エルモア・ウッド。
「今頃ファイの奴、どこで何してんのかなー」
カイルはソファーに仰向けに寝転がり、天井の染みを数えながら言う。
その声はいかにも気怠げ、いかにも退屈そうであった。
「さあな。こないだ最後に電話した時は伊豆を出る辺りだったから、おおかた神奈川に入った所辺りじゃないか」
そばの柱に背を預け、本を読んでいたシャオが答えた。
本を読む時は大抵返事もしないか、顔も上げずに答えるのどちらかなのだが、この呟きにシャオは珍しく本を読むのも中断して答えた。
「あー、なるほどね。神奈川ね。どこか知らんけど」
「隣の県だろ・・・」
シャオの実は珍しい行動にも気づかず、カイルはよっこらせなどと言いながら体を起こす。
ずっと寝転がっていて、急に体を起こしたので血が頭に上らず奇妙な感覚を覚えていた。
それを振り払うように側頭部を軽く叩いている。
シャオが心底呆れた様子で言った。
「しょうがねーじゃん。ここから出る事なんか滅多に無いんだからさ。きっと他のヤツらも知らねーって」
「いや、流石にお前くらいだろう。と言うかそうであって欲しい」
「じゃ、聞いてみっか。おーいフレデリカ!」
そう言って偶々向こうから歩いてきたフレデリカに声を投げかけた。
相変わらずのクマ耳フードであるが、最近の暑さの為か半袖で裾が腰辺りまでの夏仕様となっていた。
下はキャミソール一枚の薄着。短めのスカートは歩みと同調して揺れていた。
「あによ。なんか用?下らない用なら首から上の毛全部燃やすわよ」
暑さのせいかイライラした様子で返す。
口には人工着色料で色づけされた健康によろしく無さそうな色のアイスが咥えられていた。
最近は飴よりもアイスを咥えている事の方が多いようだ。
「あー、お前神奈川がどこにあるか知ってる?」
「はあ?そんな下らない事で呼び止めたの?と言うかアンタそんなことも知らないの?
・・・あのアレ、横浜県でしょ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人は無言で、そしてジト目でフレデリカを見つめる。
シャオの目には特に失望の色が浮かんでいた。
「なっ、なによ!いいのよ外の事なんか知らなくても!外なんて大ッ嫌いなんだから!!
下らない事で声掛けないで!アタシは忙しいのよ!」
「いや、いいんだスマンかった。つまらんことで止めて」
言いながらカイルはニヤニヤしている。
その横でお前も知らなかっただろうがとシャオは思う。
「絶望した!!馬鹿に馬鹿にされるなんて絶望した!!
あーもう!マリーで遊ぶ!!あんたら朝起きて髪が焼失してても知らないからね!!」
フレデリカは悔しそうに眉根にしわを寄せて言い、走って行ってしまった。
「この歳でハゲはキッツいな・・・」
「なんでオレも・・・」
二人は駆けていくフレデリカの背を見つめ、同時に溜息をつく。
「・・・でもまあファイなら元気なんじゃね?途中でへばるような奴じゃないと思うぜ」
フレデリカと神奈川ですっかり話が逸れていた。
カイルが思い出したかのように言う。
「へばる奴じゃあないと思うが、元気かどうかは分からんな。案外暑くてヘタレてるかもしれんぞ」
「そういやあいつ、暑いの駄目だっけ。なんか全体的に白かったし。
じゃあどっかで暑さでやられて気絶でもしてるかもな」
「熱中症は割と洒落にならないからな。今度電話で水を沢山飲むように言っておくか」
「そだな。・・・そーれにしても、あっついなァ」
シャオは再び文字を追いかけ始めた。
カイルも再びごろりと横になる。
くすんだ硝子窓の向こうでは、空を泡立てたかのように入道雲がむくむくと大きくなっていた。
蝉が熱情を乗せて声の限り鳴いている。
飛行機雲が東の、ファイのいる方の空に向かって真っ直ぐに伸びていた。
◆◆◆
久しぶりだなぁ、この感じ。
夢か現か分からないこの状態。
いや、混ざり合った状態って言った方がいいのかな。それで、この感じだと・・・
予想通り光が突如収束し、形を成した。
・・・やっぱり。久しぶり。
「こ・ん・に・ち・は」
何かのサインのように光が点滅し、頭蓋の中に声が響く。
もうこの会話にもすっかり慣れっこだ。最後に会ってからけっこう経った気がする。
・・・それで、いつものように話ししてもいいけど、
いい加減、君が誰なのか教えてくれてもいいんじゃないかな。
「・・・僕は・・・僕さ。他の誰でもないよ」
それまではっきりと聞こえず、たどたどしかった言葉遣いが急に明瞭な物になる。
その言葉がやけに鮮明に耳に焼き付いた。
・・・っこの声は・・・
そしていつものように幕切れ。
夢が現に浸食され、夢の終わりを告げる。
◆◆◆
「ッ!!!?」
急に皮膚に触れる感覚が変わる。冷たくて纏わり付く感覚。
一面の泡の壁が視界を埋め、三半規管が重力の方向を見失い錯乱する。
耳の奥では唸るような音がしている。
「ごほッ!!」
普通に呼吸をしてしまい、鼻腔と喉から水が流れ込んできた。
思わず大量の水をのんでしまった。どうやら一瞬気絶してしまっていたらしい。
鼻の奥から耳の奥にかけて疼痛がする。
どうやら水から熱い抱擁を受けたらしい。実際はすごく冷たかったが。
とにかく水中から逃れようと、光の差す方向へ体を動かす。
水の中で目を開けても強いモザイクが掛かったようにしか見えないが、目の前に何か大きな塊があることは分かった。
「っぷは!!!」
水面から顔を上げ、酸素を貪る。同時に飲み込んでいた水もはき出す。
頭上には真っ青な空が広がり、その真ん中を飛行機雲が横切り、空を等分していた。
「っと、あの子は!?」
子供を助けに川の上まで跳んできた事を思い出し、子供の存在も思い出す。
そして先ほどの塊が子供だったところまで思考が繋がった。
再び潜り、子供の体を抱え浮上する。
そして、もう一度水面から顔を上げたところで、そこが川岸だと気づいた。
おかしいな、確か川のど真ん中に居た筈なんだけど・・・
とりあえず、川を上がろう。
子供の意識が無いようで、抱えて泳ぎ、陸に引き上げるのは非常に骨が折れた。
「おい、大丈夫か?」
河原に上がり、肩で息をしていると不意に後ろから声を掛けられた。
知らない人だった。がっしりとした体躯にアロハシャツがよく映えている。
だが、その姿を見た時、頭の隅に引っかかる物があった。
デジャヴとかいうやつだろうか?
「はい・・・一応大丈夫です?」
語感が疑問系になっていた。
なぜなら、こみ上げてくる物があったから。
「ぶほぁ」
そう言って血を口から吐いた。
「うわっ!?全然大丈夫じゃねぇじゃねーか!しっかりしろ!!」
「あー、ご心配無く。吐血じゃなくて鼻血が口に行っただけです。いやーしょっぱいしょっぱい」
ははは、と笑いながら誤魔化す。
鼻血だとしても突然大量に出たら普通の人は訝しむだろう。
本当は限界を超えたPSIの使用による物なのだが、川底で鼻をしたたかにぶつけたのだという事にした。
その後、アロハの人と水着の子供の介抱をしているとその子の母親らしき人が慌てふためいた様子で走って来た。
遠くから僕と子供が溺れているのが見えたらしい。
――・・・
「ファイお兄ちゃん、ありがとねー!」
「天樹院さん、本当にありがとうございました」
親子が去っていく。謝礼を、と言われたが丁重にお断りした。
代わりに名前だけ名乗っておいた。
子供(女の子だった)が元気よくこちらへ手を振っている。動きに合わせて二つ縛りの髪が揺れる。
反対の手を握っている母親も頭をこちらへ下げていた。
僕も手を振り返しておいた。
「・・・ありがとうございました」
親子の姿が見えなくなったところで、手を振るのを止め、アロハの人に言う。
「・・・気づいてたか」
「ええ、僕は川の真ん中で気絶したはずですが、それがどういう訳か気がついたら川岸だった。
しかもそこで落ちて初めて濡れた。浮いてでもいなければ無理な話です。・・・サイキッカー、ですか?」
「・・・ああ。お前も、だろ。ったくあんな大っぴらに能力使いやがって」
「すいません・・・いや、夢中だったもんで」
アロハの人は・・・いやめんどくさい。アロハさんは自分がサイキッカーだと言うことを隠していたいようだった。
だから母親が僕にお礼を言う間、黙っていたのだろう。濡れてない男が溺れている僕らを助けるたというのは説明がつかないから。
僕が分かっていて親子のお礼の矛先をアロハさんに向けなかった事も、アロハさんは分かっていたようだった。
咎めるようにアロハさんは言う。その目は目の前ではなく遠い何かを見ていた。
会ったばかりの人にいきなり何か過去にあったのかなどと不躾なことは聞けまい。
ただやはり、お婆さんの言うように、PSIは人目に触れさせない方が良いのだろう。
「・・・いや、こっちこそすまんかったな。
人がこっちに来る気配がしたもんでな。つい落としちまった」
「いいんです、あのままだと二人とも死んでました。助けられたのは事実ですし」
隠したがっている事には触れずに返す。
触れずに喋ろうとしているのもアロハさんには分かっているだろうけれど。
「まあ、とりあえずついて来い。服も乾かさなきゃならんだろう」
そういって河原の一方向を指す。テントが張ってあった。
この人キャンプでもしてたんだろうか。一人で。
でも濡れたままだと流石に気持ち悪いので言葉に甘えさせて貰おう。
テントに向かうついでに荷物も拾ってきておいた。
――・・・
「それで、お前どっから来たんだ?
オメーみたいなガキが裏社会のサイキッカーなんてやってる訳ないし、流れモンか?」
たき火に当っているとアロハさんが聞いてくる。
「伊豆の方に居たんですが訳あって旅してます。ファイです」
「ファイ、ね。
どういった訳だ?旅にしたってガキがするには早すぎるんじゃねえか?」
アロハさんがやけに突っ込んで聞いてくる。何か思う所でもあったのだろうか。
自分から僕の境遇を人に話すのはあまり好ましくないが、聞かれたなら語ってもいいだろう。
「・・・自分探しの旅、とでもいいますか」
「傷心のOLかよ」
アロハさんは豪快に笑った。
真面目な理由だったのに笑われ、少しムッとした。
「いや、笑ってすまん。それでなんで自分探しなんかしてんだ?」
謝りながらもアロハさんはまだ顔がにやけていた。
「・・・記憶がないんですよ。
気がついた時には、僕にあったのはこのPSIの力と名前だけ。いや、名前も初めは忘れていたんだった。
だから、旅に出たんです。
僕の知っている場所がないか、僕の事を知っている人が居ないか。探してるんです」
「・・・・・・」
話した途端、アロハさんの表情が真面目な物になった。
笑いもせずただ黙って話を聞いていた。
◆◆◆
似ている、と思った。
境遇は違えど、幼くしてたった一人で未知の世界に足を踏み出した事。
理由は違えど、自分の中身を理解する者を探している事。
自分が持つ感情は壊れて久しい、いや初めから壊れていたのかもしれないが、もし感情が正常だったなら、
この胸に灯るのは、同情といったものだったかもしれない。
そして、目の前の少年はまだ人前でPSIを使う事に躊躇いはないようだった。
それはいつか破綻をもたらすだろう。
あのクソったれな研究所から逃げ出して、自分は11歳で外の世界を知った。
初めは、自由を手に入れたと思った。もう自分は檻に入れられた獣ではないと思えた。
初めて人間になれたと思った。
しかし、それは幻想でしかなかった。
畏怖、恐怖、まるで化け物を見るようかの視線。
周りの多くの人間たちとは根本的に自分は違う生きものだと言う事に気づかされた。
結局、自分は単なる檻から脱走した獣でしかなかったのだった。
それからずっと長い間、力を隠して生きてきた。
自分は人間ではないと諦める気持ちが半分、人間でありたいと願う、諦められない気持ちが半分。
そんな二つの感情が入り乱れて、浮かんだ感情は悲しい、というものだったのかもしれない。
だから、こうして自分の中身を理解してくれる者を探し続けている。
だから、少年が躊躇せず力を使った時、何も知らなかった頃の自分を思い出し、居たたまれなくなったのだ。
そして、眩しく思った。
人間でありたいと思ったから、自分は力を使って溺れている子供を助ける事はしなかった。
しかし、力を使いながらも助けに行った少年の方がよっぽど人間らしく思えたのだ。
あれが羨ましいという感情だったのだろう。
少年を助けたいと思った自分が、グリゴリ01号がいた。
そしてあの親子の笑顔が向けられる少年が羨ましかった。
少年に対しての関心が強まっていっていた。
それは、もしかしたらこの少年が自分を理解してくれる者の一人なのかもしれないという期待だった。
聞かれたのなら、自分の過去を話してもいいかもしれないとさえ思っていた。
もちろん、話せることと話せない事はあるが。
◆◆◆
「・・・と、いうわけなんです」
「・・・・・・」
「アロハさん?」
「あ、ああ。・・・アロハさん?すまなかったな・・・笑ったりして」
本当にすまないと思ったようで、今度は笑ったりしなかった。
「あ、ええと、名前まだ聞いてなかったから・・・」
「ああ、俺はグリ・・・・・・いや、やっぱアロハさんでいい」
名乗れない事情でもあるのだろうか。
力を隠したがっていた事もあるし、特に深く突っ込まないことにした。
「それで、アロハさんはなんでこんなところでキャンプみたいな事をしてるんですか?一人で」
「・・・そうだな。俺も旅をしてるんだ」
一瞬何かを思い、自分の中で確認するようにアロハさんは言った。
何を思ったかは僕には分からない。
「そうなんですか。自分探しですか?」
笑われた意趣返しに聞いてみた。
初めて会った人にしては、随分とフランクに話している自分に気が付いていた。
しかし、何故か会った事の無い筈なのにこみ上げる既視感。
ひょっとしたら記憶が無くなる前の知り合いなのかと思ったが、アロハさんは僕の事を知らないようだった。
分からない、その違和感だけが頭の片隅にへばりつく。
「俺の中身を理解してくれる奴を捜してんだよ。・・・ずっとな」
どうやら目の前の巨躯の男は傷心のOLではなく、中学二年生だったようだ。
「失礼ですが、お歳は?14歳ですか?」
半笑いで尋ねる。僕もインターネットに毒されたものである。
サイレンの情報を得るためにパソコンを利用していたら、いつの間にか要らない知識までいつの間にか身に付いていたのだ。
「お前、笑われた仕返しはやめろ。
笑ったのはそりゃ悪かったが、こっちも真面目な理由なんだよ。あと今年で27だ。」
アロハさんは少し落ち込んだように、少し困ったように笑いながら言った。
「三十路直前で、一人旅・・・触れちゃ駄目な所ですか?これ。
まあそれはともかく、どんな理由で自分を理解してくれる人を探してるんですか?こっちも話したんですから話して下さいよ」
初対面で過去聞くなんてやはり不躾だが、こっちも語ったのだから構わないだろう。
それに、なぜかアロハさんも話してもいいような雰囲気だった。
三十路前のことを言うと盛大にアロハさんは落ち込んでいたけれども。宥め賺して話しを続けて貰った。
「ああ、それはな・・・」
日が傾き、そして沈んでいく。
辺りに人影は無く、吸い込まれそうなほど大きな月が、二人だけを照らし出していた。
◆◆◆
その夜。
「感謝するよ。射場。――・・・そしてさようなら」
一人の男が檻から逃げ出した。
己の内に飼った憎しみは計り知れないほど大きく、その憎しみがついに外へ溢れ出た瞬間だった。
求める物は自由か、復習か。またそのどちらもなのか。
男の瞳に灯る凍えるほどの狂気、憎悪の炎。
縛り付けていた檻は徹底的に破壊し尽くされ、後には何も残らず。
脱走した獣を捕まえようと、猟犬が放たれるが獣が捕まる事は無かった。
人の世に紛れたもう一頭の獣、それは何をもたらすのか。
運命の歯車に、想いは弄ばれる。その歯車が今、音を立てて回り始めた。
これが全ての悲劇の始まりであることを、今は誰も知らない。
ただ、月だけが全てを見ていた。
続く