかき上げながら「公子ちゃんねぇ。じゃ、行きましょうか」と湊を伴ってグラウンドへ足を伸ばした。そうして部員たちを集めて湊を適当に紹介すると、後の事を理緒に押し付けて叶自身はさっさと戻ってしまう。
友近を弄んでいたような節もあったし、湊としてはあまり好きになれないタイプの教師だ。
練習時間はまだ残っていたので、途中からだが湊も参加する事にした。
ユニフォームのようなものは特になく――アンダースコートなんて着けたくなかったので湊はほっとした――体育で使っているジャージをそのまま着ればよいとの話であった。
運動場棟の一角にある女子更衣室へ入ると、中には誰もいなかったが、残された香水の香りが鼻をくすぐった。いわゆる、『女の子の匂い』というのだろうか。さらにロッカーの幾つかからは、脱いだものの一部がはみ出していたりした。
これは下手に目の前で女子の下着姿を見るよりも、湊の男としての精神にキた。一応はこれまでに体育の授業もあったのだが、湊は更衣室へ移動する女子集団から抜け出して、トイレで着替えていたのでわからなかったのだ。
「どうしよう、おれ変態だ……」
……今さらな発言である。でも本人はようやく自覚した事実に大真面目に凹んでいる。
湊は顔を真っ赤にして「うぅぅ」と唸るとうずくまってしまった。案外ただ落ち込んでいるというだけでなく、何がしかの興奮めいた感情もあるのではと――いや、これ以上の推測はは名誉毀損であろう。
改めて弁明するならば、これは湊自身の性癖がアブノーマルというわけでなく、本来男性であるのに突然女性として暮らす事を余儀なくされたために起こした混乱である。それなら身体が変わってすぐになるだろうとか、反論はあるかもしれない。しかし心のどこかに棚上げしていた問題が、ふとしたきっかけで蘇ってしまう、というのは誰しもある事ではないだろうか。
更衣室でたっぷり数分も頭を抱えていた湊だが、やがて立ち直ったのかのろのろと着替え始めた。
ロッカーに荷物と制服を入れて鍵をかけ、ハーフパンツと体操服にジャージ上着という出で立ちでグラウンドに出た湊を、待っていたらしい理緒が迎えてくれた。
「遅かったね。……何だか、顔赤いみたいだけど大丈夫? 気分悪いの?」
「だ、大丈夫。ちょっと自分の性――何でもない。うん、少し考え事しちゃっただけ」
「? ならいいんだけど…じゃあ、練習始めようか。テニス初めてって言ってたし、今日はみんなに混ざって軽く雰囲気掴んでみよう」
その後は真面目に練習に取り組んだ甲斐あって、余計な邪念は頭から吹き飛んでいた。
軽くとは言ったが理緒の教え方はスパルタで、未経験者の湊にも容赦無かった。次からの基礎練習も厳しいものになる事が予想され、それだけに確かに体力はつくだろうと思われた。
練習が一段落し、理緒はこの日の活動報告をするという事で職員室へ出かけていった。
今日はやや早上がりだそうである。何でも、最近港区内で変質者が出没しているせいだとか。遭遇する時間帯が日没後から夜にかけて多いため、女子の部活はあまり暗くならないうちに終えるようにとの生徒会からのお達しだ。
理緒が行ってしまい、湊が結構な疲労に息をついていると、今まで話しかけるチャンスを窺っていたのか、わらわらと他の部員たちが集まってきた。
「ね、ね! アンタ知ってるよ、真田センパイの彼女でしょ!」
「えー、アタシは伊織の女だって聞いたけど? ホントのところ、どっちなの?」
湊は思わずむせた。
……どこでどうしてそうなった?
「!! ――ゴホッ、…な、何それ!? どっちも嘘、ひどい誤解!」
「えー、隠さなくっていいって! 確かに真田先輩って人気あるし、警戒しちゃうのもわかるけどさぁー」
「そうそう、うちらの中には『過激派』とかいないし。てか、真田センパイて結局観賞用だし? 実際付き合うには重そうってか、周りがアレだし覚悟いりそうだよね。アンタ勇気あるじゃーん!」
詳しく話を聞くと、例によって噂が斜め上に進化しているらしかった。
今のところ優勢なのは真田の彼女だという方で、順平の方は噂の広がりに危機感を持った一部の真田ファンが、やっきになって流しているデマだというが……どちらにしろ湊本人にとっては迷惑な話である。真田と順平にも、申し訳ない。
それにしても最初の校門前で肩を叩かれたのが、こうまでこじれているとは。
転校生という湊の話題性と、真田がこれまで女子に親しげにした事がないという事実が相乗効果になっているのはわかるが、いくら何でも酷すぎだ。どうやって収拾すればいいのか、もはや湊にはお手上げである。
「でもー、あたし聞いたのは教室まで迎えに来て人前で堂々とベロチューかましてたって」
「それもう元の話にかすってもいない…」
「そうなの? つまんないなー」
「でもさ、実際全然眼中に無い相手なのに勝手に周りで盛り上がられんのってウザいよねー。伊織との噂なんてサイアクじゃん」
「あるある! しょーがないな、アタシらで噂の打ち消し手伝ったげよっか?」
「是非お願いします」
厄介な女の子の好奇心が、救世主に変わった瞬間だった。
拝みそうな勢いで目を輝かせた湊に、部員たちは顔を見合わせて笑った。それも嫌な笑いではなくて、本当に何でもない、この年代の女の子特有の『箸が転んでも』のたとえになるようなものだ。
それぞれに湊の背中を叩いたり、頭を撫でたりしながら部員たちが言う。
「何かアンタ、カワイー! 天然? 妹っぽいー」
「世間知らずってか、雰囲気スレてないよねー。どう? 今度アタシらと一緒に合コン参加してみる?」
「やめなって、こんなコがまかり間違って大学生ってだけのキモ男とかにお持ち帰りされたらカワイソすぎるしー」
次々にまくしたてられ、返事をする余裕が無い。湊はあわあわと口を開閉させて困惑した。それがまた彼女らの『カワイイモノセンサー』を反応させている事はわかっていないようだ。
理緒が戻ってくるまでいじり倒され、解放された頃にはぐったりと精神的に疲れていた湊である。
「……大丈夫? みんなどうしてああなんだろ。恋とか男とか、そんなのばっかり」
「ううん…そういうお年頃、なんじゃないかな……でも助かった、ありがとう岩崎さん」
「いいよ。これから一緒に大会目指して頑張ってく仲間だもの。遠慮とかしないで、何かあれば私に言って?」
ごく自然に、微笑み合う2人。
特別課外活動部とはまた違う、日常を共にする『仲間』――目の前の理緒に加え、少々強引ではあるが、それぞれに湊を受け入れて好意的に接してくれるテニス部の部員たち。
同じ運動部という括りではあっても、『かつて』とは180度違う女性としての集団。
これまで関わりの無かった顔ぶれと過ごす、全く未知の領域の予感に、湊の心にまた新たな絆の萌芽が生じた。
コミュニティ“戦車”――湊はその感覚を、大切に胸に抱き締めた。
「ところで有里さんは着替えないの? 今日はもう終わりだけど」
「あー…ええと、……みんなが着替えた後でいいよ……」
湊が1人で着替え終わって更衣室の外へ出ると、ちょうど別の部活の女子たちが入れ替わるように入っていった。……危ないところだったようだ。
まだ帰らずに残っていた部員たちが声を掛けてきて、噂については任せておけと快く請け負ってくれた。
それから早く帰れと言う巡回の教師の注意を受け、全員その場で解散したのだった。
夕焼けの空に、犬の遠吠えが響いている。コロマルのものではないが、それがきっかけで神社へ顔を出してみようという気になった。
人通りの少ない道を、独り歩く。
教師の注意を忘れたわけではないが、湊からすれば、変質者がどうした、というものだ。
万一出てきたとして、コートの前を広げたら中は裸の男、とかだったら鼻で笑ってやる。何せそんなモノ『かつて』正真正銘の男だった湊は見慣れているのだから、悲鳴を上げて逃げるなんて可愛らしい反応をしてやるつもりは無い。
いや、それどころかモノによっては哀れみの目で見てしまいそうだ。
初めての時は美鶴から「お、大きいんだな…」とか熟れた頬で言われちゃった湊なのだ。そんじょそこらの野郎のナニなんぞ、全く相手にならないだろうという自信がある。
……結局遭遇する事は無かったのは、湊にというより変質者の方にとっての幸いであったろう。
長鳴神社の石段をゆっくりと上りながら、『かつて』学力上昇祈願で賽銭を入れに通った事を思い出す。湊は最初から美鶴に惹かれていたし、彼女が頭の良い人間が好きだと聞いてからは、学年トップ目指してできる事は何でも試してみたものだ。
今となってはテストなど余裕で、祈ったのもここではなく『かつて』の神社だが、まあ感謝の意くらい伝えてもよかろう。
そう考えて賽銭用の硬貨を取り出そうと鞄に手を突っ込みつつ、石段を上りきった湊の視界に予想外の人物の姿が映る。
「――舞子?」
「えっ? …おねえちゃん、だあれ?」
不思議そうにこちらを振り向き、ぱたぱたと走り寄ってくる、赤いランドセルを背負った女の子。『かつて』は“刑死者”のコミュを築いた相手である、舞子だ。
何を言えばいいのか、咄嗟に言葉が出てこない。まさかこんな早くに出会えるとは、思ってもみなかったのだ。
黙っている湊を下から見上げて、舞子が首を傾げる。
「おねえちゃん、どうして舞子のお名前知ってるの? お母さんの言ってた『すとーかー』さん?」
「ち、違うよ!」
「じゃーあ、せんせーの言ってた『へんたい』さん?」
「う…そ、それも違――」
違う、と否定しようとして、舞子のあまりにまっすぐな視線に湊はたじろいだ。
昨日のやはり純粋であったテオドアの目、そして今無垢な瞳で自分を見つめる舞子。その前ではさっきまでアレな事を平気で考えていた自分が、酷く汚れた大人に思えてしまうのだ。まして自分が変態ではないかとは、まさに今日直視させられた問題である。湊は我知らずのうちに、一歩足を引いた。
そして子供というのは、そういう大人の挙動に聡い。
舞子はぱっと湊から離れると、指を差して大声で叫んだ。
「やっぱり『へんたい』さんなのね! だめなんだよ! 悪いことしたらけーさつにつかまるんだから!」
「何もしないよ! お、わたしは、ただ…」
「せんせーは『へんたい』さんに会ったらにげなさいって言ったもん! お話しちゃだめだって!」
わーっ、と叫びながら舞子は湊の脇をすり抜け、神社を下りていってしまった。
湊はそれを呆然と見送るしかなかった。引きとめようにも話を聞いてもらえるとは思えないし、無理やり捕まえでもしたらそれこそ『へんたい』の仲間入りだ。
「……どうしよう」
舞子の姿が完全に見えなくなった頃、ぽつりとそう呟く。
前述したように、舞子は“刑死者”のコミュ相手である。だが今回こんな形で別れてしまった以上、舞子が今後自分を警戒せずに話してくれるかと言えば果てしなく不安が残る。最悪の場合、コミュを発生させるどころか舞子がこの神社に2度と現れないかもしれない。
そうなれば、“刑死者”のペルソナは現在保持しているイヌガミ以外のものは手に入れられないという事になるだろう。
「何でこんな…おれが悪かった? 前から外れた事をしようとしたから? でもそれじゃ、前の悲劇を回避するなんて…」
混乱のあまり、鞄を取り落としその場に立ち尽くしたまま、両手で顔を覆ってぶつぶつと思考を垂れ流す。
自分の行動によって、『かつて』とは異なる結果が導き出される可能性について、理解したつもりでいた。だがこんな、決定的な悪果に至るとは想像できなかったのだ。
焦りがじわじわと心を侵食していく。自分から動く事により、『かつて』よりも物事が悪化するかもしれない。
これまで自分は、この世界で何をしてきただろう。悪い結果は今回だけで終わりじゃないのでは?
……実際のところは、今回の事は巡り合わせの悪さとしか言いようがないものだ。
舞子が塾の日でもないのに、たまたま神社で寄り道するのを選んだ事。
港区全域の学校に、変質者に注意するようにとの連絡が回っていた事。
そして湊自身の現在の心理状態が、変態という単語に過敏に反応してしまった事。
全てが絡み合い、舞子が湊を疑う状況と、疑いを晴らせない湊という構図を作り出してしまったのだ。
だが1度湧き上がった不安は、その原因を解決しない限り、なかなか消せない。
忘れたつもりでも、重要な決断が必要な場面で浮かび上がってきて、判断を誤らせるもとになりかねない。
湊の心の棚は増えるばかりだ。いつかその中身の重さに耐え切れず、一気に底が抜ける日が来たとしたら。
参拝するという目的も忘れ、鞄を拾ってふらふらと神社を立ち去った湊を、境内の奥から一対の真紅の眼が見つめていた。
――初稿10/05/29