「タツオーーッ!! 生きていたのか……!? 本当にお前なのか!!?」
朝河さんの声が聞こえた。
風の唸りにも負けない声量のそれは、雰囲気から察するに今しがた僕達を狙撃してきた人影に向かって放たれたようだった。
それは、僕を抱えて逃げていた雨宮さんが転倒し足を負傷、身動きもとれず砂煙が晴れれば間もなく撃たれるであろう、そして僕のPSIで狙撃を防ぎ切れるかどうか……という瀬戸際の事だった。
「タツオ……? あ、拙い!」
そんな時に敵の気を引くような真似をすれば敵の狙いが朝河さん達の方へ向くかも知れない。ボロボロのビルの壁面なんかじゃあの攻撃は防げそうにないし、何より崖の上にいる朝河さん達には逃げ場らしい逃げ場が存在しない。
そうなるとかなり拙い。しかし、変わらず僕らの方を狙われるのも駄目だ。後ろには動けない雨宮さんが倒れているのだから。あの人影に向かって朝河さんが名前らしきものを呼んだのが気になったけど、それよりも今は切羽詰まっている。一瞬湧いた疑問は焦りに塗りつぶされてしまった。
どうする……? 考えろ、僕……! 思考を放棄するのが一番拙い事は分かり切っているんだから。
果たして敵の行動はそのどちら――僕らが狙われるか、朝河さん達が狙われるか――でもなかった。
砂が晴れるとそこにあったのは、朝河さんの声も全く聞こえなかったような素振りで、頭が傾いた信号機に移動している敵の姿だった。
だけど攻撃に晒されなかった事に安堵するゆとりは生まれようもない。何故攻撃されないのか。寧ろ、緊迫に疑惑が重ね塗りされより嫌な感覚へ変貌していく。高まっていた鼓動は慣性の法則に則っているかのように、しばらくその速さを収めそうもなかった。握りこんでいた指を更にきつく締める。
敵は朝河さん達のいる崖と僕達、特に雨宮さんを睨みつけてから信号機の背に片膝を着いた。未だ威圧感の消えないその挙措は獲物をじっくりと嬲る肉食獣のように感じさせる物だった。
「な、なんで……?」
「……あれは恐らくバーストによる攻撃だった。とすればまさか、PSI行使での疲弊か、何らかの原因による弾切れ……?」
「弾切れなら、どうして直接近付いて襲ってこないんでしょう……?」
「……あの場から動かずとも私達なんかどうとでも出来ると考えている?
それともライズが使えないか、使えたとしても私に敵わないと判断した? たった今私のライズの程度を彼に見せつけたから。
あの狙いの付け方や、タイミングの取り方……間違いなく彼には有象無象の他の禁人種と違って知性がある。そう判断していたとしてもおかしくはない、けど。それに……っ!」
「あっ無理に動かないでください!」
必死に頭を回して考えている雨宮さんの声が荒い息交じりの独り言となってその場に響いた。
動かないでという僕の言葉を無視して雨宮さんは起き上がろうとする。脹脛に大きな青痣が浮かび、腫れあがった足は見るからに痛々しい。
敵の意図が掴めず次の行動を起こすに起こせないでいると、雨宮さんが睨みつけた方向から大きな振動を感じた。
「ギャウッ!!!」
「……蟲が居るわ」
「……ああ!! 次から次に来るから一瞬忘れてた!! どうする、えっと……あー! ゴメンなさい!!」
見ると再び蟲が僕達の方へと猛スピードで向かって来ている。さっきの雨宮さんのテレパス――蟲は足音すなわち振動を感知して襲ってくる、という推測が正しいのならば、バースト弾の爆発も含めあれだけ盛大な振動を立てたのだから、さぞ大きな獲物とでも思ったのかもしれない。
銃を持った敵の方は、全く安心できないけれど一先ず攻撃が止んだらしい。だけどこのままだったら何か行動を起こすより先に蟲に間違いなく食われてしまうだろう。
だから、僕は大慌てで雨宮さんに抱きついた。脇の下に頭を入れて胴に手を回すと雨宮さんの体は、爆発的なライズの印象とは程遠く僕の手が回り切る程に……細かった。
「ちょ、ちょっと!!?」
雨宮さんの腕に首を挟まれる形で顔を出し、空を見上げて集中する。創られたブロックにテレキネシスを引っ掛けて思いっ切り引っ張った。頭上から垂れさがる綱を手繰り寄せるのに似た感覚が体をよぎる。
何時もは自分一人でこれをやっているけど、今回は二人分の重さだけに負担はやはり少し大きい。が、問題が起きるほどの負担じゃなかった。十分に体が浮いた所でテレキネシスを作用させたブロックを消して、同時にもう一つ丁度足元に創り、そこに着地する。
雨宮さんの体を離しながら下を見下ろすと、さっきまで僕らが居た所を蟲が大口を開けて通過して行っていた。音もなく空中へ逃げたのだから、今頃蟲も不思議がっている事だろう。
「あ、ありがとう、あなたが空中を移動できて本当に助かった。でも、なんで謝ったの……?」
「あー……咄嗟だったので思わず。深い意味は無いんです。決して」
「そ、そう……?」
正確には雨宮さんに抱きついた事を謝罪しているんじゃなかった。誰に謝っていたかというと、夜科さんに。
雨宮さんの膝の上に乗っけられた時の事、正確にはその後夜科さんにバーストをぶっ放された事を思い出して、思わず謝罪が口をついていた。トラウマ化していたらしい。
だがそんな事は今とんでもなくどうでもいい。それよりも目の前の二体の敵の事だ。
僕達の真下を通り過ぎた蟲は、今度はあの銃を持つ敵のいる信号機の方へ向かった。僕らにとってはどっちも敵だけど、敵同士で意志疎通し連携が取れている訳ではないようだ。と、言うより蟲には知性が感じられなかったからあの二体もたまたま居合わせたのかもしれない。
あわよくば相討ちになってくれれば……せめて足を引っ張り合ってくれれば、僕達が行動しやすくなる。
「……」
そうして蟲が銃の敵に接近し、喰らい付こうと上体を起こした時、銃の敵の方にも動きがあった。
銃身に添えていた手を離し、そっと口元のマスクへと触れる。
『――ヒュイイイイイイイイイイィィィ』
「高い、音……?」
呆然とした声音の呟きが意図せず口から零れていた。
蟲の接近に対し、さして慌てたような素振りも見せずにいた敵から何らかの、喩えるのなら空間を引っ掻く笛のような高音域の音が響いた。
恐らくその音の効果だと思われるが、結果は直ぐに訪れた。
「ッ!!? ギャアアア!!」
蟲がギクリと鎌首を擡げたかと思うと、急に身悶えし始め、あまつさえ悲鳴に似た声を漏らしながら再び地中へと潜り込んでしまったのだ。
全てはあの音が鳴ってからだ。つまりあの音が蟲に何らかのネガティブな影響を与えたと考えるのが普通だろう。どうやら敵同士邪魔し合ってくれれば、という僕の淡い期待は空しく裏切られたようだ。
「マスクから発生する音を嫌がってる……!」
雨宮さんも同じ結論に達したらしい、息を飲むような声が聞こえた。
地中に身を隠した蟲からは、顔を出そうとする気配が感じられない。大慌てで銃の敵から離れていくのが巻きあがる砂によって確認できた。
そしてその男は悠々と浮いていた腰を元の立て膝の状態に戻し、片手をそっと銃身に添えた。
蟲も含めた全ての攻撃が一旦収まったかのように感じられる。ただし、あの人の双眸は相変わらず僕らを見逃してくれるような優しげなものでは無かったけれど。
「……彼のマスク。彼はこの近辺に蟲が存在することを知っていて、その対策も取っていた。
加えてあの銃。以前から人の形を取る禁人種に見られた、道具を用いるという特徴……彼もまた合致する。でもその道具は誰が……? それにタツオという名前……」
バースト弾の爆発音も止み、蟲が間近に迫った際の砂が撹拌される音も止み、そこには奇妙な静謐があった。
静謐、とは言っても当然風の吹く音は聞こえるし、鼓動も未だ収まりきらない。音がしない訳じゃない。
ただ、生きるか死ぬかの瀬戸際で敵意のある対象にのみ極度に集中した結果生まれた、敵と自分達以外の周りの雑音が消えたように感じる、緊張感を孕んだ無音があった。
そんな無音の中緊張感や疑惑に押し潰されてしまわないよう、ひとまず唾を一度飲み込んでさっきから物を考える邪魔をしていた喉の渇きによる違和感を拭い去る。そしてしゃがみこんだ男の人を、次いでその手に携えられた銃を見つめた。
「もし弾切れだとすると、あの人は今もう一度PSIを充填しているんでしょうか……?」
「恐らくは。彼がリロードに要する時間がどれ程の物か分からないけれど……ほんの少しでも考える猶予が与えられたようね」
さっきから雨宮さんは物凄い勢いで頭を回しているようだ。時々ブツブツと独り言になって漏れていることに気が付かない程に集中して。
それはもしかしたら雨宮さんは瞬時に自分が動けないことを悟って、それからどうすべきかを考えた結果なのかもしれない。
悪戯に足を動かそうとして無駄な時間を生むのではなく、動けないならば現状を見極めてそこから活路を見出そうと。
「……判明したことや未だ不明なことがどちらも多すぎる。このままじゃ混乱して打つ手が何も見いだせない。一度、現状を整理してみましょう……」
雨宮さんは今自分のできる最大の事をしようとしている。
だったら、動ける僕のやるべき事は――!
◆◆◆
「タツオーーッ!! 生きていたのか……!? 本当にお前なのか!!?」
人影が雨宮達を狙撃するのが、巻き上がった砂のために目標を見失い一瞬中断され、ボロボロの外套に埋もれていた人影の顔が露出した瞬間、朝河は叫んでいた。
理性が叫べと命じたのではない。様々な感情――疑念、動揺、雨宮達を攻撃していた敵が朝河の求めていた人物である訳がないという否定、そして何よりその人物、真名タツオが生きていたのだという希望が朝河の喉を震わせていたのだ。
「な、なに敵に呼びかけてんだバカッ!!」
背後に居たバンダナの男が上擦った声で朝河を非難する。
朝河の行動に危惧を覚えたのはその場に居た夜科、望月も同じ。だがバンダナの男の反応は、非難の声を上げながら既に敵とは反対方向に駆け出し始めている程、殊更に身に迫る危機に対して過敏なようだった。
「ッ!」
「やべェ!!」
その声にハッと我に返った朝河は己の取った行動が招くであろう結果を瞬時に予測した。すなわち、雨宮達に向けられていた砲撃が今度は自分たちに向けられるかもしれない、と。
場に存在する一同に張りつめた空気が瞬く間に広がり、みな似たような、焦りに支配された表情を浮かべる。
だがそれらは杞憂となった。以後砲撃が行われる事もなく、外套の男は静かに移動を始めたからだ。男が信号機の上に淀みのない動作で着地する。
その時、それまで朝河の呼び掛けに一切の反応を示さなかった男がほんの一瞬、首を動かす事もなく眼球運動のみの流し目でチラリと朝河たちの方を見遣った事に、男を凝視していた朝河だけが気づいた。
「……!」
視線が交差した。
息が止まる。
時間が流れるのが遅くなった事を、朝河は知覚した。
そして持ちたくなかった確信を抱かされた。今目の前にいる、自分たちに敵意を持った男は、疑いようもなく自分の知る人間であることに。
瞳と瞳がかち合ったのは一秒にも満たないコンマ以下の時間。しかも視界は砂により不鮮明で男の顔もハッキリと見えたとは言い難い。
だがそれで十分だった。何故なら変わっていなかったから。朝河の脳に確固として存在する、自分を見つめる『真名辰央』の瞳のそれと、僅かばかりも変わっていなかったからだ。
沸騰した水の底から泡が無尽蔵に湧くように、目の前の男が真名辰央だと確信してもなお、更に別の疑問が朝河の脳に湧く。何故真名辰央がこの状況でここにいるのか、という。
他にもどうやってこのサイレン世界の化け物だらけの環境で生き残っていたのか、あの蟲が反応したマスクは一体何なのか、何故砲撃が止んだのか、などの多々の疑問の泡も湧くが、それが一際大きな泡であった。
疑問が判明して泡が弾ける、ということもなくただひたすらに疑問は疑問として存在し続ける現状に、最大級の苛立ちを込めて、朝河は歯噛みした。
朝河が臼歯を噛み締めている頃、男が攻撃を突如として止めたのを見て拍子抜けと、疑惑が半々程に入り混じった内心がそのまま顔に浮かんだような表情をしながら夜科は独りごちる。
「何だァ? 座り込みやがって……もう撃ってこねぇのか……?」
「弾切れ……?」
「な、何かよく分んねーけど! チャンスじゃん!! 早く逃げねーとッ!!」
望月は砲撃が止んだ理由の推測を口にするが、理由などどうでもいいと言わんばかりに声を荒げてバンダナの男はこの場から逃げることを提案した。
今現在目の前で起こっている超常現象については男の脳が考えるを止めさせていた。ただ頭にあるのは危険から遠ざからなければならないという本能に近い思考のみ。
そんなバンダナの男を見て、幾分か冷えた視線を夜科と朝河は投げかけながら言った。
「……どこからどうやって逃げようってんだ。この崖の周りは蟲の狩場になっていて、ゲートに行くまでにはあのマスクの男が居る」
「ぐ……な、なんかあんだろ!? ――っそうだ!! あのガキがさっき空飛んでたろ!? どうやってんのかさっぱり分からねぇが、アレが出来れば地面の蟲なんて問題にならねぇじゃん!!」
「残念だが、アレが出来るのはこの中じゃアイツだけだ。アイツが帰って来なけりゃどうにもならん。それに帰ってきてもこの人数で空中を移動できるかどうか……」
「つ、使えねぇ……! と言うか何やってんだよあのガキ達は!!」
男が苛立ちを見せながらも、器用にバンダナをずらすことはしないで頭を搔き毟る。その言い草に引っ掛かるものを覚えなかった訳ではないが、実際なぜファイと雨宮は帰って来ないのか疑問に思ったため、一先ず感情は置いておき、夜科は雨宮達のいる空中へと視線を遣った。
見ると、宙に浮かんだブロックの上で雨宮は腰を下ろしたまま立ち上がろうとしない。究極の楽観主義者でもない限り、この状況下でのんびりと事態を静観する事はないだろう。ならば雨宮達は何らかの原因で動く事が出来なくなったのだろう、と夜科は推測した。
「恐らく、動けなくなったんだ。雨宮は、あんな無茶をすればどっか怪我でもしてておかしくはねェ……あのガキも今日は散々PSIを使ってる。二人ともにガタが来たのかもしれねぇ」
「な、んで!! お前はそんなに落ち着いてんだよッ!! 状況が分かってんのか!!? ボサッとしてたら間違いなく殺されんだぞッ!!? せめてあのカワイイ女の子と一緒ならまだしも!! オレはこんなむさっ苦しい奴らと心中なんてまっぴらだぜ!!」
バンダナの男が遠くでしゃがみ込んだ人影を指さしつつ、自分ほどの焦りを見せない夜科たちに向かって怒鳴った。
いやに焦りの色が見えない夜科は、男にとって、諦めて呆然としているようにも見え、また嘗てないほどに焦燥に駆られている自分のほうがおかしいのか、と感じさせた。それが為の怒声であった。つまりは焦りや不安に塗り潰されそうになるのを誤魔化すための。
だが目の前の危機に気を取られた男には気が付かなかった。握りしめたその圧力で小指の関節が鳴るほどに固められた夜科の拳に。拳を固めるのに同調して前腕筋が隆起し、深い溝が浮かび上がった腕は微かに震えていた。
「俺が焦ってねぇとでも……?」
「あ……」
絞り出すような声だった。バンダナの男に向いた夜科の顔は、堪えるような表情。
今すぐに駆け出して雨宮達のもとへ駆けつけたい、だがそんな方法もなければ、行ったところで何の助力になれもしない。それどころかまともにPSIをコントーロルできない自分では足を足を引っ張ることにしかならない。
そんな感情と理性が激しくせめぎ合い、辛うじて理性が勝っている現状。――自分たちは弱い。女性である雨宮よりも、遥かに幼いファイよりも。その事実を夜科は湧きあがる悔しさと共に飲み込んでいた。
感情を殺すには多大なる労力と痛みを伴う。そんな苦味が走った顔だった。
ふと雨宮達を見遣るとファイがしゃがみ込み雨宮に対して何かをしているように見えた。それで、夜科の決心がつく。これから何をすべきなのか。
「今、俺たちに出来るのは雨宮達に無用な心配を掛けないためにこの狙われたら一巻の終わりな場所から移動すること。アイツらが無事に戻って来るのを待つこと。これからの行動をどうするか考えること……これだけだッ」
夜科の剣幕にバンダナの男は一瞬何も言えなくなる。元より夜科はこれ以上男とやり取りを交わすつもりも無かったのだが。
銃を腕に抱き雨宮達を睨み付けているマスクの男に複雑そうな顔を向けていた朝河も、同様に悔しげな表情をしながら、夜科の言葉に頷いた。
吐き捨てるような言葉を最後にして夜科は歩き出す。夜科が言うように今現在立っている崖の上では的にしてくれと言わんばかりであり、周りに逃げ場はないものの、少しでも敵が狙い辛い場所を探すために。
少し歩いた先だった。何かに気付いたように夜科がふと足を止める。それは望月朧の前を通り過ぎた所だった。
「望月……?」
憤りに染められ気が付かなかったが、望月が先ほどから黙りこくっている。僅かばかりの言葉を交わしただけだが、その会話の内容から望月という男がこの場面で沈黙するのはおおよそらしくなく思われた。
見ると、望月の双眸は真っ赤に充血している。息が乱れ一つ一つが大きなものとなり、鼻呼吸では追いつかなくなったようで口から酸素の出し入れを行っていた。頭は重たげに垂れ、呼吸に合わせて肩が上下している。
苦しげなその呼吸の動作の内の一つを行った時、顔の中心を走る整った鼻梁に続く鼻孔から赤色の鮮血が噴き出た。
「お、おい!!」
「はぁっ、はぁ……」
手の甲で血を拭おうと腕を持ち上げようとした時、その重みに耐えられなかったのか望月の体がグラリと崩れ、それを見た夜科は慌てて望月の体に手を回し支えた。
突然の事態に夜科、朝河、バンダナの男の三人は狼狽える。しかし夜科と朝河には望月の症状に身に覚えがあり、狼狽の種類はバンダナの男とは異なるものだった。
「お、重てぇ……」
「脳の覚醒だと!? オレ達に比べかなり早い……! しかもこのタイミングはマズ過ぎるぜ……!」
「は? 覚醒って? 一体こいつどーしちゃったんだよ!?」
バンダナの男のは理解が及ばない事態への、夜科と朝河のは緊迫したこの状況が更に悪化するような出来事への動揺であった。
脳覚醒を経験したことのある二人の脳裏に同じ症状を体験している時の感覚が蘇ってきて顔を顰める。体を這い回る寒気、全身の気怠さ、節々の痛み、そして何より激しい頭痛。
とてもではないが発症している最中に多くの距離を動き回る事は不可能だという結論に二人は経験から達した。そして一刻も早くこの場を離れなければならないことをより一層強く感じる。
「ぐ、おい! しっかりしろ! ちょっとだけ歩け!!」
望月の腕を自身の首に回し、肩を貸す形でなんとか歩を進め始めた。望月の足取りは完全に平衡が崩れ、つられて夜科のそれも覚束なくなる。
だが足取りとは正反対に夜科の瞳は真っ直ぐ正面を見つめていた。目の前にそびえ立つ廃ビルを、正確には敵に対して死角となるそのビルの向こう側を頭に描きながら、夜科たちは歩み始めた。
一度だけ僅かに背後を振り返り、雨宮とファイの二人を視界の辺縁に捉えて、無事でいろよ、と、そう口の中で小さく呟きながら。
「それからヒリュー」
「なんだ?」
「聞かせて貰うぜ。そのタツオって奴のことをよ」
「……ああ」
◆◆◆
必死に頭を回転させ現状を整理しようとしている雨宮さんと座り込んだ男を交互に見て、僕は立ち上がった。僕の今やるべきことはこれだ。
その動作に雨宮さんがハッとしたようだ。思考をいったん中断して険しい表情をしながら僕を見つめている。
「あなた……まさか一人で彼と戦うつもりじゃ……!」
「……」
男を凝視している僕を見て雨宮さんはそう固い声で言った。それはまるでこれからいけないことをしようとしている子供を厳しく諌めようとするような言葉と響きだった。
そんな雨宮さんに僕は軽く微笑んだ。どうやら、何か勘違いさせてしまったようだ。確かに今動けるのは僕だけだけど、一人で突っ走って周りに迷惑を掛けるのはさっきので懲りた。同じ事を繰り返すつもりは流石に無い。
「――いえ。ただ見ていただけです。充填が終わるまでにどのくらいの時間がかかるのか分かるかと思って。全然分かんなかったですけど」
そして微笑んだ表情を一転、真剣なものにする。
そう、今僕が取るべき行動は、雨宮さんを『回復』させること。僕らの中で最大の戦力と回避能力、そして最速の移動手段を持つ雨宮さんを復帰させる。これが僕の考え出した現状を打破し得る最善の行動だ。
下には蟲が居るためここに来た時と同じマテリアル・ハイとテレキネシスを使った空中ブランコ方式のやり方で今すぐこの空中のブロック上から移動する事も考えたけど、自分以外を抱えて上手く出来る気がしなかったし、下手に男から離れてしまえば狙われるのはより無防備な夜科さんたちかもしれない。
それ故に、的になる為この場に留まりつつ全速力で希望の糸口となり得る雨宮さんを回復させることを選んだのだ。そうすることが恐らく誰にとっても良い方向に繋がるはずだから。
顔は真剣なままに、目を閉じてイメージを構築する。
「今から、雨宮さんの足を治療します」
「え……?」
雨宮さんは瞳を少し大きく見開いた、驚いた顔をしている。
恐らく考えていた行動のリストの中に僕が提案したものは入っていなかったのだろう。
「たぶん、これが今とれる最良の手だと思います」
「そうか、キュアが有った! ……そうね、それが最も消費が少なく、かつ短時間でこの状況の停滞を打ち破れるかもしれない」
「もし敵が攻撃してくる素振りを見せたら、引っ叩いて起こしてくださいね。集中しながら周りを警戒出来るほど僕は器用じゃないですから。
――もう一人ででも何とか出来る、しよう、なんて驕りません。力を貸してください。一緒にこの場を切り抜けましょう」
「ええ……こちらこそ、私の足をよろしくね。治療している間の警戒は任せて」
「それじゃ、いきます」
頭蓋の中に波紋が一つ。波は広がり、縁で反射してまた中心へ。そして増幅されていく。
描くのはキュアのイメージ。意識の水面がざわめき始め、それは次第に一つの形を成していった。目を閉じたまましゃがみ、雨宮さんの力ない肢に壊れ物を扱うような柔らかさでそっと触れる。
――目を開いて、投影。
「……っ」
PSIの多用のせいかズキン、ズキンと鼓動に合わせて鳴る頭の痛みに顔を顰めながら、キュアを作用させた。淡い光が皮膚下で青黒くなった雨宮さんの肢に吸い込まれていく。
敵が充填し終えるのと、治療し終えるのとどちらが早いか。いや、こんなことを考えるのもよそう。ただ治療する事だけに思考のリソースを割く。
そうして僕の世界は目の前に存在する雨宮さんと淡い光だけに収束していった。
――・・・
「う……!」
「大丈夫!? やっぱりPSIの連続使用は無理だったんじゃ……!」
治療を開始してからどのくらいの時間が経ったのだろうか、連続でPSIを使用し続けた結果、まるで機械のオーバーヒートのように負荷が蓄積され、一時PSIの使用を止めざるを得なくなった。このまま続ければ熱暴走の果てに機械が壊れるのに似た結果になっていただろう。それを避けるための身体による強制中断だった。
手元に灯っていた淡い光が消える。微妙に揺れる視界は、大きめの呼吸を繰り返すことで次第にその揺れが収まっていった。
「へ、平気です。ちょっと眩暈がしただけです。それより、足、どうですか……?」
見ると、それまで足にあった青痣が消えている。ハリのある皮膚に覆われ筋肉で程よく締まった健康的で綺麗な足だ。これならもう動けるかもしれない。
……そう思ったんだけど、雨宮さんの表情は芳しくない。足首を動かそうとして、痛みに顔を僅かに歪めていた。
「……ごめんなさい、まだ動けるほどじゃないわ」
「どうして……」
結構な時間キュアを当てた筈なのに、と呟こうとしてハッと気が付いた。
「深いところまで、到達してない」
確かに青痣を綺麗さっぱり消えている。それはつまり打撲などによる皮下の血管の損傷が修復され、漏出した血液は体組織の活動が促進されたことにより既に吸収されたということ。
だけど骨は? 腱は? 関節は? ……浅いんだ、僕のキュアの及ぶ深さが。練習不足ということなんだろうか、それともまたPSIのブレのせいなのか。或いはそのどちらもか。
キュアは覚えてから日が浅い。上手く使えないのは仕方ないのかもしれない。だけど、そんな事は関係なしに自分の力が及ばないという結果ただそれだけが、どうしようもなく歯痒かった。それに加えて、この場から移動する事より雨宮さんの治療を優先した僕の判断が間違っていたんじゃないかという焦燥感。喉と胸の境で不愉快な熱になった感情を黙らせるために唇を噛んだ。
「落ち着いて。私はキュアを使えないから的確なアドバイスは出来ないけれど……私がたまに治療を受けているキュア使いはたしかキュアのコツは『相手の生命と自分を完全に共鳴(シンクロ)させること』そう言っていたわ」
「相手の生命とシンクロ……」
悔しさから顔を伏せていると諭すような雨宮さんの声が掛かって、つられて顔を上げる。言われてみれば僕は自分のキュアの力を流し込む事だけを考えていて、流し込んだ後の事を考えていなかった。
つまりキュアが体内に侵入した後どこにどういった風に作用するか。これはテレキネシスの使い方は分かったけどその後のプログラミングが分からなかった以前と同じで、自分で感覚を掴むしかない領域なんだろう。
果たして、今この場ですぐに覚えられるんだろうか。
「いずれにしろ少し休んだ方がいい。大丈夫、敵の方もまだ充填は終わらないようだから」
「……はい」
焦る気持ちばかりだけが募っていくけど、雨宮さんの努めて涼やかにしているような声でほんの少し冷静になる。膝をついていた姿勢だったのを崩して腰を下ろし、改めて男の方を見た。
男の充填完了までの時間はあとどのくらいなんだろう。行動の基準が敵の充填時間になっていて、この場の主導権を握られたようで気持ちが悪い。
「そう言えば、一旦状況を整理しておくわね。休みながら聞いて」
「あ、はい。そうですね」
「まず、そうね――さっき受けた攻撃から判断して、あの銃の総弾数は4発。ランプのような光の溜りが4つである事からも恐らく間違いないわ。そして4つの光が均等に溜まっていっていることから、充填は全ての光が溜まるまで完了しない」
「ライズが使えないんでここからだと全然見えませんけど……えと、つまり一発溜まったらすぐに撃ってくる、って事はなくて充填完了するまでに結構な時間がかかるって事ですね」
「ええ。そういうこと」
希望が持てる内容の推測にほんの僅かばかり口角を持ち上げて小さな笑みを作りながら、雨宮さんは首を小さく縦に振り肯定の意を示した。
そして次の句を告げるために息を吸うと再び固い表情に戻る。
「それから、これはあくまでも未確認の話なんだけれど……私たちを攻撃してきた彼は、朝河君の知り合いである可能性が高い」
「ええ!? ……ってそういえば朝河さん、あの人に呼びかける時に人の名前らしきものを呼んでましたよね。でも、なんで……?」
僕達を攻撃してきているのか、という問いを告げる前に雨宮さんは被りを振った。
恐らく雨宮さんも同じ疑問を抱いていたから聞かなくても問いが予測できたんだろう。そして頭を振ったという事は不明だという事。
「それは、分からない。以前のゲームで行方不明になった彼がどうやってこれまでこの世界で生き延び、どうして今私達に敵意を向けているのか……こればっかりは本人に直接聞いてみるしかない」
「まともに話し合いが出来そうな感じじゃなさそうですけど……」
「そうでもないわ」
「え? あっ!」
雨宮さんが軽く頷きながら掌から二又の端子のようなものを出現させた。
心波(トランス)だ。そうか、これなら相手の頭に侵入して記憶を読み取ることが出来る。まさに直接聞いてみるとはこのことなんだろう。
「もし彼が朝河君の知り合いで何らかの精神操作(トランス)によって操られているのだとしたら、その場で解除を試みる」
「ですね。もし本当にそうだとしたら僕らの目標はあの人と蟲を倒すか避けるかしてこのゲームをクリアする事じゃなくなります。目標は、あの人を正気に戻して一緒に帰る事」
再び雨宮さんが顎を引いて肯定の意を示した。表情は真剣そのものだ。
多分、分かってるんだろう。トランスで頭を直接覗くにはあの人に接近しなければならない。その行為がどれほどのリスクを孕んでいるか、十分に分かっているんだろう。でも、分かった上でやろうとする力強い意志が雨宮さんの真剣な表情から読み取れた。
だったらなおの事足の治療を可能な限り早めて、あの人の充填が完了する前に事を起こさなければならない。それがリスクを減らすのに僕が出来る精々のことだ。
でも、どうしよう。僕の拙いキュアじゃ治療は進まないし、最悪もたもたしていたら充填が先に終わって狙い撃ちされてしまう。そうなったら頭を直接覗くだなんだ言ってられなくなる。
ん? 直接覗く? ……あっ!
「それから夜科達はビル影に隠れてくれたみたい。そう安心はできないでしょうけれど、これで多少状況がマシに…… ? どうかしたの急に立って?」
「ちょっと、思いつきました。休憩はこのくらいで大丈夫です」
何かが僕の頭の中でカチリと音を立てて噛み合ったような気がした。
そう言って頭の中で再三PSIの力を構成して練り始める。使うPSIは三つ。ただ全て同時に使う訳じゃないから三重展開ほどに負担は掛からない……はず。
思いついた事をいきなり出来るか分からない、けど、出来るかできないかじゃない。やるんだ。僕が。
「それじゃ、治療を再開しましょう。何はともかく雨宮さんが動けるようにならないとどうにもなりません。それで、雨宮さん、少しライズを使ってもらえますか? 範囲は足にだけでいいです」
指を閉じた両の掌の親指と人差し指をくっつけるようにして三角形を作り出す。その空洞の三角形にすっぽりとあの銃の人が収まるようにして、両目で見つめる。それから右目を閉じて左目で三角形の中の人を見る。それが終わると今度は反対。左目の時は三角形の中に居たあの人が右目で見ると掌で隠れていた。うん、僕は左目が利き目みたいだ。
もっともこれは単なる利き目の確認でPSIには直接は関係ないんだけど。テレキネシスなどのPSIを使う時もつい利き手の右手を使うように、やっぱり目も利き目の方がPSIも行使しやすいかな、と思ったから。前にどこかで読んだ利き目の確認の方法を試してみたという訳だ。
「ライズを? ええ、まあ構わないけど……」
そう言って雨宮さんは目を薄く閉じた。集中しているんだろう。
それに合わせて僕も瞼を閉じる。閉じた目のうち利き目である左目にそっと掌底を添えた。瞼の外に感じる微かな体温とそれとは別に眼窩内で生じる熱、不定形のPSIが高純化され実体を伴っていくような感覚。イメージの矛先は、眼球。
「”心羅万招”」
力が高まりつつある左目を開ける。呟きが引き金となってPSIは僕の眼球内で実を結んだ。
世界が一転する。たとえるなら自分の周囲に存在する大気が可視化したような、流れの遅い川に飛び込んだような、自分が何らかの大きな物の中に紛れ込んだ感覚。PSI粒子の淡い光が僕の左目の網膜に映るようになっていた。
シャオの能力、幻視(ヴィジョンズ)の一種である"心羅万招"。これは自分を取り巻くPSIの流れを感じ取ることが出来るものだ。もっとも感じ取る、というのは今僕が使っているものとは少々ニュアンスが違うかもしれない。何故なら僕はシャオ程にこの力を使いこなせていないため、僕に出来るのは精々『見ること』くらいだからだ。シャオは、そこからPSIを読み取ることも出来ていた。たとえばトランス粒子に込められた感情や思考などだ。僕は、やはり精度が足らないのかそこまでは出来なかった。
だけど今は見えるだけでいい。そう思いながら雨宮さんの両足に視線を向けた。
「これは……足首の外側と内側の、筋肉? いや靭帯? に傷。それから踵、くるぶしの上あたりの骨に皹か、折れてる?」
視線を向けた足は雨宮さんのライズに呼応して光って見えた。その中でも一際強く光っている箇所を確認するように読み上げていく。
「あなた、体内が見えるの!? まさか幻視まで使えるなんて……」
「いえ、体内が見えてる訳じゃなくて雨宮さんがライズで無意識に自己治癒しようとしている場所が分かるだけです。正確には、PSIの存在が認知できる幻視ですね」
「PSIの視認? もうなんでもありね……」
複数のPSIを扱う僕を見て雨宮さんはどこか諦めたように呟いた。もう何が出ても驚かないと言った心境なのかもしれない。
もっとも何でもアリなんて言う便利で凄い力を持っている訳ではないということは僕自身が分かり切っている。だから数少ない僕に出来る事は出来る限りやりたいと思うんだ。
そして目に宿った心羅万招の力を一旦解除。この力はそう長く使える物でもないし、損傷個所は大体覚えたから。それから頭の中に残っているPSIの構成の方に集中する。
「もうライズは大丈夫です。それで、ここからが治療です」
集中するようにふう、と一息吐き、一気に構成を現実へと具現させた。
淡い光と共に掌に現れたのは、コードが指から伸び先端が円柱状のふくらみになっているトランス思念の結晶。その先端にはレンズが付いておりいわば内視鏡のよう。両目から得られる視界の他にもう一つ、そのトランスのカメラからの視界情報が頭に流れ込んできている。これはそういう能力のPSIだった。
「これは私の……ピーピングラヴァー? そういえば私の力も使えたんだったわね。でもどうしてこれを?」
「ちょっとこれの『見る』以外の使い方を思いついたんです。トランスの先端から情報を取り入れることが出来るならその逆、こちらから何らかのものを送ることが出来るんじゃないかって」
「……なるほど、トランスの力を使って体内に直接侵入しキュアの浅さをカバー、そして光ファイバーのように先端からキュアを流すという訳ね。そんな使い方考えたこともなかった。やはり手持ちの札(PSI)が多いと思考も違ってくるのかしら」
「もし、違和感や痛みが有ったら言ってくださいね。使うPSIの性質的に酷いことにはならないと思いますけど、まだこの組み合わせは人に試した事はないからどうなるか分からないので……じゃ、いきます。”エンドスコープ・キュア”」
言うと同時にトランス結晶の先がゆっくりと、恐る恐るといった風に雨宮さんの足首へと吸い込まれていった。
雨宮さんにはどうなるか分からないと言ったけれど、僕は不思議と上手くいくように感じていた。根拠は全くないんだけれど、だけど、まるで『初めから僕の頭の中に使い方が在った』ように。まるで『既に知っていて使った事がある』みたいに。テレキネシスで物体を持ち上げるのに疑問を抱かなかったのと似ていたかもしれない。
このピーピングラヴァーと言うらしい内視鏡っぽいPSIの、本来の使い方である視覚情報は雨宮さんの身体に入る際にカットしておいた。下手に人体の知識もない僕が視覚に頼るよりも幻視で見た記憶を頼った方が上手くいく気がしたし、人の身体内を覗くのはなにか躊躇われたから。
そして患部に到達した感覚が頭を過り、それ以上の侵入を止める。そこで予めピーピングラヴァーを作る前にプログラミングしてあったキュアの力を発動させた。
「んっ……!」
「っ!? すみません、痛かったですか!?」
キュアを流し込んだ瞬間に雨宮さんが身動ぎし、表情を硬くさせた。傷をつける効果は無いPSIの組み合わせだから痛み等は発生しないと思っていたけど、もしかしたら人体に影響を与えるキュアが何らかの悪い方に働いたのかもしれない。
ところが慌ててキュアを停止させようとした僕の目の前に雨宮さんの掌が差し出された。これは制しているということなんだろうか。
「だ、大丈夫。ただ、その、ちょっと、くすぐった……あっ……!」
「え、あ、くすぐったい?」
雨宮さんの顔を見ると僅かに紅潮しているようにも見える。堪えているのか、息が止まったかと思うとしばらくして荒く息を数度してまた息を止める。その繰り返し。髪の合間から除く横顔には薄く汗が浮いていた。
前にマリーがフレデリカに思いっきり脇腹をくすぐられていた時もこんな表情をしていた、ような気がする。
……恐らく痛みは無いだろうと思っていたけど、こんな副作用? がこのPSIの組み合わせに有るなんて。人体に害は無さそうだけど、果たしてこのまま続けていいんだろうか。雨宮さんの血色の良い桜色の唇が引き結ばれて中々に苦しそうには見えるのだけれど。
「痛みなんかはっ、無いし……大丈夫だから……はぁ……っく……! 構わず続けて……ぁ!」
「……えっと、すいません! なるべく早く終わらせます!」
「そうして貰えると、嬉しいわ……!!」
◆◆◆
運動失調を主症状とし、小脳、脊髄に病変の主座をもつ原因不明の変性疾患。詳しい原因や根本的な治療法も不明なその難病に少年、真名辰央は生来苦しめられてきた。頭頂部から前髪にかけて一部髪が白くなっているのもその病の為。
初期症状として手足の痺れ、病状が進行するにしたがって痺れは硬直となり、やがては眼球運動や自立呼吸すらも不可能となる病。病状の進行は遅くとも、満足に走ることも叶わない少年は、夢を見ることがあった。
それは野球でホームランを打つ夢、それは野良犬を退治する夢。外を思うままに駆け回り、泥だらけになるまで遊ぶ夢。当然それらは少年自身が体験したものではない。夢という物は自身の経験の蓄積の欠片が無意識に形を成したものである。ならば何故そのような経験のない少年が夢を見たか。何故なら、夢の元となる存在が居たから。
少年の家の近所に住む幼馴染、朝河飛龍は、外で遊べない少年の気が少しでも晴れるよう代わりに外での話を少年に聞かせていた。それは特大ホームランを打つ話、それは野良犬をたった一人で退治する話。
『ヒリュー兄ちゃんはかっこいいなァ』
朝河にとって、そう嬉しそうに語る少年の顔を見ることができたならそれで良かった。
自身とて逆上がりも出来ないほどに運動を得意とはしていない。たとえ嘘を吐いていること、そのヒーロー像が虚弱な自分とは似ても似つかない虚像である事に一抹の罪悪感と空しさを感じていようとも。
部屋で塞ぎ込み、寂しそうな表情で窓から外の世界を見つめるだけで諦めていた少年に、ほんの少しでも外への希望を与え、リハビリやトレーニングを励む糧とすることが出来たなら、そのような空しさなど些末事だった。
少年がまだ自転車に乗れなかった頃、少年は万能の超人(ヒーロー)に憧れていた。
力強く、誰からも信頼され、称賛される、まるで自分とは正反対の存在。信頼されるどころか自らの歩幅の狭さに人の歩みに合わせることも出来ず、友人と一緒に自転車で出かけることすらままならない、そんな自分への嫌気から生まれたヒーロー像だった。
そのヒーローへの憧れを朝河に打ち明けた所、一瞬ポカンとした表情になった後で朝河は力強く「なれるよ」と言った。
朝河の言葉に同情心や励まそうという気持ちが含まれていたことは否めない。だが朝河は心のどこかで自分が言った『なれるよ』という言葉を信じていた。いや、信じたがっていた。その感情に対する自覚は存在しなかったが。
言葉は、その実自分自身にも向けた物だった。ヒーローになりたがってたのは朝河も同じ。喩え己の自尊心の為の虚飾ではなかったにしろ、ヒーローでないが故に重ねた嘘のために朝河の胸には鈍い疼痛があった。
その言葉を信じなければ自分は永遠に嘘吐きになってしまう。それは耐え難いものであった。ならば、どうすれば嘘吐きから脱却することが出来るか。それは、本当にヒーローになる事。その論理に気付かずとも幼い朝河は、自分はヒーローにならなければいけないのだという事を頭のどこかで理解していた。
だがヒーローになれるという言葉は、少年を励まし希望となりはしたもの、それは同時に少年を苛むこととなっていた。
いくら努力しようとも、いや努力すればするだけ周りから劣っている自分を自覚させられる。同年代が走り回っている中、病による体の痺れがそれを許さない。転んで自転車から投げ出され、掌に血を滲ませた少年が出来ることといったら、悔しげに唇を噛みながらも、どこか仕方ないと諦めたような弱々しい笑みを浮かべること、それくらいであった。
群れから千切れた雲に太陽が隠され、二人のいる公園は目を細めたように明かりを落した。
『ヒーローなんて夢だってわかってる……いいんだ。僕はただ……』
『情けないこと言うなよ!!』
殊更大きな声で遮るように朝河は叱責した。そんなことはない、と慰めることも出来た。しかしこの場において気休めの言葉を投げかけるより、横っ面を引っ叩くような言葉の方がふさわしく思われたのだ。
少年は散々憐れまれた。家族にも、同年代の子供たちにも。病気だから仕方ない、可哀想に、などという言葉は飽きるほどに聞いた。そんな常温の水のように温い言葉では、少年に届かない。そう自然に感じ取った朝河は、敢えてきつめの言葉を思わず口走っていた。
『オレらは……二人で一つ、龍と辰でチームなんだ!』
『う、うわっ!?』
そう言って朝河は少年の腕を強く握り、そのまま腕を自らの首に巻くようにして、無理矢理少年を背中に負ぶった。
虚勢が先んじて、ヒーローのように逞しくはない朝河の体。同年代の少年を一人背負うだけで膝が震えた。抱えた少年の太腿がずり落ちそうになる。堪えるために前傾姿勢になり、朝河の上向きに跳ねた前髪のみが前を向いている状態。だが背中の少年には前がよく見えていた。
『チーム「ミラクルドラゴン」! タツオが走れないならオレが走る! タツオが頭脳でオレが胴体だ! 切り離せないドラゴンなんだ……!』
『前、見ないと危ないよ……兄ちゃん』
『オレの頭は、お前だよ……代わりに見てくれ。教えてくれ、どっちに行くのか』
『……うん!』
ゆっくりとたどたどしく、歩みを進めていく。俯いて地面を見ている朝河には前が見えず、その歩みはふらふらだった。
だが少年の指示で一歩一歩が方向性付られていく。次第に歩幅が大きくなっていく。そして歩みは早まり、不恰好だが走っていると表現し得る程になる。
千切れた雲が太陽を過った。影を落としていた少年の瞼が開かれ、真っ直ぐ前を見つめて進んでいく。いつもより高い視線に映る空は眩しいほどに青く、頬を撫でる風は涼しく、まるで飛んでいるようだ、と少年は思った。
『オレと一緒なら、タツオ……! お前だって世界を救うヒーローになれるさ……!!』
『じゃあ、その時は空も飛べるかなあ……』
『ヒーローだろ、当たり前だ!』
そして朝河も少年と一緒ならどこまでも走っていけ、いつかは本当に飛べるように、この時思った。
――・・・
「なるほどなァ、つまりあの銃野郎がお前の幼馴染で、サイレンに来た理由だ、と」
「ああ、テレカを持って消えたアイツを探して俺は気付けばこの世界に飛ばされていた。だがこんな形で会うことなるなんて……!」
一通り事情を説明された夜科は、腕組みをして頷きながら言う。
そんな偶然があるだろうか、と一瞬考えるが、当然ではありえないこのPSIや化け物の世界では偶然など些細なことだと思い直す。
「あれ? でもよ、アイツがお前のツレってんならなんで攻撃して来るんだ? 実は嫌われてたとか?」
「んな訳あるか、アホ。……さっき呼びかけた時、目線が合った。俺だと知らずに攻撃している訳じゃなさそうだ。たぶん、この力(PSI)か何かで正気を失ってんだろう」
「PSI、ねぇ……」
夜科は崩れかけた柱に背中を預けたまま掌をそっと閉じたり開いたりしてみた。たしかに、使い手である自身ですら得体の知れない謎の力、PSIならば人を洗脳するような事も出来るのかもしれない。
本当に、分からない事ばかりだ、と夜科は嘆息を吐いた。だが少しずつ現状が認識できるとともにやるべき事が見えてきている気もする。
「とにかく、オレは確認しなきゃなんねぇ。そもそもアイツが本当にタツオなのか。もしそうならアイツを連れて帰れるのか。アイツを……正気に戻せるのか」
そうだ、と夜科は思う。朝河の言うように本当に男が朝河の知り合いならば、このゲームの様相は変わってくる。
ただ単に生き残り、若しくは男を他の禁人種と同じように倒してゴールするだけのものではなくなってくるのだ。男にコンタクトを取り、通じるようなら連れて帰る。通じないのならばどうにかして通じさせなければならない。その為にはなにより男を無力化させなければならない。
それらはどうしたらやり遂げられるのか。当初のゴールを目指すより難易度が上がっているように思う。少なくとも、望月朧が発症し動けないこの状況下で自分たちにやれることは無いに等しい。思いながら夜科は目を遣った。
横たわり、夜科の学ランがかけられている望月と、その横でノビているバンダナの男。
「……ん?」
そういえば、朝河に話を聞いている途中からやけに静かだったような気がする。
それまで俺一人でも逃げるー、だとか逃げる隠れる謝るで右に出る者はいないー、などと騒いでいた男が今は妙に静かだ。
「お、おい! どうした!? まさか!?」
「へ、へへへ。さっきは威勢のいいこと言ってスミマセンでした。あの、もし危ないときは一緒に連れてって。仲良くしよ? 俺、霧崎カブト。カブ君って呼んで」
「……発症した途端調子のいい野郎だぜ。……これで完全にここを動けなくなった」
鼻血を垂らしながらバンダナの男、霧崎はへらっと笑った。
どうやら望月に続いて二人目、霧崎もサイレン世界の大気汚染によって脳覚醒が始まったらしい。流石に動けない成人男性二人を担いで動き回るのは不可能である。夜科達はビルの裏から動けなくなってしまった。
もとよりそうだが、雨宮達の復帰を待つしかなくなってしまった。その事実に夜科は悔しげに歯噛みする。そして掌をじっと見つめた。
◆◆◆
砂塵が吹き荒れる。砂がすべてを地に飲み込もうとしているかの如く、空中にまでその細かな触手を伸ばしていた。
マスクをしている口元からは砂は入らないが、露出している部分へは容赦なく砂が襲いかかっていた。だが、男は瞬きをしなかった。一度腰を折れ曲がった信号機の上に下ろして以来、一度たりとも瞬きをしなかった。
異物が目に入った時の生体反応である涙すら出さず、ただ一点、雨宮達を睨み付けている。
「……」
雨宮達は未だに動かない。ずいぶん時間が経ったが、未だに立ち上がる素振りを見せなかった。
男は一度、初めてそこで視線を若干下に落とした。自分の手元にある銃に。視線をずらしたことで瞼が若干下ろされ、目の粘膜に付着していた砂が静かに零れた。
そしてマスクの下に隠された唇が、厭らしく歪んだ。充填は終わった。だがまだ雨宮達にはそれを悟られてはいない。雨宮は男を睨み付けていたが、足と白い髪の少年を時折見遣る。そして男が充填を終えた今、まさに雨宮が男から目をそらしていた瞬間であった。
「……ク、クク」
男の喉がその時初めて鳴った。
雨宮たちは警戒を怠っていなかったが、二時間以上にも及ぶ睨み合いの中でどこか油断が生じたのかもしれない。男が微動だにしないために、そう早く充填は終わらないだろう、と。
「ハ、ハハハハハハハハハハハハハ!!」
「ッ!!!」
男の喉の隆起が持ち上がった。どこか狂喜を帯びた笑声を上げながら澱みなく銃口を雨宮達へと向ける。そして躊躇いなく引き金を数度引いた。
声と発砲音に驚いた顔を雨宮は上げるが、先に仕掛けたのは男。やはりワンテンポ遅れてしまっていた。
蛍光色の光弾が迫る―――雨宮達の居たブロックは跡形もなく消し飛んだ。
「……」
引き攣らせた頬を男はもとに戻した。瞬時に能面のような表情が帰ってくる。
消し飛んだブロックには跡形が無さ過ぎた。血飛沫も肉片も付着していない、半透明のブロック片だけが大気へと還元されていっていたのだ。
そして視線を先程よりもずっと近くの空中に飛ばした。
「……やれやれ、なんとか間に合ったみたいね」
「げほっ! げほっ! あの、もうちょっと丁寧に扱えません?」
そこには新しいブロックの上に立つ雨宮と、襟を掴まれて担がれているファイの姿が。
男が充填を終えるのと同時に、雨宮の治療もまた終えていたのだ。危機を察知した雨宮は不安定な姿勢のままファイの襟を掴んで大跳躍し、今、男の目の前に現れてみせたのだった。
「まあ、何はともあれ」
「ですね」
「……ッ!」
「「反撃開始ッ!!」」
続く
お久しぶりです