耳障りなベルの音、それ以上に騒がしい心臓の音がその瞬間消失した。
目の前一杯に広がる程に差し迫っていた球体の漆黒も気が付けば無くなって、一転。辺りは一面真っ白な風景だった。
一瞬僕は死んだのかな、とさえ思った。それほどまでにあの球体は死を鮮烈に連想させたから。
でもちょっと思い直してみて、球体に呑みこまれるより先に夜科さんが突然消えて、その後雨宮さんと言葉を幾つか交わした事を思い出した。
それで、やっぱり死んではいないと結論付けた。あのままだったら間違いなく死んでいたと言う事もついでに再確認。
……怖かった。早鐘のような心臓がその隠しようの無い証拠。
……証拠、だったんだけど、今はありとあらゆる全ての音が消え去ってしまったかのように何の音もしない。
今自分が置かれている状況が明らかにおかしいと言う事は分かるのだけど、その異様の正体がつかめなかった。
「ここ、どこなんだろう……?」
思った事がそのまま音に変換された。このよく分からない世界で初めての音が生まれたみたいだ。
それは何とも言えない奇妙な感覚。普段声を発する時に感じる喉の振動が感じられないのだから。普段意識した事はなかったけどいざ無くなってみれば違和感が凄かった。
ふと辺りを見渡す。何も無い。何も無いのが有る、とかしょうも無い事を思ってみても、当然だけど突っ込みは無かった。
こんな真っ白な何も無い場所なんか見た事無い。そもそも地球上に存在するんだろうか、こんな場所。
頭がおかしくなってしまったか、目と耳が壊れてしまったのか。――そう思った瞬間、今までの違和感よりも数倍強い違和感があった。
「あれ……違う。僕……見た事ある、この風景」
それは、自分の考えた事に対しての違和感だった。僕はこの風景を何度か見た事がある……気がした。
何処で見たのか、本当に見たのか断言できないあやふやな感覚だったけど、確かに見た事がある気がした。
あと少し、ほんのそこまで出かかっているんだ。思い出せ……僕……! ああ、もどかしい。叩けばポロっと出たりしないだろうか。
今僕の身に起きている現象はとても大事な事なんだって、そんな声が頭の片隅から聞こえた気がした。
やはり頭を叩いてみようかと思い、頭に手を伸ばそうとして気付いた。僕、今形が無い。
「あ、あれ? まさか、やっぱり死んだ?」
気が付いた途端、途轍もない気持ち悪さに襲われた。
存在していないんだけど、存在している。存在しているんだけど、存在していない。そんな訳の分からない感覚が頭に往来した。
……いやちょっと待て、落ち着け、僕。いやいやだっておかしい、明らかにおかしい。あっそうだ、夢だきっと夢に違いない。ゆめゆめ。
なんか理屈とかは分かんないけど、多分白昼夢とかそんなのだ、きっと。
「じゃあ早く起きなきゃ。あれ、でもどうやって起きるんだろう?」
「やあ」
「いつもどうやって起きてたっけ? ……というか起き方なんて意識した事無かったよ」
「……やあ」
「寝る時は羊を数えるんだから、起きる時は何を数えるんだろう? あれ、あの……アルパカ?」
「なんでだよ。どこからアルパカ出た。と言うか聞いてよ」
「うわ、毛を刈った方を想像しちゃったよ……顔怖っ」
「聞いて。大事な話だから聞いて。……キミを治す時にあの人のPSIの効果まで消えてしまった。
このままだとキミが招集に応じられない事があの人にバレた時、周りの人がキミにあの世界についての事を話してしまうと周りの人が灰になってしまう。
要するにキミはもう漂流者じゃないからね。だから、ボクがその『代わり』になる。――キミを、あの世界に送る」
……なんかさっきから耳元でボソボソと声が聞こえる気がする。なんだろう、幻聴まで来たのだろうか。もう何が来ても驚かないけど。
途中から目を閉じたイメージで真っ暗な中アルパカを数えていたのを止めて、もう一度目を開けるイメージ。
するとそこには眩い、とまではいかない、仄かに白く明るい光の塊が僕の顔のまん前にあった。
「うわっ!? 何これ!? 蛍光灯のお化け!!?」
さっき思った事を早速撤回する事になったけど、仕方がない。
そりゃこの空間は異常だけど目の前のこんな訳の分からない物まで来るとは思わなかったから。
何だろうか、これ。今まで見た事も無い、温かいような、冷たいような、柔らかいような、硬いような、そんなよく分からない光だった。
「なんでもいいよ。本当は余り干渉しない方がいいんだ。バレ易くなるし、それに……いいや、時間が無い。
ああそれと『ボクに会った事は誰にも言わないで』……そう確か、こう言うんだった」
「え? 光が喋った……それに、この声……う、うわっ!!」
目の前の光が最後の辺り何と言ったか聞き取れなかったが、何らかの音が聞こえた気がした時にはもうあの白い世界が崩れ始めている所だった。
夢が終わり始めるような、世界がゆっくりと闇色に染まっていくのではなく罅割れるように、急激に。
上下も分からない空間だけど地面と思わしき僕のとって下の方が瓦解して行く。
僕がいる場所まで浸食が進んで来た。このままだとその崩壊に巻き込まれてしまう気がして不安になり、思わず宙を仰いだ。
「っ、あれは、テレカのマーク? なんで……」
「この力を使うのは……いつ以来だっけ? 確かこんな風に使った筈だけど……あれ? 違ったかな?」
すると空には見た事のある、赤いテレホンカードに刻まれた目のような模様が浮かんでいた。
そればかりに気を取られていたけど、気が付けば光の塊が薄れていっていた。
違う、光が薄くなったんじゃない。僕が薄れていっているんだ。世界が罅割れていっているのに合わせて、僕と言う存在もその構成を失っていっている。
「うん、まあいいか。大丈夫大丈夫…………多分」
響いた言葉を認識するかしないかの狭間で、僕の意識は混濁に呑みこまれて――消える。
……多分てなんだ。多分って。最後の最後でなんか不安な言葉がボソッと聞こえた気がする、よ? あれ?
「じゃあ、頑張って」
◆◆◆
ふと夜科が気が付くと、そこはつい数瞬前までとは全く異にする光景が目の前に広がっていた。
先程までの光に満ち、軽く感じるほどまでに乾いていた陽の下の空気とは対象的な、薄暗く埃臭い澱んだ物。
突然の環境の変化に追い付けず、眼球が暗順応し始めるまでに夜科は幾らかの瞬きと時間を要した。
「あれ、俺は……」
更に気が付いた事は、景色が変わる直前まで有った、頭を支配するかのような圧力が消えていた事だ。
同時にその原因と思われた漆黒の球体も今は影を潜めたようでどこにも見当たらない。
夜科に理屈や仕組みは分からなかったが、強制的にPSIをキャンセルさせられたらしいという事に、薄暗い目の前の景色の輪郭を捕え始めた頃にはなんとか理解が追い付いていた。
「夜科!! 大丈夫!?」
「ここは……」
続いて雨宮と朝河が唐突に虚空から姿を現した。
雨宮が夜科の姿を認め、先程の異常なPSIによる体の異常は無いかと確認の声を送る。心配する声には自分の行動が功を奏した安堵もまた染み出ていた。
一方で朝河は投げ出された体を起こしつつ先ず目を細め、映った景色を見定めようとしていた。
朝河が見上げた先に映るのは、皹の入った幾本かのコンクリート剥き出しの支柱らしき物。
支柱は、塗装が剥がれボロボロになった床と、何本ものダクトや配線が犇めく天井から伸びてその二つを上下に繋いでいた。
どうやらここはどこかの建造物の内部のようだと、朝河は判断を下す。
「あ、ああ。俺は大丈夫だ。それよりこれは……サイレンの招集、だよなやっぱ」
「ええ。前回の呼び出しから一週間……早過ぎるけれど間違いないわ。それより出来過ぎていて逆に不自然なあのタイミングの招集……」
(ネメシスQが人為的な呼び出しをした……? それも夜科のPSIの発露に合わせるように――)
これまで何度もサイレンへの呼び出しに応じている雨宮にとって、今回の招集は異様な物に感じられた。
今までの呼び出しは、一定の期間を置いての機械的な物でしかなかった。それ故に今回の何者かの意図が感じられる呼び出しは異常だと言っても差し支えが無い、と雨宮は密かに思う。
まるで何かを特別視しての行動、特例のような――と。
腹の中だけで思い口に出さなかったのは、確証など全く存在しない自分の勘が推測の根拠であった事と、ゲームに二度以上の複数回参加した事があるのはこの場に自分だけであり、相談できる相手も居なかった事もある。
「ここは前回のゴールとは別の場所らしいな。辺りに見覚えが無い」
「経験から言って、恐らく前回のゴールからそう遠くは無い筈だわ。地図を確認しない事には何とも言えないけれど」
辺りを一通り見渡した朝河は、今現在自分たちが居る場所は前回辿り着いた最終地点とは異なる場所であるという事をポツリと零す。
雨宮の捕捉によって、これが二回目の参加である朝河にまた一つサイレンに関する知識が蓄えられた。
ゴールとスタートの位置がずれていっている。先日八雲祭から聞いた話と照らし合わせると、西から東へ一定の方向へ向かって移動している。
それは、まるで何らかの力に導かれているようだと、そんな漠然とした印象を朝河は受けた。
しかしそれが誰の何の目的でどこへ導こうと言うのか、俗に5W1Hと言われる疑問詞の答えがさっぱり見えてこない。
それ故に朝河の受けた印象は漠然とした物だったのであり、その不明瞭な感覚は好ましくないと言うようにフン、と朝河は小さく鼻を鳴らした。
「そう言えば、あの子は? 私達より早く転送されていたからもうこっちに来ていると思うんだけど……」
「すみませんあなた達……」
辺りを見渡そうと雨宮が顔を持ち上げた時、不意に声が掛けられた。声の主にその意図は無かったのだが、結果として雨宮の疑問の呟きを遮るように。
聞いた事のない声音だったそれに三人が一斉に振り向くと、声の主も少し面喰ったようだ。不安げな色を声に隠さないでおずおずと続ける。
「あ、あの、ここがどこだか分かりますか……? 僕自分の部屋に居たはずなんですけど」
サイレンの参加者だ、それも雰囲気からして初参加の、と三人が同じ思いを浮かべる。
前回のゲームで見た事が無かった人物であっても、スタート地点が異なっていたりゴールのタイミングが違っていれば面識は無くともゲームの経験者である可能性はある。
だがこの目の前の男は何も知らず、突然の自分の置かれた環境の変化に戸惑っている様子などからその推測が成り立っていた。
「ここは……、!」
「多いな……オイ」
雨宮が三人を代表して説明しようと口を開きかけたその時、突如雨宮達の目の前に多くの人間が姿を現し始めた。
みな一様に呆けた顔をしている彼らは招集に答えるのが自分たちと比べ遅かった人達なのだろう、人が突然現れた事それ自体に驚く要素は無い。雨宮にとってもう幾度となく目にした光景だ。
雨宮が驚きの表情を僅かに浮かべた理由は、その数の多さだった。
「あ、あれ……?」
「なんだ? ベルの音が消えた……?」
「は……? にゃ? こりは……どゆこと?」
「……」
彼らは目の前の光景を認識できるようになると、表情を呆けた物から様々な物へと変化させていく。
脅える者、未だ眼前の光景が信じられないと言った顔の者、そして――疑念の中に隠しきれない好奇心を浮かべる者。まさに十人十色であった。
一斉に大勢の人間が言葉を発したために、各々が何と言っているのか聞き取れないほど騒然とした状況に陥ったその場はしかし、唐突に水を打ったような静けさが訪れる事となる。
金属製のベルを槌で高速に何度も打ち鳴らした、古い黒電話のような呼び出し音が、出し抜けに澱んだ空気に響いたからだ。
「な、なんだ……!?」
「ベルだ……鳴ってるぞ、この階だ! 部屋の中央の公衆電話……!」
一度はベルに気を取られシン、と静まり返った人々だったが、それもほんの僅かの間の事で直ぐさま再びざわつき始めた。
ベルという新たな混乱の種が増えたためか先程、一度静まる前よりもむしろざわめきが大きくなっていたようだった。
この音はなんだ、ここはどこだ、所持していなかった筈の赤いテレカが何故この場にあるのか、など各々が疑問に思った事を放縦にぶつけ合い益々混乱が大きくなって行く中。
一人の男がその喧騒を不意に抜け出し、音の発生源だと思われる公衆電話へと近づいて行った。
男が公衆電話の前まで来て屈むと、髪が動きに合わせて揺れる。
髪は男性にしては酷く長い。だがそれは無精に伸ばされたものでは無く、丁寧な手入れが行き届いており、見苦しさや鬱陶しさと言う物は一切感じさせなかった。
自分が摘まみ上げた千切れている電話線の先を指先で弄りながら、男は端正な輪郭の内に行儀よく鎮座している口を僅かに崩した。
(完全に壊れている……! まさにルール無用って感じだね…………さて、どうする……?)
「電話、取らせて貰うぜ」
男が異常な事態に直面しても尚不敵な笑みを保持したまま、目の前の電話を見遣った。
その視線には、隠しきれない好奇心の熱が灯っている。内心で呟いた、先行きを思う言葉も不安から来るものでは無く、これから何が起こるのかと言う期待故の物であった。
心臓が送り出す血液量が増えたのを男が耳奥の鼓動に感じていた時、不意に男の傍に寄る者が居た。
夜科アゲハだ。夜科は断りを一応男に入れたものの、初めからその行動に迷い無く男の反応を待つ事はしなかった。
前回のゲームでの出来事を思い出しながら、片方の手をポケットに突っこんだまま、反対の手で力無く転がっている受話器を拾い上げ、そっと耳に押し当てた。
(何だ――!?)
瞬間、男にとっては初めての、夜科達漂流者にとってはもう慣れたあの奇妙な浮遊感、視界のホワイトアウト、そしてある光景が頭に流れ込む感覚が訪れた。
傍で驚愕の表情を浮かべている男や周りの人々と違い、一度経験している夜科は殊更驚く事はしない。
ただやはりそれらの感覚は決して快い物では無かったため、僅かに眉を顰めた。
『――サイレンを目指す者に……絶望と力を……!!
サイレンを目指す者に絶望と力を。サイレンに辿り着いた者に世界の全てを。このゲームの出口はひとつ……』
前回と全く変わらない定型句のような声がその場に居た全員の頭に響き、そしてどこかのボロボロになった公衆電話の映像が流れた。
ゲームの主催者による開始の合図。ゲームの経験者たちは与えられる情報を逃すまいと注意深くその映像を脳に刻みつけている。
しかし初参加の物たちにはそんな余裕などない。それは無理もないことだ。
これまで生きてきて経験する事など無かった、想像の範疇を超えた出来事の坩堝に投げ入れられた彼らには、ただ驚き、不安に身を苛む事しかできなかった。
「ど、どうなってんだよ!? 今の女の声と映像は……!?」
「っ!? 今度はなんだ!?」
「あ、あわわわわわわわ」
奇妙な感覚が終わったかと思うと、今度はサイレンの音が大気を震わし始める。
それは部屋の窓に残っている割れたガラスをも揺らし、不気味な警告音の他に鈍い振動音が室内を彩った。
「見て!」
音が室内へ侵入してくる方向を見た雨宮があっ、と小さく声を漏らしたかと思うと、夜科と朝河に声を掛けながら窓枠の向こう側を指差した。
何事かと急いで夜科達が窓の傍へと駆け寄ると、そこに広がっていた光景に驚くよりも先に呆然としてしまった。
それは広大な砂漠であった。見渡す限りの砂、砂、砂――そして所々に点在する建造物らしき物。だがどれも等しく砂に半身を呑みこまれていた。
「砂漠……街が埋もれてる……」
夜科は呆けたように呟く。
いつだったか、サイレン世界の風景と照らし合わせた学校で眺めた日常の風景をも、同時に脳裏に浮かべていた。
あの時は目の前の光景がサイレン世界に繋がる事を想像できなかった。そして今再びサイレン世界の景色を眺めて、今度はそれを日常の風景と照らし合わせようとしたのだ。
だが、上手くいかない。想像しようとするとその思考が途中で乱れてしまう。やはり二物は懸け離れ過ぎているのだ。
そして何より、夜科は照らしわせる事自体を脳がどこかで拒否している事に、僅かながら気が付いた。夜科は信じたく無かったのだ。
受け入れなければいけないとは分かっていながらも、しかし幻、虚構であって欲しいと願わずにはいられない。否定される事が望まれるようなその風景は、だが確かにそこにあって、一つとして表情を変えなかった。
臓腑にまで届くような音と砂塵を乗せた風が一陣、夜科達の間を吹き抜けて行く。それは空しさを吹き付けるような、虚ろな乾いた風だった。
「お、オイ! ここはどこなんだよ!!」
「知るかよッ!! オレは自分ん家で寝てたんだ!!」
「冗談だろ……」
一度恐慌状態に陥った人々は益々混乱を大きくしていく。それは一度燃えあがった物が勝手に燃焼反応を進めていく様に似ていた。
一人の大男が近くの痩身の男の胸倉を掴み上げ脅すように自分たちが置かれた現状を尋ねる。相手が何の情報も持っていない事は男にも分かっており、それは一種の気の紛らわし、不安からの心の防衛機制だった。
八つ当たりの暴力行為が場を混沌とさせていく。誰もが不安で満ち満ち、ともすれば不安が爆発し人間同士の諍い、最悪殺し合いにも発展しかねない状況。――それは雨宮が何度か目にしてきた光景だった。
(…………)
全く嫌になりそうだ、と雨宮は腹腔に沸いた毒の苦みに眉を顰めた。
極限の状態に陥った時、人はその本質が現れるものだ。恥も外聞も無く脅え、取り乱し、何とか感情の捌け口を求め、もしくは考える事を止めただ無力に膝を抱えて震えるだけ。
超自己中心的とでも言うのか、己の身の安全を求め一筋の窮地から脱するための蜘蛛の糸を我も我もと探すのは、理性を持った生物としては、些か醜い行動であった。
勿論、高潔な人間というのも存在するのであろうが雨宮が見てきたのは大抵そのような人達ばかりだった。
だがやり切れないとは思いつつも、どこか仕方ないと諦めの気持ちもあった。他ならぬ雨宮自身も、かつてはそのようなか弱い人間の一人であったからだ。
もし、自分が初参加の折、八雲祭と言うその人に出会っていなかったのら……と考えて雨宮は改めてぞっとする。
少なくとも自分は今こうしてここにある事は出来なかっただろう。何度も目にした参加者が禁人種に囚われる、若しくはその場で引き裂かれるような、そんな事例の内の一つになっていた事は間違いない。
あの日の八雲祭の姿が絶えず雨宮の中にあったのは、尊敬、憧れ、そして自分を救ってくれたと言う、偽りの無い感謝の気持ちがあったからであった。
グ、と雨宮は喉に力を入れて毒を、自らの感情を漏らしそうになるのを堪える。そして固めた自分の拳を見た。
八雲祭がゲームを終え、参加する事が無くなっても、雨宮の目は八雲祭の姿を見つめていた。あの日の八雲祭――すなわち、自分を救ってくれた人の存在を。
以来それはゴールとスタート以外何も定められていない、どう行動するかも自由なただただ空虚な世界、自由の刑に処せられているようなこの世界で、そうでありたい、そうすべきだと言う雨宮の行動の指針の一つとなったのだ。
――すなわち、ただ守られるのではなく、誰かを助ける側の人間になる事。
それ故に雨宮はゲームの度に他の参加者に注意を促したり、自分の知っている情報を話したり、時には身を張って他の参加者を助けようとした事もあった。
だが……無駄だった。
雨宮が何を話しても信じる者は誰一人無く、そして禁人種の危険に晒された人々は雨宮の言葉に従わなかった事を悔むと言う事も無く、それどころか助けてくれなかった事を恨む呪詛を吐きながら散って行った。
事実が到底信じがたい形相をしていた事が最大の不運。またいくら雨宮がPSIを身に付け人の限界を超える力を有していようとも、自分の身だけでなく他の参加者を守り切るなどと言う事は不可能だった。
たび重なる恨み言と、そしてそんな人々を守ろうとしたが故に増えていく傷は、雨宮の精神をも急速に犯し、摩耗させ、凍りつかせて行った。
そうして何時からか、八雲祭の姿は霞んでしまっていた。八雲祭への気持ちが消えてしまったのではない。
八雲祭のように強く気高くある事、そして彼女のような行動を実践し切る事。その重みに耐えられる程、自分は強く無い――そう気付いてしまったのだ。
いつからか雨宮は他の参加者に注意を呼びかける事も無くなっていた。
助けようとしても、助けられない。どうせ助ける事が出来ないのならば、初めから助けようとしなければ自分の無力さを改めて見せつけられずに済む。
なにより、余裕と言う物が雨宮には無かった。自分の身を守ることで精一杯だったのだ。
先程雨宮が利己的な人々を見て苦々しく思ったのは、その人達の行動が醜悪だったからと言う理由だけではない。
人間の弱さが隠す事無く表れているその人たちが、強くある事が叶わない自分と重なって見えたのだ。
そして雨宮は拳から視線を、夜科と朝河の二人に音も無くそっと移した。
八雲祭を除くと、初めてできたサイレンの漂流者の仲間。強くあれない自分に力を貸してくれる者。それらの存在は、再び重みを背負おうと雨宮に思わせるものだった。
元々他の人を見捨てるのは雨宮の本意だったのではない。自分のその行動には常に脳裏に反駁があった。
だから、自分の他にサイレンを生き延びた者があった今、今度こそ上手くやれるのではないか、八雲祭のようである事が出来るのではないか――そう期待せずにはいられなかった。
「落ち着いて!! ……ここに居る人達、死にたくなければ私の話を聞きなさい」
雨宮が拳を手近にあった窓枠に叩きつけた。
衝撃がじんわりと変換されてゆく熱に、どうせ無駄であろうという諦めを半分、だがもう半分にもしかしたらと言う期待を感じながら、雨宮が言う。
先程までのざわめきはそれによって水を打ったかの如く静まり、混沌は注がれる視線と共に雨宮へと収束して行っていた。
◆◆◆
「ガハハハハハ!! ここが未来だとよこの女!!! オレたちゃタイムスリップしてここに来た訳だ!! ケッサクだぜこのイカレ女!!」
参加者の中の一人の男が言った。
それは雨宮が説明を始めて暫く経った頃、話が『この世界は未来である』と言うくだりに差し掛かった時の事だった。
初めは誰もが何かを知っている風であった雨宮の話に耳を傾けていた。今現在置かれている状況がネメシスQと呼ばれる存在による物だと言う事、赤いテレホンカードはそのネメシスQとの契約の証である事――等々。
危険に巻き込まれてしまった事がようやく理解できた人々は、戸惑いを深めたり、逆にそのゲームをクリアしてやろうと言う意気込みに駆られ目に光を取り戻すなどその反応もやはり様々であった。
だが、外には禁人種と呼ばれる異形の怪物が闊歩している、サイレンに関わる秘密を話すと灰にされる、と言った現実からかけ離れた話になると、それまで真剣に聞いていた人々の表情が曇り始めた。
そしてこの世界は未来である、と告げた雨宮に投げ掛けられたのは、先の言葉と嘲笑だった。
「……」
雨宮は握りこんだ拳を更に固めた。
心の中で『やっぱり、』とまで呟いて、『聞いてもらえなかった。駄目だった』と呟こうとしたのを、雨宮は止めた。思いなおして『無駄だった』と呟き直す。
ただ裏切られるよりも、期待していたのが裏切られる事の方が堪えがたい物だ。ならば初めから期待してなどいなかったと自分に言い聞かせれば、期待と落胆の相転移の苦しみを味わわずに済む。
余計な心の傷は負わない方が良い、そう分かっていた筈なのに。と雨宮は自分を呪った。苦い顔をしてしまったなら、それが自分が期待して裏切られた事の証明になってしまうような気がして、その苦みを飲み込んだ。
こうなった以上、何を言っても無駄だと言わんばかりに冷めた目をそっと伏せる。
「何だとあの金髪」
その僅かな言葉の中からは明確な怒気が滲んでいた。
怒りを言葉に込めたのは、朝河だった。そして夜科は、それよりも分かりやすい行動に出た。
言葉を発すようなまどろっこしい真似はせず、ただ黙って雨宮に嘲笑を浴びせかけた男の前へと歩み寄っていく。
「んぁ? 何だテメェは」
「取り消せ。雨宮はイカれてなんかねェ」
夜科はじっと金髪のその男を睨みつけた。
髪を金に染め、後頭部でその髪を一括りにした、金髪も髪型も似合っていない男は夜科の敵意むき出しの視線に少しばかり苛付きを覚えたのか、吐いて捨てるように返す。
「知らねェよ。アイツの言うテレカの裏ルールなんて俺にゃ見えねェしな。イカレ女にイカれてるって言って何が悪い」
その言葉に夜科は首筋が泡立つのを覚えて、気が付けば男の顔面を殴りつけていた。
本気で殴った訳ではない。本気で殴ってしまい気絶でもされようものなら、この滾る感情をどこにぶつければよいか分からなくなる。相手が怒り、殴り合いが始まってこそ解消されると夜科は考えた。
それ故に夜科の拳は軽いジャブ的な物だった。――もっとも、男にとってみれば脳が揺さぶられる程の物だったのだが。
「おい! やめろ夜科!!」
「ってぇ!! 何しやがんだブッ殺してやるクソガキッ!!」
「おお来いやァ!!!」
一触即発の状況が爆ぜた。
慌てて周囲の男達が金髪の男を、朝河が夜科を羽交い締めにして何とかその諍いを収めようとする。
しかし夜科はスルリと朝河の束縛を抜け出し、男に迫っていた。
羽交い締めにされている男に感情の赴くまま更に一撃を加えようとした瞬間。
「……は? ……え? ぶべらっ!!?」
「なんだ……? って、うぐぁっ!!!?」
唐突に何も無かった夜科の頭上の空間が光ったかと思うと、白髪の少年が落ちてきた。
それは狙いを外す事無く真っ直ぐに夜科の頭めがけて。同時に夜科の登庁日も少年の鳩尾を狙って外さなかった。
「ぐ、お、おおおお……!! 出たらダメな物が出るッ……!! 転送に何らかの悪意を感じるッ……!!」
「痛ってぇ……! 何でお前、人の上に……」
腹部を押さえて悶絶している少年に夜科は頭部と頚部の痛みを堪えつつ言った。
先程から姿が見当たらないと夜科は訝しんでいたが、その答えはまだ転送されてきていなかった、と言う事らしい。
鳩尾付近を押さえ、意味不明の呻き声を上げて転がっている少年を尻目に夜科はゆっくりと起き上がった。
男に今すぐ飛び掛かろうとする意欲はその出来事で霧散してしまっていた。
「子供……? 子供が何でこんな所に……?」
「白髪……外人の子供、か……?」
周囲からヒソヒソと囁く声が聞こえた。声の内容は変わった外見と不可解な現れ方をした少年についての物らしい。
周囲の視線を一身に集めているその当人は、今は少し離れた場所でぐったりと横たわっている。
その少年に二人の人間が近付いて行った。
「よかった無事だったのね。……いえ、大丈夫? それにしても先に転送された筈なのにどうして時間差が生まれたのかしら……」
「ああ、はい……うえっ。多分大丈夫です、んくっ……雨宮さん。ちょっと苦くて酸っぱい汁が漏れましたけど……あ、ダメだ出る」
少年が言葉の端々に喘ぎ声と吐き気を混ぜながら答えた。苦しげに浅く上下しているその背中を摩りながら言ったのは雨宮だ。
どこか別の場所に転送されて、もしかすると禁人種と鉢合わせしている可能性も考慮に入れていたのだが、それはどうやら憂慮だったらしい事が分かって、ほっと安堵の息を吐いた。
そしてもう一人の人間とは先程の髪の長く、眉目秀麗な男だった。男は雨宮と少年の少し後ろに立って二人を見つめている。
何の用かと、雨宮はやや目を細めながら後ろを見遣った。
「やあ、雨宮さん? キミの話、面白いじゃないか。僕はキミの話を信じるよ」
「……あ、どっかで見た事あると思ったら朧! ほら、あのドラマに出てるアイドルの望月朧」
少年に代わって今度はその男が視線を集める事となった。
一般の男性にも知られている程度には認知度が高い俳優であるその男、望月朧は視線を集めるのに慣れているのか、その程度の視線に晒されるのを毛ほどにも思っていないようだ。
飄々とした様子で雨宮に話かけている。だがその表情の裏からは飄々と言った言葉からは遠い、ぎらつく何らかの感情が見えている事に雨宮は気が付いた。
「それから、そこの少年」
「何ですか……あの、僕今ちょっと手が離せないんですけど……押さえてないと多彩色の濁流が……」
「天樹院ファイ君、だね? キミの保護者の天樹院エルモアからこっちでキミに会ったらよろしくと言われてるよ」
「っ! びっくりしてちょっと出た……じゃなくて、お婆さんとお知り合いなんですか!?」
「ああ。ちょっとした縁でね。と言っても一度しか会った事はないんだが」
「お婆さん……ひょっとしてサイレン関係者に僕の事話して回ってるのかな……」
そこまで話して、ファイは不意に気が付いた。周りの空気が先程とは異なる物になっている。
恐らく原因が天樹院エルモアと言う名と、自身の天樹院と言う名字のせいであると前回の経験から推測した。そしてそれは誤りではなかった。
周りからはサイレンの謎、懸賞金、五億円、エルモア、等と言った言葉が散りじりに聞こえて来ている。
自分を見る目の色合いが変わったと、ファイは目敏く気付く。
おおよそこの場に似つかわしく無い妙な子供が居る、と言った何となく眺める視線では無く、サイレンの懸賞金を直接眺めるかのようなそんな即物的な物に。
嫌な目だ、とファイは思った。その人々とは初対面である為にその人達に対する印象という物は未だ白紙の状態に近かった。
そんな時にそのような視線を向けられたら、良い印象を受ける筈が無い。白紙に嫌な色が塗りつけられたような気がした。
「……あなたは、私の話を本当に信じたの?」
雨宮が望月とは視線を合わせないように床の罅割れを見つめたまま、小さく言った。
視線を合せなかった理由は単純。今まで雨宮の話を信じると言ってきた人達は、その実本当に話を信じている訳では無く、嘲弄する為にそのような言葉を吐いて来たからだ。
先程見事に期待を裏切られた事もある。尋ねた雨宮の声も希望に縋るような声音では無い、冷たく硬い物だった。
「勿論。だってその方が――面白いじゃないか」
「……面白い、ですって? ……いいわ。信じたのなら結構よ。協力してゴールを――」
「でも僕は自分の目で確かめないと気が済まない性質でね。地図があるんだよね? それを見せてもらいたいな」
面白い、と言う言葉に嘲笑の意図を思い浮かべて雨宮はバッと顔を上げ望月の顔を睨んだが、そこには予測されたような表情は無かった。
あったのは、純粋な、どこまでも純粋な好奇心。先程のチラついて見えた感情の正体はこれだったのだと雨宮は一人納得する。
このような状況に放り出されて、好奇心を滾らせるような人間を雨宮は見た事が無かった。だが、少なくとも敵意は無いらしい。
それ故共に行動する事を提案しようとしたのだが、望月はどうやら人の話を聞かない性格らしく、雨宮の言葉を遮って自らの句を告げた。
◆◆◆
それにしても、飛ばされてきていきなり酷い目に遭った……。
送られてきた場所が夜科さんの真上で、しかも腹這いの状態でだなんて誰かの意図を感じる。それも何か、こう、嫌がらせ的な。
……誰かって。あの光しか考えられないけど。あの光が言った事、『ボクがその代わりになる』だなんて、一体どういう事なんだろう。全く意味が分からない。
それにあの声、どこかで聞いた事があると思ったらあれは多分、僕の声だ。
夢……だったのかな? やっぱり。夢だったから一番よく聞く自分の声で再生された、とか。
分からない。夢にしてはハッキリし過ぎている気もする。
他にも何か言っていたような気がするけど、真剣に聞いていなかったから余り脳に言葉が残っていない。
ただ、『ボクに会った事は誰にも言わないで』この言葉だけは確かに覚えている。どういう事だろう、これも分からない。
夜科さん達もこっちに来る時にあの光の会ったのだろうか。でも確かめようにも誰にも言うな、って言われたし……
他の人に言っていいならわざわざそんな事言い残して行かないはずだ。言ったら何が起こるのかも分からないけど、わざわざ危険を負うかもしれない事をするのもどうかと思う。
……また考えても僕の脳みそからは回答が出て来ない類の謎か。
こんな時は考えない方が賢明なのだろうという事は経験から学んで知っている。そんな訳で考えるのを止めよう。今すぐ。
それにしても。
よし、意識の切り替えが上手くいったっぽい。……最近僕の思考が切り替えだとか機械じみて来てる気がするけどそれはまあいいや。
何なんだろう。この周囲の人と夜科さん達の温度差のような物は。さっきから気まずくて仕方ないのだけど。
雨宮さんを見る目はどこか馬鹿にしたような、若しくはペテン師を見るような胡散臭げな目だし。夜科さんを見る目は憎悪や犯罪者を見るような恐れの混じった目だし。
朝河さんや僕も二人の知り合いだと向こうも分かっているみたいで朝河さんと僕にも似たような視線が送られてきている。
もっとも、僕のにはそこにサイレンの懸賞金に眩んだような視線も混じっているのだけど。
前回のゲームで言われたように、僕を懸賞金の証言者にでもするつもりなのだろうか。
こんな事になりそうだからこっちじゃ天樹院の名前を名乗らない様にするつもりだったのに。あの望月と言う人のおかげで腹積もりが狂ってしまった。
……厄介な事にならないといいな。サイレンの協力料だとか言ってお金なんかをせびられて、僕のせいでお婆さん達に迷惑を掛ける事になるのは避けたい。
とにかく。夜科さんたちと周りの人の間に何かあったのだろうか、僕が来る前に。
聞こうにもそんな雰囲気じゃないし、みんな夜科さんと望月さんの行動に気を取られてる。
「……!! 何だって……!?」
「丸ごと警戒区域……!?」
「一歩外に出たら危険……って事かい?」
公衆電話の地図を見た夜科さん、雨宮さん、朝河さん、望月さんの四人は一斉に驚いた表情を浮かべた。
……いや、望月さんだけは驚愕の表情ではないらしい。口元が微かに歪んでいる。あれは、楽しんでいる……? この状況を……? と、そんな表情だった。
何が描いてあったのだろうか。床に打ち捨てられた公衆電話の前に僕よりも遥かに体の大きい人達が屈んでいるから僕には見えない。
でも丸ごと警戒区域だとか、そんな不吉な言葉が聞こえた気がした。嘘だと言ってよ。
「っ!」
何を思ったのか夜科さんが急に急に立ち上がり、硝子が残っていない窓の方に向かって走って行った。
その分空いたスペースに体を潜り込ませると、地図が僕の目にも飛び込んできた。
……。……え、っと。
これ、誰がこんな所をスタートに設定したんだろうか。ここにしなきゃいけない理由でもあったんだろうか。
もしそうじゃなくて、ただ単に漂流者をイジめて遊びたいとか、そんな下らない理由だったらどうしよう。自分を抑えられる自信があんまりない。
見ると、受話器の模様が描かれたスタート地点らしい現在地をすっぽり丸ごと覆うように暗い色が塗られていた。要するに今僕が立っているこの場所も危険って事らしい。
あれ、でも。ふと思ったんだけど。
この警戒区域ってのは何なんだろう。警戒って事は危険だぞ、注意しろって意味なんだと思うけど、それは誰が誰に対して言っているんだろう?
このゲームを設定した存在が僕達を掌の上で遊ばせる為にゲームの設定として設けた、と考えてもおかしくは無い。
……でもなんかそれは違う気がする。それだとわざわざ危険な場所を探して、そこをゲームのステージにしたって事になる。
八雲さん達から聞いた話だと、このゲームは少しずつ一定方向東にズレて行っているとの事だ。方向性の意志はそこに感じられるけど、わざわざ難易度を決める為に場所を選んでいるとか、そんな風には感じられない。
じゃあ、この警戒区域と言うのは、このゲームを開いている存在が僕達を少しでも生き延びさせるために僕達に注意を喚起している物、なのかもしれない。
その存在が空からでも状況を確認して、僕達に教えてくれているの、か?
でも何の為に? 全ての疑問がそこに繋がるけど、やっぱり答えは分からない。その存在に直接聞いてみるでもしないと。
「ゲートはもうすぐそこだ!! かなり近いぞ……!!」
そんな事を取り留めなく考えていると窓の方から夜科さんの大声が聞こえてきた。
難易度設定とでも言うつもりなのか、警戒区域が広くて近い分、どうやらゴールも近いらしい。
確かに改めて地図を見るとドアの模様、ゴールが現在地の直ぐ側だった。
「なんだ……そこに辿り着けば帰れるのか……良かった……!」
「簡単じゃないか……!」
その言葉を聞いた周りの人達の顔に安堵の色が浮かんだ。
口々に良かったとかこれで帰れるとか言っているのが聞こえてきた。
「さっきからなんの話してんの?」
「今からあそこへ行くんだよ。テメーは話聞いとけよ」
「ねーあの子カワイくない?」
「聞けっつってんだよ!」
何か一人全く空気読んでいない人が居るらしいけど、朝河さんが漫才的なノリで対処してくれているから大丈夫だろう。
みんな簡単とか言ってもうクリアしたかのような口ぶりだけど、果たしてそんな上手くいくだろうか。
さっきの僕の推測はともかく、警戒区域がゲームの主催者の善意であれ悪意であれ、警戒区域は警戒区域だ。危ないと言っておいて危なくない、なんて事は無い気がしてしょうがない。
「じゃあ、僕は行くよ」
「待てよ!! 危ねぇから一人で行くな!! 死ぬかもしれねぇつってんだ」
そんな未だ疑問の渦中に居るのに、望月さんがゲートへ行くと言いだした。言い出した、と言うよりもう出口に半分以上身を吸いこませていて、殆どもう行ってしまうようだ。
こっちに来てからそれほど望月さんを観察した訳ではないけど、どうも望月さんは人の話を聞かない、自分の意志で突っ走っていってしまう、そんな人らしい。
慌てて夜科さんも追いかけて部屋を出て行ってしまった。
「……オレも行くぜ」
「あ?」
「元の世界に帰るにはここに居てもしょうがねぇだろが。オレも自分の足で確かめるさ……未来とか抜かす女の言う事全部信じられるかってんだ……!」
「…………」
「せっかく手に入れたチャンスなんだ……! アイツらに先越されて堪るか……五億はオレのモンだ……!!」
「オレも行く……」
「危険だとしてもどうせ行かなきゃならないなら大勢で行った方が……!」
「そうか……!!」
望月さんが出て行ってから間をおかずに事態が一気に変わってしまっていた。火蓋が切られたかのように。
どうせ行かなきゃいけないのなら全員で行った方が良いと、我も我もと部屋に居た人達が騒ぎ始めていた。
……どう考えてもこれは良く無い状況だ。さっきから周りの人達の視線に嫌な物を感じて一切口を出す事をしなかったのだけど、そうも言っていられないような状況になっている。
丸腰のなんの力も持たない人達がノコノコ出て行って、もしまた化物が現れたりでもしたら殺して下さいと言っているような物だ。
そもそもこの人達はあの禁人種の事を知っているのだろうか。この世界が現実や常識とは懸け離れた事象を生み出す異世界だと、ちゃんと分かっているんだろうか。
とてもそうは思えない……!
「あ、あのっ……!! 外は危ないですよ!! ここは警戒区域の中ですし、滅茶苦茶な化物が外を……」
一斉に大人たちが僕の方を見た。その顔は……嫌らしく歪んでいた。
コイツは何を言っているのだと言わんばかりの、戯言を口にする子供を見るかのように上からの目線の――嘲笑だった。
初めから僕を対等な位置に見ていない呆れさえも含ませた表情。そんな顔をされるとは、思ってもみなかった。
「……なんだ。未来とか化物とか、その話ならもう聞いたよ。禁人種? って言うんだろ? 君もあの女の子の話を信じてるのかい?」
「え……?」
「まァ君位の男の子なら怪獣とか好きそうだもんな。分かるよ。俺も君位の歳なら信じていただろうしね」
雨宮さんの方を向くと、静かに目を閉じて首を力無く左右に振っていた。
それで何となく察してしまった。先程からの雨宮さん達と周りの参加者との温度差の理由を。
雨宮さんは、多分あの人達に知っている情報を明かしたんだ。それは余りに突飛な話だから、きっと受け入れられなかったんだろう。
前回だって夜科さんが禁人種の話を周りの人に話したのに誰にも信じてもらえず、あんな事になってしまった。
ひょっとしたら、何も知らない人達は、信じたがらないのかもしれない。唯でさえこんな訳の分からない世界に放り出されているのに、これ以上奇天烈な話なんか聞きたくないと、そんな心理が働くのかもしれない。
人の心の働きなんか想像でしか話せないけれど、もし僕が何も知らなかったのなら、どうするだろう。未知を知ろうとして情報に対して貪欲になるのか。
でも知ってしまって、それを受け入れる事はそれまでの常識をかなぐり捨てる事を意味する程の情報なら、もしかしたら僕だって知る事を恐れるかもしれないと、思った。
「それよりも君。天樹院と言ったね。あの天樹院エルモアの懸賞金の話は……」
人ってそんな目も出来るのかと思うほど冷たい視線は、もう興味が尽きたと言わんばかりに僕から逸らされ、みんな出て行ってしまった。
そんな中、さっきから僕と会話をしていた一人の縦縞のシャツの男の人が僕に詰め寄って来た。
「……」
「っ! ……まあ、いいか。元の場所に帰ってから話せば済むことか」
男の人が僕の肩辺りを掴もうとした時、朝河さんがスッと僕の前に立ち塞がってくれた。
ギラついた目のその男の人は朝河さんの剣幕に圧されて引き下がる。そして何かをぶつぶつと呟きながら、結局その人も出て行ってしまった。
「……ありがとう、ございます」
「気にするな。……全員あの朧って奴に追従しちまった。結局自分で考えちゃいねェ……つられて動いてやがるんだ………!」
朝河さんにお礼を言う。反射的にその言葉が出たけれど、心は呆然としてしまっていた。
まさか善意で言った言葉のせいであそこまで露骨に嘘つきを見るような目で見られるとは。人というものが……分からなくなりそうだ。
雨宮さんは、あんな視線に今までずっと耐えてきたのだろうか。
「切っ掛けは望月朧だ……!」
どうやら説得に失敗したらしい夜科さんが部屋に帰って来るなりそう吐き捨てた。
あの望月という人は、どうも止められない雰囲気が出ていたから仕方ないのかもしれない。
でも、望月さんは仕方ないにしろ、周りの人達は止められたような気がする。なにか、望月さん以上に求心力のような物があれば……
「テメーは行かないのか?」
「……んー……イエス! なァんでオレがむっさい男どもの尻を追っかけなきゃいけないのよ♪」
「バカばっかりだ」
全員行ってしまったと思っていたら何気に一人のバンダナを額に巻いた、軽そうな男の人が一人残っていた。
見た目通りの軽薄な性格の人らしく、軽口を叩いて朝河さんに呆れられている。
……それはともかく。どうすればあの人達を止められた? いや、まだ出て行って直ぐだ。まだ止めようと思えば止められる。
「……! あっ、そうだ! PSIを見せれば――」
「――無駄よ。未だPSIに開眼してなくて、PSIの才能があるかも分からない人達に、PSIが見えるかどうかも不明だわ。
たとえ目の前で使用してみても、見える人と見えない人が居るようでは胡散臭がられるだけ。
そもそも、切羽詰まった精神状態の人達にそんな事をしたら余計不安がらせる事にしかならないのよ」
ずっと口を開かなかった雨宮さんが、一気に捲し立てた。
それは僕があの人達にPSIを見せて、驚いてくれたなら僕達の話を真剣に聞いてくれるかもしれないと閃いて、口にしかけた時のことだった。
PSIを見せれば、としか僕が言っていないのに雨宮さんがそこまで精密に展開を予測できるなんて、つまり、雨宮さんは以前にそれを実行したのかもしれない。
そして儚く無駄に終わったという事、なんだろう雨宮さんの様子から察するに。その表情に、僕はまた何も言えなくなってしまう。
「ああなったら何を言ってもムダ。どれだけ言葉を尽そうとも……いえ、必死になって説得しようとすればするほど、遠ざかっていく。
どうってこと無いわ。いつもの事だし、今回もまたそうだったというだけよ。それにこれだけゲートが近いなら何事もなく着けるかもしれない」
「雨宮さん……」
そう語る雨宮さんの表情は、言葉とは裏腹な物だった。
どうってことが無いのなら、どうしてそんなに痛切な顔をするんですか。血が出んばかりに固められた掌は何なんですか。
本当にムダだと……思ってるんですか?
――そんな風に言いたい気がしたけど、言えなかった。僕に一体何を雨宮さんに言う権利があるんだろうか。
この世界を幾度もたった一人渡り歩いてきた雨宮さんに対して、僕なんかの言葉は余りに薄っぺらな物だ。
短いつきあいだけど、きっと雨宮さんの性格なら雨宮さんに出来ることは全部したに違いない。
散々手を尽して、それでも手は無慈悲に打ち捨てられた。届かなかった。そうして手を伸ばすことに絶望した。
そんな雨宮さんに届く言葉を、誰が持っていると言うんだ。少なくとも僕が持っている訳がない。
と、言うかそもそも言ってどうする。これ以上雨宮さんに傷付けとでも言うつもりか。
――だったら。
「……? どこに行くの? まさか……!」
「ちょっとあの人達の所に行ってきます。……やっぱり、あのままじゃ絶対良くないですよ。もし禁人種なんかが出たら僕達はあの人達を見殺しに――……いえ」
「おい! ふざけんな!! これじゃ前と一緒じゃねぇか!!」
「多分大丈夫ですよ。パッと行ってパッと帰って来ます」
枠だけが無残に残された窓の方へと歩いて行く。途中夜科さんに怒鳴られた。
前と一緒なんかじゃ、ない。もう前みたいな事はこりごりだ。絶対にあんな事にはさせない。
頭に浮かんだのはいつか見た夢。ずっと焼き付いて離れない、ヒトが壊されていく場面。あれは多分自分の弱さへの後悔の現れなんだろう。
朝河さんに捕まえられそうになったけどその前にさっさと僕は窓から飛び出した。
みんな驚いた顔をしたけど、落ちたりはしない。ライズも使えないのにビルの何階かから飛び降りるのは流石に無茶すぎる。
僕は、空中に浮かんだブロックの上に靴の裏を着地させていた。
ブロックに夜科さんが飛び乗ってしまう前に足下の一つを消して、もっと少し向こうにもう一つ作る。
足場が消えたことで自由落下が始まるけれど、落ちきってしまう前に新しく作ったブロックにテレキネシスを引っ掛けて、思いっきり引き寄せるイメージ。
「それじゃ、行ってきます」
後ろから馬鹿野郎とか聞こえた気がしたけど気にしない。
体が振り子のように弧を描いて加速していく。そして体は弧の最下地点、つまり最高速度の場所に。
頬を切る乾いた風と、内蔵や髪の毛が後方に引っ張られる感覚に二の腕辺りの皮膚が泡立つ感覚を覚えながら、運動エネルギーが位置エネルギーに変換され切ってしまう前に、ブロックを消す。
支点の無くなった振り子、要するに僕は放物線を描くように、砂交じりの風に満ちた空中へと飛び出した。
「って、これ予想以上に怖いいいいいいいぃぃ!!!!! あああああああああああ!!!!!」
……ライズも使えない奴がやるにはちょっと難があったっぽい。だって三半規管が無理無理言ってる。
いや、チビってないから。目元が濡れてるのはあの、砂が入ったからだから。涙とかその、ちょっと……何言ってるのか分かりませんね。
そして僕は誰に弁解してるんだ。
……ああ、かっこ悪ッ!
◆◆◆
「とんでもねェ所だぜ」
男が砂地に足を取られながら悪態を一つ吐いた。
男達の眼前に広がる広大な砂丘と荒らしく隆起した大地。
どこか有り得ない世界に迷い込んだような気がして、自分がその異世界に呑みこまれているように錯覚して、男は微かな眩暈を覚えた。
無遠慮に靴の中に侵入してくる砂の感触も、崖から降りる際に擦った腕の痛みも全てが幻のように思えた。
「あっちでいいのか!? 砂煙で前がよく見えねェ……!」
「歩きにくいぜクソッ!」
「俺なんか裸足なんだぞ」
風が男達を、その耳殻を叩き聴覚がごうごうという音一色に塗りつぶされる。その為男達の声は怒鳴るかのような大きさだった。
だが誰も気にかけない。固まって行動してはいるが、それぞれが勝手に同じ方向を目指しているだけと言った様子であり、怒鳴り声も誰に話しかけているのでも無い、いわば独り言だったからだ。
訳の分からない状況に対する感情が独り言となって吐き出される。そうでもしないと不安や疑惑、未知に対する恐怖などの感情は、男達を叩きつぶしてしまいそうだった。
「……なぁ。ここって……もしかしたら本当に……未来の世界なんじゃ……!」
「バカかお前」
「でも埋まってる足元の街とかよ……!」
一人の男が視線を落とす。
そこには風化した金属の板が半身を砂に埋めていた。よく見るとそれは家屋用いられている金属屋根の一部らしかった。
男の声は震えていた。砂煙で視界は良好のその真逆であったが、目を凝らすとそこらじゅうに見慣れた建造物らしき物や道路標識、信号機などが朽ちた姿で項垂れている。
隣の男に軽くあしらわれてもその男は言葉を続けた。言葉は同意を求めるような物だったが、その実それは否定して欲しくて発された物であった。
先程の少女が口にした言葉が頭蓋の中で繰り返される。その耳障りな音声の羅列から逃れるため少女の言葉を誰もが否定した理由を考えた。
有り得ないからだ。容易く結論に達した。
だが、何故自分や他の人間は有り得ないと思ったのか。
その判断の根拠は何だったのかそしてどこに有ったのか。
ふと男は気が付いた。
少女の言葉は、自分の頭蓋骨のなかに大事に仕舞われた『常識』に照らし合わせ導き出された答えによって否定された。
「常識的に考えて有り得ない」なんとも頼もしい言葉だと男は思う。
……ただしそれが常識的な状況においてならば、と言う事に男は、気が付いてしまったのだ。
「っ!? なっ、なんだ!!?」
突然大きな地面の揺れが男達を襲った。
生まれてから一度も経験した事の無い程の大きな揺れ、それはまるで震源がすぐ足元に存在するかのような。
風の唸り声を更に塗りつぶす大きな地鳴りが男達の鼓膜を叩く。そして、目の前の砂が急激に膨れ上がった。
ああ――、と男は思わず零す。感嘆にも似たその声は、納得の響きを含んでいた。
どうして自分はあれ程までに疑惑の念に囚われていたのか。少女の言葉など有り得ない物の筈なのに。
……答えは非常に、非情に理解に易い物だった。
そもそもこの世界は、常識など通用しない物だったのだ。考えてもみろ、何人もの人間が突然こんな所に投げ出される事自体が『有り得ない』じゃないか。
大前提自分がこんな場所に立っていると言う事実が有り得ない。だったら、それは自分の『常識』が間違っていると言う事じゃないか。
「……は?」
目の前には、ビル程の背丈を持つ蟲が、男に向けて鎌首を擡げていた。
有り得ない、有り得ない、有り得ない、と男はうわ言のように口の中で繰り返す。
だが、上書きされた男の常識はこう告げた。事実だ、と。
「はぁあああああ!!?」
「ひぃ!! ばっ、化物ォ!!!」
周りに居た他の人間は掛け出す。恐らく何が起きているかも理解していないだろう。
だがこの男ははっきりと理解してしまっていた。疑いようも無く自分は死ぬ事に。
恐怖に対する本能で訳も分からず掛け出した者と違い、男の足は動いてくれなかった。逃げようと思考するが、直ぐさま無駄だという思考が返答のように浮かんだのだ。
「……間に合えッ!! 固定解除プログラミング済みマテリアル・ハイッ! テレキネシス――プログラム投擲ッ!!」
目の前の蟲が大瀑布のように男に向かおうとしたその時――少年期特有の高い通る声が砂漠に響いた。
蟲の周囲の空間が揺らいだかと思うと、何らかの形状をした物体が虚空に浮かぶのがぼんやりと見えた。
「"円想虚刃 マテリアル・サーカス"!!!!」
砂煙で遮られている為目視は難しい状況だったが、確かにその物体は少年の掛け声と共に蟲へと殺到した。
それは、男の常識を今一度更新せざるを得なくなる物だと言う事を、男はどこかぼんやりと理解する。
「……やった、か?」
続く
あとがき
やったか!? ← やってない